1856年の大統領選挙は新しい政治連合の出現を明らかにした。1852年以後のホイッグ党の崩壊と北部の奴隷制度に反対する勢力は新たな政党を結成した。最初の共和党の公式な会合は185476日にミシガン州ジャクソンで行われた。会合で共和党という名称が選ばれた。共和党という名称は平等とジェファソンの民主共和党を想起させる名称であった。共和党は綱領を採択し、ミシガン州の公職の候補者を指名した。1856年の大統領選挙で奴隷制度の拡大に対抗するために共和党はジョン・フリーモント(John C. Fremont)を大統領候補に指名した。共和党は選挙で善戦したが南部でほとんど支持が得られず、北部でも十分に組織化することができなかった。

共和党は、民主党とホイッグ党の二大政党制度の中で第三政党と見なされていたが、共和党がホイッグ党を追い抜くのに長い時間はかからなかった。カンザス=ネブラスカ法の制定に積極的な役割を果たし、カンザスの流血を止められなかったピアースは民主党の大統領候補指名を獲得することができなかった。ピアースの代わりに民主党の大統領候補指名を獲得したブキャナンは、メリーランド州を除くすべての奴隷州だけではなく、インディアナ州、ニュー・ジャージー州、カリフォルニア州、イリノイ州、そして出身州のペンシルヴェニア州で勝利を収め、さらに南部の112人の選挙人をすべて獲得して大統領に選出された。

 奴隷制度に関する緊張を和らげようとしたブキャナンは、ピアースが議会による解決を求めて戦ったことでこうむった政治的弊害を避けようと考えた。就任演説の中でブキャナンは準州における奴隷制度問題の解決は最高裁によって行われるべきだと表明した。係争中のドレッド・スコット事件に言及し、ドレッド・スコット(Dred Scott)は最高裁の判決に従うべきだと主張した。奴隷制度問題を司法の問題にすることで過熱する奴隷制度廃止論者の政治的動きを抑えようとしたのである。

 ドレッド・スコット事件は奴隷のスコットの解放をめぐる裁判である。ヴァージニア州で奴隷として生まれたミズーリ州のスコットは奴隷主に付き従って、長い間、自由州であるイリノイ州や連邦議会によって奴隷制度が禁じられているウィスコンシン準州などで過ごし、正式に結婚もした。奴隷の結婚は合法的には認められていなかったので、正式に結婚が認められた時点でスコットはもはや奴隷ではなく自由であったと解釈できる。その後、スコットは再び奴隷主に従ってミズーリ州に戻った。奴隷主の死亡によって、ドレッドは奴隷制度が禁じられた土地の住民であったという理由でミズーリ州裁判所に自由を請求した。

以前にミズーリ州最高裁は、自由州に居住した奴隷は自由を獲得できるという判決を下したことがあった。しかし、奴隷主の未亡人がスコットは依然として奴隷であり自分の財産であると訴えた。陪審団はドレッドの主張を認めたが、州最高裁は陪審団の決定を破棄し、一度、自由を獲得すればその後も自由が認められるという原則を覆した。州最高裁は、スコットを解放することで、州政府を倒壊させようとする奴隷制度廃止論者の精神を満足させることになると論じた。

裁判が進んでいる間にスコットの所有者は変わっていた。スコットは新しい主人を暴行殴打と不法監禁の罪で連邦裁判所に訴えた。スコットが連邦裁判所に告訴した根拠は、原告と被告が異なる州に属する場合は州裁判所ではなく連邦裁判所に管轄権があるという異州民間訴訟管轄権であった。連邦裁判所は、スコットが黒人であるからそもそも合衆国市民ではなく、裁判所に訴える権利を持たないので訴訟が成立しないという見解を示した。さらに連邦裁判所は、奴隷制度の問題は連邦の問題ではなく、ミズーリ州最高裁の州法の解釈に従うべきだとして、スコットの訴えを斥けた。スコットは連邦最高裁に控訴した。

ブキャナンは、すべての善良な市民は最高裁の決定が何であれ従う義務があると主張した。そうした義務によって、政治的な意見の違いが克服されるとブキャナンは述べた[i]。ブキャナンの主張は、裁判所が判決を通じて政策を裁定する権利を否定していたジャクソン主義者の一員として奇妙なものであった[ii]。しかし、ブキャナンの最高裁への敬意は不誠実なものであった。ブキャナンは影響力のあるジェームズ・グリアー(James Grier)最高裁判事に働きかけて、連邦議会や準州議会が奴隷制度を禁じる権限を否定する同僚判事に味方するように促した[iii]

  最高裁との内密の同盟によって奴隷制度をめぐる論争を鎮めようとしたブキャナンの試みは失敗に終わった。185736日、ドレッド・スコット事件の判決でロジャー・トーニー最高裁長官は、スコットの自由の要求を3つの根拠で却下した。スコットは黒人である以上、特定の州の市民となることはできるが、合衆国の市民権はなく、したがって異州民間訴訟管轄権に基づいて連邦裁判所に提訴する権利を持たない。スコットはミズーリ州の住民である以上、イリノイ州の法はその身分について何の効力も持たない。北緯3630分以北に居住したという理由で自由を請求することはできない。なぜなら連邦議会には正当な法の手続きを経ずに市民の財産権を侵害する権限はなく、準州から奴隷制度を排除することはできないとし、ミズーリ妥協を違憲とした。ダグラスの提唱した住民主権も同時に認められないことになった。なぜなら連邦議会が準州から奴隷制度を排除することができないのであれば、その連邦議会によって組織される準州政府が、たとえ住民投票の結果に従ったとしても奴隷制度を禁じることは認められないと解釈されるからである。それは西部全体を奴隷制度に向けて開くのに等しかった。こうした奴隷制度問題における裁定は最高裁の威信を傷付けただけではなく、南北の争いを激化させた。その結果、民主党は分裂し、1860年の大統領選挙で共和党大統領候補となったリンカンを躍進させることになった。

ドレッド・スコット事件の最高裁の判決によって、奴隷制度は憲法に根差しており、たとえ新しく設けられた準州においても除去されないというブキャナンの信念は強められた。カンザスは、カンザスを自由州にしようとする奴隷制度廃止論者とカンザスを奴隷州にしようとする奴隷制度擁護派の戦場になっていた。1855年、奴隷制度廃止論者は奴隷制度を禁止するトピーカ憲法を制定した。1857年、奴隷制度擁護派はトピーカ憲法に対抗してレコンプトン憲法を制定した。

個人的には奴隷制度にブキャナンは反対していたが、憲法上、奴隷制度を支持しなければならないと考えた。ブキャナンはレコンプトン憲法を承認し、カンザスが奴隷州として連邦に加入するのを認め、もし住民が希望すれば新しい憲法を制定することを許すように議会に求めた。議会はそれを拒否した。1858年に住民投票が行われ、レコンプトン憲法は否認された。最終的にカンザスが1861年に州として連邦に加わる時までに奴隷制度廃止論者が圧倒的多数となり、結局、カンザスは自由州となった。

 18578月、オハイオ生命保険会社の破綻が契機となって恐慌が起きた。国中で取り付け騒ぎが起き、景気後退は南北戦争まで続いた。恐慌の原因は、鉄道の過剰拡張、貧弱な州法によって設立された州法銀行の急速な拡大、クリミア戦争の終結によって外国政府がアメリカからの食料品の輸入を削減したこと、カリフォルニアのゴールド・ラッシュによる金価格の下落などである。北部と西部は深刻な打撃を受けたが、南部はヨーロッパの堅調な綿花需要のお蔭で打撃は小さかった。ブキャンは、恐慌の犠牲者を救うのに何の対策もとらなかった。

 ブキャナンはメキシコの動乱に乗じて南部の奴隷地域をさらに拡大しようと試みた。ブキャナンは議会にメキシコ北部のソノラ州とチワワ州に軍事拠点を設ける権限を大統領に与えるように求めた。ブキャナンはメキシコのフアレス政権を承認し、ローワー・カリフォルニア、チワワ、ソノラを購入する提案を行った。メキシコは購入提案を拒否したが、メキシコ領内を横切ってメキシコ湾から太平洋岸に至る永代通行権を与える条約を締結した。ブキャナンは条約を上院に提出したが、上院は批准を拒否した。

 1860年、リンカンが大統領に当選した数週間後、サウス・カロライナ州は連邦の名の下にサウス・カロライナ州と他の州を結び付ける絆が消滅したことを宣言した。サウス・カロライナ州にとって西部への奴隷制度の拡大を認めようとしないリンカンの当選は死活問題であった。南北は西部をめぐって歴史的に争ってきた。南部は西部に奴隷州を拡大することで奴隷制度の拡大と連邦政府における発言力の拡大を目指した。その一方で、北部は急激に発展した産業の市場として西部を見なしていた。しかし、西部出身のリンカンが大統領に当選したことは、従来、農業地帯として南部に同情的であった西部が北部に組したことを意味していた。こうして南部は連邦内に留まって北部の圧力に抵抗するか、それとも連邦から脱退して新たな独立国家を形成するか決断を迫られた。

 中でもサウス・カロライナ州は農場主と奴隷商人によって支配された州であった。収奪的な奴隷農業は土地を荒廃させるので新たな肥沃な土地を必要とする。奴隷商人も奴隷市場として西部を必要とした。そのため奴隷制度の拡大が阻止されることは奴隷制度の存続自体が危機にさらされることを意味した。リンカンが当選後、サウス・カロライナ州出身の連邦官吏は次々に辞職した。さらに18601217日、サウス・カロライナ州で特別会議が招集され、3日後、全会一致で連邦からの脱退を決議した。サウス・カロライナ州は、独立宣言、各州による憲法批准などを論拠として、合衆国憲法が主権を持つ諸州の間の契約に過ぎず、北部諸州がその契約に違反する行動をとっているので、南部は契約を履行する義務から解放され、主権国家として連邦から脱退する権利を持つと主張した。

ブキャナンはさらなる脱退を防ごうとした。ブキャナンはリンカンとともに憲法修正会議の開催を呼びかけようとした。リンカンがブキャナンの申し出を拒否した時、ブキャナンの南部人の閣僚は辞任し、さらに南部の6つの州が脱退した。186128日、脱退した州は南部連合を結成した。南部連合は憲法で州権優先と奴隷制度擁護を主張した。南部連合議会は、補助金を与えたり、保護関税法を制定したり、国内開発事業の支出を承認したりすることを禁じられた。南部連合の最高裁を設けず、南部連合の判事は各州の議会によって弾劾される。また南部連合議会は、奴隷制度を否定するようないかなる法も制定できない。また南部連合の大統領は6年の任期を認められるが再選は認められない。こうした主張は従来の南部諸州の主張に沿うものであった。

ブキャナンは連邦の資産を守るために南部の港に軍を送るように勧められた。ブキャナンはそうした措置が暴力を引き起こすと考え、助言に従うことを拒んだ。しかし、結局、南北戦争の勃発が避けられなかったことは歴史が証明している。



[i] Keith E. Whittington, Political Foundations of Judicial Supremacy: The Presidency, the Supreme Court, and Constitional Leadership in U. S. History (Priceton University Press, 2007), 68-69.

[ii] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 107.

[iii] Elbert B. Smith, The Presidency of James Buchanan (University Press of Kansas, 1975), 23-29.


ジェームズ・ブキャナン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究