職業経験(独立戦争以後)


独立宣言起草者
第2回大陸会議
 1775年3月25日、ジェファソンは第2回大陸会議のヴァージニア植民地代表補欠に選ばれた。そして、6月、ペイトン・ランドルフに代わってヴァージニア植民地代表となり、英首相ノース卿が提示した和解案を拒否するようにヴァージニア植民地総督に求める請願を起草した後にフィラデルフィアへ向けて出発した。
 6月21日に着任したジェファソンは、その5日後、ジョン・ディキンソンとともに「武力抵抗の必要な理由の宣言」の起草を命じられた。ジェファソンが起草した草案は「ディキンソン氏にとって強烈過ぎた」ために受け入れられなかった。ディキンソンはジェファソンの草案を参考に最終案を新たにまとめ、大陸会議に提出した。7月6日に採択された「武力抵抗の必要な理由の宣言」は、植民地は独立を欲しないが、従属は拒むことを明言し、イギリスに反して外国の支援を受けることを示唆している。
 ノース卿の和解案に対する返答を大陸会議でも準備することになり、7月22日、ジェファソンは起草委員会の1人に選ばれた。その他にもジェファソンは大陸会議で数多くの公文書を起草している。しかし、急進的な要素が目立ったために、いまだにイギリスとの和解を望む大陸議会に受け容れられなかった。
 ジェファソンは、「我々の公正な権利を取り戻すこと」が最善の選択であるのにも拘らず、「[イギリス]議会は、受け入れることができると考える条件の中でも最低限の条件しか提示していない」と8月25日付の手紙の中で不満を述べている。最大の問題はイギリス議会が、アメリカで不満が一部ではなく全体に広がっていることを認識せず、「我々の本当の決意」を全く理解していないことだ論じている。したがって「[イギリス]首相の迷夢を醒まさせること」が必要であるとジェファソンは提言している。
 しかし、次第にジェファソンはイギリス政府の「横柄な態度」に失望し始めた。それに加えて、イギリス国王は自国民の分裂を仲裁するどころか、それをさらに深化させようと扇動していると非難している。そうしたジェファソンの感情は、11月末頃までに、イギリス国王を「最も無常な敵」と称するほどに悪化していった。イギリス国王がアメリカに対して敵意を持っているとジェファソンは確信するようになっていた)。
独立宣言起草委員会
 1776年6月11日、「優れた文才の評判」の故に、ジェファソンは起草委員会の一員に選ばれた。委員会にはジェファソンの他、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・リヴィングストンが名を連ねている。
 当時の様子をジェファソンは後年、「独立宣言起草委員会は、私に独立宣言を起草するように望んだ。よって起草はなされ、起草委員会に認められた。6月28日金曜日、私は大陸会議にそれを報告した。それは読まれて、棚上げするように命じられた」と回想している。ジョン・アダムズはジェファソンが起草者に選ばれた理由を「雄弁と公論[を書くこと]において他の誰もジェファソンに匹敵する者がいなかった」からだと説明している。
 独立宣言でジェファソンは、ジョン・ロックの思想を、簡潔な表現で手際良く説明した。ヴァージニア植民地の対英抗議運動を指導したジョージ・メイスンによるヴァージニア権利宣言と酷似している部分があることは従来、よく指摘されている。しかし、それは、独立宣言の特徴を説明したジェファソンの次のような言葉からすると当然のことであった。以下は1825年5月8日付の手紙からの抜粋である。

「不正を正すために武力に訴えざるを得なくなった時、国際世論に訴えることが我々[の行い]を正当化するために適切であると思われました。これがアメリカ独立宣言の目的でした。[アメリカ独立宣言の目的は]それまで考えられたことのないような新しい原理や新しい論拠を見つけ出すためではなく、また単に従来、言われたことがなかったことを語るためでもなく、[独立の]問題に対する共通認識を、できるだけ分かり易く確実に、同意を得られるように人々に示すためであり、そして、我々がやむを得ず取った独立の立場を正当化するためでした」

草稿から削除された内容
 起草委員会では主にジョン・アダムズとベンジャミン・フランクリンにより推敲が行われた。さらに議会は40か所にわたる修正を行った。その結果、全体の約4分の1にあたる630語が削除され、一方で146語が挿入された。大幅に削除された部分は以下の2点である。まず奴隷貿易に関する文章が削除された。

「彼[イギリス国王]は、彼に何も危害を加えたことがない遠方の人々を捕らえて、西半球に送って奴隷とし、または、その輪送途上で惨めな死に至らしめ、こうした人々にとって最も神聖な権利である生命と自由とを侵害するような、人間性そのものに対する残虐な戦いを行っている。この海賊のような戦い、軽蔑に値する不信心な権力行使がキリスト教徒であるイギリス国王の戦争なのである。人間を売買するための市場を開放し続けようと、彼は、この忌まわしい通商を禁止、または制限しようとする[植民地]議会のあらゆる試みを抑えるために拒否権を悪用した。そして、このような一連の恐るべき行いにもまだ飽き足らず、彼は我々の間にいる奴隷を指嗾して反抗させ、彼が奴隷を押し付けた人々を殺すことによって、彼が奪った自由を奴隷に購わしめんとしている。すなわち彼は、以前、黒人の自由に対して犯した罪を、他の人々の生命を脅かすように促すという犯罪によって償おうとしている」

 上記の部分が削除されたことについて、後にジェファソンは、「[イギリス国王が]アフリカの住民を奴隷化したことを非難した項目も、サウス・カロライナとジョージア[の主張]に従って削除された。サウス・カロライナとジョージアは奴隷輸入を控えようと全くしないどころか、それを続けようと依然として望んでいる。我が北部の同胞達も、あのような[国王に対する]非難の下でちょっとした痛みを感じているだろう。というのは、北部の人々も、奴隷を自ら所有する数は少ないとはいえ、他の人々に奴隷を運ぶ役割を大いに果たしているからである」と語っている。
 さらに次の箇所も削除されている。イギリスとの決別を強く示した箇所である。

「法の通常の手続きを通して、我々の調和を乱す者を彼ら[イギリス人]の議会から除くべき機会が訪れても、自由選挙によって彼らはそうした者達を元の地位に復帰させた。まさに今、彼らは、彼らの主君が我々を侵略し破滅させようと、血を同じくする兵士だけではなく、スコットランドと外国の傭兵を派遣しているのを黙認している。こうした事実は、苦しみに満ちた愛情に対する最後の一撃であり、精神は非情な同胞と永遠に別れを告げることを命じる。我々は、彼らに対して抱いてきた以前の親愛の情を忘れ、人類のその他の人々と対するのと同様に、戦争においては敵、平和においては友と見なすように努めよう。我々はともに自由にして偉大な国民であった。しかし、高邁で自由な交渉は、彼らの品位を汚すもののようである。彼らは報いを受けるであろうから、それならそれでよい。幸福と栄光へ至る道は我々にも開かれている。彼らと別れて、我々はその道を辿ろう」

 また、この部分の削除についてもジェファソンは、「イギリスには関係を継続する価値がある友人がいるという気弱な考えをいまだに多くの人々が心に浮かべていた。イギリス人の気分を害さないようにするために、イギリスの人々に対する非難を伝える文章が削除された」と述べている。
 最終的に独立宣言は7月4日に大陸会議で採択された。そして、清書されたうえで各植民地に送付された。8月2日、ジェファソンは独立宣言に代表の1人として署名した。
連合規約
 1776年6月11日、大陸会議は連合規約を作成することを決定した。ジェファソンは連合規約を作成する委員に任命されていないが、全体討論には参加している。全体討論の中でジェファソンはそれほど多くの発言をしなかったようである。アダムズは、ジェファソンについて「議場にはほんの僅かの時間しか出席せず、出席した時も公衆の面前では決して話さなかった。議会の間中、私は彼とともに座っていたが、彼が一時に3つの文章を話すのを聞いたことがなかった」と述べている。ただ邦間の土地をめぐる問題の処理に関してジェファソンは、「連合会議がヴァージニアの権利を左右する権利を持つことに対して反対する」と発言している。またジェファソンはアダムズと同様に議論の推移を克明に記録していた。
ヴァージニア邦憲法草案
 独立宣言を起草した一方で、ジェファソンはヴァージニア革命協議会に邦憲法案をフィラデルフィアから送付している。少なくとも3つの草案が準備され、そのうちの1つをジョージ・ウィスがヴァージニア革命協議会に持ち込んだ。ウィスが到着した頃には、邦憲法案の起草作業は終わっていた。そのためジェファソン案は、後から付け加える形で前文のみ採用された。
 前文は独立宣言と同じく、イギリス国王の「嫌悪すべき耐え難い専制政治」に対する非難が連ねられている。そして、前文の末尾では「立法府、行政府、そして司法府の職は永久に分かたれていなくてはならない。いずれかの職に就いている者は何人もその他のいずれかの職に就くことを得ず」と三権分立が謳われている。
 立法府は二院からなる。下院は毎年、10月1日に人々の投票で選出され、11月1日に登院する。下院の議席は人口に比例して郡や区に分配され、総計で125議席から300議席になるようにする。選挙権は、街中に4分の1エーカーの土地か郊外に25エーカーの土地を所有し、かつ健全な精神を持つ全成人男性に与えられる。上院議員は下院によって選出され、15人を下限とし50人を上限とする。任期は9年とし、3分の1ずつ改選される。一度、上院議員になった者は再選されてはならない。
 ジェファソンが上院議員の再選を禁じた理由は、もし再選が可能であれば、上院議員は次期も当選することを考えるようになり選挙人の動向に惑わされるようになるからである。また議員の任期を終身としない理由について、「一定の期間、大衆の中に戻り、支配者ではなく被支配者になることで、議員の職務が公益と関っていることを肝に銘じるであろうし、おそらくそうしなければ議員は、[大衆から]独立していることでそれを忘れるようになるだろう」とジェファソンは1776年8月26日付の手紙の中で述べている。
 行政府は、「知事」が管轄する。知事は毎年、下院によって任命され、再任はその後、3年間にわたって許されない。立法府の法案について拒否権を持たない。さらに議会を解散する権利、宣戦布告する権利、和平を講じる権利、拿捕免許状を発行する権利、軍隊を召集する権利など様々な権利を有しないことが明記されている。そのうえ、知事は、下院によって選ばれる枢密院の助言を得なければならなかった。つまり、ジェファソンが提案した行政府は立法府に比べると非常に弱体であり、三権の抑制と均衡という点では問題があった。
 司法府に属する判事は、知事によって指名される。しかし、枢密院の承認を必要とした。その判事の権限は立法によって定められ、不正行為が認められた場合は控訴裁判所の審理によって免職される。
 こうした制度に関する規定に加えて、ジェファソンは、「50エーカーの土地を所有していないすべての成人」に50エーカーを与えることを提案している。さらに信教の自由、言論の自由、奴隷制の廃止、邦憲法修正手続きの保障などが盛り込まれている。特に「直接的な人民の同意による」邦憲法修正手続きの保障は、この当時では画期的な規定であった。
 このような草案に加えて、ジェファソンは1783年にも草案を起草している。1776年の草案との相違点は、知事の権限を拡大させ任期を5年に延長する点、そして、上院議員を下院ではなく選挙人によって選出するように改めた点である。

ヴァージニア邦議会議員
法改訂委員会
 ヴァージニア邦の改革と家族の傍で暮らすことを願ってジェファソンは9月2日に大陸会議を辞した。そして、1776年10月7日にヴァージニア邦議会議員(ヴァージニア革命協議会議員から移行)として初登院した。「我々の法律には、迅速な改善が必要とされる多くの非常に悪い点」があるとジェファソンは考えていたので、議会に法改訂の実施を提案した。10月24日、議会は法改訂の実施を認め、11月5日、法改訂委員会を設立し、ジェファソンを委員長に任命した。
 まずジェファソンは、「一般の読者のみならず法律家自身にとっても複雑であり不便な」法律の文体を改めて「そうした文体をもっと分かり易くする」ことを目指した。1779年6月18日、法改訂委員会は126の法案を含む「法改訂委員会報告書」を議会に提出した。それはマディソンの言葉を借りればまさに法律案の「宝庫」であった。最終的に、その中で少なくとも100程度の法案が成立した。報告書には、相続制度、信教の自由、公教育制度、刑罰に関する法案の他にも郵便制度、寡婦に対する手当て、貧窮者の救済、邦民の規定、非合法な集会に対する処罰、ウィリアム・アンド・メアリ大学の改革、公立図書館の設置などに関する法案が含まれていた。
 奴隷制に関する諸法案もジェファソンは発案している。それは、以後、いかなる人間も奴隷にすることを禁じる内容を含んでいたが、一方で既に奴隷身分にある者を解放することを禁じる内容も含まれていた。
さらにジェファソンは、ヴァージニアの貴族的な特権を廃止し、「美徳と才能の貴族のために道を開くこと」を目指した。ジェファソンはヴァージニア社会に存在する貴族的な上層階級について次のように述べている。

「初期植民地時代、ごく少数しか土地を手に入れる者がいなかった時、ある先見の明がある人々が大きな区画の土地を手に入れて、彼ら自身のために偉大な家系を築き上げようと望んで子孫に限嗣相続を行うように定めた。独特な一連の家系として示される同じ家名の下で、世代から世代へ財産は受け継がれた。そうした家系は、法によって彼らの富を永続化させる特権を与えられ、貴族制を構成し、支配者層の奢侈と贅沢によって際立っている」

 ジェファソンは、「こうした[生得的な]特権」を否定し、限嗣相続と長子相続の廃止することを提案した。さらに、ジェファソンは、「富の貴族」の代わりに、「美徳と才能の貴族」を重視するように訴えた。それは、血縁による貴族ではなく、個人の才覚に基づく「天性の貴族」を意味する。そして、「天性の貴族」こそ秩序ある共和制にとって必要不可欠な存在であった。
ヴァージニア信教自由法
 ジェファソンは植民地人が、公定教会制度によって英国国教会(後に監督派)を維持するために、不公正にも負担金を支払うように強要されたと非難している。公定教会制度は、英国国教会(後に監督派)を唯一の公認宗派とする制度である。新たにヴァージニア邦議会が設けられると、「この精神的な専制の廃止を求める誓願が殺到した」という。ジェファソンは1777年に草案を書いたと述べている。
 ヴァージニア信教自由法の草案でジェファソンは「全能なる神は、人間の精神を自由なるものとして造り給い、抑圧から完全に免れることにより精神を自由のままにおくべしという至高の意思を明らかにしている。この世における刑罰や重荷を課し、市民権を剥奪することによって人間の精神に影響を及ぼそうとする試みは、偽善と不品行を育むにすぎず、すべて我らが信ずる神の思し召しから逸脱している」と言明している。
 また同法案は「何人に対しても、特定の宗教的礼拝に出席すること、あるいは特定の信教、聖職者に経済的支援を与えることを強制してはならない。また何人に対しても、その宗教上の見解、あるいは信仰の故に、一切の困苦を加えてはならない。何人も、宗教上の事柄に関する自らの見解を自由に公言し、弁論を以ってそれを保持する自由を有し、無思慮にもその市民権を狭められたり広げられたり、影響を受けたりしない」ことを規定している。
 さらにもう1つ重要な点として、政府が特定の宗教を強制も支持もしてはならないという原則が盛り込まれている。それは、公定教会制度の否定を意味し、ヴァージニアにおける政教分離運動を大いに促進した。ジェファソンにとって「教会と国家を分離する壁」を作ることは何にもまして重要なことであった。信教自由法は、ジェファソンが滞欧中の1786年1月16日に成立し、ヨーロッパでも啓蒙主義哲学の1つとして広く読まれた。
刑法案
 ジェファソンは、死刑の代わりに労役刑を課するというイタリアの刑法学者ベッカーリアの論を取り入れて36項目からなる刑法案を作成した。受刑者が「もし更正し、社会の健全な構成員に復帰することができれば」有益であるとジェファソンは論じている。そして、公共事業で使役することは有用とみなされ、受刑者が労役に従事している姿をさらすことによって犯罪の抑止効果を望めると述べている。
 ただし後年、イギリスで独房監禁が導入されたことを知ったジェファソンは、その方式をヴァージニア邦知事に紹介している。その結果、公共事業で使役する代わりに監房で使役する方式が採用された。
受刑者の処罰についてジェファソンはさらに、「これ以降、生命もしくは四肢を奪う刑罰を、以下に定められた犯罪を除いて、いかなる犯罪に対しても下してはならない」と規定している。
 死刑に相当する犯罪は、まず邦に対する反逆罪である。また「夫がその妻を、親がその子供を、子供がその親を殺害した場合は絞首刑に処せられ、遺体は解剖に付される」ことが定められている。さらに毒殺を行った者は同じく毒を以って死刑に処せられ、決闘を挑み相手を殺害した者は絞首刑のうえ、遺体は晒されることになっていた。このように反逆罪や殺人罪によって死刑判決を受けた場合は、その翌日に死刑が執行されることが記されている。
 こうした刑罰に加えて、「男女を問わず強姦罪、重婚罪、ソドミー罪を犯した者は何人であれ罰せられる。男の場合は去勢、女の場合は少なくとも直径2分の1インチ[約13ミリメートル]の穴を鼻の軟骨に開ける[ことによって罰せられる]」という項目がある。また「舌を切除したり使えなくしたり、もしくは鼻や唇や耳を切除したり、焼印を押したり、またはその他の方法で故意に他者の外観を傷付けた者は何人であろうと、同様に傷を負わさされ、外観を損なわれる」という項目もある。これはまさに同害復讐法に他ならない。
 さらに奴隷については特別に「奴隷が公共事業における労役刑に処せられるべき罪を犯した場合、知事が指定する、西インド諸島、南米、もしくはアフリカのどこかに移送され、その場で続けて奴隷にされる」という項目が設けられている。もともと奴隷として労役に従事している者に、労役刑を課しても全く処罰として効果はないと考えられたためである。
 しかし、このような刑法案は、ヴァージニア邦の「一般の考えは、まだその点まで到達していなかった」ために僅差で成立しなかったとジェファソンは述べている。
公教育関連法案
 公教育関連法案としてジェファソンは「知識のより一般的な普及のための法案」を起草している。これは後に一部は実現したものの、実質的には議会に否決されている。この法案は、普遍的な道徳感覚を持つ人々がそれぞれ合理的な判断を下せば、必ず正しい結果が導かれるであろうというジェファソンの信念を表している。つまり、多数決の決定に絶対的に服従することが共和政治の基本原理であるが、人民を啓蒙して合理的な判断を下せるようにしなければ選挙や多数決は無意味であるとジェファソンは考え、共和制を健全に維持するためには教育の普及が不可欠であると結論付けたのである。また「専制政治を防止する最も効果的な手段」は、人民が歴史から教訓を得られるようにすることだと主張している。それは「人民を遍く啓蒙せよ。そうすれば、悪霊が夜明けに消えてしまうように専制と身体の抑圧は消えてしまうだろう」というジェファソンの信念に基づいている。
 ジェファソンが提唱した公教育制度は次のような内容である。邦を24学区に分割し、各学区にラテン語、ギリシア語、国語、地理、数学を教える学校を設ける。さらに郡を地勢にしたがってハンドレッドに分割し、各ハンドレッドに読み書きや算数、歴史を教える学校を設ける。男女ともに3年間学費が免除される。貧困家庭の子弟を選抜し奨学金を支給する。ハンドレッドは直接民主制によって運営される最小の政治組織でもあった。
私権剥奪法
 1777年、王党派のジョサイア・フィリップスという人物が一味を率いてヴァージニア南東部で略奪を行っていた。1778年5月、邦知事であったパトリック・ヘンリーはフィリップス一味を逮捕するように民兵に命じたが失敗に終わった。ヘンリーはジェファソンに私権剥奪法案の起草を依頼した。ジェファソンはヘンリーの依頼に応じて法案を起草し、5月28日に議会に提出した。
 同法は、「通常の法廷における形式と手続き」による猶予があったために、フィリップス一味が善良な市民を殺害するにまかせたという根拠をもとに、もし規定日までに自ら出頭しなければ、「誰であれ許可の有無を問わず、先述のジョサイア・フィリップスとその一味を追跡し殺害することを合法とする」と宣告している。
 5月30日、議会は全会一致で私権剥奪法案を可決した。フィリップスは同法が発効する前に逮捕されたために、12月に通常の裁判手続きの下に絞首刑に処せられた。ジェファソンが起草したこの私権剥奪法は法的根拠が非常に希薄であったと考えられる。後にジェファソンは、「この手続きが全く正しかったと私は納得しているし、よく考えれば考えるほどそれを確信する」と語っている。

ヴァージニア邦知事
イギリス軍のヴァージニア侵攻
 1779年6月1日、ジェファソンはパトリック・ヘンリーの後任としてヴァージニア邦知事に就任した。独立戦争の最中、ジェファソンは1期目を全うし、再選された。
 1780年12月末、27隻からなるイギリス艦隊がチェサピーク湾に襲来し、ベネディクト・アーノルド率いる900名のイギリス軍がヴァージニアの首府リッチモンドに迫った。1781年1月5日から6日にかけてイギリス軍はリッチモンドを占拠した。ジェファソンは、「すべての反逆者達の中でも最大の反逆者」であるアーノルドに対して、「最も厳しい判決」で以って報いるべきだと述べ、さらに彼を生け捕りにした者に報奨金を与えることを約束している。
 ジェファソンに長年仕えた奴隷の回想によれば、ジェファソンはイギリス軍の大砲の音を聞くなり、馬で一目散に逃げてしまい、それ以後6ヶ月もの間、姿が見えなかったという。さらにその奴隷は、ジェファソンの奴隷達はイギリス軍に連行されたが、後にワシントンによってリッチモンドまで連れ戻されたと回想している。ジェファソンはいったんモンティチェロから逃れたが、家族をポプラー・フォレストに避難させてから1月26日、モンティチェロに戻った。
 5月28日、ジェファソンはシャーロッツヴィルからワシントンに来援を要請している。ジェファソンの見積もりによれば敵軍は7000人に対し、ラファイエットが率いる守備軍は3000人であった。さらに制海権が握られていたために外部からの支援も望めないとジェファソンは訴えている。他にもイギリスに味方するネイティヴ・アメリカンの脅威もあった。ジェファソンはネイティヴ・アメリカンに局外中立の立場をとるように要請している。6月4日、イギリス軍の一隊がモンティチェロに襲来し、ジェファソンは危うく難を逃れている。
邦議会による審問
 6月12日、邦議会は知事としてのジェファソンの一連の行動に対する審問を行うことを決議した。その結果、卑怯な振る舞いを裏付ける確証はないという調査報告がなされた。12月15日に邦議会は報告を認め、ジェファソンに対して感謝の意を表する決議を採択した。
 イギリス軍のヴァージニア侵攻に対するジェファソンの一連の行動については次のような批判がある。第1に、事前に予測できたはずの侵攻に対して軍備を怠った。第2に、侵攻に直面して、公文書や軍需品を放棄して首都から逃れた。第3に、邦議会の弾劾から逃れるために辞任した。
 一方、ジェファソン自身は辞任の理由について、戦時下では、軍司令官に行政権も委ねたほうが邦の防衛にとって有益であると考えて辞任したと弁明している。また知事の任期は1781年6月2日に切れていた。
 ヴァージニア侵攻をめぐる批判は後々までもジェファソンについて回った。そうした批判を招く原因の1つとして、ジェファソンが危機に際しても、知事に与えられた権限を越える可能性がある措置を敢えてとらなかったことがある。仮にそうした措置をとっていたとしてもイギリス軍の侵攻を防ぐことはできなかっただろうと擁護する論がある。
 いずれにせよ、ジェファソン自ら軍事に向いていないと認めながらも、イギリス軍のヴァージニア侵攻に抗し得なかったことはジェファソンの職歴において汚点となった。1781年、ジェファソンは知事に再々指名されたが、それを断っている。その代わりに邦議会議員に再び選出された。1782年5月20日の手紙の中でジェファソンは、「あらゆる政治的野心が完全になくなっているどうか、個人的な生活の範疇に戻ってしまった場合にひとかけらでも心に不安が残るかかどうかをよく問うてみた」とモンローに語っている。そして、自ら、「そうした情熱は一切合財、消えてしまっていることに満足した」という答えに至っている。州知事の職歴はジェファソン自身にとっても不本意な結果に終わったようである。
 州知事を務める傍ら、ジェファソンはウィリアム・アンド・メアリ大学の学制の再編にも着手している。ヘブライ語、神学、古代言語の教授職を廃し、新たに解剖学、医学、法学、現代言語の教授職を設けた。
『ヴァージニア覚書』の執筆
 1781年6月、モンティチェロからポプラー・フォレストに逃れていたジェファソンは落馬により負傷した。傷の回復を待ちながらジェファソンは、かねてより書き溜めていたヴァージニアに関する覚書を整理して『ヴァージニア覚書』の初稿を執筆した。
 『ヴァージニア覚書』は一問一答形式を採っているが、それは本来、フランス公使館の書記官フランソワ・バルベ・マルボアから寄せられた質問に答えるという趣旨で書かれたからである。マルボアは、フランス政府からアメリカの各邦の様々な情報を集めるように命じられ、仲介者を経てヴァージニア邦に関する質問をジェファソンに送った。ジェファソンは質問をもとに「マルボアの要望に応じるために、そして自分自身が便利なように」覚書を整理した。1781年12月20日、ジェファソンはマルボアに足して回答を送っている。
 それは後にいわゆる『ヴァージニア覚書』としてパリで私家版として200部出版された。そして、1787年にロンドンで、翌年にはフィラデルフィアで公刊された。パリで最初に出版されたのは、ジェファソン自身がパリに渡ったからであり、印刷費が4分の1という安価だったからである。印刷が仕上がるのを待っている時間は無かった。この『ヴァージニア覚書』は科学者としての名声をジェファソンにもたらした。しかし、ジェファソンは1785年に「奴隷制とヴァージニア州憲法に関する批評」はあまり公表して欲しくないと述べている。ジェファソンが懸念した通り、黒人に関する記述は、後にしばしば政治的攻撃の的になった。奴隷制反対派はジェファソンの人種的偏見を非難し、逆に奴隷制擁護派はジェファソンを危険な奴隷制反対派と見なした。

連合会議代表
聞き役に徹する
 1783年6月6日、ジェファソンは連合会議のヴァージニア邦代表に選ばれた。しかし、ジェファソンは人前であまり演説しなかった。ある日、1人の代表がジェファソンに、「どうしてあなたはこんなにたくさんの異議を唱えるべき間違った論法を聞いていても沈黙を保って座っていられるのですか」と聞いた。するとジェファソンは、「異議を唱えることはまことに容易いが[相手を]沈黙させることはできない。私が提案する方策は、自分に課せられた義務として[議論を聞く]労を厭わないことです。概ね私は喜んで聞いています」と答えた。
連合会議へ提出した報告書
 1784年、ジェファソンは連合会議に「通貨単位の確定に関する覚書」を提出した。それは、ドルを「我々の通貨と支払いの単位」とし、10進法を採用するように勧めている。 
 また1790年7月4日にジェファソンは「貨幣制度と度量衡に関する報告」を議会に提出している。当時、採用されていた複雑な計算を要する貨幣制度と度量衡を多くの人々が容易に使えるように改革するようにジェファソンは勧めている。特に度量衡については、将来、貨幣制度と同じく10進法を導入することを提言している。例えば1フィートを10インチ(12インチ)にし、1マイルを10ファーロング(8ファーロング)にするといった具合である。しかし、度量衡の改正については今に至るまで受け入れられていないのは周知の事実である。
 また1784年3月1 日に「西部領地のための政府案に関する報告」を提出した。4月23日、報告は議会の修正を受けたうえで採択された。それは、オハイオ川とミシシッピー川の間の地域で暫定政府を樹立し、それをさらに正式な邦として昇格させる過程を規定している。つまり、北西部を共和制に基づき連邦制に組み入れる指針を示したものであった。また「西暦1800年以後、前述のいかなる邦においても奴隷制、および不本意な労役を禁じる」という条項も盛り込まれていた。この条項は連合会議によって削除されたが、北西領地に奴隷を連れて入植することを禁じる条項を含む1787年の北西部領地条令の先駆けと言える。
 ジェファソンは新たに設けられる邦の名称候補として、シルヴェニア(現ミネソタ州北東部、ウィスコンシン州北部、およびミシガン州北西部)、ミシガニア(現ウィスコンシン州南部)、チェロネソス(現ミシガン州北部)、アセニシピア(現イリノイ州北部とウィスコンシン州南端部)、メトロポタミア(現ミシガン州南部、インディアナ州北端部、およびオハイオ州北端部)、イリノイア(現イリノイ州中部)、サラトガ(現インディアナ州中部)、ワシントン(現オハイオ州南部)、ポリポタミア(現イリノイ州南部とケンタッキー州西端部)、ペリシピア(現ケンタッキー州東部とインディアナ州南端部)などを挙げている。こうした区分は後の西部諸州の原型となった。
 さらに1784年4月、ジェファソンは行政委員会の設置を提案している。連合会議は立法と行政を兼ねていたため、会議が休会中に行政機能を果たす組織が必要であった。ジェファソンの提案は採択され、各州の代表が集まって行政委員会が組織された。
 行政委員会は指導者を欠いた組織で各代表が平等であり、意見の調整がうまくいかなかった。多くの委員達が職務をすぐに放棄したために、ジェファソンが提案した行政委員会は全く体をなさなかった。こうした経験は、行政府の長は複数よりも単数のほうが適切であるという考えのもとになった。

駐仏アメリカ公使
3度目にして実現した渡欧
 1784年5月7日、ジェファソンはヨーロッパ諸国と通商交渉を行う使節に選ばれた。当時、アメリカ経済は海運と貿易に主軸を置いていたので、イギリスとの貿易途絶は深刻な打撃であり、新たな貿易相手国を探すことは非常に重要な外交課題であった。既にその任にあたっていたフランクリンとジョン・アダムズを助けるために連合議会はジェファソンの派欧を決定したのである。3度目にしてようやく実現した渡欧であった。
 ちなみに1度目の機会は1776年10月8日である。その時、ジェファソンは任命を断っている。次いで2度目の機会は1782年11月12日である。今度は任命を受諾したものの、氷結のためにすぐに出港することができなかった。さらにその間に講和予備条約締結の報せが届いたため、任を解かれていた。
 渡欧を決めた頃の心境をジェファソンは、「私はヴァージニア邦知事を辞職し、公的生活にはもう2度と戻らないという固い決意を持って退隠した。しかし、[妻の死という]家庭内の不幸が起り、暫くの間、心を解放して場を変えることが私にとって好都合だと思い付いたので、2年間に限り外交官の職を引き受けた」と語っている。
 7月5日、ジェファソンは長女パッツィをともなってボストンを出港し、8月6日、パリに到着した。1785年3月、ジェファソンはフランクリンの後任として駐仏アメリカ公使に任命された。そのため、しばしば「フランクリン博士に取って代わったというのはあなたですか」と問い掛けられた。それに対してジェファソンは「誰も彼に取って代わることはできません。私は単に彼の後任者に過ぎません」と毎回返答したという。
 1785年、プロシアとの通商条約締結交渉を行い7月に締結にこぎつけた。さらに翌年3月から4月末にかけてアダムズの要請に応じてイギリスを訪れ、外交交渉を支援したがあまり実を結ばなかった。この際、ジェファソンはジョン・アダムズとともに数多くの庭園を周遊し、詳細な記録を残している。例えばロンドン西郊のキュー国立植物園では、アルキメデスの揚水機について図入りでその仕組みを書き留めている。他にも各庭園の広さや土質、建築物の配置などが庭園にもたらす効果について詳細に検討を加えている。ジェファソンにとってイギリスの園芸は世界一素晴らしいものであった。しかし一方で、「かの国は我々を憎んでいる。かの国の大臣達は我々を憎んでいる。そして彼らの王は他の誰よりも我々を憎んでいる」と語っているようにジェファソンはイギリスからの敵意を強く感じていた。こうしたジェファソンの不信感は「イギリスの目的は、海洋を永久に支配することであり、世界貿易を独占することだ」と晩年にも述べているように終生ほとんど変わることはなかった。
バーバリ国家への対応
 またこの頃、バーバリ(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリ)の海賊によってアメリカ船が拿捕され、船員が監禁されていた。ジェファソンは、「不法な海賊達に貢納金を支払うこと」を潔しとせず、ヨーロッパ列強が連携して事に当たるべきだと考えた。そして、各国の外交官に「海賊バーバリ国家との戦争に際した列強間の共同作戦提案」の締約を呼びかけている。それは、貢納金を支払うことなく海軍力を背景にして、バーバリ国家に安全航行を保証させることを最終目的としていた。しかし、こうした試みはジェファソンの滞欧中にほとんど実を結ぶことはなかった。
借款問題
 次いで1788年、ジェファソンはアムステルダムの銀行家から借款の利子支払いについて通知を受けた。もしそれを支払うことができなければ新たな憲法の下に成立したアメリカの信用が著しく損なわれ、将来の資金調達が難しくなる恐れがあった。3月初め、ジェファソンはオランダのアダムズのもとに向かった。そして、アダムズと協議し、支払い方法を決定した後、パリに帰った。
通商交渉
 さらに1788年11月14日、ジェファソンはフランスと改正領事協約を締結している。そして、アメリカ製品に対する関税の軽減を取り付けた。特にジェファソンが担当した業務は、「有利な条件でアメリカの鯨油、塩漬け魚、塩漬け肉を受け入れてもらうこと、ピエモンテ[現イタリアの1州]、エジプト、レヴァント[東地中海沿岸諸国]と同等の条件で米を受け入れてもらうこと、徴税請負人によるタバコの独占の緩和、そして、アメリカの製品に対して[植民地の]島々を自由解放すること」であった。こうした交渉においてジェファソンは、ラファイエットの助けを受けたことを感謝している。
 その他にも、ジェファソンは「西インド諸島への参入が我々にとって不可欠である」と考えていた。そして、互恵主義を以って西インド諸島との交易権を獲得すべきだと主張しているが、滞欧中にそれを実現する機会はなかった。
フランス文化の愛好
 自らを「アメリカの山中の野蛮人」と呼んだジェファソンはヨーロッパの文化をこよなく愛した。1787年2月28日から6月10日までアルルやニーム、マルセイユなど南仏とトリノ、ミラノ、ジェノヴァなど北伊を巡り、古代ローマ建築やワインの産地などを歴訪した。特にニームでは、メゾン・カレ(紀元後1世紀頃に建てられたローマ神殿)をまるで「恋人が情婦を見るようにまる数時間」も見つめていたという。他にも洗米機を見学したり、米の標本を持ち帰ったり、オリーヴを観察したりしている。この旅の様子は「南仏旅行ノート」に記録されている。
 旅先からジェファソンはラファイエットに同行して地方の実情をつぶさに視察するように誘いかけている。ラファイエットに宛てて、1787年4月11日、次のような手紙をジェファソンは書いている。

「自国のすべての地方の実情を自らの目で確かめることは、大いなる慰めとなるでしょうし、あなたがそうして確かめたことは、将来、そうした地方の関心をひくことになるでしょう。今回は、あなたにとってそうした知識を得ることができる唯一の機会です。視察を最も効果的に行うためには、完全に身分を隠さなければなりませんし、私がしたように、人々を家から出して、彼らの釜を覗き、彼らが食べているパンを食べ、休みたいという口実を設けて彼らが寝るベッドに横になり実際にそれが柔らかいかどうかを見てみなくてはなりません。こうした視察を行っているうちに、あなたは崇高な喜びを感じるようになるでしょうし、彼らのベッドを柔らかくするために、または野菜しか入っていなかった釜に僅かばかりでも肉が入るようにするために、あなたが得た知識を活用できるようになれば、さらなる崇高な歓びを感じるようになるでしょう」

視察旅行
 翌年3月3日から4月23日にかけてもオランダのアムステルダム、フランス北東部のストラスブールを訪れている。この時の様子は、「パリからアムステルダムおよびストラスブルグへの往還に関する覚書」にまとめられている。ジェファソンの関心の対象は非常に広く、開閉の際に雨が入りにくい窓の仕組み、雷を逃がす旗竿の構造、折りたたみ机の形状、堰堤で空船を引き上げる装置、跳ね橋の動き方、荷物運搬用の一輪車、建築物の外観、暖房の方法、磁器の刻印などありとあらゆることを記録している。特にワインについては製法、ブドウの品種、品質、生産量に至るまで克明に書いている。
 ジェファソンは、旅においてアメリカにとって有用な事柄を仔細に視察することを勧めている。ジェファソンが挙げた視察対象は、農業、機械技術、製造業、庭園、建築、絵画・彫像、政治制度、法廷などである。
フランスの国民性
 駐仏アメリカ公使としてジェファソンはオテル・ドゥ・ランジャックを公邸に定め、改築を行った。オテル・ドゥ・ランジャックは24室からなり、当時まだ珍しかった屋内トイレを備えた新築の建物であった。議会に改築費用を請求したが一部しか認められず、結局、費用の大部分は自腹を切ることになった。
またジェファソンは、ネッケル夫人やスタール夫人のサロンに出入りし、コンドルセやデュポン・ドゥ・ヌムールなどと交際した。
 フランス人の国民性と国柄に関してジェファソンは次のように述べている。

「[フランス人よりも]慈愛に満ち、緊密な友情の中で温かさと情け深さを持つ国民を私は知らない。他所者に対するフランス人の親切さともてなしは比類なく、パリで受けた厚遇はこのような大きな町で思い描く以上のものであった。科学に卓越していること、科学的な関心を持つ人々と気軽に話せること、礼儀正しい一般的なマナー、そして、気安く活気に溢れた会話は他では見られない魅力をフランス社会に与えている。他国と比べれば、フランスが優れていることを証明できる。[中略]。フランスを旅したあらゆる国の住民に、あなたはいったいどこの国に住みたいと思うかを問うてみよ。きっと私自身は、友人、親類、そして私の人生の最初期の甘美な愛着と思い出がある場所[であるアメリカ]を選ぶ。しかし、もしあなたが2番目の選択肢を挙げるのであればどうか。それはフランスである」

 ヨーロッパの文化を愛好する一方でジェファソンは、アメリカはヨーロッパよりも文化的に劣っていても、よい広範な政治的・経済的平等を達成し、資源に恵まれ、道徳的に優れていると考えていた。そうした考え方を持っていたために、ジェファソンはヨーロッパの上流階層に蔓延している奢侈や特権がアメリカの若者に悪影響を与えると指摘している。
 また医学については若者がヨーロッパに赴いて学ぶ利点を認めているが、その他の学問については母国で学ぶほうがよいとジェファソンは勧めている。それは、母国で礼儀、慣習、道徳を身につけた人間のほうが母国で愛されるからである。
新たな憲法に対する意見
 この当時、アメリカ合衆国は連合規約の下で連邦を形成していた。連合規約についてジェファソンは、「連合会議は人民に直接基づいて行動する権利を与えられておらず、連合会議自体の役人によって行動する権利も与えられていない。連合会議が持つ権限は要請を行う権限のみであり、道義的な義務より他に何ら強制も伴わずに、各邦に要請を実行するように伝えられるだけである」と欠陥を指摘している。特にジェファソンが欠陥だと見なしていた点は、何か問題が起きても、連合会議が各邦の通商を規制する権限を持たない点である。こうした欠陥を是正する必要があるとジェファソンは述べている。
 しかし一方で、合衆国憲法の下で強力な中央政府を樹立する必要性を保守派に痛感させたシェイズの反乱に対して、ジェファソンは恐怖を抱くどころか、むしろ肯定的な評価を与えている。ジェファソンの考えによれば、それは、イギリスへの「反乱」であった独立戦争と同じく、人民の自由を守るための反乱だからである。
 憲法制定会議は、ジェファソンが滞欧中の1787年5月25日から9月17日にわたって行われていた。11月初めに合衆国憲法案の詳細を知ったジェファソンはマディソンに、「[私が憲法案に賛成できない]第1の点は、信教の自由と出版の自由をこじつけに頼ることなく明確に規定した権利章典が欠落している点、さらに常備軍の防止、専売の規制、永久不変の効力を持つ人身保護律、そして、国際法ではなく国法による審理が可能なあらゆることに関する裁判に陪審を認めることが欠如している点である」と1787年12月20日付の手紙の中で指摘している。
 また第2の点として、ジェファソンは大統領の任期についても論じている。つまり、任期を7年とし、再任を認めるべきではないと主張している。大統領が終身任期に留まるようになれば、大統領職が世襲化される危険性も増大すると考えたためである。
 権利章典の問題や大統領の任期の問題がありながらも、ジェファソンは最終的に、合衆国憲法が「かつて人類に示されたもっとも賢明なものであることは疑問の余地がない」ことを認めている。しかし、憲法批准をめぐる論争については、「私はフェデラリスト[憲法批准推進派]でもなく、反フェデラリスト[憲法批准反対]でもない」と述べているように局外中立の立場を保っている。
フランス革命を見聞
 ジェファソンが帰国する直前、フランス革命が勃発した。ジェファソンはアメリカ革命が、フランスの知識層を「専制政治の眠り」から覚醒させたと指摘している。そして、「陽気で無思慮なパリは今や政治の坩堝」となり、「全世界は今や政治的狂乱」に包まれている。また、アメリカ独立戦争に参加した士官達、特にラファイエットのような人物がアメリカから新しい思想を持ち帰ってフランスに行き渡らせたとジェファソンは述べている。
 1789年5月5日、ヴェルサイユで開かれた三部会をジェファソンは見ている。また7月14日のバスティーユ襲撃についても目撃者から直後に話を聞いている。その3日後の国王のパリ訪問はその目で直接見ている。ジェファソン自身は革命に伴う混乱を特に危険に思っていなかったようで、「私は我が家で、最も平穏な時と同じように全く静かに眠っていました」と友人に語っている。
 公職に就く者としてジェファソンは、表立ってフランスの政治に関与することはなかったが、ラファイエットの叔母テセ夫人を通じて名士会の議事手続きについて助言を行っている。さらに第三身分の代表の1人であるラボー・ドゥ・サンテチエーヌとラファイエットに「人権宣言」案を送っている。
 またジェファソンは7月20日に憲法起草委員会に参加を求められたが、公職にある者として自らの責務は自国に直接関ることに限るという理由で断っている。しかし、度々、名士会や三部会を足繁く傍聴しに行っている。
 8月のある日、開明貴族の1人であるラファイエットはジェファソンに、話し合いの場として公邸を使う許しを求めた。ジェファソンの公邸でラファイエット達は王の拒否権や立法議会の設置などを話し合った。傍らで黙って議論の推移を見守っていたジェファソンはその様子を、「クセノフォン[ソクラテスの弟子の1人]やプラトン、そしてキケロによって我々に伝えられてきた古の最高の対話」に比肩する議論であったと賞賛している。
 ジェファソンはラファイエットに代表される穏健的な改革派に好意的であった。中でも地方議会の設置については、「根本的な改善」であると高く評価している。ジェファソンの考えによれば、「人民によって選ばれた者は、過酷な法律の適用を緩和するであろうし、王に対して代表として意見を表明する権利を持てば、悪法を告発することができるであろうし、善法を勧め、[権利の]濫用を暴くこともできる」からである。
ジェファソンは、後年の流血については遺憾の意を示しながらも、1791年8月24日付の手紙の中で「世界中の苦しみつつある人間のために、この革命が樹立され、全世界に広がることを望みますし、また、そうなると信じている(富田虎男訳)」と述べているようにフランス革命自体は善であったと信じていた。また「フランス革命が長く続き、非常にたくさんの流血を要する」とはその当時、ジェファソンは全く思っていなかった。
ルイ16世と王妃マリー・アントワネット
 ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの関係についてジェファソンは興味深い洞察を行っている。ジェファソンの考えによれば、ルイ16世が改革を主導することもできたはずだが、「彼の弱い精神と臆病な性質に絶対的な影響力を持つ王妃」の存在が、王自身による改革の障害となったという。
帰国
 1789年10月22日、ジェファソンはアメリカに向けて出港し、11月23日にヴァージニア州ノーフォークに上陸した。5年半ぶりの祖国であった。帰国時に、ジェファソンがともなった荷物は78箱にも及び、輸送費だけでも約540ドルを要した。
 荷物には、ワイン、各種の食物、調理器具、磁器、家具、絵画、時計、衣類、書籍、ヴォルテール、テュルゴー、ラファイエット、フランクリン、ワシントン、ジェファソンの像など非常に様々な物が含まれ、その総額は1万3000リーヴル(当時の換算レートで1850ドル相当、現在の価値では数百万円以上) にのぼった。特に書籍については、「一夏か二夏の間、仕事がない場合、すべての午後を主要な書店を調べ、私自身の手であらゆる本をひっくり返すことに費やした」ほどであった。
 帰国の際、後から送るように指示した銀鍍金の馬具や馬車用のクッションが盗まれている。また同じく注文したはずのワインの一部も失われている。ジェファソンは帰国した頃はまさに革命の混乱の最中にあった。ジェファソンの公邸が強盗に襲われたために、窓や柵にベルを取り付けなければならなかったほどであった。

国務長官
就任を受諾
 フランスから帰国した時、ジェファソンは10月13日付のワシントンからの手紙を受け取った。その手紙は、9月26日にジェファソンを国務長官に任命したことを伝える内容であった。ジェファソンは12月15日付の手紙で、革命の成り行きを見守るためにフランスにまた戻って、それ以後は公職から退きたい旨をワシントンに回答した。その回答を待たずしてワシントンから再度、11月30日付(ジェファソンが受け取ったのは12月23日以降)の就任要請の手紙が届いた。ジェファソンによると、ワシントンはもし国務長官職が合わないと思えば、駐仏アメリカ公使に戻ってもよいと約束したという。結局、ジェファソンは1790年2月14日に就任を受諾し、3月21日、ニュー・ヨークで国務長官に着任した。
国務長官の職務
 国務長官としてどのような実務を担当するのかについては、当然のことながら、まだ先例はなかった。まずジェファソンは、外交関係の実務は大統領の専権事項であるという先例を確立している。革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネが議会との直接交渉を仄めかした時にジェファソンは、大統領こそ「我が国と諸外国の唯一の伝達経路であり、諸外国、もしくはその関係者が、何が国家の意思かを知ることができるのは彼1人からのみである」と返答している。
 さらにジェファソンは、各州知事と書状を交わして州と大統領を媒介する役割を果たしている。それに加えて、当時はまだ司法省がなかったので、判事や執行官にも国務長官が書状を送らなければならなかった。
閣内対立の兆し
 新しい憲法が成った今、憲法批准をめぐる政争は終焉し、連邦制度と共和主義の下で特に目立った政争は起きないだろうとジェファソンは当初、期待していた。しかし、そうした期待は、徐々に財務長官アレグザンダー・ハミルトンと「閣僚の中で毎日2羽の雄鶏のように闘う」ようになったことで打ち砕かれた。
ジェファソンはハミルトンが財務長官の地位を利用して不正な投機に関与しているのではないかという疑念を次第に深めた。また公債償還の方法についてジェファソンは反対するようになった。つまり、ハミルトンは公債の元来の所有者と公債の値上がりを見込んで買い漁った投機家を全く区別せずに償還を行おうとしており、それは多くの人々の反感を買うだろうとジェファソンは考えていた。
 また外交方針をめぐってもジェファソンとハミルトンは衝突した。ジェファソンはイギリスに対して強硬姿勢を取るべきだと考えていたが、ハミルトンはそれに反対していた。
公債償還計画実現に一役買う
 ジェファソンは初めからハミルトンと対立していたわけではなく、公債償還計画の実現に一役買っている。議会で公債償還計画が審議されていた時に、ジェファソンは「合理的な人間であれば、冷静に話し合い、相互の意見の違いをいくらか犠牲にすれば、妥協を結ぶことは不可能ではない」と考え、ハミルトンを晩餐会に招いた。1790年6月20日、ジェファソンにハミルトンの他にマディソン達数人の議員が招かれた。
 ジェファソン自身は、「私はその妥協を進める役割を果たした他は何の関わりも持っていない。なぜなら私はそれを決定する状況に全く不案内だったからである」と述べている。 
 この晩餐会の結果、フィラデルフィアを10年間暫定首都にした後、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設けるという案によって、南部の議員を懐柔することに成功し、ハミルトンの公債償還計画はようやく議会を通過した。公債償還計画に一役買った理由についてジェファソン自身は、「今、停止している政府の機能を再び作動させる」ために議員達に対する影響力を行使したと述べている。 
外交問題
 1790年12月28日、ジェファソンは地中海の情勢をまとめた報告をワシントンに提出している。これをもとにして数隻の戦艦が建造され、地中海に派遣されたが、バーバリ国家(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリ)の海賊からアメリカ船を守ることはできなかった。
 さらに1792年5月29日、北西部領地に残留するイギリス軍の問題を解決するべく駐米イギリス公使に覚書を手交した。さらに1793年12月16日、ジェファソンは通商上の制裁を課すことで解決を図るように議会に提案したが実を結ぶことはなかった。
 1793年4月、ヨーロッパ情勢の悪化の報がアメリカに届き始めた。4月19日、ワシントンは対応策を協議するために閣議を開いた。閣議でジェファソンは、中立の実施方法についてハミルトンと激しく議論を交わした。ジェファソンの考えでは、「我々の港から交戦国の製品、産物、船舶を締め出す」措置が適切にして望ましい選択肢であった。ジェファソンは即時に中立宣言を出すことに反対したが、結局、1793年4月22日、ワシントンは中立宣言を公表した。しかし、宣言の文面に「中立」という言葉を盛り込むべきではないというジェファソンの進言が採用され、「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」という表現に留められた。さらにジェファソンは革命フランス政府の駐米公使ジュネを接受するようにワシントンに勧めている。すなわちそれは革命フランス政府を承認することであった。とはいえ後に、アメリカの中立を脅かすジュネの一連の行動が問題になった時は、ジュネの解職を求める文書をジェファソンは用意している。
 このままでは中立宣言だけではなく、米仏同盟が破棄されるのではないかと危惧したジェファソンは、1793年4月28日付の「米仏同盟に関する意見書」でハミルトンに反論を試みた。それによれば、ハミルトンは、フランスが政体を確定させるまでいったん同盟を停止するべきだと論じ、さらに「米仏同盟を破棄するか、もしくは停止することは、中立を守る際に必要な措置ではないか」と主張したという。ハミルトンの主張に対してジェファソンは次のように反論している。
 たとえ政体が君主制から共和制に変わろうとも条約遵守の義務がある。そして、実質的に遵守することができない場合は不道徳ではないし、自身に危険が及ぶ際は義務に縛られることはないが、個人が道徳律に基づいて契約遵守の義務を負うのと同じく、国家間の契約も遵守されなければならない。しかし、義務を放棄しても許される危険とは「深刻で、不可避であり、かつ甚大」でなければならない。米仏同盟は、アメリカに「深刻で、不可避で、かつ甚大」な危険を及ぼすようには思われない。もし「正当な理由、もしくは補償なし」に同盟を破棄すればフランスに宣戦布告の口実を与えることになる。「傷付けられた友は、最も手厳しい敵になる」であろうから、フランスを過度に刺激しないために米仏同盟は維持すべきである。ジェファソンはこのような論を、ハミルトンも引き合いに出したプーフェンドルフやグロティウスなどを援用しながら展開している。
 さらにハミルトンが「パシフィカス」の筆名で中立宣言を擁護する記事を新聞に掲載し始めた。それに対抗してジェファソンは自ら筆をとることはなかったが、マディソンに「ヘルヴィディウス」の筆名で反論を展開させた。それは、平和状態か戦争状態を決める権限は議会にあるので大統領にはそうした状態を決定する権限はないというジェファソンの立場を如実に示している。
通商問題
 1791年2月1日、「捕鯨産業に関する所見」でジェファソンは捕鯨産業の重要性を述べている。その当時、鯨油は照明による消費に加えて、製造業に原材料として用いられていた。しかし、国際競争が激しいために鯨油の価格は下落し、アメリカの捕鯨産業は打撃を被っていた。特にイギリスは自国の捕鯨産業に助成金を与えることでアメリカに代わってシェアを著しく拡大し、他国の捕鯨業者を圧迫しているとジェファソンは分析している。このままではイギリスとの競争に敗北することは必至であるから「何らかの救済策が必要である」と訴えている。もし救済策を講じなければ、イギリスに市場を独占され、終には「敵から必需品を受け取らざるを得なくなる」とジェファソンは危機感を示した。救済策としてジェファソンは「第1に、[アメリカが輸入品購入の]支払いにあてる製品の専売や禁制を撤廃するか、できる限り緩和する。第2に、主要産業が新規顧客の需要や性質に応じることができる仕組みとなるように促す」ことを提言している。
 こうした「捕鯨産業に関する所見」に加えて、1793年12月16日付で、ジェファソンは「合衆国の外国交易における特権と規制に関する報告」を記している。その中でジェファソンはアメリカの貿易における問題点を挙げている。第1に、ヨーロッパ各国は、アメリカ産の穀物、タバコ、インディゴ、塩漬け魚、鯨油などに高い関税や禁制を課している。第2に、アメリカは西インド諸島と自由に交易することができない。第3に、アメリカ船が自国の製品をヨーロッパに持ち込もうとすれば、高い関税を課せられるか、もしくは持ち込みを禁じられる。こうした貿易上の不利を、自由貿易主義と互恵主義で以って是正すべきだとジェファソンは提唱した。
 こうした提案にも拘らず、アメリカの産品に高い関税を課したり、禁制を課したりする国に対しては、アメリカもその国の産品に対して同様の措置で以って報いればよいとジェファソンは論じている。
民主共和派の形成
 1791年10月31日、フィラデルフィアでフィリップ・フレノーがナショナル・ガゼット紙を創刊した。ジェファソンはフレノーを翻訳官として雇用した。一方で、財務長官アレグザンダー・ハミルトンはガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ紙のジョン・フェノJohn Fennoを後援した。両紙は激しい論戦を繰り広げた。
 ジェファソンは自ら表立ってハミルトン非難の先頭に立つことはなかった。なぜなら新聞に文章を掲載しないという固い信条がジェファソンにあったからである。その信条は、1つ1つ記事にいちいち反論する時間を割くよりは、国民の判断に任せたほうがよいという考え方に基づいている。しかし、多くの人々はジェファソンをマディソンとともに反ハミルトン派、つまり民主共和派の代表だと目するようになった。両者は1791年5月から6月にかけてニュー・イングランドを旅して反連邦派の支持を固めている。 
 1791年の初め頃から手紙の中でジェファソンは「株の仲買人と王の仲介人」を含む一派の存在について言及していた。民主共和派と連邦派が形成される主な契機となった問題は第1合衆国銀行設立であり、ジェファソンは、ワシントンがハミルトンに騙されていたと主張している。
 建国の父祖達の考えでは、政党や党派は決して好ましい存在ではなかった。むしろ、そのような存在がなくても政治を行えるはずだという考えていた。ジェファソン自身もそうした考え方を持っていたが、「あらゆる自由で議論が活発な社会において、人間の本質から、対立する政党、荒々しい意見の衝突、仲違いが生じるに違いない」と次第に「政党」の存在を認めるようになった。もちろんこの「政党」は、現代のように明確な組織を伴ったものではなく、個人的な紐帯に基づく「党派」に近い存在であった。
第1合衆国銀行めぐる論争
 1791年、ワシントンは閣僚に第1合衆国銀行設立の合憲性について意見を求めている。それに応じてジェファソンは「合衆国銀行の合憲性に関する意見書」を提出し、憲法修正第10条の規定、すなわち「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に基づき合衆国銀行が違憲であると論じた。つまり、合衆国銀行に特許を与える権限は憲法によって合衆国に委任されていないので、その権限は各州に存するという考えがジェファソンの論の要点である。さらにジェファソンは、連邦政府が権限を行使する場合は、利便性ではなく、本当に必要性があるかでその合憲性を問わなければならないとした。こうした論拠に基づいて、ジェファソンは、もし合衆国銀行設立法案に違憲性を認めるのであれば、拒否権を行使するべきだとワシントンに助言した。
 一方、ワシントンからジェファソンの意見書を受け取ったハミルトンは、「合衆国銀行特許法の合憲性に関する意見書」を提出し、ジェファソンの意見に反論した。ハミルトンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」の原則に言及し、合衆国銀行設立は合憲であると結論付けている。
 こうしたジェファソンとハミルトンの論争は主に書面で行われたので、当時、その詳細を知るのは2人の他は大統領のみであり、1807年にジョン・マーシャルの『ジョージ・ワシントンの生涯』が出版されるまで公には知られなかった。結局、ワシントンはハミルトンの意見を採用し、2月25日、合衆国銀行特許法案に署名した。
農本主義
 民主共和派と連邦派はよく次のように対比される。民主共和派は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊重、農本主義、親仏姿勢などを標榜する。一方、連邦派は、ニュー・イングランド地方の商人を支持基盤として強力な中央政府、中央銀行の設立、製造業の振興、公債償還、親英姿勢などを標榜する。
 特に農本主義についてジェファソンは、自作農を中心にした農業こそ最も大事な産業であり、工業はヨーロッパに任せておけばよいと考えていた。農民は「最も価値ある市民」であり、また「最も活発で、最も独立心に富み、最も高潔」であるから農業で事足りる限り、農民をその他の職業に就けることは望ましくないとジェファソンは早くから主張している。
 しかし、1801年12月8日の第1次一般教書で「農業、製造業、商業、そして海運業は我々の繁栄の4本の柱であり、最も自由に個人企業に委ねられた時に活況を呈します」と述べているようにジェファソンは完全な農本主義者というわけではなかった。例えば「製造業の精神」は国民の間に既に深く根付いているので、それを放棄しようとすれば「多大な犠牲」を要するとも後に述べている。つまり、「4本の柱」の中でも最も農業を重視すべきであり、投機に興ずる一部の少数者の利益を重視するのではなく、堅実な暮らしを営んでいる多数者の利益を重視すべきだという理念をジェファソンは持っていたのである。
 またジェファソンの農本主義は、『ヴァージニア覚書』で「もし神が選民をもつものとすれば、大地に働く人々こそ神の選民であって、神はこれらの人々の胸を、根源的な徳のための特別な寄託所として選んだのである」と述べているように道徳的な意味合いが強かった。こうした考えは晩年に至るまで変わることはなく、1816年6月20日付の手紙で「わたしは無制限な商業と戦争を好む州には脱退してもらって、平和と農業を好む州とだけ連合することを望んでいます(清水忠重訳)」と語っている。
筆禍事件
 1791年に、ジョン・アダムズとの友好関係を損なう事件が起きた。それは、トマス・ペインが『人間の権利』を発行した際に、前文としてジェファソンの文章を無断で掲載したことがきっかけであった。ジェファソンはそれを見て「ひどく驚かされた」という。その文章の中には、ジョン・アダムズを「政治的異端」と呼んだ部分があった。ジェファソンは、何事も起きずに済むように願っていたが、「プブリコラ」という署名で『人間の権利』を批判するだけではなく、その支持者としてジェファソンも名指しで非難する文章が、6月から7月にかけてコロンビアン・センティネル紙に掲載された。
 その後すぐに、『人間の権利』を擁護し、プブリコラは実はアダムズであると見なして批判する論者が現れた。そのためジェファソンとアダムズは「対立者」であるかのように見られるようになった。しかし、実際にプブリコラという署名で文章を書いたのはアダムズ自身ではなく、アダムズの息子ジョン・クインシー・アダムズであった。
 一連の報道を受けて、ジェファソンは7月17日、アダムズに弁明の手紙を書いている。政治思想の違いはあるにしろ、お互いにその動機が純粋であるとよく分かり合っているとジェファソンはアダムズに訴えた。アダムズがすぐにジェファソンの弁明を受け入れたため、筆禍事件は深刻な事態に陥らずに済んだ。
辞任
 1792年5月23日、ジェファソンはワシントンに宛てて政策上の意見を述べた書簡を送っている。ジェファソンは次のように主張している。投機家が公債で得る利子は「国民のポケット」から支払われている。さらに資本を「賭博台」に振り向けることは不毛である。それよりも商業や農業に振り向けるべきである。投機は市民の勤勉さと道徳を損ない、怠惰と悪徳を生む。さらに議会も腐敗させられるだろう。その究極的な目的は、「現在の共和政体から、イギリスの君主制をモデルにした君主政体に移行する」ことなのである。こうしたジェファソンの非難は、もちろん主にハミルトンに対して向けられていることは明らかである。またこの手紙の中でジェファソンは、「あなたが舵取りをすることは、どの派の人々も不安に陥らせ、暴力か脱退かに導くあらゆる議論に対する答え以上のことになります。もし彼らがあなたを続投させるのであれば、北も南も団結するでしょう」とワシントンに続投を勧めている。
 ワシントンはジェファソンとハミルトンの対立を仲裁しようと1792年8月に2人にそれぞれ手紙を書いた。それに対してジェファソンは9月9日にワシントンに返書を送った。返書の中でジェファソンは「私は財務長官に騙され、彼の陰謀を進める道具にされました。その時は十分よく分かっていませんでした。私の政治人生のすべてのあやまちの中でもこれは最大の後悔です」とはっきり述べ、ワシントン政権の第1期終了とともに辞職する意向を示した。さらにハミルトンへの攻撃は続く。ハミルトンは、財務省の影響力を議員に及ぼして共和制の原理を覆そうとしている。さらに憲法の原理を徐々に蝕もうと企んでいる。これだけに留まらず、「あるアメリカ人」の名を使って公然と名指しでジェファソンを非難したという。このようにジェファソンはハミルトンの非難を1つ1つ取り上げて反論を試みている。
 ジェファソンは、ワシントンにハミルトンの「陰謀」を告げただけにとどまらず、ウィリアム・ジャイルズ連邦下院議員による決議の起草にも関与している。それは、違法に資金を動かした容疑でハミルトンを弾劾する決議であった。
 結局、ジェファソンとハミルトンの溝は埋まらず、ジェファソンは1793年7月31日、ワシントンに辞表を提出した。12月31日、ジェファソンの辞任が確定した。後年、ジェファソンは、ワシントンとの意見の違いは、「私が彼よりも人民が生まれながらに持つ品位や思慮を信頼した」点にあると述べている。
 このように自身が閣僚から去ったとはいえ、この頃に確立した閣僚制度についてジェファソンは後に、「大統領は閣僚の叡智と情報の恩恵を受け、彼らの意見を集約することができ、政府のすべての部門で統一した行動と管理ができる」と肯定的に評価している。さらに大統領と閣僚の関係については、「大統領はそれぞれの意見や判断を冷静に聞き、追求すべき進路を決定し、扇動に惑わされることなく政府を常に安定させなければならない」と述べている。

退隠生活
 1793年12月31日、ジェファソンの辞任が確定した。その後、ジェファソンはモンティチェロに退隠した。「私は困難が好きではありません。私は静謐を好み、義務は進んで果たすとはいえ、中傷に過敏であり、それによって職を放棄せざるを得なくなりがちです」と自ら語ったことがあるように、ジェファソンは批判の矢面に立つのを避ける傾向があった。
 モンティチェロでジェファソンは農園の管理に勤しんだ。長期間の不在のために農園が「非常に荒れた」ので収穫物の利益はあまり見込めなかった。そのため「当座の資金」を稼ぐために釘製造が行われた。この釘製造は最低でも10数人の人手を要する事業であったが、結局、それほどうまくいっていない。
1794年9月、ワシントンはジェファソンにスペインへ特使として赴くように勧めたが、それを拒否している。ジェイ条約をめぐって民主共和派の不満が高まった時、ジェファソンは表立った動きはとっていないものの、ジェイ条約を親英的で党派的な偏向がある条約であり「違憲」であるとみなしていた。ジェイ条約は、ジェファソンやマディソンの通商政策を根本から覆すものであった。そのためジェファソンは、大統領が条約を認めた後でも、議会が「憲法上、無効」の故を以ってそれに反対すべきだと示唆している。

副大統領
1796年の大統領選挙
 ジェファソンは「野心の欠片もない」と自ら述べているように、当初、次の大統領選挙では、マディソンが民主共和派の大統領候補として適任であると考えていた。退隠生活で、「私の農園、私の家族、そして私の書籍」を十分に楽しみ、「それらの枠を超えることに首を突っ込まないと決意した」からである。また「若い時に持っていたちょっとした野心ももはや消えうせた」とジェファソンは言っていた。しかし、また「真の正義の風下に流され過ぎる前に、[アメリカという]船を共和主義の針路に戻さなければならない」と述べているように次第に公職への復帰を考えるようになった。ワシントン政権下で連邦政府は、ハミルトンを中心とする「反民主共和派」の手に落ちたとジェファソンは固く信じていた。
 結局、1796年の大統領選挙でジェファソンは、ジョン・アダムズに次ぐ68票を獲得した。アダムズとは僅かに3票差であった。ジェファソンにとって、それは予想以上の得票であったらしい。ジェファソンが票を得た州は、ジョージア、ケンタッキー、メリーランド、ノース・カロライナ、ペンシルヴェニア、サウス・カロライナ、テネシー、ヴァージニアであり、ニュー・イングランド地方ではほとんど票を得ることができなかった。しかし、ヴァージニアとペンシルヴェニアでは、アダムズの1票に対して20票と14票を得ている。「ペンシルヴェニアの票を求めよう。そうすれば全体を恐れる必要はない」とジェファソンはマディソンに語っている。
 ジェファソンは、アダムズを「ハミルトンの権力掌握に対する唯一の確かな防壁となる」人物だと考えていた。惜しくも大統領の椅子は逃したものの、アダムズとの連携は次善の策として悪い策ではなかった。それ故、ジェファソンは副大統領職を辞退しなかった。とはいえ、副大統領職はジェファソンにとって「名誉であり簡単」であったが、「非常に苦痛」でもあった。
 当時、「政党」は明確に存在していなかったが、ジェファソンは民主共和派、アダムズは連邦派と考えられていた。つまり、1796年の大統領選挙では、異なる「政党」から大統領と副大統領が選出されるという結果となった。現在では、憲法修正第12条によって、異なる政党から大統領と副大統領が選出されることはない。
◇「議会運営の手引き」をまとめる
 1797年3月4日、フィラデルフィアでジェファソンは副大統領に就任したが、それ以後、任期の大半をモンティチェロで過ごしている。
 副大統領としてジェファソンが果たした最も重要な職務は上院で議長を務めることであった。そうした職務は1801年2月、「議会運営の手引き」にまとめられ印刷された。それはジェファソン自身の考えを表したというよりも必要な事柄を編集したものであったが、今でも上院で参考にされている。
マッツェイ書簡
 1797年5月、ジェファソンが隣人であったイタリア人フィリップ・マッツェイに宛てた書簡がアメリカで公刊された。それは先にフレンツェの新聞で公表された書簡であった。1796年4月24日付けの手紙の中でジェファソンは、連邦派を「イギリスの君主的かつ貴族的な党派」であり、「その公然とした目的は、もう既に実現しつつあるが、実質的に我々をイギリス政府側に引き込むことである」という非難をはじめ、ワシントン政権を批判する内容が含まれていた。連邦派の新聞は、ジェファソンを「中傷者」、「虚言者」、「刺客」などと呼んで非難した。
 この書簡はジェファソンとワシントンの仲を著しく傷付けた。それ以後、ワシントンが亡くなるまで2人は全く手紙を交わしていない。当時、ジェファソンは沈黙を守ったが、後年、公刊された文章とオリジナルの手紙の文章の一部が異なっていたと弁明している。
XYZ事件
 「XYZはマーシャルによるでっちあげ」と語っているように、ジェファソンにとってXYZは、人々を騙して扇動するための連邦派の「陰謀」に過ぎなかった。そして、民主共和派が、司法長官チャールズ・リーによって「フランスの殺人的なジャコバン主義者」と同一視されたと憤っている。
 フランスとアメリカの衝突に際してジェファソンは、フランスへの特使に選ばれたエルブリッジ・ゲリーに1799年1月26日付の手紙で「フランスの侮辱は甚だしいものだとは感じますが、戦争がそうした侮辱を正す確かな手段だとは私は思いません。平和を保持しようと心から望む使節こそ我々に平和で名誉ある解決と報いをもたらすでしょう」
ケンタッキー決議
 1798年、アダムズ政権下で導入された外国人・治安諸法に対してジェファソンは権利章典を損なう法律だと考えた。また同法は民主共和派を攻撃する目的が含まれているとジェファソンは信じていた。そうした法律を認めようとする上院の議長を務めずにすむように、6月27日以後、モンティチェロに引き篭もった。連邦派は、フランスとの戦争を忌避するジェファソンを裏切り者と激しく非難した。
 ジェファソンは、「もう少し辛抱していれば、魔女達の支配が終わるのを見ることができる」し、「再び政府を正義に立ち返らせる日」が来ると考えた。「外国人・治安諸法は南部でXYZ熱を冷ます強力な薬として既に作用している」と信じていたからである。
 10月、ジェファソンはマディソンと協力して密かに外国人・治安諸法に対する反撃の狼煙をあげた。ジェファソンは匿名でケンタッキー決議の草案を書いている。ジェファソンがケンタッキー決議を起草したことは長い間、内密にされ、それが判明したのは1821年であった。当時、もしジェファソンが起草したことが露顕していれば、扇動罪、最悪の場合は反逆罪で弾劾される恐れがあったとデュマス・マローンは指摘している。
 また当時、ワシントンも危惧したように、各州がそれぞれ独自に連邦法を適用するかどうかを判断するようになれば、連邦の解体をまねく可能性があった。もしそうした事態に陥れば、ケンタッキー決議は外国人・治安諸法に劣らず「自由に対する大きな脅威」となっていたかもしれないとギャリー・ウィルズは指摘している。
 ケンタッキー決議の草案でジェファソンは、外国人・治安諸法が憲法修正第10条の「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に反していると主張している。そして、外国人・治安諸法の制定は合衆国に委任されていない権限に属するので無効である。つまり、ジェファソンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」を明確に否定している。さらに合衆国憲法は各州の「契約」に過ぎないので、連邦政府が定める法律について、各州はそれが正しいかどうかを「判断する平等な権利」を有し、もし間違っていると判断した場合は、その法律を「無効にすることが正しい救済策」であると訴えた。各論の詳細は以下の通りである。
 連邦政府や連邦議会、または大統領に対する中傷や名誉毀損を行った者を処罰することを認めた治安法は、連邦議会は言論および出版の自由を制限する法律を制定することはできないと謳う憲法修正第1条に反する。
 また、危険だと見なされる外国人を国外退去させる権限を大統領に与える外国人法Alien Actは、憲法第1条第9節1項の「現在の諸州中どの州にせよ、入国を適当と認める人びとの来往および輸入に対しては、連邦議会は1808年以前においてこれを禁止することはできない」という規定に反している。
 さらに、交戦期間中、敵国人を検挙し収監することを認める敵性外国人法は、「正当な法の手続き」を保障する憲法修正第5条と陪審と弁護を受ける権利を保障する修正第6条に違反する。さらにそれは、合衆国の司法権が司法部に存することを謳う第3条第1節にも違反している。
 このように外国人・治安諸法の違憲性を述べたうえで、ジェファソンは「もし入り口で[外国人・治安諸法が]阻まれなければ、[対象となった]これらの州を必ず革命と流血に陥らせることになり、共和政治に対する新たな災厄をもたらす」と危機感を露にしている。そして、「どこであれ[為政者の]過信は専制政治の生みの親であり、自由な政府は過信ではなく[憲法に基づいた]不断の配慮に基づく」と警句を述べている。
ケンタッキー州議会は決議案を審議した。主な変更点は、州の権利を侵害する法律の実施を拒否する項目を削除した点である。1798年11月16日、この決議は州知事の署名を受けて正式に成立し、各州に送付された。
 ケンタッキー決議とヴァージニア決議でジェファソンが期待したことは、「巧妙な策略」によって眠らされた「1776年の精神」を喚起し、「国民の目を開かせる」ことであった。さらに、「巧妙な策略」から免れて、フランスが心から平和を望んでいることを国民が理解することであった。
 ところがケンタッキー決議とヴァージニア決議に対する諸州の反応は期待通りのものではなかった。そのためジェファソンはさらに「連邦から脱退すること」も辞さないとする急進的な草案を準備した。マディソンはそれが内包する危険性を指摘し、ジェファソンをようやく思い止まらせた。

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究