子供


1男5女
マーサ・ワシントン・ジェファソン
 長女マーサ(1772.9.27-1836.10.10)は、ヴァージニア植民地シャーロッツヴィルで生まれた。父ジェファソンと非常に似ていたという。小さな個人学校に通って古典とフランス語を学んだ。ジェファソンは、マーサに厳しい日課を与え、教養と規律ある人間に育てようとした。その結果、マーサは同時代の女性の中でも非常に高い教養を身に付けた女性になった。
 マーサは12才から17才まで父とともにパリで暮らし、全寮制のカトリック系の学校であるパンテモン校に入学した。1788年4月に修道女になることを考えたが、それに反対した父により退学させられた。
 帰国後、1790年2月23日に又従兄弟のトマス・ランドルフと結婚した。ランドルフは後に義父と同じく、1819年から1822年にわたってヴァージニア州知事を務めた。マーサは子供達の中でただ1人、父の没後も存命している。ジェファソンが亡くなる2日前、マーサは形見の詩があることを伝えられている。
 ジェファソンの死後、マーサは自分の家族の問題だけではなく、ジェファソンの遺産に関わる問題も処理した。サウス・カロライナ州とルイジアナ州は彼女の苦境を知って、1万ドルを拠出している。マーサは1836年に脳卒中で亡くなり、モンティチェロの墓所に葬られた。
ジェーン・ランドルフ・ジェファソン
モンティチェロで生まれた次女ジェーン(1774.4.3-1775.9)は夭折した。
―・ジェファソン
 モンティチェロで生まれた長男(1777.5.28-1777.6.14)も生後17日で夭折した。
メアリ・ジェファソン
 モンティチェロで生まれた3女メアリ(1778.8.1-1804.4.17)は、母マーサに似ていたという。マーサの死後、亡母の異母妹宅に預けられた。そのためジェファソンがフランスに赴いた際は同行しなかった。しかし、ジェファソンは娘をフランスに呼び寄せることを決意した。
 1787年、メアリは奴隷のサリー・ヘミングスに伴われて、ロンドンを経てパリにいる父と姉のもとに向かった。その時、メアリは8才であった。ロンドンでは、当時、駐英アメリカ公使として赴任していたジョン・アダムズとその妻アビゲイルの世話になっている。7月半ば父と姉に再会した。父のことは辛うじて覚えていたが、姉のことはほとんど何も覚えていなかったという。
 姉と同じくパンテモン校で学んだ。帰国後、1791年、マリアはフィラデルフィアの寄宿学校に入った。そして1797年10月13日、親類のジョン・エップスと結婚した。エップスは連邦下院議員になっている。この結婚は、ジェファソン家とウェイルズ家を結び付け、経済的にも社会的にも恩恵をもたらした。しかし、マーサは第3子を出産後に亡くなった。
 ジェファソンは成人するまで生き残った2人の娘を非常に愛していて、2人が結婚後も何かと口実をもうけてしばしば傍に置きたがった。2人は互いに父の愛を得ようと競合しているようであったが、ジェファソンはメアリに「お前と姉さんの間に区別をもうけることなど私には思いもよらないことだ」という手紙を送っている。
ルーシー・エリザベス・ジェファソン
 リッチモンドで生まれた4女ルーシー(1780.11.3-1781.4.15)は夭折した。生まれた時の体重は10.5ポンド(約4800グラム)で元気に成長すると期待された。しかし、生後5ヶ月で亡くなった。
ルーシー・エリザベス・ジェファソン
 ヴァージニア邦エッピングトンで生まれた5女ルーシー(1782.5.8-1785.11.17)も同じく百日咳で夭折した。またルーシーの難産が母マーサの死に繋がった。

婚外子と推定される子供
 妻マーサとの間に生まれた1男5女の他に、確証は未だにないが、アフリカのヴィーナスという渾名で呼ばれてきたサリー・ヘミングス(1773.7-1835)との間にもうけたと言われる子供が7人いる。
トマス・コービン・ウッドソン
 サリー・ヘミングスがフランスでトマス(1790-1880)を生んだ後にアメリカに帰ったという説とアメリカに帰って来た直後にトマスを生んだという説の両説がある。トマスだけがウッドソン姓を名乗っているのは、ウッドソン家の伝承によれば、サリーとの仲の露見を恐れたジェファソンが息子を近隣のウッドソン家に預けたからである。しかし、他にトマスがジェファソンの血を引くことを裏付ける明確な証拠はない。
ハリエット・ヘミングス
 モンティチェロで生まれたハリエット(1795.10.5-1797.12)は夭折した。ハリエットの誕生前後、ジェファソンはモンティチェロに退隠している時期であった。
ベヴァリー・ヘミングス
 モンティチェロで生まれたベヴァリー(1798.4.1-1822+)は「逃亡」したとされ、後にメリーランドで白人女性と結婚した。ジェファソンの「農事録」に誕生が記録されているが、父親に関する言及がない。当時、女奴隷が生んだ子供の父親を特定して記録に留めることはごく普通の行いであった。それ故、父親に関する記述がない点が不自然であると指摘されている。
セニア・ジェファソン・ヘミングス
 セニア(1799.12.7-1802)は夭折した。
ハリエット・ヘミングス
 モンティチェロで生まれたハリエット(1801.5-1876)は家内奴隷であったが、1822年に「逃亡」したとされ、ワシントンで白人男性と結婚した。 同じく「農事録」に誕生が記録されているが、父親に関する言及がない。またジェファソンが8月に夏の休暇をモンティチェロで過ごした9ヵ月後に生まれている。
マディソン・ヘミングス
 モンティチェロで生まれであり、遺言で解放された5人の奴隷の中の1人であるマディソン(1805.1.19-1877.11.28)はヴァージニア州に住んだ後、オハイオ州に移住し大工仕事で生計を立てた。1870年の国勢調査では、マディソンがトマス・ジェファソンの子供である旨が記されている。しかし、「農事録」には誕生が記録されているものの、父親に関する言及がない。またジェファソンがモンティチェロで行われた娘メアリの葬儀に参加した9ヵ月後に生まれている。
 その孫フレデリック・ロバーツは、1918年、カリフォルニア州議会に初の黒人議員として当選したことで知られている。
エストン・ヘミングス
 同じく遺言で解放されたモンティチェロ生まれのエストン(1808.5.21-1856?) は兄マディソンとともにオハイオ州に住んだ後、ウィスコンシン州に移住し、後に獄中で亡くなったらしい。同じく「農事録」に誕生が記録されているが、父親に関する言及がない。またジェファソンが8月に夏の休暇をモンティチェロで過ごした9ヵ月後に生まれている。

DNA鑑定による家系調査
サリー・ヘミングスに関する言及
 ジェームズ・パートンがが『ジェファソンの生涯』(1874)で早くから指摘したように、フォーン・ブローディも『トマス・ジェファソン―秘史』(1974)の中で、ジェファソンが自分の奴隷であったサリー・ヘミングスとの間に婚外子をもうけていたのではないかと指摘している。しかし、それはジェファソンがサリーに強要したことではなく、38年間も愛情を伴った関係が続いたという。ブロディの業績は、ジェファソンの内面に迫った代表的な業績であるが、ジェファソンの信奉者から厳しい批判を受けた。
 近年もサリーの娘の1人であるハリエットを取り上げたバーバラ・チェイス=リブーの小説『大統領の秘密の娘』(1994)が話題を呼んだ。チェイス=リブーは1979年にもサリーの回想を描いた小説『サリー・ヘミングス』を発表している。
 こうした指摘は既にジェファソンの生前から行われている。アレグザンダー・ハミルトンも1796年10月15日のガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ紙でサリー・ヘミングスの存在を匂わせる発言をしている。また1802年9月1日のリッチモンド・レコーダー紙には、「国民からの栄誉を享受している人物が、彼の奴隷の1人を愛人としていること、そして長年にわたってそうしてきたことはよく知られている。彼女の名はサリー。彼女の最年長の息子はトム。トムの容貌は、[肌の色が]やや黒いとはいえ、大統領に酷似していると言われている。その少年は10才から12才くらい。少年の母は、ジェファソン氏と2人の娘とともに同じ船でフランスに渡った[訳注:サリーはジェファソンの後にフランスに渡航している]」という露骨な記事が掲載された。ジェファソン自身はそうした指摘に対する直接的な答えは何も与えていない。それは、どのような問題であれ、新聞の記事にいちいち反論しないことがジェファソンの基本方針であり、そもそも「新聞で見られることは今や何も信じられない。真実自体も、そうした政治的な媒体に記されると疑わしくなる」と述べているように新聞に対して不信感を持っていたことが一因である。
 疑惑の対象であるサリーは、マーサの父ジョン・ウェイルズJと奴隷のエリザベス・ヘミングスの間の子と言われている。もしそうであれば、サリーは妻マーサの異母妹にあたる。サリーの母エリザベス自身も白人と黒人の混血であったらしい。そうするとサリーは奴隷と言っても4分の1しか黒人の血を受け継いでいない。『アイザックによるモンティチェロの奴隷としての回想』の中で長年、ジェファソンに仕えた奴隷アイザックIsaacは、サリーの母エリザベスが混血であり、サリー本人は白人とほとんど変わらなかったと証言している。ジョン・ウェイルズが亡くなった後、サリーは母とともにジェファソン家へ移った。母と娘は病気になったジェファソンの妻マーサを看病した。
 サリーは14才の時、ジェファソンの娘ポリーがフランスのジェファソンのもとへ旅立つ際に同行している。2年後にサリーがフランスからモンティチェロに帰った時、明らかに妊娠している徴候が見られたという。サリーの息子マディソンは、1873年3月13日のパイク・カウンティ・レパブリカン紙で、「[パリにいる頃]私の母はジェファソン氏の愛人になりました。[中略]。家[モンティチェロ]に戻ってすぐに[母は]子供を生みました。トマス・ジェファソンがその[子供の]父親です」と証言している。さらにフランスで自由を得たサリーがヴァージニアに帰って再び奴隷の地位に戻ることを拒むと、ジェファソンは「母に特権を与えることを約束し、21才に達すれば子供達に自由を与えると固く誓った」という。
反証
 しかし、メリル・パターソンは、サリーの子供達の父親はジェファソンの甥ピーター・カーではないかと示唆している。その推測は、1858年にジェファソンの孫エレン(長女マーサの3女)が夫に宛てた手紙の内容に基づいている。その手紙の中でエレンは、ヘミングスの子供達の父親はピーター・カーかその兄のサミュエルのどちらかだと聞いたことがあると記している。また同じくジェファソンの孫トマス・ランドルフ(長女マーサの長男)は、母の要請で調査を行い、サリーが出産する前の少なくとも15ヶ月間、ジェファソンと接触する機会はなかったと結論付け、ピーター・カーがサリーの愛人であったと述べている。しかし、ジェファソン関連文書の中でサリーに言及した箇所は非常に少なく、そうした面から2人の関係の虚実を確定することは難しい。
DNA鑑定の実施
 1998年11月5日、ネイチャー誌にイギリスの研究機関によって行われたDNA鑑定の結果が発表された。ジェファソンの叔父フィールド・ジェファソンの子孫である5人の男性からサンプルを採取し、カー兄弟の祖父の子孫である3人の男性からもサンプルを採取した。さらにサリーの息子トマス・ウッドソンの子孫である5人の男性とエストンの子孫である1人の男性からもサンプルを採取した。それらのサンプルから、男系を通じて遺伝するY染色体の比較調査を行った。叔父の子孫からサンプルを採取した理由は、ジェファソンと妻マーサの間には、夭折した長男以外に男子はなく、男系子孫が存在しないからである。
 DNA鑑定の結果、トマス・ウッドソンの子孫のY染色体と一致するサンプルはなかった。一方、エストンの子孫のY染色体は、カー兄弟の子孫のY染色体と一致しなかったが、ジェファソンの叔父の子孫のY染色体と一致するサンプルが見つかった。それは、サリーの来孫にあたるジョン・ジェファソンのサンプルであった。その結果、ジェファソンがサリーの息子エストンの父親であると断定はできないものの、少なくとも可能性はあることが証明された。その一方でウッドソン家がジェファソンの血を引く可能性は極めて低いと証明された。
 こうしたDNA鑑定の結果についてトマス・ジェファソン記念財団は、それが信頼に足るものであると述べている。しかし一方で、新たに組織されたトマス・ジェファソン遺産協会のジェファソン=ヘミングス問題に関する研究者検討委員会は、2001年4月12の最終報告で、ジェファソンとサリーの間に親密な関係があったことを完全に否定している。
 サリー・ヘミングスの問題は、単にジェファソンの個人史上の問題に限定されず、アメリカの人種史、そして建国の理念を根幹から揺さぶりかねない問題である。それ故、この問題は多くのジェファソン研究者の論ずるところとなっている。 

その他の子孫
トマス・ジェファソン・ランドルフ
 孫トマス・ランドルフ(1792.9.12-1875.10.8)は、ペンシルヴェニア大学で学び、ヴァージニア州議会下院議員を務めた。南北戦争にアメリカ連合国の大佐として従軍した。そのため戦後、奴隷だけではなく多くの財産を失った。1872年にはボルティモアで開催された民主党全国党大会を主宰した。ジェファソンの遺言執行者となり、ジェファソン関連文書と農園を受け継いだ。そして、ジェファソン関連文書を初めてまとめた『言行録』(1829)を刊行した。
ジョージ・ウィス・ランドルフ
 同じく孫ジョージ・ランドルフ(1818.3.10-1867.4.3)は、1831年から1839年にかけて合衆国海軍に在籍した後、ヴァージニア大学から法学の学士号を得てアルブマール郡で開業した。南北戦争時はリッチモンド野戦砲部隊に所属し、アメリカ連合陸軍准将まで昇進した。1862年3月17日、アメリカ連合陸軍長官に指名された。デーヴィス大統領との衝突や自身の健康問題から同年11月15日に退任した。
トマス・ジェファソン・クーリッジ
 曾孫トマス・クーリッジ(1831.8.26-1920.11.17)は、1892年から1896年にかけて駐仏アメリカ公使を務めた。後にジェファソン関連文書を買い取ってマサチューセッツ歴史協会に寄贈している。
アーチボルド・ケアリー・クーリッジ
 玄孫アーチボルド・クーリッジ(1866.3.6-1928.1.14)は、ハーヴァード大学で歴史学を講じ、『世界の大国としての合衆国』(1908)を著した。1889年にモンティチェロを買い戻そうとしたが叶わなかった。
ジェファソン・ランドルフ・アンダーソン
 さらに来孫ジェファソン・アンダーソン(1861.9.4-1950.7.17)は、1905年から1906年と1909年から1912年にかけてジョージア州下院議員を務め、さらに1913年から1914年にかけて同州上院議員を務めた。

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究