リンカーン大統領と奴隷解放宣言について


リンカーン大統領と奴隷解放宣言

南北戦争の目的は奴隷解放ではない


 1862年8月22日にリンカーン大統領自身が「戦争の目的は連邦の保持であって、奴隷制の存続か、破壊かではない。中略。奴隷の一部を解放し、他をそのままの状態に置いたままで連邦が救済できるなら、そちらを選ぶだろう。私は奴隷制と黒人のために何かをするとすれば、そうすることで連邦を救済する助けとなるからだ」と明言しています。

ではなぜ奴隷解放宣言が登場したのか?


 1862年、ヴァージニア州で北部が敗北を喫しました。敗北を知った北部の中の和平を求める一派が、あくまで戦争で連邦の再統合を図ろうとするリンカーン大統領を強く非難しました。彼らは、勝利がおさめられないのであれば、早期講和をしたほうがよいと考えていたわけです。
 そういう一派を説得するため、最後まで戦争を継続する大義名分が必要でした。それが奴隷解放宣言です。リンカーン大統領は、中途半端な形の講和ではなく、完全に連邦を再統合する手段を講ずるべきだと強く信じていました。
 もともとリンカーン大統領は連邦の再統合を優先し、奴隷解放を戦争目的に入れるつもりはありませんでした。しかし、早期講和を求める一派の支持を得るために戦争目的に奴隷解放を入れることにしたわけです。また北部の一般国民も多くが奴隷解放を支持していたという事情もありました。奴隷解放宣言を発表すれば大幅な支持を集めることができると予想されました。
 さらに南部が外国の協力を得ようとしているという情報もありました。奴隷解放宣言という大義名分が北部にあれば、外国は南部に協力がしにくくなります。例えばイギリスは18世紀末から19世紀初めにかけて奴隷貿易の撲滅に積極的だったので、イギリスを牽制するには効果的でした。

奴隷解放宣言はいつ頃から考えられていたのか?


 1862年7月22日の閣議で奴隷解放宣言の予備的草案が閣議に提出されているので、少なくともそれよりは前です。そして、スアード国務長官の提言によって、目立った軍事的勝利の後に奴隷解放宣言を公表することになりました。さもないと負け惜しみや負け犬の遠吠えだと誤解されるからです。スアードの提言にしたがってリンカーン大統領は公表を延期し、アンティータムの戦いで勝利した直後に公表しました。

奴隷解放宣言の重要なポイント


 奴隷解放宣言の中で忘れてはならないとても重要なポイントがあります。それは、反乱軍(つまり南部)が支配している領域で奴隷を解放すると宣告した点です。すべての奴隷を解放したわけではありません。
 なぜ領域を限定したのという疑問が生じますね?まず当時のアメリカ合衆国憲法では、大統領が奴隷制度を廃止する権限はありません。なぜなら奴隷制度の廃止は奴隷を所有する人の財産権(奴隷は財産だと考えられていました)を侵害するからです。財産の自由は憲法で保障されているので、財産と見なされていた奴隷を勝手に解放できません。
 でも裏技があります。反乱軍の占領地に対しては、特別に大統領が軍事大権で奴隷を解放することができます。だからリンカーン大統領は奴隷解放の範囲を限定したわけです。
 さらにこのように奴隷解放宣言の適用範囲を反乱軍の占領地に限定すれば、奴隷廃止論者を少しは喜ばせることができますし、反乱軍(南部)に属していない地方の奴隷所有者を怒らせないですみます。せっかく味方に加わったのに、自分の財産である奴隷を解放されたら怒るでしょう。
 ちなみに戦時に軍事大権で奴隷解放を実行するというアイデアはリンカーン大統領が独自に思いついたアイディアではありません。もともとは第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズのアイディアです。それをリンカーン大統領は人づてに聞いてアイディアを得ました。
 すべての奴隷の解放については議会の判断に委ねました。その結果、連邦議会は1865年1月にすべての奴隷を解放するという憲法修正13条を通過させました。それを以って真の奴隷解放宣言が成立したと言ってもよいでしょう。

アメリカ大統領の初歩的Q&A歴代アメリカ合衆国大統領研究