当初、公職制度改革論者はニュー・ヨークの堅固派であるアーサーにほとんど期待していなかった。元大統領のヘイズは、アーサーの後援者であるコンクリングが陰から影響力を及ぼすだろうと予測した。しかし、ガーフィールドの暗殺は猟官制度に対する世論に火をつけた。アーサーは、もし公職制度改革を支持しなければ、南北戦争以来、共和党が享受してきた支配的な政治的地位を危険にさらすと悟った。アーサーはホワイト・ハウスがニュー・ヨークの税関のようになってしまうと心配する人々の恐れを和らげるように努めた

[i]

。アーサーは、ガーフィールドが任命したニュー・ヨークの税関の徴税官を罷免し、堅固派に忠実な者を代わりに任命するようにというコンクリングの要求を拒否した。アーサーは前大統領の政策を継続する道義的義務があると主張した

[ii]

。政治的地位を強化するためにアーサーは第1次一般教書で限定的な公職制度改革を支持することを表明した。アーサーの表明は多くの者を驚かせた。

猟官制度の弊害は明らかであった。まず猟官制度は必ずしも大統領の権限を拡大しなかった。なぜなら上院議員は各自の州内の党機関の指導者または代表者として、下院議員選挙区の代表者である下院議員とともに、自州内における連邦官職の分配を支配する受託者となっていたからである。しかし、議員達は猟官者に追い回されて国務に注ぐべき時間を浪費させられた。

さらに猟官制度の弊害として、官吏が能力や適正に関係なく政党への忠誠度に応じて任命されるために、そして、官吏が経験を積んだとしても政権交代で新たな官吏に交代させられるために、行政が極めて非効率な状態に置かれた。さらに信条や政策ではなく、官職の獲得をめぐって露骨な政争が行われるようになった。公職は公共の福祉に奉仕する尊敬されるべき対象ではなく、政争の道具として国民に軽蔑される対象となった。 

1882年の中間選挙で民主党が勝利を収めたためにアーサーは改革を実行することを余儀なくされた。第2次一般教書の中で大統領は議会に1881年に民主党上院議員のジョージ・ペンドルトン(George H. Pendleton)によって提案されたペンドルトン法案を可決するように求めた。しかし、議会はアーサーの要求を無視した。アーサーは改革を要求する世論に訴えかけ、全国公職制度改革連盟のような草の根の組織と連携した。公職制度改革者は、成果競争主義の導入によって、公職は政治的取引の対象ではなくなり、官吏の地位が安定し、行政の効率が改善されると信じた。また大統領や連邦議員は猟官者に悩まされることがなくなり国務に専念することができるようになる。さらに官職を利権として利用してきた政治的ボスの暗躍を防止することができ政界を浄化できる。アーサーの働きかけの結果、ペンドルトン法案の成立は促進された。1883年に議会は同法案を可決し、アーサーの署名によって同法案は成立した。したがって、皮肉にもかつてニュー・ヨークの税関から猟官制度の最たる例として更迭されたアーサーは公職制度改革を実行した大統領となった。

ペンドルトン法は限定的に適用された。同法によって、成績主義に基づく競争試験制度と政治的査定の禁止が定められた。大統領の任命と上院の承認に基づく3人から構成される超党派の公職委員会が設置された。同委員会には2つの重要な権限が与えられた。採用試験を管理する権限と新しい公職に関する規則が施行されているか調査する権限である。さらに大統領には大統領令によって機密の公職を拡大する権限が認められた。当初の適用は限定的であったが、ペンドルトン法は後代に続く公職管理の基礎を打ち立てた[iii]

ペンドルトン法の下で成果競争主義の適用を受けたのは10.5パーセントであり、ワシントンの行政官と主要な税関や郵便局の職員に限られた。その他の約117,000人の連邦職員は対象とされなかったが、公職の政治任命者は大幅に減少した。そうした猟官制度に利用され得る職員の管理は、アーサーの後任者であるクリーヴランドと議会の争いの主要な原因となった。またペンドルトン法は、上院の承認を必要とする公職と肉体労働者を除く公職を成果競争主義の適用対象に含める権限を大統領に与えた。歴代大統領は、成果競争主義の適用範囲を縮小するように求める議会の圧力に直面しながらも、徐々に成果競争主義の適用対象を拡大し、1897年には50パーセント近く、1932年までに80パーセン近くに達した[iv]

ペンドルトン法は画期的な法であったが公職制度改革を推進していた人々を完全に満足させることはできなかった。公職者の報酬と威信は依然として最優秀の人材を引き付ける程には高くなく、多くの規則があるためにしばしば怠慢で無能な人間を免職させることができなかった。しかし、職場の士気と能率が上がったことは事実である。また行政府の肥大に対応するために専門知識を有する公職者を確保する道が開けたことは重要なことである。したがって1883年の公職制度改革の業績は、連邦行政制度の歴史の中で根本的な転換点であったと言える[v]

 アーサーは中国人の移民を禁止する法案に拒否権を行使した。ヘイズ政権で締結されて中国人の移民を制限する条約に反して、議会は中国人の移民を20年間、差し止める法案を可決した。アーサーはその法案に拒否権を行使したが、差し止め期間を10年に短縮した中国人入国拒否法に署名した。中国人入国拒否法は、熟練工、非熟練工を問わず適用され、鉱山における中国人の採用に適用された。また裁判所が既に合衆国内に居住している中国人に市民権を与えることも禁じられた。中国人入国拒否法は1892年と1902年に更新され、1943年に撤廃された。

 1882年、アーサーは関税を引き下げるべきだという提言がなされた後に、関税委員会を設立した。保護主義論者も自由貿易論者も議会にロビー活動のために押しかけた。その結果、議会は全般的に関税を1.5パーセント以下引き下げることを決定した。いわゆる雑駁関税法である。アーサーは法案に署名したが、誰も満足させることはできなかった。それは党派による関税をめぐる争いの幕開けであった。共和党は保護主義を提唱し、民主党は自由貿易を提唱した。

1884年の大統領選挙でアーサーは大統領候補指名の獲得を目指した。しかし、公職制度改革を実行したことで堅固派の支持を失った一方で改革派もアーサーを未だに信用していなかった。そのためアーサーは共和党の大統領候補指名を獲得することができなかった。



[i] John A. Garraty, The New Commonwealth: 1877-1890 (Harper and Row, 1968), 276.

[ii] Kenneth D. Ackerman, Dark Horse: The Surprising Election and Politicqal Murder of President James A. Garfield (Carroll and Graf, 2003), 435.

[iii] Leonard White, The Republican era; A study in administrative history, 1869-1901 (Macmillan, 1958), 393.

[iv] デイヴィッド・ルイス、『大統領任命の政治学―政治任用の実態と行政への影響』(稲継裕昭監訳、ミネルヴァ書房、2009)24

[v] Leonard White, The Republican era; A study in administrative history, 1869-1901 (Macmillan, 1958), 346.


チェスター・アーサー大統領
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