大統領選挙戦


1800年の大統領選挙
初めての政党選挙
 1800年の大統領選挙は、武力によらずして政権交代を成し遂げたとして高く評価されている。またアメリカの政党政治が始まった年とみなされる。連邦派は、ジェファソンに対して、フランス革命の過激派と繋がりがあるという批判を行ったり、無神論者であるという非難を浴びせたりした。
議員幹部会で大統領候補を初めて選んだ。
決選投票
 1801年2月11日、憲法第2条第1節第2項の「過半数を得た者が二名以上に及びその得票が同数の場合には、下院は秘密投票により、そのうちの一名を大統領に選任しなければならない」という規定にしたがって連邦下院で決選投票が開始された。各州がそれぞれ1票を投じ、全体の過半数、つまり、16票のうち過半数である9票を占めれば大統領に当選される。各州がどちらに票を投ずるかは、州選出議員の多数決によって決定された。
ジェファソンが、ニュー・ヨーク、ニュー・ジャージー、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ノース・カロライナ、ジョージア、ケンタッキー、テネシーの8州を押さえていたのに対し、バーはニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ、ロード・アイランド、コネティカット、デラウェア、サウス・カロライナの6州を押さえていた。残りの2州、ヴァーモントとメリーランドでは、州選出議員の票数が均衡し、両者ともに票を獲得することができなかった。
 連邦派は上院議長に大統領の職務を代行させようと考えるようになった。ジェファソンはその案に対してアダムズに拒否権を行使するように求めた。しかし、アダムズは事態に介入することを断った。過激な民主共和派の中には、もしジェファソンが大統領の座に就けないのであれば武力蜂起を厭わないと仄めかす者さえいた。連邦解体の危機を未然に防止するためにジェファソンは憲法修正会議の開催を一時、検討していた。
 幸いにも2月17日の36回目の決選投票でようやくジェファソンの大統領当選が確定した。それは、ヴァーモントとメリーランドでそれぞれバーを支持する議員が棄権したために均衡が破れ、両州の票がジェファソンに投じられたためである。このようにして1801年2月の危機は回避された。
ワシントン初の就任式
 ジェファソンはワシントンで就任式を行った最初の大統領である。1801年3月4日の就任式当日は晴天に恵まれた。10時になると、儀仗兵に囲まれたジェファソンはコンラッド夫人の寄宿舎から歩いて国会議事堂に向かった。官職を示すものは特に身に付けず、一般市民の装いであった。
 ジェファソンを迎えた議会場は1000人以上の人々で埋め尽くされ、立錐の余地もないほどであった。その当時、国会議事堂は、北翼が完成しているだけで中央部分は完成していなかった。上院議長席に座っていたアーロン・バーはジェファソンを迎えて席を譲った。それから短い間をおいて、就任演説が始まった。しかし、ジェファソンの声は低く小さかったので、すぐ横に控えていたマーシャルとバー以外に聞き取れた者はほとんどいなかったという。
 就任演説が終わった後、最高裁長官ジョン・マーシャルによって宣誓式が執り行われた。ちなみに前大統領のジョン・アダムズは就任式に出席していない。式がすべて終わると祝砲が鳴り響いた。そして、ジェファソン一行はコンラッド夫人の寄宿舎に戻った。

1804年の大統領選挙
 ジェファソン自身は民主共和派と連邦派という2つの派閥は既に「ほぼ完全に1つに融合している」と感じていた。
1805年3月4日の就任式は、1期目と同じく上院会議場で行われた。今回もマーシャルが宣誓を執り行った。その夜、大統領官邸のイースト・ルームで祝賀会が開かれた。
 就任後、4週間も経たずしてモンティチェロに帰り、約1ヶ月間滞在した。以後、22ヶ月間に3回、あわせて約8ヵ月間、ジェファソンはモンティチェロに滞在している。

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究