1864年の大統領選挙でリンカンとともに副大統領に選ばれたアンドリュー・ジョンソンは大統領職を継承するにあたって困難に直面した。ジョンソンが大統領職を継承したのは1865415日であった。その日の朝、前日にフォード劇場でブースに銃で撃たれたリンカンが亡くなったのである。南北戦争は連邦の永続性を打ち立て、奴隷を解放したが、1865年春の戦闘行為の終焉は南部の再建という大きな問題をもたらした。どのようにして南部連合の諸州は連邦に復帰するのか。解放された奴隷の地位をどうするのか。

 リンカンと共和党議員の大多数は、南部再建の主要な目的は奴隷制度を破壊し、旧南部連合の指導者に政治権力を与えないことにあるということで合意していた。しかし、奴隷制度が染み付いた南部に自由を植え付けるために、どの程度厳しい再建策を取るべきかについては合意が成立していなかった。リンカンは、南部連合の諸州が復帰する際にあまり条件を付けずにできるだけ早く連邦を元に戻したいと考えていた。しかし、チャールズ・サムナー(Charles Sumner)上院議員を中心とした共和党過激派は、旧南部連合の高官を反逆罪で厳しく処罰し、南部の諸州が完全に再建され忠誠が確認されるまで完全な権利を認めるべきではなく、黒人には完全な市民権を与えるべきだと主張した。

 戦争が終結しても民主党内での再建をめぐる衝突は未解決のままであった。1863年にリンカンは合衆国軍に占領されたアーカンソー州、ルイジアナ州、そしてテネシー州を連邦に復帰させる10パーセント計画と呼ばれる寛大な計画を公表した。それは、もしその地域で忠誠を誓約する票が10パーセント得られれば、州政府を樹立し、連邦議員を選出することを認めるという計画であった。議会では脱退した諸州の法的地位について議論されていた。そもそも脱退が違憲であれば、脱退した諸州は反乱が鎮圧された後、猶、連邦の州としての地位を持つのか、それとも脱退が合憲であれば脱退した諸州は被占領国の地位を持つのかという問題である。リンカンはそうした問題を抽象論として斥け、正当な関係を取り戻すことが必要だと主張した。共和党に支配された議会は再建を行政府ではなく立法府の仕事とし、リンカンが提示した条件を寛大過ぎるとして拒否し、南部の3つの州から新たに選ばれた議員に議席を与えることを拒否した。

 議会の南部再建案はウェイド=デーヴィス法案として結実した。同法案は、旧南部連合の高官から公職就任権を剥奪し、忠誠を誓約する票の割合を50パーセントとし、奴隷制度の廃止を連邦への復帰の条件とするというものであった。18647月、リンカンは同法案に対して握りつぶし拒否権を行使し、南部再建は行政府の仕事であると表明した。リンカンは公職就任権の剥奪は過酷であり、各州は自発的に奴隷制度を廃止しなければならないと考えていた。リンカンの表明に対して共和党議員はウェイド=デーヴィス声明書を発表した。ウェイド=デーヴィス声明書は、リンカンの再建案を攻撃し、議会の権威を擁護するものであった。それはホイッグ党のジャクソンへの攻撃を彷彿とさせた。186411月のリンカンの圧勝により共和党過激派は鳴りを潜めたように見えたが、リンカンが暗殺されると再び力を増した。

 当初、共和党過激派はジョンソンを信頼していた。リンカンは1862年にジョンソンをテネシー州の軍政長官に任命した。ジョンソンは1864年に副大統領候補に選ばれるまでその職に留まった。その時、ジョンソンは上院議員で過激派が支配する戦争指導合同委員会の委員であった。同委員会はリンカンが議会の正当な権限を侵害していると度々非難していた。リンカンが亡くなってから僅か数時間後、同委員会の長でありウェイド=デーヴィス法案の共同起草者であるベンジャミン・ウェイド(Benjamin Wade)上院議員はジョンソンを訪問して、「ジョンソン、我々は君を信頼している。幸いにも今、政府を運営するうえで障害はなくなるだろう」と言った[i]

 共和党過激派の信頼は短期間で潰えた。ジョンソンはリンカンの閣僚を留任させ、リンカンの影響を排除すべきだという過激派の助言を無視した。さらにジョンソンは、1865年の春から夏の間に議会に諮ることなく、リンカンの南部再建策を大統領声明によって実行に移した。ジョンソンは制限された連邦政府を信奉し、南部の州政府をできる限り迅速に復活させたいと考えていた。リンカンの10パーセント計画にジョンソンは手を加え、旧南部連合の各州に奴隷制度の廃止を含む憲法修正第13条の批准、旧南部連合の負債の履行の拒否、連邦脱退の法令の破棄を求めた。そうした条件を各州が満たせば、ジョンソンが一時的な戦争権限で連邦への復帰を認めることになっていた。ジョンソンはリンカンの再建政策を支持し、任命がまだなされていなかった州のすべてに民間人の中から暫定知事を任命した。旧南部連合の高官、旧南部連合を支持した有産階級は投票権が与えられなかったが、連邦に忠誠を宣誓すれば大統領によって赦免が与えられた。そうやって赦免を得た者の数は14,000人にのぼった。ジョンソンは反乱の終結を宣言した。ジョンソンは戦後の施策を調整するために議会を招集することもできたが、そうする代わりに再建策への議会の関与を妨げた。共和党議員は激怒したが対応策をとることはできなかった。議会は12月まで招集されず、ジョンソンは特別会期を設けることを拒んだからである。

 ジョンソンの大胆で単独的な行動は、リンカンが南北戦争初期に議会が休会中の間に主要な政策を決定し、既成事実を議会に認めさせた手法に明らかに影響されている[ii]。しかし、ジョンソンはリンカンのような政治的技量を持たず、緊急時という条件を欠いていた。186512月に議会が招集されると、共和党議員は早速、南部再建の主導権を掌握しようと動き出した。議会の再建案の本質は、黒人の平等が州の法令に組み込まれるまで南部諸州の復帰を認めないというものであった。憲法修正第14条と第15条によって黒人の公民権と投票権は保障され、旧南部連合の高官は公民権を剥奪され、南部諸州は旧南部連合が発行した戦債を支払うことを禁止された。南部選出議員は、それぞれの出身州が憲法修正第14条を批准することを条件として議席を与えられる。特に憲法修正第14条は、連邦は州の内政に干渉できないという建前を覆した点で画期的であった。

 ジョンソンと議会の対立は、ジョンソンを大半の共和党員から際立たせる原理によって悪化した。黒人の法の前の平等を確保するために連邦政府の権限を強化しようとしたリンカンと比べて、ジョンソンは州権を擁護する立場から再建法案に挑戦した。確かにジョンソンは連邦の強力な擁護者であった。1860年から1861年にかけて南部の諸州が連邦を脱退していく中でジョンソンは反乱に参加しなかった唯一の南部の上院議員であった。しかし、ジョンソンはその背景といい、信念といいジャクソン主義的な民主党員でもあった。ジョンソンは1864年の大統領選挙でリンカンと出馬するために民主党から離れざるを得なかったが、共和党の中で満足していたわけではなかった[iii]

 ジョンソンの州権を尊重する姿勢は過激派だけではなくすべての共和党員との不和の種となった。議会が再建法案を打ち出し始めた時に、穏健派の議員は大統領の政策と妥協点を探ろうとジョンソンに接近した。しかし、ジョンソンはそうした試みを拒絶した。18662月、ジョンソンは、解放黒人局を存続させるために穏健派のライマン・トランボール(Lyman Trumball)上院議員が提出した法案に拒否権を行使した。18653月に創設された解放黒人局は戦争によって住居を失った解放奴隷に食料、衣服、そして医療を提供し、彼らが自由な地位に移行する手助けをしていた。黒人に対して旧主のもとに戻って給料を得て働くように促し、黒人だけではなく白人の避難民を故郷に帰還させ、使用者と使用人の間の紛争を仲裁する裁判所を設けた。さらに黒人にとって初めての初等教育の学校が創設された。拒否教書の中でジョンソンは、戦時中に南部の黒人の福祉を増進するために設立された解放黒人局を平和時にも維持することは違憲であると主張した。トランボール法案に拒否権を行使することでジョンソンは議会の中で過激派ではなくすべての共和党議員に挑戦する結果となった。

 ジョンソンと共和党の絆は、それから約1ヶ月後に、トランボール法案と同じく共和党議員から圧倒的な支持を受けていた公民権法案に対してジョンソンが拒否権を行使したことによって修復不可能となった。同法案は、黒人を市民とし、契約を履行し、法廷で告発し証人となり、土地やその他の資産を所有し、法の下での平等を享受する権利を認めるものであった。

 もしジョンソンが公民権法案を支持していれば、南部の黒人を保護しようとする北部の強い願いを満足させることができただろう。共和党過激派は、黒人に投票権を認める条件を課さずに南部の諸州に連邦への復帰を許せば、南部で白人による黒人の支配を永続させることになると考えていた。事実、南部諸州は解放黒人局の施策を外部からの解消として排除しようとした。また南部諸州の州政府は白人の暴力にさらされる黒人を保護しようとしなかった。過激派に対して穏健派は、黒人の市民権を完全に実現する政策が採用されるまで黒人に投票権を与えなくてもよいと考えていた。公民権法案に対してジョンソンが拒否権を行使したことによって、共和党と世論は一致してジョンソンに背を向けた。186646日、上院は33票対15票でジョンソンの拒否権を覆し、公民権法案を再可決した。3日後、下院も122票対41票で同法案を再可決した。ジョンソンの拒否権を覆して公民権法案が再可決されたことは憲法の発展における画期的な出来事であった。なぜなら重大な問題をめぐって初めて議会が大統領の拒否権を覆し、再可決に成功したからである。また公民権法案の再可決は政治的にも重要な出来事であった。大統領ではなく議会が今や南部再建の舵取りを担っていることが明らかになったからである。ジョンソンは拒否権を21回行使したが、議会が拒否権を覆すのに成功したのは15回にのぼる。これ程、高い頻度で拒否権を覆された大統領はジョンソンの他にはいない。議会との対立がいかに深刻であったかを示している。

 ジョンソンの議会が主導する再建策への反対は、イデオロギーだけではなく、黒人が劣った人種であるという信念に根差していた。連邦の擁護者として、南部に根付いた貴族的な制度の敵としてジョンソンは奴隷制度の廃止を支持した。186510月、黒人の兵士達の前でジョンソンは、「我が国は平等の原理に基づいている」と語っている[iv]。しかし、ジョンソンはしばしば露骨な白人優越主義を示した。ジョンソンの個人秘書は1868年にジョンソンは、黒人に対して病的な嘆きと感情をしばしば示したと記録している[v]

 しかしながら、イデオロギーと政治は、ジョンソンが南部再建政策を形成するにおいて人種的偏見よりも重要な役割を果たした。ジョンソンは、自身の人種関係に関する見解は当時の白人の大多数と一致していると確信していた。公民権を南部に押し付けることは違憲であるだけでなく、南部人に加えて北部人の大部分を離反させ、ニュー・イングランドの5つの州だけが黒人に投票権を認めるだろうとジョンソンは信じていた。人種的平等の問題を州に委ねることは、黒人と過激派を除くすべての人々を満足させるはずだとジョンソンは考えていた[vi]

 ジョンソンは政治的影響力を獲得しようと罷免権を行使した。政敵を処罰し、友人に報いるために罷免権は行使された。リンカンも罷免権を積極的に行使したが、その対象は主に民主党員であった。それに対してジョンソンが対象にしたのはリンカンによって任命された共和党員であった。自らの政策を議会が受け入れないことを確信したジョンソンは多くの罷免を行った。186512月から18666月までの期間で罷免された郵便局長は僅かに50人であった。しかし、引き続く5ヶ月間で罷免された郵便局長は実に1,700人にのぼった[vii]

 1866年の中間選挙は、ジョンソンと議会のどちらが南部再建を担うべきかという問題に関する国民投票だったと言える。ジョンソンは選挙運動の中で積極的な役割を果たした。ジョンソンは北部を巡る遊説旅行で敵対する議員を罵詈雑言で攻撃し、大統領の再建策を支持する国民連合運動を擁護した。国民連合は、民主党員、保守的な共和党員、そして同調的な南部人の連合であった。ジョンソンは、大統領の南部再建策を支持する国民連合の決議を、議会が管理する再建策からアメリカを解放するものであり、独立宣言と奴隷解放宣言に次ぐものだとして賞賛した。ジョンソンは大統領の官職任命権を駆使して敵対者を処罰し、閣内から国民連合運動を支持ない者を追放し、その代わりに保守的な共和党員を据えた。議会の南部再建策に同調的な閣僚の中で唯一、職に留まることができたのは陸軍長官のエドウィン・スタントン(Edwin Stanton)のみであった。

行政府が中心となる組織を作ろうとしたジョンソンの努力は、共和党過激派が北部で圧倒的な勝利を収めたことで失敗に終わった。大統領声明によって再建されていた南部のすべての州が憲法修正14条の批准を拒否したことや南部の白人の挑発的な態度に嫌悪感を覚えて北部の有権者はジョンソンの追随者を完敗させ、共和党過激派に両院の支配を任せた。特にジョンソンにとって痛手であったのは、修正に批准することを拒むように南部に促したことであった[viii]

1867年、多くのアメリカ人はロシア領アメリカと呼ばれる地域を購入する条約が提案された時、大いに驚いた。アラスカ購入に関する交渉は1854年と1860年にも行われていた。交渉は18673月にスーアード国務長官によって再会された。合意は迅速に達成され、アメリカはロシア領アメリカを720万ドルで購入した。調印して数時間後にジョンソンは条約を上院に送付した。条約の批准は困難に思われた。49日、ジョンソンはアラスカ購入に関する演説を3時間にわたって行った。その後、上院は37票対2票で条約を批准した。しかし、新聞は条約を激しく非難した。新聞はアラスカが広大な氷に覆われた不毛の地だと信じて「ジョンソンの北極熊園」、「スーアードの冷蔵庫」、「スーアードの馬鹿げた事業」などと呼んだ。

 有権者の支持によって勢いを得た共和党急進派は、連邦議会が最終的な決定権を握るために、下院に対して責任を負うイギリスの内閣制度に倣って、大統領の地位を連邦議会に責任を負う単なる閣僚の議長に貶めようと目論んだ。まず議会は1867年にジョンソンから南部再建を管理する権限だけではなく省庁の業務を管理する権限を剥奪する法案を通過させた。軍政再建法によって、南部にはジョンソンが認めていた民間人による州政府の代わりに、大統領の命令から完全に独立した軍司令官が管理する軍管区が設けられた。軍司令官の任務は、人身と財産の保護と成人男子普通選挙の原則に基づく新しい有権者を確定し、次いで新たな州憲法を制定する憲法制定会議の代表を選ぶ普通選挙の監視をすることであった。また軍司令官には、不正や暴力によって当選した公職者を更迭する権限と連邦に忠誠を誓う宣誓を行っていない州議会議員を議会から追放する権限が与えられた。平和時に数百万の市民が軍政下に置かれ、政治的権利を奪われ、その当時は政治過程に関与するには不適任だと思われた黒人に選挙権が与えられた[ix]。さらに議会は陸軍歳出予算法案の付帯条項で、大統領と陸軍長官はグラント将軍を通して命令を伝えなければならないと定め、グラント将軍を上院の同意なしに解任、停職、または更迭することを禁じた。この最高司令官としての大統領の権威への挑戦は、ジョンソンを南部再建計画から締め出そうとしていた共和党議員と共謀するスタントン陸軍長官によって仕組まれた。

 ジョンソンは軍政再建法案に対して拒否権を行使し、同法案は南部に専制を生み出すものであると非難した。さらにジョンソンは陸軍歳出予算法案の付帯条項について最高司令官としての大統領の権威を傷付けるものだと非難した。ジョンソンの抗議を無視した議会は拒否権を覆して法案を再可決した。さらにジョンソンが南部再建計画で主導権を取り戻すのを防ぐために、議会は会期を恒久的に続けるように手配した。この行動は大統領が議会の法案に対して握りつぶし拒否権を行使する権限と特別会期を招集する権限を無効にした[x]

 次に議会は行政府の省庁人事に関する権限を大統領から剥奪した。18673月、議会はジョンソンの拒否権を覆し、1867年公職在任法案を再可決した。同法は、大統領が上院の同意なしに公職者を罷免することを禁じている。また同法は上院の承認によって任命された公職者は、後任が同様の方法で任命されるまでその職に留まると規定している。大統領は公職者を議会の休会中に停職させることができるが、議会が招集されればすぐにその理由を提出しなければならない。もし上院が大統領の決定を認めなければその公職者は在職し続けることができる[xi]。これにより1789年に確定して以来、ほぼ80年間にわたって守られてきた大統領の行政官に対する罷免権が侵害されることになった。議会とジョンソンの戦いは、前例や憲法上の規定が、行政府の権限に対する共和党過激派の攻撃を抑制できないところにまで達した。公職在任法は1887年に廃止されるまで20年間も効力を発揮した。

 1867年の春までにジョンソンは多くの政治的権限を剥奪された。議会が通そうとする法案を阻止しようにもどうすることもできなかった。ジョンソンができることは世論に直接訴えかけることだけであった。ジェファソンと特にジャクソンは大統領と人民の間に緊密な関係を作り上げたが、それは党組織を通じてであった。同様にリンカンは戦争と南部再建策に対する支持を動員するために党組織に依存した。しかし、共和党との絆が絶たれたジョンソンは、共和党に代わる政治勢力を作ろうとする試みにも失敗していて、もはや頼るべき党組織もなかった。ジョンソンができることは、議会の指導者の頭越しに世論に訴え、弱体化した大統領制度を回復させることであった。

 ジョンソンは自分自身を優れた弁舌家だと思っていた。野次を飛ばされたりアルコールを飲んでいたりした場合の議会に対するジョンソンの攻撃は非常に辛辣なものであった。1866222日、公民権法案に対するジョンソンの拒否権を支持するためにホワイト・ハウスに集まった群衆に向けてジョンソンは演説した。その演説の中でジョンソンは議会の中の過激派が政府のすべての権限を握り、連邦の復旧を妨げていると主張した。ジョンソンは過激派の代表達を南部連合の指導者と同じく反逆的であると評した[xii]

 ジョンソンのそうした演説は逆効果となった。ジョンソンの演説の大半は北部巡行の際に行われた。報道はジョンソンの演説を嘲笑し、政治的風刺の格好の的にした。北部の大部分の人々は、ジョンソンの演説を読んで怒りを覚えた。特に議会の中の過激派を反逆的であると評したことは彼らの反感を招いた[xiii]。さらに19世紀の間、ジョンソンの演説の目的、つまり、自らの政策に支持を集めるために世論を喚起することは誤った行為だと考えられていた。民衆を扇動するようなやり方は大統領職の品位を損なうと考えられていたからである。

 ジョンソンの政治的に不適切な演説は、186832日と3日に下院が提出した大統領弾劾の11項目の1つとなった。大統領弾劾の第10条では、大統領が議会を攻撃するために職責を無視し、不節制で扇動的、かつ中傷的な演説を行ったことが非難されている。しかし、不適切な演説を行ったことはジョンソンの弾劾の主要な理由ではなかった。多くの議員達は、そうした演説が弾劾されるべき不法行為なのか疑問に思っていた。しかし、19世紀の慣習として大統領が直接人民に訴えかけることは誤った行為だと考えられていたので、彼らはジョンソンの演説を軽視することもできなかった。さらにジョンソンの演説は議会の意思を無視しようとするものであり、行政府が権力を簒奪する策謀の一部であるので弾劾すべきであるとジョンソンの政敵は主張した。

 18685月に行われたジョンソンのスタントン陸軍長官の罷免は弾劾の過程の中で主要な問題であった。常に政敵と共謀していたスタントンを罷免する際にジョンソンは公職在任法を無視して上院の同意を求めなかった。ジョンソンの意図はその合憲性を問うために同法を裁判所の判定に委ねることであった。1867年、議会の休会中にジョンソンはスタントンを停職させ、グラントを陸軍長官代理に指名した。12月に招集された上院にジョンソンは教書を送付し、スタントンを停職させた理由と1867年公職在任法が違憲である旨を訴えた。ジョンソンによれば、閣僚の意見と大統領の意見が異なる場合、それを解決する手段は免職である。35票対6票で上院はスタントンの罷免に同意を与えることを拒んだ。したがって、スタントンはそのまま陸軍長官に在任し続けることになった。しかし、ジョンソンは、上院の決定に従うことを拒み、公職在任法は行政権を侵害しているので違憲であると主張した。結局、6週間後、ジョンソンはスタントンを罷免した。スタントンの罷免は、1867年公職在任法に反した行為であり、弾劾の主要な理由となった[xiv]。スタントンは、ジョンソンの弾劾の結果が判明するまで、陸軍省に居座り続け、護衛を配置し、書類が差し押さえられないようにした。

1868224日、下院は126票対47票でジョンソンを重大な犯罪と非行によって弾劾することを決定した。そのことは、憲法上の問題は司法府ではなく上院で決定されるべきだということを意味した。ジョンソンの政敵は、ジョンソンが法律に違反しただけではなく、立法府の意思を行政府の権限に服従させようとしたという理由で罷免されるべきだと考えていた。しかし、ジョンソンを弾劾する本当の目的は共和党過激派の上院仮議長のウェイドを大統領に据えることであった。

ジョンソンの弾劾の審判は6週間にわたって行われ、ジョンソンの大統領としての地位を脅かしただけではなく、行政府の独立をも脅かした。上院での審判は、ジョンソンが重大な犯罪と非行に手を染めたかどうか審判する場というよりも、共和党過激派がジョンソンを追放しようと議論する会議の様相を呈した。316日、その他諸々の非難を総括する第11条が表決にかけられた。結果は35票対19票であった。僅か1票差で大統領を罷免するには至らなかった。10日後、同様に他の2項目についてもジョンソンは罷免を免れた。残りの項目は票決にかけられなかった。

ジョンソンが罷免を免れたのは7人の共和党議員のお蔭である。穏健派の共和党議員はジョンソンに協調したわけではなかったが、大統領を罷免することは憲法制定者が意図する抑制と均衡が破られるのではないかと恐れた。彼らはジョンソンの代わりに過激派である上院仮議長のウェイドを大統領に据えるのを好ましく思わなかった。当時の法では、副大統領がいない場合、上院仮議長が大統領継承の最上位に置かれていた。彼らは党と世論の圧力にも負けず、民主党と協力してジョンソンの弾劾に反対票を投じた。もしこうした状況でジョンソンの罷免が確定していれば、最高裁は議会に屈し、共和党過激派は南部だけではなく連邦憲法に対しても完全な勝利を収めただろう。そして、さらに重要なことに大統領制度はその権限と権威に回復できない痛手を被っただろう[xv]



[i] Albert E. Castel, The Presidency of Andrew Johnson (Regents Press of Kansas, 1979), 20.

[ii] Albert E. Castel, The Presidency of Andrew Johnson (Regents Press of Kansas, 1979), 31.

[iii] LaWanda Cox, Lincoln and Black Freedom (University of South Carolina Press, 1981), 38.

[iv] LaWanda Cox, Lincoln and Black Freedom (University of South Carolina Press, 1981), 153.

[v] LaWanda Cox, Lincoln and Black Freedom (University of South Carolina Press, 1981), 153.

[vi] Albert E. Castel, The Presidency of Andrew Johnson (Regents Press of Kansas, 1979),29-30.

[vii] Michael Les Benedict, The Impeachment and Trial of Andrew Johnson (Norton, 1973), 48.

[viii] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 136-137.

[ix] Albert E. Castel, The Presidency of Andrew Johnson (Regents Press of Kansas, 1979),108.

[x] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 138.

[xi] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 318.

[xii] Albert E. Castel, The Presidency of Andrew Johnson (Regents Press of Kansas, 1979), 68-70.

[xiii] Albert E. Castel, The Presidency of Andrew Johnson (Regents Press of Kansas, 1979), 70.

[xiv] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 318.

[xv] David Miller Dewitt, The Impeachment and Trial of Andrew Johnson: Seventeenth President of the United States (The Macmillan Company, 1903), 517-518.


ジョージ・ワシントン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究