エピソード


我が頭と我が心の恋文
 ジェファソンが駐仏アメリカ公使としてヨーロッパに滞在していた頃、イタリア生まれのマリア・コスウェイという女流画家と知り合った。マリアの夫リチャードも画家で仕事のためにイギリスからフランスに来ていた。その頃、27才だったマリアは夫に同行し、フランスに滞在していた。
 ジェファソンはマリアと頻繁にパリ市内や郊外の散策に出掛けている。マリアの帰国を知らされてジェファソンは4000語以上の長大な恋文を送った。オリジナルは見つかっていないが、写しは残っていて、1829年8月23日に公開された。
 1786年10月12日付けの手紙は次のような「我が頭」と「我が心」の対話形式から成っている。

「(頭)友よ、どうやら君は良い調子のように見えますが。(心)実のところ、私はこの世のすべての生き物の中でも最も惨めな状態にあります。悲しみに打ちひしがれ、私の身体の全細胞が自然に耐えられる以上に膨張した今、これ以上、何も恐れず、何も感じなくしてくれるような破滅を何であれ歓迎したい気分です。(頭)それらは、君の優しさと軽はずみによってもたらされた変わることのない結果なのです。これは君がいつも我々を引っ張り込む苦境の1つです。君は自分のまことに愚かしい行為を告白していますが、まだ後生大事にそれらを抱えたままです。後悔することがない限り、更正は全く期待できません。(心)我が友よ、今は私の愚行を咎める時ではありません。私は強い悲しみでずたずたに引き裂かれています。もし何か鎮痛薬を持っていたら、私の傷に塗り込んで下さい。さもなければ、新しい苦しみでさらに傷をひどくするようなことをしないで下さい。こんなに嫌な時は、私をそっとしておいて下さい。他の時ならば、辛抱して君の忠告に注意を払ったでしょう」

 結局、その時、頭と心のどちらが勝利を収めたのかをジェファソン自身は明らかにしていない。そのため研究者は、頭と心のどちらが勝利を収めたかという論点でこの手紙を論じている。
 マリアは翌年8月28日、今度は独りでパリに来訪し、ジェファソンと再会している。しかし、予定がなかなかあわず、すれ違いの日々が続いた。結局、12月にマリアはイギリスに帰ることになった。その日の朝、ジェファソンはマリアのもとを訪れたが、既に彼女は出発した後だった。その後、2人は2度とあうことはなかったが、30年以上も手紙を交わし続けた。

新しい物を広める
トマト
 アメリカではトマトはもともと観賞用で、昔は猛毒があると信じられていた。公開の場で勇気ある男がトマトを食べるという催しも行われたという。その様子を見ていた女性の中には気を失ってしまう人も出たと伝わっている。トマトに猛毒があるという俗信は相当根強かったらしい。それにも拘わらず、ジェファソンは、「トマトには毒がある」と言い張る女の子の前でトマトを食べてみせたという。後にブキャナン大統領の正式晩餐会のメニューにトマトが加えられていることから、トマトを食べる習慣は徐々に広まったである。
 トマトの他にも当時、珍しかったナスをはじめとして、ダムソン・スモモ、チリメンキャベツ、サトウダイコン、カリフラワー、チコリ、ブロッコリ、セロリ、キクイモ、シムリング(カボチャの仲間)などを栽培している。ジェファソンは、「100種類の種の中で1つでも有用な植物があれば、残りの99個はそうでもなくとも十分見返りがある」と述べるほど新種の栽培に熱心であった。新型の鋤を考案したこともよく知られている。また大統領在職期間中もワシントンの市場で売られる野菜について克明に記録を残している。大統領引退後もアルブマール郡で農業協会を組織し知識の普及に貢献した。
ジャガイモ
 さらにジェファソンは、ジャガイモを食品として栽培することを試みている。ジャガイモをアイリッシュ・ポテトと呼び、フレンチ・フライを作って来客にふるまったという。フレンチ・フライが供されたのはそれが最初だと言われている。既に18世紀前半にジャガイモは伝わっていたが、ジャガイモには毒があると信じられていた。その毒を除去するためには、ジャガイモを煮る以外ないと思われていたので、油で揚げるフレンチ・フライは画期的な料理法であった。
オリーヴ
 この当時、オリーヴはほとんどアメリカで知られていなかった。しかし、ジェファソンは、油を採取できるオリーヴを重要な樹木だと考え、サウス・カロライナとジョージアへの導入を図った。1788年、サウス・カロライナの農業組合から購入資金を受け取ったジェファソンは、オリーヴの苗木を購入し、フランスからアメリカに送るように手配した。積荷はなかなか届かなかったが、1791年になってようやく2箱の船荷が届いた。
 ジェファソンの努力にも拘らず、オリーヴの栽培は普及しなかった。なかなかオリーヴに適した気候と土壌を兼ね備えた場所が見つからなかったためである。現在でもアメリカのオリーヴ油の生産量は主要生産国に比べるとごく僅かである。
 オリーヴの他にも陸稲をアフリカからアメリカに取り寄せて栽培しようとしている。ジェファソンは「有用な植物」をアメリカに普及させる事業を非常に重要だと考えていた。
ヴァニラ・アイス・クリーム
 パリ滞在中にジェファソンはフランス料理のレシピを綿密に写し、モンティチェロに持ち帰っている。手書のレシピの1つにヴァニラ・アイス・クリームのレシピがある。ジェファソンはヴァニラがとても好きで、1791年に、パリ駐在の外交官に、フィラデルフィアではヴァニラが入手できないので50莢送るように依頼したほどである。ヴァニラをアメリカに初めて持ち込んだ人物はおそらくジェファソンであると考えられている。
 アイス・クリームを製造するためにジェファソンはソルベティエール(今で言う「アイス・クリーム製造機」)をフランスから持ち帰ったと考えられる。 
 それより前、少なくとも1744年にはアメリカでアイス・クリームが賞味されていることは確かなので、アイス・クリーム自体を初めてアメリカに持ち込んだ人物はジェファソンではない。またワシントンも1790年夏、ニュー・ヨークでアイス・クリームを供するために200ドルを費やしている。しかし、ジェファソンがアメリカで早くからヴァニラ・アイス・クリームを楽しんだ1人であり、普及に一役買ったことは確かである。
マカロニ
 1789年、ジェファソンの秘書は、主人の求めに応じてイタリアのナポリで購入した「マカロニを製造するための型」をパリに送るように手配した。荷物がパリに着いた時、既にジェファソンは帰国した後であった。マカロニ製造機は他の荷物とともにアメリカに後送され、1790年にフィラデルフィアに届けられた。これはアメリカ初のマカロニ製造機と言われている。

莫大な負債
負債の原因
 豊かな資産に恵まれているはずのジェファソンは莫大な借金を抱え込んでいる。例えば大統領在任の8年間だけでも1万1000ドル(数千万円相当)のワインの請求書を溜め込んだ。大統領としての最初の年度の必要経費だけでも約2万2000ドルを要した。その当時、接待費を大統領個人で支払うのが原則であった。
 当時の大統領の年俸は2万5000ドルであった。また所有する農園で栽培するタバコと小麦の売り上げは年平均3500ドルから5000ドル程度と見積もられている。他に所有する奴隷や土地の貸し出しや製粉場、釘製造などにより収入を得ていた。しかし、製粉場は利益をあげるどころか恒常的に赤字であり、釘製造も成功を収めたとは言い難い。その一方で、出港禁止令や1812年戦争によって輸入が途絶えたためにやむを得ない措置だったとはいえ、紡績機を使用して毎年2000ヤードの衣類の自給に成功している。
 晩年にジェファソン自らが試算したところ、負債の総額は少なくとも4万ドルに達していた。また3年後に孫のトマス・ランドルフ(遺言執行者)が計算したところ、負債総額は少なくとも10万7000ドル(少なくとも数億円相当)に達していた。モンティチェロの評価額が7万1000ドルであったことからするといかに莫大な額かが分かる。これほど多額な負債を抱え込んだ理由は、モンティチェロの建設費用や莫大な書籍代などジェファソン自身の責任もあるが他にも原因がある。まず手形の保証人になったことで他人の借金を抱え込んだことが挙げられる。また義父ジョン・ウェイルズが亡くなった時に1万1000エーカーの土地と135人の奴隷を相続しているが、負債も同時に相続したために土地の大半を返済に充てるために売り払わなければならなかった。土地の購入者の大半は、革命期の紙幣で支払いを行っていたが、その紙幣の価値下落により、ジェファソンは義父の負債にさらに苦しめられることになった。
蔵書の売却と宝くじ発売計画
 1815年には、前年に兵火によって焼かれた連邦議会図書館に約6500冊の蔵書を2万4000ドルで売却している。それは荷馬車で「18台から20台」分という途方もない量であり、約50年間にわたって「苦労も機会も費用も惜しむことなく」集めた「9000冊から10000冊」の蔵書の大半である。新聞でイギリス軍のワシントン焼き討ちを知ったジェファソンは、議会に自ら図書の売却を持ちかけた。もちろんお金に困っているので売却したいと述べたわけではなく、あくまで議会図書館の再建のためという名目ではあったが、売却によりお金を得ることはジェファソンにとって願ってもないことであっただろう。
 さらに最晩年にジェファソンは「ジェファソン宝くじ」を企画していた。その利益で負債を清算しようと考え、議会に特別の発行許可を求めた。従来、ジェファソンは「賞賛に値する望ましい目的」であっても宝くじに決して関与しないと言明していたことからすると、よほど切羽詰っていたようである。もし宝くじ発行が認められなければ、モンティチェロを手放して「頭を突っ込むだけの丸太小屋」に移らざるを得なくなり、埋葬地が手元に残るかどうかさえ心もとないとジェファソンは嘆いている。
 幸いにも議会はジェファソンの要請を裁可した。それに基づいて1枚2ドルで1万枚の富くじの発行が決まったが、結局、計画は頓挫した。そこで有志からの義捐金が寄せられたものの、負債をすべて返済することはできなかった。
資産の散逸
 ジェファソンが亡くなった後、負債を整理するために資産が競売にかけられた。ジェファソンが長年かけて集めた絵画、彫刻のみならず、複写機、奴隷までも含まれていた。こうしてジェファソンの遺産は散逸し、数多くの遺品の行方が分からなくなった。
 そのため後世、ジェファソンの遺品が再び姿を現したことがしばしばニュースとなった。1904年6月8日、ニュー・ヨーク・タイムズ紙は、ジェファソンが所有していたという真鍮製の石炭入れが盗難に遭ったという記事を掲載した。また同紙は、1930年10月26日、ジェファソンのフランス革命を伝える手紙やヴァージニア大学の設計図などが競売にかけられたことを報じた。さらに同紙は、1947年2月23日、ジェファソンが考案した新型の鋤のオリジナルの木製模型がパリで発見されたと伝えている。
 多くの資産が散逸したとはいえ、ジェファソンが独立宣言をその上で書いたという文箱は幸いにも孫娘に生前贈られたので散逸を免れた。この文箱には、ジェファソンの自筆で「政治には宗教と同じく迷信がある。迷信は時の経過とともに強くなり、ある日、この遺物に、我々の偉大な独立宣言との繋がりのために想像上の価値が与えられるであろう」と記されている。

黒人観
 1791年8月、ジェファソンはベンジャミン・バネカーという1人の黒人から暦を受け取った。それは、バネカー自身が計算して作成した暦であった。暦にはバネカーの手紙が添えられていた。バネカーは手紙の中で、黒人に対する根拠のない偏見を是正するべく協力して欲しいとジェファソンに呼びかけた。当時、知的能力の点で黒人は白人に劣っているという根強い偏見があった。バネカーは自ら成し遂げた業績をジェファソンに見てもらうことによって、そうした偏見取り除こうとしたのである。
 ジェファソンはバネカーに対して1791年8月30日に「自然は我々の黒人同胞にも他の人種と等しい能力を与えられ、黒人の能力が欠如しているかのように見えるのは、単にアフリカとアメリカにおける黒人の堕落した生活状態のせいだという証拠をあなたがお示しになりましたが、私は他の誰よりもそうした証拠を見たいと願っています」という返事を送っている。
 しかし、後に友人に送った手紙の中でジェファソンは、「われわれはバネカーが暦がつくれる程度には球面三角法について知っていたと思うのですが、しかし[白人の]エリコット―この人物はバネカーの隣人であり友人でありまして、つねづねバネカーをおだてあげ、焚きつけていました―の援助なしにこれができたかどうか、疑いなしといたしません。わたしはバネカーから長文の手紙をもらいましたが、その手紙はバネカーがじつにありきたりの精神の持ち主でしかないことを示しています(清水忠重訳)」と本心を語っている。
 ジェファソンは、人種の差異に基づいて黒人が生得的に劣っていると断定している。さらにジェファソンは、奴隷解放を望みながらも白人の血と黒人の血が交じり合うことにことによって白人が持つ美質が失われるのではないかと危惧している。
 しかし、一方でジェファソンは黒人の道徳感覚については、決して白人に劣るものではないと擁護している点は忘れてはならない。

女性の役割
 1788年に記された「パリからアムステルダムおよびストラスブルグへの往還に関する覚書」の中でジェファソンは、ドイツの女性について述べた後で自らの女性一般像について以下のように語っている。

「女性達を便利で分別がある伴侶だと考える一方で、女性達は我々の喜びの源であることも忘れることはできないだろう。女性達はそれを絶対に忘れることはない。泥にまみれて重労働に従事していても、リボンの切れ端、指輪、ブレスレット、耳飾り、ネックレスなどそうした類の物を身につけているが、それは女性達の楽しみを求める気持ちを抑えることができないことを示しているように思われる。男性が身を落ち着けるとすぐに家の中の仕事を女性の伴侶に割り当て、外の仕事を自身に引き受けることは、男性にとって有益な状況である。(中略)。女性は彼女に属する細々とした一連の世話焼きの1つたりとて忘れることはない。男性はしばしばそれを忘れる」

 後に女性教育についても「女性達に確かな教育を与えることは不可欠です。教育を受けたことによって、彼女達が母親になった時に、娘達を教育することができますし、もし父親がいないか、能力がないか、無関心である場合、息子達の進路も決めることができます」と述べている。

馬好き
 『アイザックによるモンティチェロの奴隷としての回想』によれば、ジェファソンは乗馬を好んで日課としていたという。さらにジェファソンは競走馬を所有し、イギリスやスペインから多くの優良馬を輸入している。また競馬や馬の見世物を見に行くのが何よりも好きであったという。そして、サイコロやトランプで博打を時々楽しんだという。またミシシッピーの西部に野生馬の群れがいるという話を聞いて、詳細を問い合わせる手紙を送っているほど強い関心を示している。
 馬の他にはウサギや鹿、フランスから連れて来たブルドッグを飼っていた。鳥の中ではマネシツグミをこよなく愛したという。ホワイト・ハウスでジェファソンは後についてくるようにマネシツグミならそうとしたり、口移しで餌を与えようとしたりしていたという。庭の手入れを毎日1時間半ほど楽しみ、手先が器用で鍵や錠前を自分で作ったという。

多くの地名の由来となる
 ジェファソンの名前はワシントンに次いで多くの場所に冠せられている。少なくとも25の郡、10の町の名前がジェファソンに因んで命名されている。他にも3つの山、1つの河川に命名されている。中でも最も有名なのが、インディアナ州のジェファソンヴィルである。ジェファソンヴィルは1802年に建設され、当時、インディアナ準州長官であったウィリアム・ハリソンによって命名されている。ハリソンから手紙を受け取ったジェファソンは、都市計画に関して助言を与えている。また他にもミズーリ州のジェファソン・シティは州都として知られている。

ヨーロッパ諸国の王侯に対する痛罵
 王妃マリー・アントワネットに対する酷評もさることながら、ジェファソンは1810年3月5日付の手紙の中でもヨーロッパ諸国の王侯に対する悪評を並べ立てている。

「ルイ16世は、、裁判で彼のためになされた反論にも拘らず、私の知る限り愚か者であった。スペイン王も愚か者であり、ナポリ王も同様であった。彼らは狩猟に明け暮れ、週に2度、1000マイルも急使を走らせてお互いにここ数日の間に殺した獲物について報告しあっていた。サルディニア王も愚か者だった。彼らは皆、ブルボン家である。ブラガンサ家のポルトガル王妃は、天性の間抜けであった。デンマーク王もそうだ。彼らの息子達が摂政として政治権力を行使していた。フリードリヒ大王の後継者であるプロイセン王[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]は、心も身体もただの豚である。スウェーデン王グスタフ[3世]、オーストリア王ヨーゼフ[2世]は本物の馬鹿であり、イギリス王ジョージ[3世]は知っての通り狂人である」

ナポレオン評と歴史観
 フランス革命に概ね好意的であったジェファソンであったが、ナポレオンに対しては否定的であった。1799年のブリュメールのクーデーターの直後に、ジェファソンはナポレオンがいずれは終身元首になるのではないかと不安を示している。それはアメリカにとって悪しき前例となる可能性があったからである。君主制が共和制に取って代わることがジェファソンにとって最大の恐怖であったので、そうした不安は当然であったと言えよう。ジョン・アダムズに宛てた1814年7月5日付の手紙の中では次のように語っている。

 「ボナパルトは戦場でのみ獅子であった。しかし、市民生活においては、冷血で利己的、かつ無節操な強奪者であり、美徳がなく、政治家でもなく、商業、政治経済、市民政府について何も知らず、大胆な憶測によって無知を露呈した。私は彼をブリュメール18日のクーデターまでは偉大な人物だと思っていた。しかしながら、その日から私は彼をたいした悪党だとしか思えなくなった」

 ジェファソンの考えでは、ナポレオンは、フランス革命が本来、目指していた理念を後退させるだけではなく、夥しい流血ももたらした「残酷な利己主義」を持つ人物であった。「ナポレオンが死ねば、彼の専制政治もともに死ぬだろう」とも述べている。そして、晩年、ナポレオンの没落を聞いたジェファソンは、「フランスは怪物から解放され、再び地球上で最も好ましい国になるに違いない」と評している。『自伝』の中では、フランス革命に関連して次のような歴史観が示されている。

 「歴史上、国家の道徳が完全に失われた3つの時代があった。最初の時代は、アレクサンダー大王の後継者達の時代であり、アレクサンダー大王自身も除外することはできない。次の時代は、初代ローマ皇帝の後継者達の時代である。さらに我々の時代である。我々の時代はポーランドの分割から始まり、引き続いてピルニッツ条約、コペンハーゲンの海戦、それから、ナポレオンがほしいままに極悪非道な大地の分割を行い、大地を戦火で荒廃させた。今、諸王やナポレオンの後継者達を共謀して罰当たりにも自分達を神聖同盟と呼び、投獄された統治者の先例をたどろうとしている。綿密に言えば公然と他国の政府の権利をまだ侵害してはいないが、支配形態を軍によって統制し、意のままになる秩序を保ちながら、さらなる権利の侵害が目論まれている」

トマス・ジェファソン記念館
 トマス・ジェファソン記念館はナショナル・モール(ホワイト・ハウス・国会議事堂などを含む一帯)の南部に位置する。1938年12月15日に起工式が行われ、ジェファソンの生誕200周年である1943年4月13日に完工式が祝われた。
 ローマのパンテオンをモデルにしたボザール様式の大理石の建物である。中央には、高さ19フィートのジェファソンのブロンズ像が据えられている。ポーランドのタディアス・コシューシコ将軍から贈られた毛皮の外套をまとい、左手には独立宣言を持っている。
 内壁にはジェファソンの言葉が刻まれている。まず南西壁面にはアメリカ独立宣言から採られた以下の一節が刻まれている。

「われわれは、次のことは自明の真理であると信じている。すなわち、すべて人は平等に造られ、造物主によって一定の誰にも譲ることのできない権利な与えられ、これらの権利の中には、生命・自由および幸福の追求か含まれ、これらの権利を確保するために政府が設置されることである。・・・われわれは次のごとく厳粛に宣言するものである。これらの植民地は自由にして独立な国家であり、また当然そうあるべきである、と。・・・この宣言の支持のために、われわれは神の摂理の加護を信じ、相共に、われわれの生命・財産および神聖なる名誉を捧げることを誓う」

 次に北西壁面には、ヴァージニア信教自由法からの一節からの抜粋が記されている。なお最後の一文のみ、1789年8月28日にジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中から抜粋されている。

「全能なる神は、人間の精神を自由なるものとして造り給うた。・・・この世における刑罰や重荷を課すことによって・・・人間の精神に影響を及ぼそうとする試みはすべて我らが信ずる神の計画から逸脱している。・・・何人に対しても、特定の宗教的礼拝に出席すること、あるいは特定の信教、聖職者に経済的支援を与えることを強制してはならない。また何人に対しても、その宗教上の見解、あるいは信仰の故に、一切の困苦を加えてはならない。何人も、宗教上の事柄に関する自らの見解を自由に公言し、弁論を以ってそれを保持する自由を有する。個々人で、または集団で行動するかどうかに拘らず、人々に対する道徳律を私は1つしか知りません」

 また北東壁面では次のような言葉を見ることができる。

「我々に生命を与え給うた神は、我々に自由を与え給うた。自由が神の賜物であるという確信を我々が失った時、国民の自由は保たれ得るか。神が公正であり、かの正義は永久に眠っているはずがないと思えば、我が国のためにまことに戦慄を禁じ得ない。主人と奴隷の交わりは、専制と服従である。これらの人々が自由であるべきだということ以上に、運命の書に確実に記されていることはない。一般庶民を教育するための法を確立せよ。広範な計画に基づき、その実施を図ることは、国家のなすべきことである」

 この一節は様々な抜粋からなる。まず一文目は「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」から抜粋されている。次に二文目から四文目は、『ヴァージニア覚書』から抜粋のうえ、若干の編集が加えられている。また五文目は、「自伝」から抜粋されている。さらに六文目は、1786年8月13日付のジョージ・ウィス宛の手紙から抜粋されている。そして最後の文は、1786年1月4日付のワシントン宛の手紙からの抜粋である。
 さらに南東壁面には、サミュエル・カーチェヴァルに宛てた1816年7月12日付の手紙の一文が刻まれている。なお完全に原文そのままではなく一部が削られている。

「私は、法律や制度を頻繁に[審理を経ずして]変えるべきだと唱えているわけではありません。[中略]。しかし、法律や制度は、人間の精神の進歩と手を携えて変わらなければなりません。人間の精神が発達して、より啓蒙され、新しい発見がなされ、新しい真実が見出され、そして習慣や意見が変わる時、情勢の変化とともに、制度も時勢にあわせて前進しなければなりません。文明化された社会が、未開の先祖達が持つ制度の下に留まるべきであるというのは、ある大人に子供の時に合っていた服を着なさいということに似ています」

 そして、壁面とドームの繋ぐ円帯状の部分には、「私は、人間の精神へのいかなる形の抑圧に対しても、永遠に抵抗することを神の祭壇で誓いました」というジェファソンの言葉の中でも最も有名な一節が大きく刻まれている。それは、1800年9月23日付のベンジャミン・ラッシュに宛てた手紙の中にある言葉である。

暗号の使用
暗号解読の過程
 ジェファソンは公式な手紙だけではなく、個人的な書簡でも暗号を用いたことで知られている。主な相手はマディソン、アダムズ、モンロー、ロバート・リヴィングストンなどである。さらにルイスに探検を命じた際にも暗号を使うように指示している。ジェファソンが使用した暗号は、当時、広くヨーロッパで使われていたヴィジュネル暗号をもとにしている。
 独立戦争期、ジェファソンは主に使者に通信を託す方式に主に頼っていた。しかし、ヨーロッパに赴任後は、その距離からして手紙に頼らざるを得なくなった。手紙は途中で開封されて内容が漏洩する危険性が高く、そのため暗号の使用は当然の帰趨であった。
暗号文の内容
 ジェファソンはどのような手紙で暗号文を使っていたのか。例えば1787年1月30日付のマディソンに宛てた手紙では一部が暗号で書かれている。その内容は次のような内容である。訳文中、暗号部分は太字で示す。

ヴェルジェンヌ[フランス外相]は病気である。彼の回復の可能性について疑念を表明することは我々にとって危険であると見なされる。しかし、彼は危険な状態にある。彼はヨーロッパ関係において偉大な外交官であるが、我々の政体について不完全な理解しか持っていないし、それに対して何ら信頼をおいていない。純粋な専制主義への彼の献身によって、彼は我が政府に愛着を持っていない。しかし、イギリスに対する彼の恐怖が、我々を彼にとって重要な存在にしている

暗号機の開発
 ヨーロッパから帰国して国務長官に就任したジェファソンはさらに暗号機を製作している。26の木製の円盤が、1本の鉄製の軸を中心にそれぞれ回転するようにはめ込まれている。円盤の縁には文字が不規則に刻まれている。円盤を回転させることで暗号文を作成したり、解読したりできるようになっている。

急進的な政治理念
 1789年9月6日付の手紙の中でジェファソンは独自の政治理念をマディソンに向けて次のように語っている。まず「地上の使用権は生者に属し、死者は、地上に対して何の権力も、権利も持たない」ことは自明の理である。それ故、人間は生きているうちに支払えないような負債を抱え込んではならない。それは国家も同じであり、19年間、つまり、人間の平均余命から割り出した1世代で償還できないような
負債を抱え込むべきではない。
 また負債と同じく、「あらゆる憲法もあらゆる法律も19年目の終わりには自然に無効となる」ので、世代ごとの意見を取り入れて修正すべきである。それは、前世代が現世代に道を譲ったように、将来は次世代に道を譲らなければならないにしても、現世代が今の地上の主人だからである。現世代は、「それ自身の幸福を最も増進させると思われる政体をそれ自身のために選択できる」権利を持っているとジェファソンは断言する。ただし、後年、「生まれながらにして備わっている不可侵の人権」は変えるべきではないとジェファソンは付け加えている。メリル・ピーターソンは、こうしたジェファソンの考え方を、「ジェファソンの政治理念のうちで、もっとも独創的かつ急進的なもの(五十嵐武士訳)」と評している。
 このようなジェファソンの政治理念に対してマディソンは幾つかの問題点を指摘している。憲法や法律を頻繁に変えれば、「有害な派閥」が形成される可能性がある。さらに前世代が行った「手入れ」が次世代にも利益をもたらすのであれば、それにより生じた負債は次世代も負担すべきである。またマディソンは、憲法や法律の改廃をめぐって「最も暴力的な争い」が起き、その結果、社会に害悪をもたらすと指摘している。そのため、何らかの異議がない限り、現行の憲法や法律に「暗黙の承認」が与えられていると判断するべきだとマディソンは結論付けている。
 また政治家として国民の信頼を得るためにジェファソンが最も大事だと考えていた資質は、「公平無私」であった。国民にとって良いかどうかで国の問題に目を向け、自身とその家族のために財を築いたりすることなく、縁故ではなく能力で公職を任命することが政治家に求められるとジェファソンは述べている。

富の社会的分配
 1785年10月、ジェファソンがフォンテーヌブローを一望しようと山中に分け入った時の話である。当時、フォンテーヌブローには王家の狩猟地があり、フランス国王はしばしばそこに滞在していた。ジェファソンは外交官の職務を果たすためにパリからフォンテーヌブローに行かなければならなかった。
 町を後にして歩いていた時、ジェファソンは、同じ方向に同じような速さで歩いている人影に気がついた。それは1人の貧しい女性であった。道すがらその女性からジェファソンは貧しい人々の生活について話を聞いた。女性の話によれば、労賃は1日8スー(フランスの通貨単位)であり、子供が2人いて、家賃に30リーヴル(1リーヴルは20スー)かかる。しばしば仕事が見つからないのでパンなしで過ごすこともある。
 1マイルほど同道した後、別れ際にジェファソンは道案内の謝礼としてその女性に24スーを与えた。すると突然、彼女は泣き出したという。ジェファソンは、彼女が一言も発せず泣いているのを見て、その涙が本物であると思った。またこれまで彼女はたいした援助を受けたこともないのだろうと考えた。
 こうした経験は、ヨーロッパ諸国で見られる富の不平等な分配についてジェファソンに考えさせる結果をもたらした。富の平等な分配は「実行不可能」であるが、それにより多くの人々が悲惨な目にあっていることは確かである。政府が富を直接分配することは難しいが、「人間の心の自然な愛情」に反することなく富が分配されるように気をつけることはできるとジェファソンは述べている。富の分配の不平等を是正するための方策として一定基準以下の所得しかない者に対しては税金をすべて免除し、多くの所得を持つ者に対しては累進課税を適用することをジェファソンは提案している。 

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究