引退後の活動


モンティチェロの賢者
3選の辞退
 早くから表明していた通り、ジェファソンは、「自発的に引退する前例を作った」ワシントンにならって3選を辞退した。自らもワシントンの前例にならうことで、「任期を延ばそうと努める者に対する障壁」になることを期待したのである。さらに、そうした前例を確定するために憲法の修正が必要であろうとジェファソンは示唆している。
 政権を退くにあたって、後継者が忠実なマディソンであることからほとんど不安はなかったと考えられる。マディソン、そしてその後に続くモンローは、ジェファソンからすれば「最も真正な共和主義」の体現者であった。特にマディソンは、「人生を通じて支えの柱」となった人物であった。
 ようやく大統領の重責から解放された感想をジェファソンは、「鎖から解き放たれた囚人でさえ、決して私のように権力の枷をふるい落す際のような救いを感じることはないでしょう」と述べている。
 退任後、ジェファソンは愛するモンティチェロに退隠したが、訪問客が絶えず、多い時には50人もの滞在客がいたという。中には勝手に侵入して家具や什器を持ち去る者や、ジェファソンの姿を一目見ようと廊下で張り込む者まで現れたと伝えられている。その頃、独立宣言の署名者の中で、まだ存命していたのは「せいぜい半ダースくらい」であり、ポトマック川以南ではジェファソンだけであった。ジェファソンは既に伝説上の人物になりつつあった。
引退生活
 ジェファソンは、いつも夜明けには起床し、朝食まで読書や手紙を書いた。健康法として毎朝、冷水に足を浸していた。また極度の医者嫌いで骨折した時でさえも医療処置を受けようとしなかったという。
 朝食から夕食まで邸内や農園の見回りをして過ごしたので、毎日3,4時間は馬に乗っていた。時には30マイルか40マイル程度の遠乗りに出かけることもあった。乗馬は「身体、精神、そして諸々のことに健康的」であると述べている。その一方で、ジェファソンは「私はほとんど歩くことがないので、1マイルでさえ私には大変に思えます」とも述べている。
 ジェファソンの夕食の時間は午後3時から4時の間に夕食であった。それから暗くなる
まで隣人や友人と語らったり、遊んだりして過ごす。午後9時に自室に退き、10時から11時の間に就寝するまで本を読んだ。夜には眼鏡をかけ、昼間でも小さな字を読む時はかけることがあった。耳は遠くなったものの歯はほとんど悪くならなかった。
 睡眠時間は「5時間から8時間」であった。引退後は、6年か8年かおきに2、3週間程度悩まされていた頭痛から解放されていた。健康に恵まれていたジェファソンは「76歳にして私は再び勤勉な学徒になりました」と語っている。大統領退任後のジェファソンの様子をある人物は次のように描写している。

「ジェファソン氏が出てきて、我々に加わった。子供たちは彼のところに走って行き、すぐ競争しようと言った。我々は[本館の西側の]柱廊に座りました。ジェファソン氏が子供たちを大きさに従って並べてから始めの合図を出すと、子供たちは走り始めた。この庭[ウェスト・ローン]を一周するコースは四分の一マイルだった。小さな女の子たちは出発点に戻った時にはすっかり疲れていて、息を弾ませながら、祖父の広げた腕に飛び込んだ。彼は子供たちを強く抱き、キスの褒美をあげた(明石紀雄訳)」

衰えない政治的関心
 このように平穏な日々を過ごしながらも、ジェファソンの政治的関心は衰えることはなく、様々な政治的問題について見解を書き留めている。例えば1812年戦争について、ジェファソンは「先の戦争の間、[連邦派が]我が国の敵と裏切りとなるような繋がりを持った時から連邦主義と君主制主義は停滞を迎えた。我が国の連帯を分離させようと企み、ハートフォード会議で彼らは自ら墓穴を掘った」と述べて、「私は、『我々は皆、共和派であり、連邦派である』と今、我々が本当に言えるように、そして『連邦国家と共和主義政府』が、[その下で]我が国が永遠に結集できる規範の標語とならんことを心から願う」と述べている。
 1812年戦争の見通しについてジェファソンは楽観的な見方を持っていたようである。海軍力ではイギリスに適わないものの、陸ではアメリカが圧倒的に優勢であり「アメリカ大陸のすべてのイギリス領をイギリスから奪取できるだろう」と述べている。ニュー・ヨークが焼き討ちにあう可能性を示唆しているものの、後にワシントンが焼き討ちにあうとは予測できなかったようである。
 またマディソン大統領の戦争遂行能力に対する国民の不信感を払拭するために、ジェファソンを国務長官として迎えて閣僚の再編を図るという計画が持ち上がった。ジェファソンが隠遁を理由にそれを断ったので閣僚再編計画は立ち消えになった。
ヴァージニア州憲法修正を望む
 ジェファソンは早くから州憲法修正を望んでいた。もし先例に従って議席の配分が固定されるのであれば、「代議制政体という根本的な性質を失ってしまう」とジェファソンは警告している。1780年代、マディソンも憲法修正会議を開くように州議会に求めていたが、実現に至らなかった。またジェファソンも1776年の草案をもとにして1783年に草案を起草している。
 一方、西部では、人口が増えるにしたがって議席配分の不均衡に対する不満が強まった。その結果、正確な人口比例に基づく議席配分を求める西部諸郡の運動が高まった。そうした背景の下、ジェファソンは1816年7月12日付の手紙で、改正が望ましい点として「1、普通選挙。2、1票の価値の平等。3、人民による行政長の選出。4、判事を選挙で選ぶか、もしくは罷免可能にする。5、判事、陪審員、そして保安官を選挙で選ぶ。6、[行政区画を]区に分割。7、州憲法の定期的な改正」の7点を挙げている。
 こうした諸点をふまえてジェファソンは次のように論じている。できるだけ人民が直接政治に参加できるようにヴァージニアの行政区画を約6マイル四方の「区」に細分する。区をそれぞれ「小さな共和制」とし、教育、警察、司法、民兵組織、道路建設などあらゆる問題を管轄させる。そうすれば身近な地域の問題を人民自身で解決するようになり、「州のあらゆる男性が州政府の活動的な構成員」となる。そのように人民自身が政治に参加することこそ政府権力の濫用に対する最も効果的な防止策であった。区では直接民主制を採用し、郡、州では代議制民主制を採用する。さらに、こうした区の制度を正しく機能させるために、白人男子普通選挙制、正確な人口比例に基づく議席配分、公職の公選制を導入しなければならない。なぜなら「政府が共和的である[と言える]のは、人々の意思を統合し、それを実行することができるように[議員の]配分を決める場合のみ」だからである。
 古代ローマのカトーが「カルタゴ滅ぶべし」という言葉で常に演説を締め括ったという故事にならって、ジェファソンは「郡を区に分けるべし」という言葉をあらゆる機会で用いるつもりだと述べている。「[共和主義は]憲法の中にあるのではなく、ただ人々の精神の中にある」というのがジェファソンの信念であった。しかし、こうした要望や西部諸郡の運動に対してヴァージニア州議会は、憲法修正を行うことなく、ただ議席配分を変更するだけにとどめた。結局、憲法修正はジェファソンが亡くなるまで行われることはなかった。
国政に関する見識
 また1820年、ミズーリ準州が州への昇格を議会に申請したことを契機にして、新たにミズーリ州で奴隷制を認めるか否か、すなわちミズーリ問題が論議の的になった。ジェファソンはミズーリ問題を深刻な問題としてとらえており、「あの暗い独立戦争の時代でさえ、今回の出来事から感じるものに匹敵する憂慮の念を抱いたことはなかった」と述べている。ジェファソンはミズーリ問題を単に奴隷制という観点だけで見ていたわけではなく、連邦議会が憲法に規定された権限を逸脱して、ミズーリ準州に何らかの規制を押し付けるのではないかと危惧していた。
 さらに1823年10月24日、モンロー大統領から外交に関する意見を求められて返答している。植民地の再復を図るスペインに対して、植民地の現状維持を呼び掛ける共同声明を出すようにイギリスがアメリカに求めたことがその背景にある。ジェファソンは「我々の第1にして根本的な原理は、ヨーロッパの争いに決して関わらないということです。我々の第2の原理は、大西洋のこちら側の問題にヨーロッパの干渉を認めないということです。南北アメリカは、ヨーロッパとは別の一連の利害を持っています。それ故、ヨーロッパの体系と分離した独自の体系を持つべきです」と助言した。それは直後のモンロー・ドクトリンに影響を及ぼしている。ジェファソンは1813年12月6日付の手紙の中で「アメリカはアメリカのための半球を持っている。それはヨーロッパの利害に従属しない全く別の利害の体系を持っている」と早くもモンロー・ドクトリンの萌芽となる考えを述べている。
 その後の1825年12月、ジョン・クインシー・アダムズ政権が推し進める国内開発事業に対して違憲を宣告する決議の草稿を書いている。それはヴァージニア州議会に提出される予定であったが、結局、提出されずに終わった。ジェファソンは、「道路建設、運河開削、およびその他の国内開発事業を行う権限」は州の専権事項であると訴えている。ヴァージニア州がそうした権限を連邦政府に委託していないのにも拘らず、連邦政府が国内開発事業を行おうとするのは違憲であり、「州に留保されたすべての権限を剥奪する」行為に他ならなかった。そのためジェファソンは、連邦政府が国内開発事業を行えるように憲法を修正すべきだと述べている。その他にも、大統領任期の制限、大統領候補の選択をより民主的にする修正を図るべきだと論じている。
ラファイエットとの再会
 1824年から25年にかけて、かつての独立革命の英雄であるラファイエットが連邦議会の招きでアメリカを再訪して国民の熱狂的な歓迎を受けた。1824年11月4日、ラファイエットはモンティチェロでジェファソンと実に35年ぶりの再会を果たした。その時の様子をジェファソンの曾孫サラ・ランドルフ次のように記している。

「ジェファソンは高齢のために弱ってよろめき、ラファイエットもオルムッツの地下牢に長い間入れられていたために、久しく身体が不自由になり健康を損なっていた。お互いに近付くにつれて、2人の覚束ない足取りは早くなり、足を引きずりながら走らんばかりになり、『ああ、ジェファソンよ』、『ああ、ラファイエットよ』と叫びながら、2人は互いの腕の内に飛び込み涙にくれた。その情景を目撃した400人の中に乾いた目はなく、時折、抑えたすすり泣きを除いて、何の音も聞こえなかった。2人の老人は館に入り、人々は深い静寂のうちに散っていった」

 ジェファソンに御者として仕えた奴隷イズラエル・ジェファソンは、1873年12月25日のパイク・カウンティ・レパブリカン紙でラファイエットとジェファソンの間で交わされた会話について回想している。それによれば、ラファイエットは、アメリカ人がすべての人間の自由のために戦っていると信じているからこそ独立戦争で協力を惜しまなかったと述べ、奴隷は解放されるべきだとジェファソンに言ったという。しかし、ジェファソンは、ラファイエットの言葉に対して、奴隷が解放される日は来るだろうと答えたが、具体的にその日がいつどのように来るかは話さなかったとイズラエル・ジェファソンは述べている。

ヴァージニア大学創立
創立目的
 ジェファソンは、「教育以上に国家の繁栄と勢力、そして幸福を増進させるものは何もない」と「ヴァージニア大学創設のための委員会報告書」の中で述べているように、教育を国家の礎であると考えていた。さらに、ジェファソンにとって、教育によって啓蒙された人民こそ彼ら自身の自由を守る「唯一の安全な受託者」であった。
 またジェファソンは、南部の子弟が北部の大学で奴隷制拡大反対論者の思想的影響を受けることを危惧していた。そのため南部の子弟を、ハーヴァード大学、カレッジ・オヴ・ニュー・ジャージー(現プリンストン大学)、イェール大学のような北部の大学ではなく、南部の大学で教育することを目指した。さらにそうした大学で南部の考え方を体得した子弟が南部諸州の議席を占めることを望んだ。そのためジェファソンは、大学で使用する政治学の教科書に対して厳しい監査を行っている。しかし、その他の分野に関しては比較的自由であった。
 また進歩を阻害する「国家と教会の連携」を絶つという目的もあった。そうした目的に加えて、従来、州内にあったウィリアム・アンド・メアリ大学が「倦怠と非効率な状態」に長らくあったために、新たに大学を創立しようとジェファソンは考えたのである。
経緯
 ヴァージニア大学創立の構想は、少なくとも1800年頃からジェファソンの脳裏にあったことは確かである。しかし、なかなか実現する機会がなかった。1つの契機になった出来事は、1814年3月にアルブマール・アカデミーの理事に推挙されたことである。ジェファソンは同アカデミーの建て直しに着手した。議会に改革案を提出し、それにともなってアルブマール・アカデミーの名称はセントラル・カレッジに改められた。そして、1817年10月から新カレッジの建設が始まった。
 さらに1817年から1818年にかけて、ヴァージニア州議会でジェファソンが起草した「公教育制度設立に関する法案」が審議されている。ジェファソンの提案が必ずしも受け入れられたわけではないが、1818年2月21日、州議会はヴァージニア大学設立を認可した。
 1818年8月4日、ジェファソンを長とする理事会は、「ヴァージニア大学創設のための委員会報告書」を採択した。報告書では、まずヴァージニア大学の用地決定について述べられている。大学の用地としては、「健康に良い場所、田舎に隣接した沃野、そして全州の白人人口の中心」であることが望ましいとする。そうした条件から、セントラル・カレッジが適当である。さらに大学の建物の配置や建築費用について述べた後で高等教育の目的を列挙する。高等教育の目的はまず、一般社会に繁栄をもたらし、個人の幸福を守るような政治家、議員、判事の養成することである。次に農業、製造業、商業を振興すること、そして「若者の知的能力を向上させ、精神を開き、道徳心を養うこと」である。この報告書を審議した後、州議会は1819年1月25日、ヴァージニア大学に特許を与えた。
開校
 ジェファソンは、大学の中心にある講堂をローマのパンテオンに模して設計している。この建築に多額の費用を要したため、議会はジェファソンの設計に反対している。そのため議会が途中で費用の支弁を差し止めたこともあった。
 ジェファソンは校舎の設計だけではなく、カリキュラム、学則、教授陣の選定に至るまであらゆる面に自ら関わっている。ヴァージニア大学の用地はモンティチェロから僅か4マイルしか離れておらず、ジェファソンはしばしば建築の進行を監督している。
 大学の8人の教授陣のうち、6人をヨーロッパから招聘した。8人の教授陣はそれぞれ、古代言語、近代言語、数学、自然哲学、自然博物史、解剖学・医学、法律学、道徳哲学かならなる。総合大学にも拘らず、神学がない点がヴァージニア大学の大きな特徴であるが、それはヴァージニア大学を「単に無宗教の組織ではなく、すべての宗教に対抗する機関にする」というジェファソンの信念に基づいている。
 そして、1825年3月7日、約30人の学生が7人の教授陣(法律学は空席)の下で初めて入学を許可された。学長はもちろんジェファソンである。この日はジェファソンが長い間待ち望んでいた日であった。学則は、飲酒、喫煙、決闘、さらに召使、馬、犬を学内で所持することを禁じている。しかし、それ以外は大学内に学生の自治を導入しようとジェファソンは考えた。報告書では、「恥をかかせること、体罰、そして不面目な服従を若者に厳しく強いることは、人格を陶冶する最善の過程にはなり得ない。父と子の間における愛情溢れる態度のように、教師と学生の間の関係は真の模範となるようにしなければならない」と述べている。
 こうしたジェファソンの理想は多くのアメリカの諸大学の模倣するところとなっている。しかし、ジェファソンの期待とは裏腹に、ヴァージニア大学では学生の学則違反や騒動などが相次いだ。開校して最初の年は3分の1以上もの学生が退学している。

独立宣言起草者としての誇り
不思議な偶然
 ジェファソンは、数か月にわたりリューマチと下痢に苦しみ、体力をすり減らせていた。7月2日に昏睡状態に陥ったジェファソンは、3日午後7時に一度意識を取り戻し、医師に「今日は4日か」と聞き、そのまま意識を失い、翌4日午後12時50分に亡くなった。同日の約5時間後、ジョン・アダムズも後を追うようにして亡くなっている。奇しくもこの日は、実は独立宣言調印50周年の記念日であった。ジェファソンとアダムズの関係についてはアダムズの項、引退後の活動を参照せよ。
アダムズとの交流
 1777年5月16日の手紙以来、ジェファソンは長期間にわたってアダムズと書簡を交わしていたが、一時期、その政治的立場の違いから交流が途絶えていた。特に、政権末期にアダムズが行った任命、いわゆる真夜中の任命は、ジェファソンからすれば、自身の「最も強烈な政敵」の中から選ばれていたので「個人的に意地の悪い」行為であった。しかし、晩年になってジェファソンとアダムズはまた書簡をやり取りするようになった。両者の話題は非常に多岐にわたっている。
 例えば、1816年8月1日付けの手紙で、ジェファソンは迫り来る死について、「死は誰にもやってきます。我々が退き、他の人々が成長するという時が来ます。与えられた生涯を終えたならば、他人のそれを妨害してはなりません。[中略]私は過去の歴史よりも将来の夢を好みます。それではお休みなさい。私は夢を見続けることでしょう(明石紀雄訳)」とアダムズに向かって述べている。
 さらに1825年12月18日付けの手紙では「私はこれまで多くの人々に比べて健康であることができました。私の精神は、貴殿も私も体験したのですが、大きな悲しみがさまざまな形を取って現れた時を除いて自分を裏切ったことはありません。良き健康と爽やかな精神があれば、人生には悲しみより快楽の方が多くあります(明石紀雄訳)」とアダムズに語っている。
墓碑銘と最後の書簡 
 「アナクレオン[ギリシアの抒情詩人]が『我々は僅かばかりの大地に横たわり、やがて骨はばらばらになる[アナクレオン本人の作ではなく後世の作]』と歌ったことを思えば、死者は記念碑や彼らを偲ばせるものに興味を抱く。次のようにもらえれば我が魂は安らぐだろう」とジェファソンは、墓の作り方のみならず墓碑銘まで生前に自らの手で指定していた。
 墓石については「質素な台胴部、もしくは装飾のない3フィートの立方体の上に高さ6フィートのオベリスクを載せる。それぞれ1つの石からなる」と指定している。「ざらざらした石で墓を作れば、石材として価値がないのでこれから先、誰も壊そうとはしないだろう」というジェファソンの予想を裏切って、墓石は、訪問者に次々と削り取られ、著しく損傷を受けた。
 墓碑銘は簡素で、「トマス・ジェファソンここに眠る。独立宣言とヴァージニア信教自由法の起草者にして、ヴァージニア大学の父」とあるだけである。「第3代大統領」を務めたことにも「ヴァージニア州知事」を務めたことにも言及していない。その理由をジェファソンは、「これらの言葉は、私が生きた証となるからであり、最も記憶に留めて欲しいと望むからである」と書き記している。
 ジェファソンは、1826年6月24日付けの現存する中で最後の書簡で以下のような言葉を遺している。その手紙はワシントンで開催される予定のアメリカ独立50周年を祝う式典への招待を病気の故に断る手紙であった。

「[アメリカ独立宣言が]世界に広まらんことを、私が信じるに、[アメリカ独立宣言は](すぐにある場所から別の場所へ、そして最後にはすべての場所に[広まり])、人類を、彼ら自身を束縛してきた宗教的迷妄の鎖を引きちぎり、そして自治という祝福と保証を得ることができるように目覚めさせる導火線となるでしょう。我々が置き換えた政体は、制約のなしに理性を自由に行使する権利と言論の自由を取り戻しました。あらゆる目が人間の権利に対して開かれているか、もしくは開かれつつあります。遍く広がる科学の光は、人類の大多数は背中に鞍を負って生まれたのではないこと、そして、恵まれた少数の者が長靴を履き拍車を付け、神の恩寵によって、合法的に彼らの背に乗れるわけではないという明白な真実を万人の目さらしてきました」

トマス・ジェファソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究