職業経験(独立戦争以前)


法曹界
法律の修得
 ジェファソンは約2年間大学に通ったが、結局、学位は取得していない。その後、ジェファソンはウィスの下で法律を学んでいる。ジェファソンの他にジェームズ・マディソン、パトリック・ヘンリー、そしてジョン・マーシャルも同じくウィスの下で教えを受けている。
 この頃のジェファソンの日課は、午前8時前に物理化学、倫理学、宗教について学び、朝食後に法律を4時間勉強し、午後に歴史、夕方に文学を読むというものであった。このような日課は、一日の中でもそれぞれの時間帯で精神の働き方が違うので、それに応じて日課を振り分けるべきだという考え方に基づいている。またジェファソンは、弁護士として成功するためには、様々な分野の学問、特に歴史を学ぶべきだと主張している。さらに「精神の機能は、身体の一部と同じく、鍛錬によって強化され改善される」ので、法律の難解な思考を読み解くために数学的な論法や推論を身につけておけば非常に有益であるとジェファソンは後に述べている。
 ジェファソンの法律の修得方法は文字通り「法律を読むこと」であった。しかし、当時、弁護士を志す若者は弁護士の下で修行を積むのが一般的であった。そうした修行についてジェファソンは、「弁護士は法律事務で生徒の勉強の時間を不当に奪おうとする」ので「むしろ助けとなるどころか害をもたらすもの」だと断言している。生徒が最も必要とする助けは、「どんな本を何のために読むのか」という指針であるとジェファソンは勧めている。
ロマンス
法律を学び始めた頃、ジェファソンはレベッカ・バーウェルという女性に思いを寄せていた。レベッカはヴァージニア植民地総督代理の娘であり、大学の同級生の姉妹であった。ジェファソンはレベッカの名前を暗号やイニシャルを使ったり、スペルを逆に綴ったり、それをギリシア文字で書いたりもしている。ダンス・パーティーでレベッカと一緒に踊った時のことを友人に1763年10月7日付の手紙で次のように書き送っている。

「私は彼女にたくさんのことを言うつもりでした。頭の中に浮かんだ考えをできるだけ感動的な言葉で飾り、相当立派な作法で伝えるつもりでした。しかし、困ったことに、いざそれを言う機会が訪れた時、切れ切れの文章が、全くばらばらに、奇妙な長さの息継ぎに中断されながら出てきただけでした。それは私が未熟にも混乱していたことを明らかに示しています」

 この時、ジェファソンはレベッカに法律を勉強するためにイギリスに行くつもりだと語ったらしい。しかし、1764年にレベッカが結婚することが分かった。その時、ジェファソンは、2日間、ひどい頭痛に悩まされたという。後にレベッカの娘は、最高裁長官を務めたジョン・マーシャルと結婚している。
印紙法
 1765年に印紙法に反対する決議がヴァージニア植民地議会で行われた。それを傍聴していたジェファソンは、パトリック・ヘンリーが「[パトリック・]ヘンリー氏が素晴らしい議会弁舌を行うのを聞いた」と述べている。
リヴァンナ川の改修
 1765年10月、ヴァージニア植民地議会は中部を流れるジェームズ川水系の改修を可決した。改修は植民地政府自体によって行われるのではなく、民間に委託されて行われた。3つの請負人のグループが組織され、ジェファソンはその中でリヴァンナ川を担当するグループに属した。リヴァンナ川は、リッチモンドから遡ること約40マイルでジェームズ川に合流する河川である。モンティチェロはリヴァンナ川流域に属する。
 この改修事業はジェファソンが手がけた最初の大掛かりな公的事業である。リヴァンナ川は航行できる部分が限られ、「かろうじて空のカヌーが通れる」くらいであった。事業は1772年頃までには完了し、生産物を積んだ船を通過させることができるようになった。
法曹界に加入
 ジェファソンは、1767年4月5日、ヴァージニアの法曹界に加入を認められた。ジェファソンは法廷弁論を好まなかったが、独立戦争が勃発する頃まで弁護士業を続け、ヴァージニア各郡の法廷を回った。ジェファソンはありとあらゆる種類の訴訟を扱い、多くの顧客を得た。毎年200件近くの訴訟を扱ったと推定されている。1770年に扱った訴訟に関して作成した書類の中で、ジェファソンは、「自然法の下で、すべての人々は生まれながらにして自由である」と後の独立宣言を思わせる文章を既に書いている。
 父から受け継いだ農園からは一年に平均2000ドル程度、弁護士業からは3000ドル程度の収入を得ていた。また1770年、アルブマール郡の治安官に任命された。さらに1773年、郡の測量技師にも任命されている。
エリク・エリクソンは、「彼には、近くのものの詳細と、遠くの地平線の境界とを、両方とも測量したいという強い情熱がありました。ですから、わたしは何ら躊躇することなく、彼のアイデンティティのいま一つの重要な要素として、測量師としての資質をあげたいと思います。この要素は、後にルイジアナの購入や、彼の意を受けてルイスとクラークが行なった探検において、国家的な重要性を帯びることになったのです(五十嵐武士訳)」と指摘している。

ヴァージニア植民地議会議員
イギリスの植民地政策に異を唱える
 1769年5月11日、ジェファソンはヴァージニア植民地議会議員に選出された。その後すぐに、タウンゼンド諸法に抗議して結成されたイギリス製品に対する不買同盟に参加している。タウンゼンド諸法は、イギリス議会が制定した法律に従わなかったニュー・ヨーク植民地議会を解散させる法律、日常必需品に輸入税を課す法律、そして新たに税関委員会を設置する法律からなる。またジェファソンは、1773年、ヴァージニア植民地通信委員会の設立にも携わっている。
 1774年、イギリスは、ボストン茶会事件に対する報復としてボストン封鎖を断行した。それはジェファソンにとって「マサチューセッツの人々に対する同情を喚起する出来事」であった。そのためジェファソンは、ヴァージニア植民地議会にボストン封鎖に対する決議を採択するように提案した。その決議の目的をジェファソンは後に、「内戦の害悪を回避することができるように神に願い、確固たる信念を持って権利を貫くことができるように我々を鼓舞し、そして[イギリス]国王と議会の心を宥和と正義に向けさせる」と語っている。
植民地議会の解散
 決議が採択された結果、ヴァージニア植民地総督は植民地議会を再び解散した。ジェファソンも含む、イギリスの政策に反対する議員達はローレー亭に集い、5月27日、全植民地への抗議運動の拡大を決定した。それは、1つの植民地に対した行われた攻撃であっても、それを全植民地に対する攻撃と見なすことを宣言している。さらに他植民地の通信委員会に、毎年、ある場所で植民地代表者会議を開催することも提案された。
「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」の執筆
 1774年7月末頃、ジェファソンはシャーロッツヴィルで開催されたアルブマール郡の集会に参加した。集会が採択したアルブマール決議はジェファソンによって起草されている。それは、「全く別の議会が、植民地に対して何であれ正当に権限を行使することはできない」ことを謳い、「植民地の自然権と法的権利」がイギリス議会によって侵害されていることをと訴えている。さらに集会は、ジェファソンを首府ウィリアムズバーグで開かれる会議の代表に選んだ。
 しかし、「道中で赤痢に罹り、進むことができなくなったために」、ジェファソンは翌月に開催されたヴァージニア革命協議会に参加できなかった。その代わりに「イギリス領アメリカの諸権利の意見の要約」を議長のペイトン・ランドルフとパトリック・ヘンリーに1冊ずつ送っている。
 ジェファソンはかつて行われたサクソン人のイングランド入植と同じく、自然法に由来する占有権を新大陸の入植者にも認めることを訴え、イギリス議会は北アメリカ植民地に対していかなる権限も持たないと唱えた。そして、ジェファソンは、王とアメリカ人の主従関係は入植によって一旦中断され、アメリカ人の自発的な意思によって再度、主従関係が結ばれたという独自の見解を述べる。
 さらにイギリスは、アメリカ植民地の自由貿易を阻害しようとする試みとアメリカ植民地内の財産に対する課税を止めるべきであるとジェファソンは主張した。また世界中の国々と通商を行う権利はアメリカ植民地人の自然権であり、イギリス議会はその権利を侵害することはできないと論じている。加えて母国からもたらされる恩恵は通商上の利益のみであり、それに対して貿易上の特権を以って報いれば十分であると述べた。そのうえ、イギリス議会が「我々を隷属に貶める周到な組織的計画」を持っていたとジェファソンは糾弾する。そうした「計画」を裏付けるものとして、ジェファソンはイギリスが植民地に対して課した数々の法を列挙して、各々その問題点を指摘した。
 奴隷制の問題については「域内の奴隷制の廃止は、植民地が希求する目標であるが、それはまだ初期の頃に不幸にも導入された。しかし、我々が所有する奴隷を解放する以前に、アフリカからのさらなる持ち込みを除外する必要がある。しかしながら、それを禁止するか、または禁止に相当する義務を課そうとする我々の幾度の試みは、これまでイギリス国王の拒否権によって打ち砕かれてきた。したがって、アメリカ植民地の利益よりも僅かなアフリカの海賊船の直近の利益を優先し、また人間性の権利よりもそれを優先させ、不名誉な行いにより人間性を深く傷付けた」と述べている。こうした考え方は後の独立宣言の草稿にも現れている。
 しかし、「イギリスから分離することは、我々の願望でもなく、我々の利益でもない」と明白に述べているように、「独立」という言葉は使われていない。そして、末尾では、アメリカ植民地の不満を解消することで「イギリス領アメリカの臣民の心を静める」ように請願している。つまり、ジェファソンは、国王の下で平等な自治権を授与された諸邦からなる帝国制度の樹立を示唆している。
 それにも拘らず、「現状では急進的過ぎる」としてジェファソンの提言は採用されなかった。しかし、この提言はパンフレットとして印刷され広く行き渡った。イギリスではエドモンド・バークによって手を加えられたものが流布し、そのためジェファソンの名前は私権剥奪法案に植民地で煽動を行った者として記載された。

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究