子供


初婚による3男5女
メアリ・タイラー
 長女メアリ・タイラー(1815.415-1848.6.17)はヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。娘がワルツを練習する姿を見てタイラーは「お前がワルツを踊っている姿を見たくない。私には些か品がないように思える」と言ったという。
 1835年12月14日、農園主のヘンリー・ジョーンズと結婚した。1842年に母が亡くなるまでホワイト・ハウスで暮らし次男を出産している。
ロバート・タイラー
 長男ロバート・タイラー(1816.9.9-1877.12.3)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。極端に内気な息子の将来を案じて父は「気まぐれを止めて他人の感情に自分自身を順応させるようにして人気を得られるように」と助言している。
学業を終えた後、父の大統領就任にともない個人秘書として働いた。1839年9月12日、女優のプリシラ・クーパーと結婚した。タイラー政権の最初の3年間は、病気のタイラー夫人に代わってエリザベスが公式のホワイト・ハウスの女主人を務めた。
 タイラー政権後、ロバートはフィラデルフィアに移って弁護士業に専念した。米墨戦争の勃発にともない、義勇兵を募ったが、戦いが早期に決着したために実際に出征することはなかった。ペンシルヴェニア州の民主党の指導者の1人としてブキャナンを後援した。
 南北戦争の際、南部に反感を持つ暴徒に自宅を襲撃されたので、ロバートは全財産を投げ出してフィラデルフィアから逃げ出さざるを得なくなった。ヴァージニア州に移ったロバートはアメリカ連合国財務省の登記官に任命された。南北戦争終結後はアラバマ州モントゴメリーで弁護士業や新聞の編集、州の民主党の指導者として活躍した。かつてロバートの後援を得たブキャナンは恩人の窮状を聞いて1000ドルの手形を送ったという。しかし、ロバートはその手形を受け取らなかったという話が伝わっている。
ジョン・タイラー・ジュニア
 次男ジョン・タイラー・ジュニア(1819.4.27-1896.1.26)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。1838年10月25日、マーサ・ロシェルと結婚した。
ジョンは法律学を学び、長兄と同じく父の個人秘書として働いた。数々の政治的な小論を発表して父を擁護した。それは反政権的な新聞の怒りを煽ることもあり、決闘を申し込まれたこともあった。決闘の相手であった新聞の編集者が姿を現さなかったのでジョンは一家の名誉を戦わずして守ることができた。
 タイラー政権後は鳴かず飛ばずであったが、南北戦争時はアメリカ連合国の陸軍次官補になった。戦後、ボルティモアで弁護士業を営んだが、晩年は経済的に困窮した。
リティシア・タイラー
 次女リティシア・タイラー(1821.5.11-1907.12.28)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。
 1839年、合衆国海軍で事務長として働くジェームズ・センプルと結婚した。継母との仲は良好ではなく、生涯にわたって確執があった。父の死後、リティシアは家族の肖像画をめぐって継母を相手に訴訟を起こしている。
 1860年にリンカーンが大統領に当選すると、南部を熱狂的に支持する夫ジェームズは合衆国海軍を退役した。南北戦争が勃発するとジェームズはアメリカ連合国海軍の一員として戦った。戦後、南部の敗北を認めようとせず半ば精神錯乱状態の夫を残してリティシアはボルティモアに移住し私立学校を開いた。
エリザベス・タイラー
 3女エリザベス・タイラー(1823.7.11-1850.6.1)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。1842年1月31日、ウィリアム・ウォーラーとホワイト・ハウスで結婚した。病床にあった母リティシアが娘の結婚式に出席したことは周囲を驚かせた。しかし、これが公式の場に姿を見せた最後の機会になった。
 父の再婚後、次姉リティシアとは違ってエリザベスは3才年下の継母と友好的な関係になった。1850年、出産時の合併症で亡くなった。
アン・コンテス・タイラー
 ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた4女アン・コンテス・タイラー (1825.4-1825.7)は夭折した。タイラーは娘の夭折を悲しんで次のような詩を書いた。

「嗚呼、我が愛する子よ、汝は束の間の生を享け、朝靄の如く消えてしまった。死の帳が降りる前に汝の瞳は世界に溢れる光をほとんど映すことなく、夜の闇に包まれた。嗚呼、我が愛する子よ、美しい花のように汝は儚かった。死という冬が花盛りの汝を枯らしてしまい、寒く荒涼とした奥つ城に汝は独り横たわる」

アリス・タイラー
 5女アリス・タイラー(1827.3.23-1854.6.8)はヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。社交界でアリスは多くの求婚者に取り囲まれたがタイラー政権中は結婚しなかった。1850年、監督派の牧師ヘンリー・デニソンと結婚した。その4年後、胆石疝痛で亡くなった。
タズウェル・タイラー
 3男タズウェル・タイラー(1830.12.6-1874.1.8)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。20才の頃、タズウェルはゴールド・ラッシュを聞きつけてカリフォルニアに旅立つ許可を父に求めた。タイラーは息子の願いを聞き入れず、代わりにフィラデルフィア医科大学に進学するように勧めた。1857年12月、タズウェルはナニー・ブリッジスと結婚したが1873年に離婚している。
 医学を修めたタズウェルは、南北戦争時、アメリカ連合国陸軍の医療部隊に所属した。戦争終結後、各地で転々として最終的にサン・フランシスコにたどり着いた。最後はアルコール依存症で亡くなった。

再婚による5男2女
デイヴィッド・ガーディナー・タイラー
 4男デイヴィッド・ガーディナー・タイラー(1846.7.12-1927.9.5)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。南北戦争が勃発した時、ワシントン大学の学生であったデイヴィッドは同校を退学しアメリカ連合軍に加わった。戦争終結後、一旦プロシアに渡って学んだが、程無く帰国してワシントン大学で再度学んだ。1870年、法曹界に加入し、チャールズ・シティ郡の判事になった。デイヴィッドは南部の変化に悉く反対したが、白人の優越性を認める政策は支持しなかった。
 1894年6月6日、メアリ・ジョーンズと結婚した。1891年から1892年にかけて、そして1899年から1904年にかけてヴァージニア州上院議員を務め、1893年から1897年にかけては連邦下院議員も務めた。1904年以降はヴァージニアの巡回裁判所の判事として働いた。1927年、在職のままリッチモンドで亡くなった。デイヴィッドは徹頭徹尾、生粋の南部人であった。
ジョン・アレグザンダー・タイラー
 5男ジョン・アレグザンダー・タイラー(1848.4.7-1883.9.1)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡のシャーウッド・フォレストで生まれた。タイラーはジョンを「想像力を思慮分別で抑制すること」が望ましいと評している。
 父の死の直後、14才のジョンは北部人と戦うために南部に行くことを母に懇願したが許してもらえなかった。そこでワシントン大学を退学して家から飛び出した。ジョンは、ボルティモアでアメリカ連合国陸軍に入隊しようとしたが、年齢が若すぎることを理由に断られ母のもとに帰った。
 ジョンはこれで諦めたわけではなく、今度は母の了解を得てアメリカ連合国海軍に入隊した。しかし、アメリカ連合国大統領ジェファソン・デーヴィスのはからいで母のもとへ帰還を許された。ジョンはワシントン大学に3ヶ月ほど留まったが、再びアメリカ連合陸軍に戻った。そして、アポマトックスでロバート・リー将軍の降伏を目撃した。
 戦後、ジョンは兄デイヴィッドとともにドイツに旅立った。金銭的に余裕がなかったので、生活用品を購入するお金は僅かに週20セントに限られた。貧窮しながらもジョンはドイツ語を速やかに身に付け、数学と科学に才能を見出した。
 1870年に普仏戦争が勃発すると、ジョンはプロシア軍に入隊してフランスに進軍した。新たに成立したドイツ帝国は軍功に報いてジョンに勲章を授与した。その一方で家計を顧みなかったために莫大な借金を負っていた。
 1873年、アメリカに戻り、ソルト・レイク・シティ付近の鉱山で働いたが不景気のためにすぐに失職した。次に鉄道関連の仕事に就いたが、十分な収入を得ることはできなかった。親類のサラ・ガーディナーと結婚して身を固めた直後、また職を失った。ダコタ準州のネイティヴ・アメリカンの土地を測量する事業に携わったが成功を収めることはできなかった。1779年、内務省の測量技師に任命されたが、4年後、ニュー・メキシコ準州の砂漠をさまよった後、汚水を飲み、赤痢に罹って亡くなった。
ジュリア・タイラー
 6女ジュリア・タイラー(1849.12.25-1871.5.8)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。最初、寄宿学校で教育を受けた。その後、修道院付属学校で学んだ。その頃、父タイラーは既に亡くなっていたので一家の家計は苦しかった。
 1869年6月26日、ジュリアは農園主のウィリアム・スペンサーと結婚した。スペンサーは借金に苦しんでいたので結婚後も生活は楽にならなかった。1871年、出産時の合併症が原因でジュリアは亡くなった。
ラクラン・タイラー
 6男ラクラン(1851.12.2-1902.1.26)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。医学を修め、ニュー・ジャージー州ジャージー・シティで開業したがあまり成功しなかった。ジョージア・パウウェルと結婚した。
 ジャージー・シティに見切りをつけたラクランはワシントンに移った後、合衆国海軍の医療部門で職を見つけた。1879年には試験に合格し軍医になった。1887年からウェスト・ヴァージニア州エルクホーンで開業し、今度は成功を収めた。1902年、ニュー・ヨークで亡くなった。
ライアン・ガーディナー・タイラー
 7男ライアン・ガーディナー・タイラー(1853.8-1935.2.12)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。ヴァージニア大学で学んだ後、1877年から1878年にかけて財政難に陥っていたウィリアム・アンド・メアリ大学の教職に就いた。その後、短期間、テネシー州メンフィスの高校でも教鞭をとった。1878年11月14日、アニー・タッカーと結婚した。
 ヴァージニア州に戻ったライアンは、弁護士業に従事する一方で、1883年から1888年にかけてリッチモンド工芸夜間学校を再建した。学校が存続できるようにライアンは州の助成金を取り付けた。また1885年、『タイラー家の書簡集と時代』を出版し、父の業績と南部を擁護した。晩年、アメリカ連合国の元兵士の前で演説した際にリンカーンを「無頼漢の親玉boss slacker」と呼んだことがある。ライアンは南部が北部の政治的奴隷にされたと生涯にわたって固く信じていた。
 ヴァージニア州議会議員に選ばれたライアンは、閉校していたウィリアム・アンド・メアリ大学を、州の資金で再開させることに成功した。この功績に報いて同校の理事会はライアンを学長に選んだ。ライアンの指導の下、ウィリアム・アンド・メアリ大学は順調に再建された。ライアンは1919年まで学長職に留まった。
 1923年9月12日、スーザン・ラフィンと再婚した。そして1935年、生まれ故郷のチャールズ・シティ郡で亡くなった。主著に『合衆国における政党と任命権』(1891)、『共和国の揺籃』(1900)、『アメリカにおけるイギリス』(1904)、『古き植民地の首都ウィリアムズバーグ』(1907)、『アメリカにおける騎士道T』(1913)などがある。
ロバート・フィッツウォルター・タイラー
 8男ロバート・フィッツウォルター・タイラー(1856.3.12-1927.12.30)は、ヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。タイラーの死後、母ジュリアがカトリックに改宗したので15才の時にワシントン近郊のカトリック系の学校に通った。さらにジョージタウン・アカデミーを経てジョージタウン大学に進学した。しかし、経済上の理由で退学を余儀なくされた。その後、ロバートはヴァージニア州ハノーヴァー郡で生涯にわたって農業に勤しんだ。
ファニー・グリンと結婚した。1927年、リッチモンドで亡くなった。
パール・タイラー
 7女パール・タイラー(1860.6.20-1947.6.30)は、ヴァージニア州で生まれた。もともとはマーガレットという名前であったが、洗礼の際にパールと改められた。兄ロバートともにジョージタウン・アカデミーに通った。
 修道院付属学校で学んだ後、ヴァージニア州議会議員であったウィリアム・エリスと結婚した。結婚後、パールはモントゴメリー郡のロアノーク近郊に移った。1947年、ヴァージニア州エリストンで亡くなった。

ジョン・タイラー大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究