1976年の大統領選挙でカーターはフォードを破って当選した。カーターは現代的大統領制度が示す約束と落胆の両方を体現した。カーターの大統領選挙での勝利は著しい個人的勝利であり、カーターの大統領としての人気の源であった。しかし、カーターは政治的に凋落し、大統領を退任する時の評判はこれ以上落ちることがない程、落ち込んでいた。

 ジョージア州知事としてジョージア州以外では大統領に立候補するまでカーターはほとんど知られていなかった。しかし、カーターは党の指導者の助けをほとんど得ることなく民主党の大統領候補指名を獲得した。カーターの選挙運動は、大統領候補指名の過程に関する新しい規則の下で、いかにたやすく政治的外部者が、23の小さな州での初期の勝利を膨らませて全国党大会の大多数の票を得ることによって大統領候補指名を獲得できるかを示した。それはメディア選挙や予備選挙方式という条件を抜きにして語ることはできない。これまで全国的に無名であったカーターは新旧勢力に分裂しつつある民主党の両側を受容することができる曖昧さを持っていた。ウォーターゲート事件後、連邦政府に対する人民の不信感が非常に高まった時代においてカーターの無名性とワシントン政界における部外者としての立場は選挙戦で大きな利点となった。

 カーターが大統領に就任した頃、アメリカは停滞と混乱の中にあった。ウォーターゲート後の政治的不信、アメリカが多大な努力を傾けて守ろうとした南ヴェトナムの崩壊、実質経済成長率のマイナス、悪化するインフレ、財政赤字の増大、人種関係の緊迫化、凶悪犯罪率の増加など問題が山積していた。こうした状況を踏まえてカーターが大統領として最初に行ったことは、就任演説でアメリカの限界を告知することであった。アメリカは国内外で直面するあらゆる困難を解決するのに十分な力も資源も有しているわけではないという認識をカーターは示した。

「私自身と国民を代表して、私の前任者が我が国の傷を癒すために行ったすべてのことに対して感謝の意を表する。この儀式は外的な形を取ったものであるが、我々はここで今1度、我が国民の内なる精神力を立証しているのである。私の高等学校時代の教師であったジュリア・コールマン先生がよく言っていたように『我々は変化する時代に適用し、しかも猶、不変の原則を厳守しなければならない』。私の前には、1789年に我が初代大統領の就任式で用いられた聖書が置かれている。そして私は今、母が数年前に贈ってくれた聖書に手を置いて就任の宣誓をしたところであるが、ここに開かれた聖書の箇所には古代の預言者ミカの永久不変の戒めが記されている。『人よ、彼はさきに良いことの何であるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公儀を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか』。この就任式は新しい始まり、我が国の政府における新しい献身、我々すべての新しい精神をはっきり示している。大統領はその新しい精神を感知し、宣言することはできる。だが、これを備えることができるのは国民だけなのである。2世紀前の我が国の誕生は、自由への長い探求の歩みにおける里程標であった。しかし、この国の創設者達を奮い立たせたこの力強い素晴らしい夢はまだ完全に実現されてはいない。私は今日、提示すべき新しい夢を持っていないが、敢えてこの古くからの夢に新鮮な信念を持とうと訴えたい。我々の社会は、精神性と人間の自由の両面から、自己の立場を公然と定めた最初のものであった。この独自の自己規定こそが我が国に類例を見ない魅力を与えたのであるが、それは同時に特別の責任を我々に課すことになったのである。その責務とは、道徳的な責務も引き受けることであり、これを引き受ければ常に我々自身にとって最上の利益となるように思われる。国民諸君は私に重大な責任を与えた。これは国民と密接な結びつきを保ち、国民にとって相応しいものとなり、そしてあるがままの諸君を代表するという責任である。ともに団結と信頼に基づく新しい国民的精神を作り出そうではないか。諸君の強さは、私の弱さを補い、諸君の知恵は私の誤りを最小限にすることができるのである。我々が正義に立ってともに最後の勝利を収めることを確信して、ともに学び、ともに笑い、ともに働き、そしてともに祈ろう。アメリカの夢は永続する。我々は、もう1度我々の国に、またお互いの間に全面的な信頼を寄せなければならない。アメリカはより良くなり得ると信じる。我々は以前にも増して強くなることもできるのである。我々が犯した最近の過ちを省みて、我が国の基本的な原則に再び立ち返ろう。もし自分の国の政府を軽蔑するのであれば、我々に将来はないからである。我が国には短期間ではあったが、素晴らしい団結を示した特別の時期が幾つかあったことを思い起こす。このような時期には達成できない目標などはなかった。しかし過去の栄光の思い出に浸っていることはできない。成り行きに任せておくことはもはやできない。我々はいかなる人であれ失敗やありきたり、あるいは劣悪な生活条件しかないような状態のまま放置しておいてはならないのである。我々の政府は有能であると同時に思いやりがなければならない。我々は既に高度な個人的自由を達成し、今、機会の均等を促進すべく戦っている。人権を尊重するという我々の約束は絶対的でなければならず、我々の法は公正に保たれ、自然美が保存されなければならない。強者が弱者を迫害することがあってはならず、人間の尊厳は強化されなければならない。我々は『より多い』ことは必ずしも『より良い』とは限らないことを、または偉大な国でさえはっきりした限界があることを知った。問いのすべてに答えることも問題のすべてを解決することも我々にはできないことを学んだのである。我々はすべてのことを成し遂げるわけにはいかないが、未来に立ち向かう大胆さを欠くこともできないのである。それ故、共通の善のために個人が犠牲を払う精神で、ともにただ最善を尽くさなければならないのである。我が国は国内で強力である時、初めて海外でも強力になることができる。そして他の国々で自由を促進する最善の道は、我が民主主義の制度は称賛に値することを国内で立証することにあるのである。我々自身に忠実であるためには、他者に対しても忠実でなければならない。我が国の中で守られる規則や規準を破るような行動を外国においてしてはならない。我が国が得る信用は、我が国が強くなるために不可欠であるからである。世界自体が今や新たな精神に支配されている。より多くの国の人々が政治的に目覚めつつあるが、これらの人々は日の当たる場所を切望し、今やそれを要求し始めている。彼らにとって、この要求は単に自分達の物的条件の改善のためだけではなく、基本的人権のためなのである。自由への情熱は高揚している。この新しい精神を汲み取る時、真に人間性に満ちた公正かつ平和な世界形成を支援する任務程、この新しい始まりの日にアメリカが取り組むべき高貴で野心に溢れた事業はない。我々は強力な国家であり、その強さを維持していくであろう。それは、戦場で証明する必要のない程、十分な力であり、単に武器庫の規模だけではなく、理念の高貴さに基づく静かな力なのである。我が国は常に警戒を怠ることもないし、決して攻撃されやすくなることはない。また我々は、貧困、無知そして不正義と戦う。なぜならこれらこそ我々が誇りを持って力を結集すべき敵だからである。我々は誇りにたる理想を持った国ではあるが、何人にもこの理想主義を弱さと混同させてはならない。我々は自分が自由であるからこそ、いかなる場所においても自由の意味に無関心であるわけにはいかないのである。我々の道徳観は、個人の人権をいつも尊重する点で立場を同じくするような社会を明確に支持するように命じている。我々には他者を脅かす意図はないが、他者が勝手に支配できるような世界は公平を欠くだけではなく、すべての人の福利にとって脅威であることを明らかに知らなければならない。世界は潜在的な敵対国同士が力の均衡を引き続き確保しようとして大規模な軍備競争を続けている。我々は世界の軍備を各国の国内の安全にとって必要な範囲に制限する努力に忍耐と叡智を以ってあたることを誓う。そして我々はこの地上から核兵器を全廃するという究極の目的に向かって一歩前進するであろう。他のすべての人々が我々と力を合わせるように強く求める。この成功によって死の代わりに生をもたらすことができるからである。我々アメリカ国民が真剣に、かつ目標を持って自信を取り戻しつつあるのを明らかに認めることができる。そして私は諸君の大統領としての任期が終わった時、我が国について国民が次のように言うことを諸君とともに希望したい。我々はミカの言葉を思い起こし、謙虚さと慈愛と正義の探求を新たにした。我々は人、地域、宗教を異にする人々を分け隔てていた障壁を取り壊し、不信のあったところに多様性を尊重しながら統一をもたらした。我々は仕事をなし得る人のために生産的な仕事を見出した。我々はこの社会の基礎を成すアメリカの家庭を強固にした。我々は法の尊重を確実なものとし、法の下で弱者と強者、富める者と貧しき者がともに平等に扱われることを保障した。そして我々は今1度、国民が自らの政府を誇り得るようにしたということを。我々は戦争の武器ではなく、我が国自身の最も貴重な価値を反映する外交政策に基づいて永続的平和を確立したと世界各国が言うようになることを私は希望する。これらは単なる私の目標ではない。また私の業績となるものでもない。これらは我が国民が持ち続けている道徳的力と衰えることなく広がり続けるアメリカの夢に対する我々の信念を確認するものとなるであろう」[i]

カーターは人民との個人的関係を強調するために、カーターはフォードよりさらに進んで大統領制度から帝王的な装飾を剥ぎ取った。大統領が入場する時に「大統領万歳」を演奏することが一時的に禁止された。カーターはしばしば自分の荷物を自分で運んだ。就任式のパレードではカーターとその家族はリムジンを降りて連邦議会議事堂からホワイト・ハウスまで歩いた。またカーターは一般市民の質問に答えるラジオの視聴者参加番組に出演した最初の大統領となった[ii]

 カーターの格式張らない姿勢は選挙運動の間、多くの有権者に歓迎されたが、大統領としては有害なものであった。報道は大統領の控えめな姿勢を才能があまりないせいだと見なした。カーターは炉辺演説のテレビ版を試みようとしたが、それは内容で記憶されたのではなく、カーターがカーディガン姿でテレビに現れたことに対する否定的な意見で記憶された。カーターは大統領の権威にはある種の尊厳が必要であるということを理解していなかった。

 アイゼンハワーやその他の大統領と違って、カーターは大統領の権威を保つためにある種の儀礼が必要であることも理解していなかった。カーターは最終的にその必要性を認識したが、時既に遅しであった。カーターは回顧録に「最初、私は過剰に反応し過ぎた。我々は、私が装飾や儀礼を削り過ぎていると多くの批判を受けたため、23ヶ月後、私は『大統領万歳』を特別な機会のみに楽隊が演奏することを認めた」と記している[iii]。 

 しかし、カーターの問題は形態や象徴以上のものであった。カーターが大統領に就任して1年が過ぎる前に、カーターと議会の関係は悪化した。ニクソンとフォードも同様な問題を抱え、野党が支配する議会と対立していた。しかし、カーター政権は、ホワイト・ハウスと議会の間の緊張は単に政党の違いによるものではないことを明らかにした。大統領と議会はそれぞれ独立した事業主であり、それぞれ独自に有権者を抱えていた。結果として、立法府と行政府は党の政治綱領を遂行するうえでお互いを提携者として見なすことがほとんどなくなった。カーターは個人的な繋がりを有権者と結ぶことで大統領に立候補した。選挙に勝利した後、カーターは議会の機嫌をとる必要はないと考えた。人民に訴えかけると脅せば議会指導者は震え上がるとカーターは思っていた。また連邦議会も大統領権限の濫用を警戒し、帝王的大統領制度の復活を防止することに心を砕いていた[iv]

 議会との関係におけるカーターの失敗は選挙運動を担った人々から構成されるホワイト・ハウスの職員の経験不足も1つの原因である。ジョージア州からやって来たカーターに忠実な人々のワシントン政界の流儀に不慣れな姿勢は、彼らの議会に対する横柄な態度に比べれば問題ではなかった。彼らは連邦議会を特殊利益に牛耳られた議員の巣窟と見なし、議会で確立された慣習や伝統に対して無思慮な挑戦を繰り返した。下院議長は議会連絡局長が連邦議会について無知であったと指摘している[v]

 またカーターのホワイト・ハウスの管理手法には問題があった。カーターは自らホワイト・ハウスのテニス・コートの管理を行っているという噂が広まった。それはホワイト・ハウスの管理の混乱を示していた。カーターは、階層的な制度の代わりに職員に同等の権利と権威を有する制度を採用した。そうした制度が採用されたのは、ニクソンのウォーターゲート事件と閉ざされたホワイト・ハウスの関連性を指摘する声が多かったからである。開かれたホワイト・ハウスを目指して同等な制度は採用された。ウォーターゲート事件は、大統領に近付ける人が限られる階層的な制度では、大統領は偏った助言のみに頼るようになり、その結果、悪い決断を下す恐れがあることを示した。ローズヴェルトが導入した競争的な制度と同じく、同等な制度でも職員は自らの考えを大統領に選んでもらおうと競争する。しかし、競争的な制度では大統領がどの問題を優先すべきか予め決定しているのに対して、職員は自分が抱えている問題が最も重要だとそれぞれ考えている。競争的な制度と階層的な制度と違って、どの人物が重要か、またはどの問題が重要かを決定する公式な組織的基準はない。そのため大統領は孤立はしないが、有効な助言を得ることができない。どの問題を大統領に伝えるか明確に決定できなかったため、カーターは種々雑多なことを自ら処理しなければならなかった[vi]

 しかし、カーターは大規模な行政制度改革を行おうとした。カーター政権の行政制度改革を担った組織は大統領再編事業部であり、行政管理予算局に新しい事業部として統合された。大統領再編事業部は、エネルギー、天然資源、経済発展、国家安全保障、国際問題などの政策領域に研究班を配置した。その構成員はすべてで300人に達し、政府外部や他の機関からの出向者で大半が占められた。同時にカーター政権は予算制度改革と人事制度改革を目指した。このような大規模な改革を計画する組織が形成されることは今までになかった。

 行政管理予算局がゼロ・ベース方式と呼ばれる予算方式を行政機関に採用するように指示したことでカーターの予算制度改革は達成された。ゼロ・ベース方式とは、行政機関に完全に最初から毎年の予算の目的を定め、支出の計画を練るように求める方式である。カーター政権の人事制度改革は、大統領に官僚制度で政策に関連するより柔軟な役割を与えることを目指した。人事制度改革は人事管理事業部によって行われた。人事管理事業部は上級管理職制度を提言し、官僚の報酬を増額するとともに政治任命者により柔軟性を持たせた。そうした提案は1979年に法制化された。さらにカーターは公職委員会を廃止し、1978年再編計画第2番で人事管理局と成果競争制度保護委員会を設立した。

 大統領再編事業部は行政府の構造的再編に焦点をあてた。ハイネマン特別調査委員会とアッシュ審議会の提言に沿って、大統領再編事業部は、天然資源、開発支援、食品栄養、貿易技術を統括する4つの超省庁を提案した。大統領再編事業部が目標を達成しようとしている一方でカーター政権はエネルギー省と教育省の創設を議会に認めさせることに成功した。1979年の一般教書でカーターは、主要な省庁再編の提案を行ったが、天然資源省の創設しか法制化を求めなかった。議会は天然資源省の創設を拒否した。これまでのどの大統領よりも行政制度改革に人的資源を投下したカーターであったが、完全に成功したとは言い難い。予算制度改革でカーターは、タフト委員会が始めた予算請求の合理化に対する探求を継続した。公職制度改革でカーターは、ブラウンロー委員会で最初に提案された目標を達成した。しかし、行政府を再編しようとする提案は、ハイネマン特別調査委員会やアッシュ審議会と同様に議会に受け入れられることはなかった。

議会予算及び執行留保統制法は、議会と大統領の不調和を制度化した。カーターはニクソンやフォードと比べてあまり保守的ではなかったが、インフレ圧力の強まりに対応して歳出の削減を試みた。しかし、リベラルな民主党が支配する議会は財政抑制を求めるカーターの要請に耳をほとんど貸そうとしなかった。

1978年、カーターはパナマ運河の恒久的中立と運営に関する条約とパナマ運河条約を締結した。パナマ運河返還は反米感情が根強い中南米諸国との関係改善に不可欠であった。19641月、パナマの国旗を掲揚しようとパナマ運河地帯に侵入した学生が殺傷された。ジョンソン政権とニクソン政権はパナマ運河の管理権をパナマに与える提案を行ったが、仮協定はパナマ政府によって拒絶された。19733月、国連安全保障理事会はパナマ運河問題を公正に解決しパナマに主権を与えるように求める決議を採択したが、アメリカは拒否権を行使した。

1973年、キッシンジャーが主要な窓口となってパナマとの交渉が始まり、19779月に合意に至った。条約は19991231日までの運河の運営と防衛を規定し、運河の恒久的中立を保障した。この条約はアメリカの安全保障を脅かすものだとして保守派の攻撃を受けた。特に大統領選挙に出馬を表明していたレーガンは、パナマ運河返還によってアメリカは古代ローマ帝国同様、衰退の道をたどると非難して、上院に条約を批准しないように求めた。カーター政権は、条約が公正なアメリカの外交関係を代表するものだと主張する広報活動を展開した。上院は、もし運河が閉鎖された場合、アメリカの干渉を認める修正と1999年以後、アメリカ軍をパナマに駐屯させる修正を加えて条約を批准した。

 カーターは自らの誤りから学び、就任してから1年後、議会との関係を良好に保とうとした。第95議会における大統領の業績は著しいものである。1978年、議会はパナマ運河条約の批准に加えて、航空業界の規制撤廃、公職制度改革、そして天然ガスの価格設定などを法制化した。また議会は議員が政治的配慮で与えるいくつかの政府事業を予算から削除した。また1978年公職制度改革法が制定された。同法によって約7,000人からなる上級行政職が設けられ、その中で10パーセント、特定の機関では25パーセントが非官僚によって占められることが定められた。非効率な行政官を更迭することで政府をより効率的にすることができるとカーターは考えた。

 カーターは、将来の石油に代わるエネルギー転換に関心を向け、外国に石油供給を依存することに警鐘を鳴らした最初の大統領である。カーター政権の国内政策の中でエネルギー政策以上に注目を集めた国内政策はない。カーターは回顧録に「私の任期中、議会と私はエネルギー立法に取り組んだ。私の失敗にも拘わらず、我々の他の目標が国家的なエネルギー政策と同じく重要であると私が考えなかった瞬間はなかった」と記している[vii]。ホワイト・ハウスのエネルギー政策に対する献身にも拘わらず、カーターの提案は成功を収めたとは言い難かった。197811月、カーターはエネルギー法案に署名した。しかし、その法案は、主に石油産業を対象とした規制と税制を通じてエネルギー効率を上げ、石油需要を減らすというカーターの提案を大幅に修正するものであった。カーターは2つの点で失敗した。アメリカ国民にカーターの提案の必要性を理解させることができなかった点と議会と協力してカーターの提案に沿うような法案を作ることができなかった点である[viii]

 さらに19793月のスリー・マイル島の原発事故はアメリカの核エネルギー政策の見通しに暗雲を投げかけた。2号炉の冷却装置の不調は、人為的、技術的、そして設計上の過誤によるものであった。大統領の任命によって事故を調査する委員会が設立された。委員会は厳格な安全基準ができるまで原子力発電所の操業を停止するように勧告した。原子力規制委員会はその勧告に同意した。

 立法者の長としてのカーターの地位が改善されたのは、ホワイト・ハウス公共連絡局の活用によるところが大きい。公共連絡局は1970年に特定の集団の支持を取り付けるために働く多くの補佐官を収容する組織としてニクソンによって創設された。カーターは公共連絡局の活動を拡大して組織化した。1981年にカーターが大統領職を去るまでには、特別職員が、アフリカ系アメリカ人、労働者、そして事業家など伝統的な有権者だけではなく、消費者、女性、高齢者、ユダヤ人、ヒスパニック系アメリカ人、カトリック教徒、ヴェトナム退役軍人、そして同性愛者などの多様な集団に割り当てられた。公共連絡局は大統領制度に重要な貢献を果たし、演説の才能に欠ける大統領に人民との絆を形成する手段を提供した。

 またカーターは女性や少数派を連邦裁判所判事に積極的に任命した最初の大統領になった。最初に女性を連邦裁判所判事に任命したのはフランクリン・ローズヴェルトである。しかし、その後に任命された女性の判事の数は非常に限られていた。カーターは40人の女性を連邦裁判所判事に任命した。さらに57人の少数派を連邦裁判所判事に任命した。

 カーターの国内政策に関する数少ない成功の中の1つがクライスラー社の救済である。クライスラー社の倒産の危機に直面してリー・アイアコッカ(Lee Lacocca)最高経営責任者は、議会に10億ドルにのぼる債務保証を求めた。カーターはウィリアム・ミラー(G. William Miller)財務長官に緊急援助案を作成するように命じた。多くの民主党員とは違って、カーターは運輸産業の規制緩和で示されるように、企業に対する政府の介入と規制の強化に積極的ではなかったが、クライスラー社の危機によってカーターに残された選択肢は他になかった。クライスラー社を倒産させることはできなかった。クライスラー社が倒産すれば、既に悪化していた失業率がさらに悪化する恐れがあった。停滞する経済の中でのクライスラー社の倒産による反響と自動車販売業者からの圧力は大きな政治的影響をもたらすと思われた。

19801月、カーターはクライスラー社債務保証法に署名した。同法によってクライスラー債務保証委員会が設立され、債務の管理と支払いを監督する責任を負った。同法の規定によって、連邦政府は直接クライスラーに貸付を行うことはできなかったが、民間からの15億ドルの貸付を保証した。1983年までにクライスラーは債務を完済することができた。

さらにカーターは外交面で個人的な勝利を獲得した。1979326日、エジプト大統領アンワル・サダト(Anwar Sadat)とイスラエル首相メナヘム・ベギン(Menachem Begin)の間でキャンプ・デーヴィッド合意が締結された。1973年の第4次中東戦争が停戦に至った後も、中東和平は達成されなかった。イスラエル占領地問題もパレスティナ問題も未解決のままであった。サダトは197711月にイスラエルを訪問し、イスラエルとの平和共存を目指す意思を表明した。そして、19782月、サダトはカーターにイスラエルとの直接交渉の仲介を要請した。またベギンもこれまでの強硬姿勢を軟化させていた。

こうした情勢の変化を好機と考えたカーターは両者をキャンプ・デーヴィッドに招いた。両者の13日にわたる交渉で示された合意を達成するというカーターの揺ぎない決意と詳細にわたる鋭敏な感覚はイスラエルとアラブ国家の初めての和解に必要不可欠であった。カーターとサダトはイスラエルに国連安全保障理事会の決議に基づいて、シナイ半島からの完全撤退を求めた。それに対してベギンはシナイ半島の入植地を存続させようとした。カーターは平和と占領地を同時に獲得することはできないとベギンを説得し、サダトに対してもイスラエルの生存権を保障するように求めた。

最終的に両者の間で合意が成立し、カーターはエジプトとイスラエルに巨額の援助を約束した。両者の間で成立した合意は、1967年の即時停戦の遵守を前提とし、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に関して、エジプト、イスラエル、ヨルダン、パレスティナの交渉によってパレスティナの自治を確定し、自治開始後、5年以内に同地区の最終的地位を決定すること、そして、イスラエルとエジプトの間で武力衝突を避け、平和条約の締結に向けて両国が誠意ある交渉を行うことである。こうした業績にも拘わらず、カーターは任期の初期の混乱から完全に回復することはなかった。政権初期の失敗が任期の残りにおける議会との関係や人民との関係を彩った。

1979年、カーター政権は中国と正式に外交関係を結び、台湾からアメリカ軍を撤退させた。ニクソンの訪中により、米中関係は劇的に好転したが、その後、米中双方の国内外の混乱により外交関係の正常化は遅れた。またパナマ運河返還問題に取り組むために中国承認はさらに遅れた。台湾との公的関係を維持するという方針を中国に認めさせれば、パナマ運河返還問題に関して共和党保守派の支持を受けることができるとカーターは考えていた。しかし、中国は、台湾との公的関係を維持しつつ、外交関係の正常化を求めるアメリカの提案を拒否した。

パナマ運河返還問題が解決した後、ようやく米中の外交関係正常化は進展し始めた。アメリカ国内でソ連との緊張緩和を批判する声が高まる一方で、中ソ関係は悪化していた。カーターはズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew K. Brzezi?ski)国家安全保障担当大統領補佐官を北京に派遣して、米中関係の正常化を協議させた。ブレジンスキーは米中関係を好転させることでソ連を牽制できると考えていた。中国もアメリカと接近することでソ連を牽制しようと考えていた。ブレジンスキーは中国に、台湾との相互防衛条約を破棄し、北京政府を承認すること、台湾への武器売却を一時停止した後、再開する権利を留保すること、台湾とアメリカの経済的、文化的交流は民間で行うことを提案した。中国は武器売却再開を除いて概ねアメリカの提案を受け入れた。 

ブレジンスキーの訪中後、米中間の交渉は秘密裡に継続され、19781215日、米中共同声明が発表された。共同声明では、197911日を以って外交関係が正常化され、両国はお互いの首都に大使館を開設すること、台湾との相互防衛条約を破棄する前に12ヶ月の猶予を設け、米中の外交関係の正常化が台湾人民を危機にさらさないこと、台湾は中国の一部であり北京政府が唯一の合法的な政府であること、北京政府は武力で台湾を統一しようと試みないこと、アメリカは文化的、通商的、その他の非公式の関係を台湾と維持すること、アメリカは台湾に武器販売を続けること、台湾の利益が適切に保護されることが示された。台湾との貿易や文化的交流は続けたものの、アメリカは北京政府を中国の正統な政府と認めた。また国交正常化の後、鄧小平がアメリカを訪問し、アメリカを初めて訪れた中国共産党の指導者となった。鄧小平はカーターと会談を行い、科学、文化、そして貿易に関する協定を締結した。

アメリカの承認を失った台湾政府の不安を取り除くためにカーター政権は台湾関係法案を準備したが、議会はその内容に納得せず、独自に台湾関係法を制定した。同法により、アメリカは1979年以前の協定を維持し、他の諸外国と同等に台湾を扱うことを規定した。さらにアメリカが引き続き台湾に武器を売却し、台湾の安全保障に責任を負うことが定められた。

 米中関係正常化においてカーターが台湾に多くの保障を与えたのにも拘わらず、バリー・ゴールドウォーター(Barry Goldwater)上院議員を中心とする親台湾派はカーターの政策を強く批判した。19781222日、ゴールドウォーターと他の14人の議員は台湾との相互防衛条約の破棄を阻止しようと連邦地方裁判所に告訴した。カーターは中国との外交関係を築くために議会の承認なしで一方的に条約を破棄した。ゴールドウォーターは、そもそも相互防衛条約は上院の批准により成立したのであるから、条約を破棄するために大統領は上院の助言と同意を必要とすると主張して破棄の撤回を求めた。

19791017日、ゴールドウォーター対カーター事件で連邦地方裁判所は、大統領は相互防衛条約を破棄できないという判決を下した。しかし、1130日、連邦控訴裁判所は地方裁判所の判決を覆し、大統領の行動を支持した。そして、1213日、最高裁は、この事件は政治的な問題であるとし、裁判所によって判断することはできないとしてゴールドウォーターの訴えを棄却した。憲法は条約の締結に関しては明言しているが破棄については明言していない。この事件は裁判所が高度に政治的な問題に対して判断を下さすことを控えるという好例である。

 カーターは人権をアメリカ外交の基盤に据えた最初の大統領である。議会は1970年代初頭からニクソンとキッシンジャーが展開した秘密外交や没道義外交に反発し、1974年には対外援助法に人権条項を挿入し、1976年には人権・人道問題調査官職を国務省に新設した。カーターもニクソン政権が推進した外交方針を強く批判し、道義と人権を外交において重視することを公約に掲げた。カーターは就任演説で、アメリカの過去の過ちと力の限界を認めたうえで、人権に対する我々の取り組みは絶対的なものでなければならず、強国は弱国を抑圧してはならず、人間の尊厳は拡大されるべきであり、海外において自由を拡大していくためにアメリカ自体の民主主義体制が見習う価値があることを示さなければならないと説いた。さらに1977522日にノートルダム大学で行った演説では、アメリカの外交政策の基本方針は、知性と道義心を欠いたニクソン政権の外交政策から脱却し、人道的目的のために民主主義的で基本的価値に基づく外交政策を追求することにあると述べた。カーターが重視したのは、国家の信頼性を取り戻し、またアメリカが基本理念としてきた自由、平等、人権の3つを再び重要な価値として問い直すことであった。アメリカが自信を喪失していることを真摯に認め、その3つの中でも人権は絶対に守られなければならないとして外交を展開した。

人権外交は、単に勢力均衡や軍事力に依存するのではなく、人権の尊重という普遍的な価値で外交を行なわなければならないという原則を基本に置いている。カーターの人権外交の矛先はまずソ連に向けられた。19772月、カーターは軟禁状態に置かれたソ連の反体制派の科学者アンドレイ・サハロフ(Andrei Dmitrievich Sakharov)に個人的に手紙を送り、ソ連における反体制派の拘留について国連人権委員会に調査を求めるつもりだと伝えた。こうしたカーターの姿勢は、内政干渉にあたるとソ連政府を憤慨させ、反体制派はさらに弾圧され、米ソ関係は悪化した。

またそれだけではなくカーターは、韓国、フィリピン、中南米諸国に対しても人権侵害に関して意見を表明した。こうした人権外交をもとにカーターは、アメリカが求める人権保障を受け入れないアルゼンチン、ウルグアイ、エチオピアに対する援助を差し止めた。ブラジルなどはアメリカの干渉に抗議して、自ら援助を拒否した。韓国に対しても人権抑圧を指摘し、在韓米軍削減という強硬な手段に訴えた。その一方で、米中国交樹立と鄧小平の訪米が実現し米中関係が劇的に改善していたため、カーターは中国の人権問題に関する介入を行わなかった。カーターの人権外交は一貫性がなく、国内外からその矛盾が非難され、諸外国との外交関係が悪化しただけではなく、アメリカ自体の人権問題が糾弾される結果を招いた。

ニクソン政権で推進され、フォード政権のヘルシンキ宣言の受け入れによって確定したアメリカとソ連の緊張緩和はカーター政権の終わりまでに消滅した。しかし、19796月、カーターとブレジネフは第2次戦略兵器制限条約を締結した。条約によりソ連とアメリカの核兵器の数に制限が課された。同条約はアメリカにとって不利であるとして上院の保守派議員は反発した。さらにソ連が親ソ政権をイスラム原理主義の反政府勢力から保護しようとアフガニスタンに侵攻したため、条約が批准される見込みは薄くなった。結局、戦略兵器制限条約は上院で表決されなかった。

ソ連のアフガニスタン侵攻に対してカーターは激怒し、ソ連に対する世界的な抗議を巻き起こした。1980123日、カーターは一般教書で、ソ連が過激で侵略的な一歩を踏み出し、その強大な軍事力を比較的無防備な国に行使しており、第2次世界大戦以来、最も重大な脅威を及ぼそうとしていると非難し、ソ連がイランとアフガニスタンの混乱に乗じて長年の待望であった不凍港を獲得しないように警告した。外国によるペルシア湾地域を支配しようとするあらゆる試みをアメリカの重大な利害への攻撃と見なし、軍事力を含むあらゆる手段を行使して攻撃を撃退するとカーターは主張した。この主張はカーター・ドクトリンと呼ばれる。カーター・ドクトリンはニクソン政権以来の米ソ緊張緩和の終焉と新冷戦の開始を告げるものであった。

「現在、アフガニスタンでソ連軍に脅かされる領域は、かなり戦略的に重要である。それは世界の輸出向きの石油の3分の2以上を含んでいる。 アフガニスタンを支配するためのソ連の試みは、インド洋の300マイル以内と海峡の近くでホルムズ、世界の石油の大部分が通過する水路に対してソ連の軍事力をもたらした。 現在、ソ連が戦略的立場を強化しようと試みているために、中東の石油の自由な運送への深刻な脅威を引き起こしている。この状況は今年だけではなく、来たる何年も考慮、落ち着いた精神、および断固たる処置を必要とする。 ペルシア湾と東南アジアの安全保障へのこの新しい脅威に対応するための結集した力を必要とする。 中東からの石油に依存する世界平和と安定性に関するすべての者の参加を必要とする。 そして、脅かされるかもしれない領域の国家と相談と厳密な協力を必要とする。この挑戦に対処することは、国家としての意思、外交的、政治的叡智、経済犠牲、及び、もちろん軍事能力を必要とする。 我々は、この重要な領域の安全保障を保持するように最善を尽くさなければならない。我々の立場を絶対に明確にしよう。ペルシア湾地域の支配を獲得しようとするどのような外部の力による試みも、アメリカ合衆国の重大な利益に対する攻撃と見なされ、そして、そのような攻撃は軍事力を含むどのように必要な手段によって撃退される」[ix]

ソ連に対する制裁措置としてカーター政権は先端技術機材と穀物をソ連に売ることを禁じ、ソ連漁船に対するアメリカ沿岸での操業許可証の発効を差し止めた。1958年以来、継続してきた米ソ文化交流協定を更新しないことを決定した。英領ディエゴ・ガルシア島の基地拡充、オマーン、ケニア、ソマリアとの軍事施設利用取り決めの締結、緊急展開部隊の創設など中東地域で軍隊を展開する事態に備えた。さらに中央情報局を通じてアフガニスタンの反ソ連勢力に援助を行った。アメリカの働きかけでアフガニスタンからすべての外国軍隊を撤退させることを求める国連総会決議が出された。さらにカーターはモスクワ・オリンピックにアメリカの選手団を送らないように命じた。その他、63ヶ国もアメリカの例に倣った。それに対してソ連は1984年に開催されたロス・アンジェルス・オリンピックに選手団を送ることを差し止めた。

 カーターの問題の多くは、大統領制度に部外者の立場から働きかけようとするカーターの姿勢が人民に直接訴えかけて主導するようなリーダーシップを必要としていたことにあった。しかし、人民を喚起することはカーターにあまり向いていなかった。確かに1976年の大統領選挙でカーターは有効な選挙運動を展開していた。ワシントン政界の不正への幻滅が広がる中、有権者に道義心があり信頼に足る指導者像を印象付けることに成功した。しかし、演説能力に決して恵まれていなかったために、アメリカを特定の方向に導く統一した未来像をカーターは作り出すことができなかった。エネルギー、福祉、教育、都市問題などに関する一連の立法提案が最初の数ヶ月でなされたが、カーターは、国民がそうした措置を理解できるようにする統一した主題を提示することができなかった。

 カーターの初期の国内政策の混乱は、政策に対する決断力の欠如を示していた。そうした姿勢は任期全体に影響を及ぼした。政治的にカーターは民主党を中道に向けて動かしたいと思っていた。そうすることでニュー・ディールと偉大なる社会で示されたようなリベラリズムが有権者の支持を失っている時代で民主党は効果的に競合していけるとカーターは考えていた。カーターは、政府の無駄を省き、官僚制度を効率化し、そして予算を均衡するつもりだとしばしば率直に語った。しかしながら、カーターの民主党に対する姿勢はたいてい超然としていて、時には協調的であったが、決して決断力に富むものではなかった。

 公共政策の分野で、ホワイト・ハウスの職員は、伝統的な民主党の手法を厳しく見直し、できるだけ離れた立場をとるというカーターの要望をできるだけ実現しようと努めた。しかし、カーターの閣僚人事は、ワシントン政界のリベラル派によって多くが占められた。さらにカーターは多くのリベラル派を規制機関に配置した。彼らは社会的、経済的規制に対する強い献身を政府の政策に転換した。カーターの人事は、カーターが党内の最も発言力のある一派のために便宜を図ることで優柔不断な指導者であるという印象を多くの人々に与えた。

 カーターの立法提案の一部は法制化されたとはいえ、国民はカーターが信頼に足るとはほとんど思わなかった。さらにカーターは第2次石油危機やアメリカ大使館人質事件などを克服できず厳しい非難を受けた。1979年、カーターはエネルギー危機を「道義的に戦争に値し得るもの」と呼び、世論を喚起して、自らの立法計画を議会に認めさせようとした。カーターはテレビ演説を通じて国民に10年間で1,400億ドルに及ぶ新しいエネルギー計画を提示した。その計画は、大規模な代替エネルギー開発、石油税、天然ガス税の増税、自動車のエネルギー効率規制の強化などを含む。同時にカーターはこれまでの自らの政策の過ちを認めて、現在のアメリカの危機が「信頼性の危機」に他ならず、それによって社会や政治の根本的構造が危殆に瀕していることを強調し、その克服のためにすべてのアメリカ人の協力と援助を求めた。こうしたカーターの演説は石油価格規制の解除から生じる過剰利得税やエネルギー安全保障法の成立などに効果を発揮したが、世論を喚起しようとするカーターの試みは必ずしも成功したとは言えなかった[x]。カーターの国家の問題を個人化する傾向は、1979114日から1981120日まで444日間も続いたアメリカ大使館人質事件の間、特に有害であった。アメリカ大使館人質事件は反米の過激派によって引き起こされた。過激派は1979114日、イランのアメリカ大使館を襲撃し、66人の大使館員を人質にし、パフレヴィーをイランに送還するように求めた。

カーター政権はパフレヴィーを全面的に支持していた。19789月、デモやストライキの激化に対してパフレヴィーが戒厳令を発するとカーターは武器供与を行ってパフレヴィーを支援した。しかし、革命勢力に追われてパフレヴィーは国外に亡命を余儀なくされ、イランにイスラム共和国が樹立された。カーターはパフレヴィーを亡命者として受け入れた。

いかに才能に恵まれた大統領であれ、アメリカ大使館人質事件のような問題を扱う際に困難に直面しただろう。しかし、自らのリーダーシップをとる形式によって、カーターは逆境の矢面に立たされた。問題を解決するためにカーター政権はあらゆる手段に訴えた。197911月、カーターはイランからの石油輸入を差し止め、学生以外のイラン人を強制退去させ、イランの在米資産を凍結した。12月、国連安全保障理事会は人質の即時解放を求め、カーターは合衆国内のイランの外交官をすべて追放した。19804月、カーターはさらに厳しい経済制裁を課し、報道関係者を除くすべてのアメリカ人のイラン渡航を禁じた。解決の見通しが立たないことに苛立ったカーターは424日、イランと国交を断絶し、鷹の爪作戦と呼ばれる救出作戦を実行した。砂嵐によるヘリコプターの不調で指揮官は襲撃を断念した。撤退中にヘリコプターと航空機が衝突し、8人が犠牲となった。さらなる襲撃を恐れた過激派は、人質を分散させた。19807月、パフラヴィーが死去し、事件解決の見込みが立ったように思えた。しかし、イラン側はパフラヴィーの資産の返還、イランに対するアメリカのすべての要求の撤回、資産凍結の解除、内政不干渉の確約を求めた。アメリカ大使館人質問題が解決不可能になるにつれてカーターはホワイト・ハウスの囚人になった。問題を個人化することによって国民の支持を最初は得たが、次第に支持は失われた。11月、過激派は人質をイラン政府に引き渡した。アルジェリアの仲介で人質解放交渉は成立した。イラン側は資産凍結の解除と引き換えに人質を解放することに合意した。人質がイランを離れたのはカーターの任期が終わる1981120日のことであった。

さらにカーター政権にビリーゲートと呼ばれるスキャンダルが襲い掛かった。カーターの弟のビリー・カーター(Billy Carter)がリビア政府から22万ドルの借入を得たことで連邦法に違反したと報じられた。ビリー・カーターはそのお金を、リビアの原油をフロリダのチャーター石油社に販売する仲介をした手数料の一部として受け取っていた。しかしながら、ビリー・カーターは、外国の会社の代理人を務める場合に登録を求める連邦法が1933年に制定されているのにも拘わらず、代理人として登録していなかった。議会はビリー・カーターが実際にはリビア政府の代理人として行動したのではないかと考え、この問題について調査を行った。カーター政権がこの問題に関与している証拠は見つからなかったが、調査によって、アメリカ大使館人質事件で人質を解放する支援をリビアから受けようとカーター政権が検討していたことが発覚し、カーター政権とリビア政府の繋がりが暴露された。カーター自身も、弟がリビアとの関係を深めるのを止めなかったのは判断力が欠如していたという批判を受けた。

 こうしたカーター政権を取り巻く危機にも拘わらず、カーターは1980年の民主党の党大会でエドワード・ケネディ(Edward M. Kennedy)上院議員の挑戦を払い除けることができた。1月から2月にかけての重要な初期の予備選挙で、カーターは国家的な危機が訪れた際に大統領の支持率が回復するという恩恵を受けることができた。しかし、カーターは決断力を欠いた弱い指導者という一般のイメージを払拭することはできなかった。その結果、1980年の大統領選挙ではレーガンがカーターを破った。カーターは、フーヴァーが1932年にフランクリン・ローズヴェルトに敗れて以来、初めて再選を阻止された大統領になった。



[i] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)7:332-337

[ii] 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)128

[iii] Jimmy Carter, Keeping Faith: Memoirs of a President (Bantam Books, 1982), 27.

[iv] Larry Berman, New American Presidency (Little Brown, 1987), 315.

[v] Tip O'Neill, Man of the House: The Life and Political Memoirs of Speaker Tip O'Neill (St. Martins Mass Market Paper, 1988), 369.

[vi] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 297-298.

[vii] Jimmy Carter, Keeping Faith: Memoirs of a President (Bantam Books, 1982), 91.

[viii] Lori Cox Han, Governning from Center Stage: White House Communication Strategies during the Television Age of Politics (Hampton Press, 2001), 159-163.

[ix] State of Union Address to the Congress, January 23, 1980.

[x] 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)5


アメリカ政治外交史
歴代アメリカ合衆国大統領研究