宗教


宗教と哲学
無神論者という非難
 ジェファソンはしばしば無神論者として非難されている。それを裏付ける証拠としてよく引用されるのが、1820年8月15日付のジョン・アダムズ宛の手紙の中の次の一文である。

「実体がない物について話すことは、すなわち無について話すことです。人間の魂、天使、神に実体がないと言うことは、すなわちそれらが無であると言うことであり、魂も天使も神も存在しないと言うことなのです。私は他のようには論じることはできません。しかし、私の物質主義の信条は、ロック、トレイシー、ステュアートに支持されると思います。キリスト教会の時代のいつ頃に、こうした非物質論の異教、隠れた無神論が入り込んだかは分かりません。しかし、異教は確かに存在します。イエスはそれについて何も説いてはいません。イエスは『神は精霊である』と我々に説きましたが、精霊が何であるかは定義していませんし、それが物質ではないとも言っていません」

 このように述べているとはいえ、ジェファソン自身は無神論者であることを認めているわけではない。自然や宇宙の法則の中に神性を認める考え方を持っていた。そうした考え方はおそらくニュートンの影響と思われる。
 またジェファソンは、原罪を懺悔するよりも現世で良い仕事をすることを重視していた。さらに三位一体説に対しても否定的立場をとり、「今、合衆国で生きている若者の中で、ユニタリアン派として死なない者は1人もいないと私は信じる」と述べていることからユニタリアン派であったと考えられることもある。
 ジェファソンは腐敗した教義を認めない一方で、全人類に対する博愛を説くキリスト自身の思想は高く評価している。ジェファソンは自らを「真のキリスト教徒」と呼び、信仰は「我々の神と我々の良心との間」の問題であって「もし僧侶がいなければ不信心者もいない」と述べている。そうした考えがどのような考えに基づいているかは次のような言葉から分かる。

「キリスト教の腐敗に私は心から反感を抱いているが、イエス自身の純粋な教えについてはそうではない。私は、イエスが望む意味でのみ、キリスト教徒だと言える。つまり、何にもましてイエスの教えを誠実に守り、人間のあらゆる優秀さが彼自身に由来するものであることを認め、主は、こうすること以外の何ものをも要求するものではないと信じている」

 こうした見解は、1803年4月21日付のベンジャミン・ラッシュ宛の手紙で述べられている。手紙には「イエスの教義の特徴の評価の要綱」と題する小文が添えられており、ジェファソンの宗教観を示すものとして重要である。なぜなら、「宗教的な信条について公にしたくはない」と述べているように、ジェファソンは自らの宗教観について明らかにする機会はあまりなかったからである。
理神論者
 現在では、ジェファソンは無神論者ではなく、理神論者であったという見解が一般的である。ジェファソンの考えによると、人間は神の啓示や秘蹟によって導かれるのではなく、自らの理性によって導かれるべきであった。甥ピーター・カーに宛てて書いた手紙の中でジェファソンは、「神の存在さえ大胆にも疑ってみなさい。なぜなら、もし神が存在するのであれば、盲目的な恐怖による崇拝よりも、理性による崇拝をお認めになるに違いないからです」と述べている。また「あなた自身の理性こそ神があなたにお与えになった導き手である」とも述べている。
 しかし、ジェファソンは理性を絶対視していたわけではない。人間は五感を備えているように生まれながらにして本性として道徳感覚を持っている。それは肉体と同じく鍛錬によって強化することができる。理性の絶対的優越を唱える啓蒙主義時代において、ジェファソンの人間観の特徴は、理性と心情を明確に分けた点にある。 
 またジェファソンは道徳の基礎を理性ではなく心情に置いている。そして、理性にではなく道徳感覚に普遍性を認め、「人間の精神はすべて他者に対して善をなすこと(清水忠重訳)」にあるとした。そして、道徳には、「神に対する義務」だけではなく、「人間に対する義務」もあると述べている。「イエスの教義の特徴の評価の要綱」の中でジェファソンは、古代の哲学者、ユダヤ教徒、そしてイエスの教義を比較検討している。
 ジェファソンは、古代ギリシア・ローマの哲学者が説く徳目は個人主義的な生き方に基づく考えだととらえ、それよりも全人類に共通する普遍的な「他者への義務」が重要であると述べている。そして、イエスは、ユダヤ教の教義を改め、全人類への博愛を説いた点で優れていたと論じている。
 こうした宗教観を持ちながらもジェファソンは監督派教会に所属し、数多くの典礼に参加している。しかし、それは、教会に所属することが宗教的な意義だけではなく、社会の構成員として求められる要素であったことに留意しなければならない。またパリ滞在時にフリーメイスンリーに参加していたという説もあるが確証はない。フリーメイスンリーに言及した例があるので、ある程度の関心はあったようである。

ジェファソン版『新約聖書』
 キリスト自身の思想を高く評価していたジェファソンは、イエスが遺した教えの断片を丹念に拾い上げれば、最も崇高な道徳の体系が完成するはずだと考えた。そうした考えに基づいて、ジェファソンは新約聖書のラテン語版、ギリシア語版、フランス語版、英語版を比較検討し、イエス自身の思想や生涯にまつわる事項を抜粋し、時間や主題の一定の順序に従って再構成する作業を行った。そうした作業はジェファソンにとって「ガラクタに埋もれている真のイエスの姿を引き出す」ことであった。そして、ジェファソンが解明しようとするイエスの真の意図は、「伝記作家達の無価値な虚飾から容易に判別できる」ものであり、まさに「肥溜めの中のダイヤモンド」であった。
 先述のラッシュ宛の手紙に基づけば、少なくとも1803年頃から作業を行っていたことがわかる。その結果編まれたのが、『ナザレ人のイエスの哲学』である。ジェファソン自身の手による手稿は現存していないが、後にジェファソンが使った資料に基づいて復元されている。また1820年代には、『ナザレのイエスの生涯と道徳的教訓』が編まれている。
 全体の中心になっている部分は山上の垂訓である。マタイによる福音書の417節、ルカによる福音書の247節、ヨハネによる福音書の67節、マルコによる福音書の8節から構成されている。人間イエスが実際に何を語ったのかという点に注目し、イエスの誕生から死まで人生を再構成している。奇跡や啓示を説く部分は採られていない点が特徴的である。ジェファソンは新約聖書を「イエスと呼ばれる1人の登場人物の歴史」であると考えていた。

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究