アイゼンハワーはローズヴェルトの任命によってヨーロッパの連合軍の最高司令官を務め、第2次世界大戦で活躍した将軍の中でも最も著名な将軍であった。アイゼンハワーは「アイク」という愛称で国中だけではなく世界で知られていた。アイゼンハワーは大統領制度に兵士のような義務感を与えた。アイゼンハワーは、連邦政府を新しく未だに経験したことのない領域に導こうとしたのではなく、ローズヴェルトとトルーマンの熱狂的な積極行動主義の時代の後に国民の落ち着きを取り戻そうとした。

ニュー・ディールとフェア・ディールの政治的余波の1つが憲法修正第22条である。大統領の3選を禁じた憲法修正第22条は1947年に共和党が支配する第80議会で発議され、1951年に諸州の批准を受けて成立した。多くの点でアイゼンハワーは第1次世界大戦後に癒しの期間を設けようとしたクーリッジに似ていた。アイゼンハワーは、正直で能率の良い政府を主張し、世界の平和を重視し、朝鮮戦争の早期終結を訴えた。1952年の大統領選挙の結果はアイゼンハワーの地滑り的勝利であった。アイゼンハワーの勝利は第1にその人格による勝利である。アイゼンハワーはアメリカ人が好む性格、つまり正直で率直で人柄が好い性格であった。アイゼンハワーの圧倒的勝利は個人的な要因によるものが大きかったので、議会における共和党と民主党の差は僅少であった。そのためこれまで民主党政権が推進してきた国内外の政策を根本的に変えることは難しかった。

 アイゼンハワーは義務感によって、大統領と議会の間の均衡を修正すべきだという提言を受け入れた。アイゼンハワーはそれほど党派心の強い共和党員ではなかった。1948年にアイゼンハワーを大統領候補として担ぎ出そうとした民主党員は、アイゼンハワーが政治からできるだけ距離を置くのが自分の義務だと考えていることを知っただけであった。しかし、アイゼンハワーは民主党の大統領によって議会と大統領の適切な関係が損なわれてきたという共和党の考えを受け入れていた。例えば、アイゼンハワーは任期の最初の1年目は議会に立法提案を行わないと決めていた。

 議会を尊重するアイゼンハワーの姿勢を、議会政治の空洞化した伝統が復活した証拠だと見なす者も現れた。一方で特に報道は、アイゼンハワーのそうした姿勢を軽蔑の念を込めて見ていた。記者達はアイゼンハワーの最初の100日間を、ローズヴェルトの基準に照らし合わせればとてもうまくいったとは言えないと評価した。

 外見と反して、アイゼンハワーはただ座って歴史の成り行きを見守っていたわけではない。アイゼンハワーは同時代の人々が認識していた以上に巧妙に権限を行使していた。アイゼンハワーの見えざる手によるリーダーシップは、舞台裏で権力を行使する手法であり、アイゼンハワーのイメージをワシントンの政局から分離させることに成功していた[i]。アイゼンハワーがリーダーシップを発揮する手法は、近代的大統領制度が抱える困難からアイゼンハワーを解放した。国家元首としてワシントンのように政局から離れた立場を保ち、憲法を擁護し、連邦政府に尊厳を与えるのが大統領の責務であるとアイゼンハワーは考えていた。行政首長としてジェファソンやジャクソンのように計画を追求するにおいて議会と政党を主導することが大統領の責務であるとアイゼンハワーは考えていた。アイゼンハワーは、大統領が党略を主導するか、もしくは党略を主導しているように思われる場合、大統領の威信と影響力は失われると考えていた。

 アイゼンハワーは近代的大統領制度が抱える難題を解決するために政策に対する責任を放棄したわけではなかった。アイゼンハワーは国内政策に関して保守的であり、穏健な方法を除けば革新を望まなかったが、ニュー・ディールは既にアメリカ政府の恒久的な部分になっていると考えていた。リベラルな政策を展開していると兄に批判されたアイゼンハワーは「もしある政党が社会保障、失業保険を廃止し、労働関係法や農業計画を破棄しようとしたら、我々の政治史でそのような政党の名前を聞くことはなくなるだろう」と答えている[ii]

 アイゼンハワーは自らの信条を動的保守主義と名付けた。アイゼンハワーは僅かに残っていた価格地代統制を終わらせ、信用を失っていた復興金融公社を廃止した。全国的な最低賃金が引き下げられ、労働組合内の収賄を防止する法や節度ある公共住宅政策を推進する法が制定された。400億ドルの道路計画が打ち出された。新しい校舎の建設のために州に対して連邦政府が年額5,000万ドルの助成を行う法案が提出されたが、人種的な差別が行われている学校を除外するという修正条項が提案されると不成立になった。その一方で、議会の承認を得てさらに1,000万人に社会保障が拡大された。失業補償がさらに400万人に与えられた。耕地を転用するのに資金を出す土地銀行と農産物の価格維持援助によって農民に対する助成金は1959年には50億ドルに達した。さらに余剰農産物が出ないように連邦政府が買い上げる制度が実施された。

 またアイゼンハワーは、連邦政府の行政府の中で、国防相に次ぐ大規模な組織となった保健教育福祉省を行政再編計画第1番によって設立した。1939年に設置された連邦保障庁は廃止され、そのあらゆる権能が保健教育福祉省に委譲された。保険教育福祉省の下には公衆衛生庁、教育庁、社会保障庁、職業更正庁、食品医薬品庁が置かれた。第2世界大戦後のアメリカ社会の変化によって、国民の健康や医療及び福祉に対する関心が急速に高まった。都市化や技術進歩、専門分野の開発、復員軍人の再教育、ベビー・ブームなどのあらゆる新局面でアメリカ国民は連邦政府の指導と援助を必要とした。そうした背景の下、アイゼンハワーは、第2ファーヴァー委員会の提言に従って、連邦保障庁を保健教育福祉省に昇格させることを提案した。

 「合衆国議会へ。私はここに1949年の行政再編計画の諸条項により準備され、修正された1953年の行政再編計画第1番を伝達する。195322日の一般教書で私は保健、教育、社会保障に関する連邦政府の諸活動を新しい行政機関として規定する再編計画が議会に上程されることを述べた。この計画は政府の行政部門の1つとして、保健教育福祉省を創設し、連邦保障庁の種々の部局をそこに移管するものである。この省には保健教育福祉省長官とそれを補佐する次官1人並びに次官補2人を配置する。この計画の目的は、現在連邦保障庁で扱われている重要な健康や教育及び社会保障に関する職務の管理を政府の行政省として昇格させ、より良く機能させることにある。このような処置は幾多の合衆国市民の福祉を左右している保健、教育、社会保障に関する職務の重要性と増大に伴い、緊急に必要とされている。公衆衛生庁で実施される事業には例えば癌や心臓病のような危険な病気の治療及び予防の研究計画やその促進などがある。この庁ではまた各州の健康管理計画を援助し、目下の急務である病院建設の助成も行う。教育庁は全国の学校管理者に教育制度の組織管理に関する情報を収集し分析して配布する。また、連邦政府の諸活動で資金難に陥った学校地域に助成金を与える。社会保障庁では老齢者、盲人、癈疾者、要扶養児童の扶助に対して州に大幅な援助を差し伸べる。またこの庁では老齢者や遺族保険、そして児童福祉に関する計画も立案される。この他に連邦保障庁から連邦の職業更正教育や食品及び薬品法を施行する庁などがある。保険や教育及び社会保障の事業の重要性は明らかであり、これを向上させるためには惜しまぬ努力が必要である。私は既に現行の社会保障制度の恩典を受けている人々の範囲を拡大し、国防事業の拡張によって人口の増加した地域の学校援助を継続し、食品及び薬品法の強化を勧告した。しかし良い意図や高邁な目的を持つばかりでは十分ではない。これらの事業の成功はひとえに有能かつ責任を持って機能する管理体制にかかっている。これに関して最近私は連邦保障庁長官の意見が行政府での討議に十分に反映するように長官が閣議に出席するように要請した。1953年の行政再編計画第1番によって規定された新省の成立は、連邦政府の運営の中で保健教育福祉に関する条項に対してさらに十分な考慮が払われることを保証するであろう。このような新省設立の必要性は以前から認識されていたのである。1923年、ハーディング大統領は健康管理の任務を含む教育福祉省の設立を提案した。翌1924年、行政再編合同委員会は、ハーディング大統領の提案と同じような新省の設立を提案した。1932年には、フーヴァー大統領の行政再編計画の一環として健康、教育、レクリエーション活動をまとめて1つの行政省とする総合案が出されたのである。1937年には、大統領行政管理委員会が保健、教育、社会保障の職務分野をまとめて社会福祉省の下に置くことを勧告した。この勧告の一部は1939年の連邦保障庁の創設となって実現し、議会は初期の1つの庁に統合することに合意したのである。当時、これを新省とする提案が不可能であった理由は1939年の行政再編法では新しい行政省の設立を禁じていたからである。1949年、政府行政府組織委員会は社会保障と教育の分野を1つの省として創設することを提案した。今回の法案はこの省で働く官吏にその仕事と責任に相応しい名称と他の行政府の官吏が得るのと同等の俸給を与えるであろう。行政府の次官として、長官を補佐する保健教育福祉次官は、その責任分野である新省の組織や管理活動により良く指導力を発揮することができるであろう。さらにこの法案は長官が省内の各局に共通する活動を集中化する権限を与えているので、将来の政府機構改良の道が開かれている。この庁を構成する三大主要庁の長官の任命は共通な方法によってなされることが規定されている。現在は、公衆衛生庁長官、教育庁長官は大統領の任命を上院が認可し、社会保障庁長官は連邦保障庁長官に任命されているが、今後は3庁の長官はいずれも大統領が任命し、上院の認可を受けることになる。私はこの法案が連邦政府の保健、教育、福祉の諸活動が1つの省の枠内で継続して行われるべきであるとする私の信念を表しているものと確信している。同時にこの法案は教育庁と公衆衛生庁に法による職業的、実質的責任を各庁やその長官を通じて与えている。公衆衛生庁長官、教育庁長官、社会保障庁長官は省長官と緊密な連絡を保つものである。この省には長官によって連邦政府以外の分野から選ばれた委員で構成された教育諮問委員会が設立され、省の教育事業に関して長官に助言を与えるはずである。私は、この委員会の必要経費の予算による支出を提案する。長官に助言を与えるこのような委員会の設立は州や地方政府の公共教育制度の責任の遂行を助け、適切な連邦政府の指示によって教育への国家的関心を支えるものである。この行政再編計画による再編の結果は急速な経済的節約を生み出すことにはならないであろう。しかし政府組織に行われたこの改良は将来においては現在よりもっと少ない経費でより大きい奉仕をすることが可能になるであろう。現実的な経験に先行して節約の項目をあげるのは実際的ではない」[iii]

 保険教育福祉省の設立はアイゼンハワーの福祉国家に対する理念を示したものというよりは、行政改革としての事務的な要素が強かった。しかし、アイゼンハワーの提言によって保健教育福祉省の拡大発展の基礎が作られた。また保険教育福祉省の設立は、ニュー・ディールの福祉政策とともに教育や福祉に対するアメリカの伝統的な解釈を大きく変化させた点で大きな意義を持っている。

さらに多くの共和党員とは違って、アイゼンハワーはローズヴェルトやトルーマンが抱いていたような国際主義的な抱負を抱いていた。多くの共和党員と違って、アイゼンハワーはローズヴェルトやトルーマンのような国際主義的な観点を長らく共有してきた。アイゼンハワーは、アメリカは国際問題から孤立した立場を保つべきだと主張するロバート・タフト上院議員のような共和党員を軽蔑していた[iv]。アイゼンハワーが大統領に立候補するのを決めたのは、政治が好きだったからではなく、共和党の国際主義者を主導し、北大西洋条約機構軍の初代最高司令官として戦後の外交政策を維持する義務を感じたからである[v]。アイゼンハワーは自身をローズヴェルトの遺産を受け継ぐ者だと考えていなかったが、確かにローズヴェルトと同じ国際主義的な観点を抱いていた[vi]。アイゼンハワーは第1次就任演説で以下のように国際主義的な観点を示している。

「歴史の審判の前に、我々の正しい主張を説き、世界平和に対する我々の努力を推し進めるにあたって、我々はある定まった原則によって導かれるであろう。その原則は次の通りである。1、我々は我々を脅かす目的を阻止する手段として、戦争に訴えることを嫌悪し、侵略勢力を挫き、平和の条件を促進する力を発展させることが政治家の第1の任務であるという立場を堅持する。人類が相食むのを防止することはすべての自由人の最高の目的でなければならないとともに、その指導者の専心努力すべきことでもある。この原則にのっとって国家間の相互の恐怖と不信の原因を除去し、軍備の大幅な縮小可能にするようにすべての人々とともに協同努力する用意がある。そのような努力をするに必要な唯一の条件は、その目的とするところにおいては、それが万人のために安定した平和を理論的に、かつ正直に目指すことであり、また、その結果においては、すべての参加国が約束の実行に誠意を示す方法を提供することである。2、我々は我々の常識や上品な考え方に基づいて宥和政策をとっていたが、そのような考え方は役に立たないことが分かったので、今後我々は安全保障を信じて名誉を捨てるような偽りの邪悪な取引によって侵略者と宥和しようとは決してしないだろう。なぜなら、兵隊の背負わされるものとして捕虜の鎖程重い荷物はないからである。3、我々は強く、かつ巨大な生産力を持つアメリカのみが世界の自由貿易の助けであることを知っているので、アメリカの力と安全が世界各地の自由人の希望を支えるものであると見ている。自らの安楽よりも国の目的を重視することこそアメリカの自由市民及び世界各地の自由市民の当然の義務である。4、我々は世界各国の国柄と伝統を尊重するので、我々自身の政治的、経済的制度を他の国民の上に押し付けようとして我々の力を使用することはない。5、我々は自由の味方とはっきり分かっている国々の必要と能力を現実に即して評価し、彼らの安全保障と福祉を確立するための援助に努力するだろう。それと同様に我々はこれらの友邦がその信念の許す限りにおいて、自由の共同防衛にその全力を挙げ、かつ正しい負担に応じるものと期待する。6、健全なる経済こそは軍事力ひいては自由世界の平和にとって不可欠の基礎であると考えるが故に、生産力を上げ、有利な貿易を促進する政策を各所で育成することに努力するであろう。なぜなら、世界のどこかの国の国民が貧しくなることは他の国民すべての福祉に暗い影響を与えるからである。7、経済上の必要、軍事的安全保障及び政治的考慮が合わさって、自由諸国民の地域的結合を示唆することを十分に認識し、我々は国際連合の枠内でかかる地域的結合を世界全体にわたって強化するように援助したいと考えている。これらの結合の性格は地域の違いに従って必然的に異なる。西半球においては我々はすべての隣人達と兄弟のように信じ合い、同じ目的を持つような社会を築きあげるために協力している。ヨーロッパにおいては、我々は西ヨーロッパ諸国の賢明で信頼するに足る指導者達が、諸国民の結合を実現するために一層力強く努力するように要望する。自由なヨーロッパがともにその力を結集する場合にのみ、我々の援助を以ってその精神的かつ文化的財貨を有効に守り得るのである。8、自由そのものが1つで分割し得ないように、自由の防衛も1つであり、分割し得ないものであると考えるので、我々はすべての大陸とその国民に同等の監視と尊敬を払う。我々はある民族あるいは国民が他の民族あるいは国民に対して、いかなる意味においても劣っており犠牲にされてよいといった考え方を排撃する。9、国際連合を各国民の平和に対する希望の生きた証左と考え、我々はこれを単なる雄弁な言葉の上の象徴としてではなく、実際に効果のある力とすることに努力するであろう。そして、我々は名誉ある平和を求めるものであるから、妥協もしないし、後退もしないし、まして中途にして止めるということは絶対にない。以上に述べたような行動の基準が世界に知られることを望む。かつそれを順守することにより、我々は地球上の平和が1つの期待ではなくて事実となり得ることを希望する。この希望が、それは至上の熱望であるが、我々の生存の道を支配しなければならない」[vii]

アイゼンハワーが政権に就いた時、20年振りの共和党の大統領として民主党員に占められている官僚制度に直面した。アイゼンハワーは1953年にスケジュールCと呼ばれる任用形態を創設した。それは共和党員からの公職を求める圧力によるものであり、20年にわたる民主党政権下で膨張した官僚制度を統御するためでもあった。スケジュールCを設けることで大統領は1,000人以上の政治任命者を行政府に送り込み、自然保護や環境といった重要な政策を直ちに動かそうとした。

それ以前、長官や次官の下の上級職や様々な官庁の局長は官僚の昇進によって占められていた。アイゼンハワーが出した大統領令によって、そうした公職は共和党全国委員会の審査を受けて、ホワイト・ハウスが指名した政治任命者が就くことになった[viii]。アイゼンハワーの後、官僚は政治任命者と職を競い合うようになった。アイゼンハワーに続く大統領は、上級職を政治的に忠誠心を持つ者で埋め、政治任命を付け加えた[ix]

 アイゼンハワーは、ニュー・ディールの遺産と自由世界の指導者としてのアメリカの立場によって、大統領の責務はもはや単に統括するだけでは済まされないと認識していた。アイゼンハワーの理解では大統領の責務は、愛想の良い戦争の英雄というイメージを維持しながら、政治的問題に根気強く静かに関与し続けるために、主導していると気付かれることなく主導することであった。

アイゼンハワーの見えざる手によるリーダーシップを示す最も顕著な例は、ジョゼフ・マッカーシー上院議員への対応である。国民は、共産主義者が連邦政府に浸透しているというマッカーシーの非難に恐れおののいた。マッカーシーの赤狩りはマッカーシズムと呼ばれ、トルーマン政権期に引き続きアイゼンハワー政権期に吹き荒れた。

アイゼンハワーはマッカーシーの赤狩りを最悪の民衆扇動だと思っていたが、上院政府運営委員会と上院常設行政監察小委員会の議長であるマッカーシーを公的には攻撃しなかった。アイゼンハワーを非難する者は、マッカーシーを厳しく批判しなかったために、アイゼンハワーは多くの人々が命や職を失うのを黙認したと指摘する。またアイゼンハワーは忠誠審査を全政府機関に拡大し、17ヶ月で6,900人以上を公職追放に処した。しかし、アイゼンアワーの公的な場での沈黙は決断力に欠けていたわけではないし黙認でもなかった。公的にマッカーシーを攻撃することで大統領の威信が傷付き、共和党の連帯が損なわれ、その結果、国際主義的な外交政策の推進が難しくなるとアイゼンハワーは考えていた。

 マッカーシーと直接対決する代わりにアイゼンハワーが行ったことは、ジェームズ・ハガーティ(James Hagerty)報道担当官と緊密に協力してマス・メディアを有効に利用し、同調する議員とも協力してマッカーシーの政治的影響力を削ぐことであった。ハガーティを通じてアイゼンハワーは195412月のマッカーシーに対する審問で頂点を迎える議会の公聴会を運営する手助けをした。アイゼンハワーとニクソン副大統領はマッカーシーの名前に直接言及することはなかったが、マッカーシーが関与した一連の行動を非難した。マッカーシーが攻撃する機関や価値を擁護する必要があると納得するまで国民はマッカーシーに背を向けることはないとアイゼンハワーは確信していた。またアイゼンハワーは連邦職員の証言や個人経歴の開示を求めるマッカーシーの要請を行政特権に基づいて拒否した。アイゼンハワーは、行政官からの助言に関する書類を公開することは公共の利益にならないと信じていた。アイゼンハワー政権は議会からの40回にわたる要請を拒否している。

 アイゼンハワーの最も顕著な意見は、マッカーシーの支持者が図書館から政治的に問題がある本を図書館から取り除き教育関係者を困らせた時に示された。大統領は「本を焼く者に参加しないように。かつて存在した証拠を隠すことで欠点を隠そうとは考えないように。もし我々が共産主義が何かを知らなければ我々はどのようにして共産主義を負かすことができるのか」とダートマス大学の聴衆に語りかけた[x]。数週間後、アイゼンハワーは、教師は思想の自由を持ち、政治的な信条に制約されないと宣言した[xi]。アイゼンハワーは演説や記者会見で具体的な名前に言及することはなかったが、記者の質問に答えてマッカーシーの行動は守られるべき価値を脅かしていると述べた[xii]

 マッカッシーへの対応が示しているようにアイゼンハワーは近代的大統領制度を否定しているわけではない。それどころかアイゼンハワーは自らの長所と政治的目的にあった手法で責任をまっとうしようとした。報道で批判にさらされながらも、アメリカ国民の間でアイゼンハワーは非常に人気があった。クーリッジは30年前に、世論を主導する大統領のリーダーシップでは必ずしも改革や革新を達成する必要がないことを示していた。同様にアイゼンハワーの人気は、人民は現状を維持する静かなリーダーシップを評価していることを示していた。

アイゼンハワーは近代的大統領制度を党派を超えて受容させた。政府の肥大化を恐れる者は第1フーヴァー委員会の結果に落胆し、第2フーヴァー委員会の設立を要望した。1953年、第2フーヴァー委員会が議会によって設立された。共和党の議会指導者は、政府の規模を縮小させるという使命から第2フーヴァー委員会が逸脱しないように願っていた。大きな政府を根本から見直し、もし必要であれば行政機関や計画を廃止することが第2フーヴァー委員会の主な使命であった。彼らの願いは実現された。

1フーヴァー委員会は行政府の管理の改善に主に関心を抱いていたが、第2フーヴァー委員会は政策と機能に主に注目した。同委員会は包括的な報告を行わず、特別調査委員会の報告による数多くの報告を大統領と議会に送付した。すべての報告で前提が一致していなかったために報告は一貫性に欠けていた。また提言を評価するための管理形態に欠けていた。目標と手段が特別調査委員会の報告で概念的に混乱していた。こうした問題はあったものの、第2フーヴァー委員会の提言の中核となるのは、多くのローズヴェルト時代の計画と省庁は逆効果をもたらすという考え方である。しかし、委員会の保守主義的なイデオロギーはアイゼンハワー政権にほとんど影響を与えなかった。ローズヴェルトとは大統領制度に関する概念とアメリカ社会で連邦政府が果たす役割に関する概念において異なっていたが、アイゼンハワーは共和党の大統領としてローズヴェルトの革命を解体しようという意思を持っていなかった。またアメリカ国民は政府を縮小させるよりも、経済的、社会的領域に政府がより積極的に関与すべきだと考えるようになっていた。1940年代から1950年代を通じて、行政府はより合理的に管理されるようになった。管理機関の強さは絶頂に達した。この幸運な状況に数多くの要素が貢献したことは確かだが、フーヴァー委員会の貢献を無視することはできない。フーヴァー委員会が示した管理上の原理の影響はその後、約20年間にわたって続いた。

また第2フーヴァー委員会の提言と均衡をとるために政府組織に関する大統領諮問委員会が設置された。同委員会は、行政制度改革は大統領制度の日常業務になっていると指摘した。その結果、予算局の行政管理に関する役割が増大させられた。職員が増員された予算局は行政管理に携わる大統領を支援した。

 195339日に下された合衆国対レノルズ裁判で行政府の国家秘密特権の法的基礎が成立した。事件はB29爆撃機が秘密の軍事機器を試験している際に起きた。数人の乗組員が死亡し、中には民間の技術者も含まれていた。民間の技術者の寡婦は、過失致死で政府を訴えた。寡婦の弁護士は空軍に調査報告と生き残った乗組員の声明を提出するように求めたが、空軍はそれを拒否した。空軍が提出を拒んだ理由は、乗組員が高度に機密の任務に携わっており、報告の公表は一般の利益にならないからである。判事は報告を内々に見たうえで判決を下すつもりだと述べたが、政府は判事が報告を見るのも拒絶した。そのため判事は寡婦側に有利な判決を下した。

 政府はそれを不服として控訴した。上級裁判所は下級裁判所の判決を支持した。文書を原告に開示するかどうかを判断するのは行政府ではなく司法府である。したがって、行政府が独自の判断を下すのは法の支配の曲解である。また判事が内々に機密文書を査読するのは問題ない。

 政府はさらに最高裁に控訴した。政府は国家機密の漏洩を拒む権利があると主張した。寡婦側の弁護士は、政府の主張を支持するような証拠を示すように求めた。最高裁は政府側に有利な判決を下した。軍事機密に関係する場合、政府は民事訴訟でいかなる情報も開示する必要はない。この判決によって行政府の国家機密特権が確立した[xiii]。 

行政府の国家機密特権が確立された一方で1958年のウィーナー対合衆国事件の判決によって大統領の罷免権は制限された。アイゼンハワーはもし議会が罷免の根拠に制限を設けないのであればいかなる理由でも官吏を罷免することができると考えた。そうした考えに基づいてアイゼンハワーは1948年に設立された戦争請求委員会の委員を罷免しようとした。委員の1人であるマイロン・ウィーナー(Myron Wiener)は辞職を拒み、アイゼンハワー政権を訴えた。請求裁判所は、議会によって罷免の理由が特定されていなければ大統領は自由に委員を罷免することができるという政府の見解を支持した。それに対して最高裁は全会一致で、戦争請求委員会は準司法的な機関であるから、単に他の者を任命したいという理由で大統領は委員を罷免することはできないという判決を下した。最高裁の判決によって準司法的、もしくは準立法的な機関の職員に対する大統領の罷免権が制限された。

 アイゼンハワー大統領が大統領に就任した1953年の時点では、アメリカがソ連に核開発競争で一派先を進んでいる状態であった。しかし、アイゼンハワーは核兵器開発競争がこれ以上過熱すれば抜き差しならない状況になると考えた。アメリカとソ連がお互いに不信感を抱いて、少しでも相手より優勢になろうと核兵器開発競争を続ければ、もはや核兵器開発を止めることができない。もし核戦争が起きればアメリカとソ連が共倒れになる危険性も高まり、また度重なる核兵器開発競争は国民経済に重い負担となる。

アイゼンハワーはニュー・ヨークの国際連合本部で行った演説でアメリカとソ連の核兵器開発競争が世界に脅威を与えていると訴えた。核物質を国際原子力機関に委託し、原子力を平和的利用、特に第三世界に電力を供給するために利用することをアイゼンハワーは提言した。アイゼンハワーは他にも軍縮やドイツや朝鮮の問題を話し合うことを提言している。

「国連は軍事目的の核物質の削減または廃絶以上のことを追及するだろう。兵士達の手からこの武器を取り上げるだけでは十分ではない。それは、軍用という覆いを取り去って平和技術に適用する方法を知っている者の手中に置かれなければならない。合衆国は、もし核武装の増強という恐ろしい傾向を一変させることができるならば、全人類の利益のためにこの凄まじい破壊力を大きな恩恵に育てることができると思っている。合衆国は、核エネルギーから生じる平和的な力は未来の夢ではないと思っている。その既に証明された可能性は今ここにもある。もし世界の科学者と技術者のすべてが、アイデアを試し発展させるのに適切な量の核分裂物質を保有していれば、この可能性が迅速に汎用的かつ効果的で経済的な利用方法に転用できることを誰が疑い得るのか。核の恐怖が人々の心と東西の諸政府から消え去る時が早く来るように、今、取ることができる確かな措置がある。諸政府は、最低限の用心が許す範囲で、通常のウランと核分裂物質の蓄えから国際原子力機関に共同拠出することを今から始め継続することが主に必要である。私たちはそうした機関が国連の庇護の下、設立されることを期待する。拠出の比率、手順、その他諸々の詳細は、厳密には私が先に言及した個別会談の範疇に属する。合衆国は善意でこうした探求を行う準備をしている。同じ善意を持つ合衆国のいかなる提携者も、合衆国が理性を欠いている仲間でも狭量な仲間でもないことを分かってくれるだろう」[xiv]

アイゼンハワー政権は健全な財政を維持しながらソ連を封じ込めるのに十分な軍事力を維持することを最優先課題とした。19535月、アイゼンハワーは新たな安全保障作を検討させるソラリウム作戦を行った。その結果、国家安全保障会議はNSC-162/2を策定した。アイゼンハワー政権は軍事費を削減するために通常兵力を減らし、封じ込めに必要な軍事力を核戦力で補うという基本構想をとった。核戦力の他にも同盟、心理戦争、隠密作戦、外交交渉などがソ連封じ込めの手段として考えられた。19541月、ダレス国務長官はNSC-162/2の骨子を発表した。その中でダレスは地域防衛のために大量の報復力による抑止の重要性を説いた。そうした発言は、アイゼンハワー政権がソ連の攻撃に対して核戦力を使用して大規模な報復を行うと解釈された。

 アイゼンハワーは大統領研究者によってしばしば未完の仕事を残したとして批判される。しかし、アイゼンハワー政権期に福祉国家の基礎とアメリカの国際問題への関与は維持され、場合によっては拡大されたことは確かである。社会保障は拡大され、アメリカが中心となって東南アジア条約機構が形成された。しかし、アイゼンハワーの高い人気にも拘わらず、研究者は、アイゼンハワーは公民権問題や教育問題を是正し、社会的公正を実現するために世論を喚起しようとせず、大統領として失敗したと指摘する。

 さらに研究者は、アイゼンハワーの公民権への対応は大統領の責任に対する理解の欠如を示していると指摘する。1954517日、最高裁は、ブラウン対トピーカ教育委員会事件で人種分離教育を違憲と認めた。原告オリヴァー・ブラウン(Oliver Brown)はその娘が近所の白人だけの小学校に入学を拒否されたことで教育委員会を告訴した。トルーマン政権は、原告を支持し、32ページの趣意書を最高裁に提出した[xv]。最高裁は「公共教育の場においては、『分離すれど平等』の主義は当てはまらないと我々は結論する。隔離されている教育施設は本来的に不平等である」とした。後にこれが公民権運動の法的根拠の1つとなる。白人と黒人を別学にすること自体が差別だと認められた。こうした判決は南部の強い反発を招いた。最高裁は人種による隔離撤廃を「可及的速やかに」行うように命令を下したが、南部諸州はそれを「できるだけ慎重な速度で」と解釈し、実施を遅らせた。例えばヴァージニア州では、公立学校を全廃し、白人のための私立学校を建て学費は州が負担するという方法が採択されそうになったが、最終的には最高裁で違憲とされた。

それまでアメリカでは「分離すれども平等」が基本原則となっていた。それは1896年のプレッシー対ファーガソン訴訟事件に関する最高裁の判決文の一部であった。プレッシー対ファーガソン訴訟事件とは、鉄道乗客を人種により分けたルイジアナ州の立法に対して示した司法判断で、最高裁が「人種を分離しただけで、もし条件が同じであれば不平等とは言えない」という原理を示した。さらに1899年には学校にもこの原理が適用された。

人種差別に対する戦いで行政府と司法府を連携させることによって、公民権改革論者は人種的隔離が撤廃されるのではないかという希望を抱いた。しかし、アイゼンハワーは、最高裁の判決を支持するか否かについて言及することを拒否することでそうした希望に水を差した。アイゼンハワーの曖昧な姿勢は公民権運動の進展を遅らせた。

そうした中でリトル・ロック事件が起きた。リトル・ロック事件の発端は、19579月、アーカンソー州知事のオーヴァル・フォーバス(Orval Faubus)がセントラル高校の人種統合の開始を命じる連邦裁判所の命令の阻止しようと州兵を動員したことから始まった。914日、アイゼンハワーは論争の局外に立つことを望み、ニューポートの別荘でフォーバスと会談した。アーカンソーに戻ったフォーバスは、アーカンソー州の状況にアイゼンハワーは無関心であると信じて、裁判所の命令を執行するために州兵に命令するように求める要求を無視した。その代わりにフォーバスは学校の周囲から州兵を撤退させた。923日、9人の黒人学生が、アーカンソー州や他の州から集まった人種的隔離論者の暴徒によってセントラル高校から追い返された。フォーバスは過激な言葉で危機をさらに煽った。

アイゼンハワーは介入に乗り気ではなかった。なぜなら人種差別撤廃のために連邦軍を投入すればますます暴力が広がるだろうと考えたからである。しかし、州も地元当局も裁判所の命令に従って暴徒を取り締まらなかったために大統領はもはや決断を先延ばしすることができなくなった。もしアイゼンハワーが裁判所の命令を無視するアーカンソー州に対して行動をとらなければ、法を破ろうとするすべての人種的隔離論者の知事に屈することになる。遅延がもたらした不運な結果は、アイゼンハワーが行動を決断した時、大規模な軍隊を派遣しなければならなくなったことであった。

924日、空挺部隊がリトル・ロックに派遣された。翌日、軍隊がアメリカの街で銃剣を突きつけているという衝撃的な写真が新聞の1面を飾った。アイゼンハワーは必ずしも裁判所の決定を支持したわけではなかったが、それを無視することもなかった。国民に向けた演説の中でアイゼンハワーは「裁判所の決定に関する我々の意見は法の執行の問題と何の関係もない。憲法を解釈するという最高裁の責任と権威は非常に明らかである」と述べ、我々の個人の権利と自由の基礎は大統領が連邦裁判所の決定を実行することにかかっていると論じた。さらに連邦軍を派遣したことを批判されたアイゼンハワーは「連邦裁判所の命令に規定されているように、憲法の下で自分の権利を大人しく行使しようとする人々を守るために警察力を使うことを州が拒否するのであれば、大統領就任式における宣誓が、その保護を与えるために大統領が行動に移ることを要求する。そうした場合に行動できないのであれば、無政府状態と連邦の解体に黙って従うことに等しい」と答えた[xvi]

リトル・ロックの教育委員会は最高裁に提訴したが、19589月にクーパー対アーロン事件で、黒人の子供の憲法上の権利は知事と州議会の行動によって起こった暴力と無秩序の犠牲にされてはならず、法と秩序は黒人の子供から憲法上の権利を奪うことで維持されてはならないという判決が下された。

多くの者は、リトル・ロック危機に対するアイゼンハワーの行動をなかなか理解できなかった。最終的に断固とした行動をとることでアイゼンハワーは、大統領が、従来は本質的に州や地元の問題だと考えられてきた学校や人種関係といった問題を処理するという先例を打ち立てた[xvii]。例えば、1961年にミシシッピ大学の人種統合に抵抗する暴徒が出現した時、ケネディは秩序を回復し、法を執行するために軍を派遣した。

 近代的大統領制度を擁護するアイゼンハワーの姿勢はブリッカー修正をめぐる攻防で明らかになった。ブリッカー修正とは、1951 年から1957 年にかけて、ジョン・ブリッカー(John W. Bricker)上院議員を中心とした一派により提議された憲法修正案である。それは、第2次世界大戦以来、外交をめぐり行政府と立法府間で行なわれた争いの中でも最も重大な争いの1つであり、アメリカの外交政策形成を主導するのは、大統領か議会のどちらかを問うものであった。

ブリッカーの観点では、上院の現状は、条約作成の際、上院に意見を求めるようにと大統領に嘆願するのが精一杯であり、憲法に明記されている助言という言葉は、もはや意味をなしていないというものであった。そもそも上院が第1議会で助言する権利を放棄していなかったなら、ヤルタやポツダムといった大失敗は起こりえず、自由を愛する数百万の人民がクレムリンの暴君によって苦しめられることはなかっただろうとブリッカーは主張する。さらに行政協定についてブリッカーは、議会の認可を経ずして大統領が行政協定を違法に結んだが故に、合衆国は今日、様々な困難に直面しているのであり、そうした深刻な情勢に鑑みれば、国際条約に対する憲法の規定を明らかにし、行政協定の範囲を規定することは必要不可欠であると主張した。

ブリッカー修正が議論の的となっていた1950 年代、アイゼンハワー政権は、原子力エネルギーの平和利用に関する交渉、北大西洋条約の核となる欧州防衛共同体に関する交渉、西太平洋とアジアでの集団安全保障体制構築に関する交渉などを各国政府と活発に行なっていた。北大西洋条約に関して結ばれた行政協定だけでもその数は、約1万にも及んでいた。

そのような状況下で、ダレス国務長官は、ブリッカー修正をアメリカが外交を行なううえでの深刻な障害となるものだとはっきり反対の意を示している。しかし、アイゼンハワーは、強硬な手段によりブリッカー修正を破棄させようとせず、大統領の外交権限に制限が及ばないような形で妥協案を探った。そのためアイゼンハワーは、修正をめぐる議論に関して局外に立っているというイメージを与え、ブリッカー修正に対して反対する姿勢を隠す手法をとった。アイゼンハワーはブリッカー修正問題に過度に関与することにより、ブリッカー修正を支持する共和党上院議員の反発をかい、その他の政策実現に支障をきたすことを恐れていたのである。

 ブリッカー修正は、1953 6 15 日の司法委員会による改訂を経たが、その改訂の際に所謂「ウィッチ・クローズ」の是非をめぐって大きな論争が巻き起こった。ウィッチ・クローズ導入のねらいは、条約に対する憲法の優位性を確認し、さらに州に条約を拒否する権限を与えることであった。もちろん、この条項はアイゼンハワー政権にとって受け入れがたいものだった。なぜなら、州に条約を拒否する権限を与えることは、外交政策の分裂を招き、大統領の外交権限を弱化させるものだからである。

アイゼンハワー政権はブリッカーに妥協案を提示したが、ブリッカーはそれを拒否した。そこでアイゼンハワー政権は、ウィリアム・ノーランド(William F. Knowland)上院議員に政権側の妥協案をブリッカー案に代わる案として提議するように依頼した[xviii]。ノーランド案ではウィッチ・クローズが削除されていた。アイゼンハワーはノーランド案に対する支持を公表し、同時に大統領の外交権限を阻害することが憲法に背くことであると示唆することで、ブリッカー案に対する支持を喪失させようとした。さらに、第84議会での表決を間近にひかえた1954 1 11 日、アイゼンハワーは立法協議の席上でブリッカー修正に対してはっきりと反対意見を示した。その中でアイゼンハワーは、国家の外交は単一でなければならず州政府の容喙を許すような修正は認められないと主張した。

 ブリッカー修正は、19542 25 日、第84議会で表決にかけられたが、結局、50 票対42 の票差で否決された。ブリッカー修正成立阻止というアイゼンハワー政権の目的は達成されたのである。目的を達成するための戦略の基本方針は、ブリッカー修正以外の問題に関して上院との協調関係を崩すことなく、ブリッカー修正に対してははっきりと政権側の反対を伝えるというものであった。その基本方針の下、採用した戦略は、基本的にブリッカー修正に関して強硬な反対を自ら示さず、代弁者によるか、もしくは水面下で反対を唱えることであった。ブリッカー修正をめぐる争いに勝利することによりアイゼンハワーは外交権限を完全に大統領の側に取り戻した。

アイゼンハワーは朝鮮戦争の休戦を実現した。トルーマン政権で停滞していた休戦交渉はスターリンの死後、再び動き出した。アメリカは捕虜問題で妥協し、韓国に対して米韓相互防衛条約や援助を約束することで休戦交渉を進展させた。その結果、1953727日、北緯38度線を軍事境界線と定め、2キロの非武装地域を設ける朝鮮戦争休戦協定が成立した。朝鮮戦争によってアジアにおける冷戦構造が確定され、アメリカはNSC-68で示された方針を実現するために軍事大国の道を辿るようになった。

アイゼンハワー政権は不安定な中東情勢に直面した。1953年、イランのムハンマド・モサデグ(Mohammad Mossadegh)首相はイギリスの会社が所有する油田を国有化し、収益を国庫に入れた。さらにモサデグがソ連に支援を求めているのではないかという疑念が高まった。アイゼンハワー政権は中央情報局を通じて、モサデグの打倒を目指すムハンマド・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)国王の支持者に資金を提供した。パフラヴィーはアメリカの支援の見返りにアメリカを含んだ開発共同事業体にイランの石油の4割を与えることを約束した。

19559月、ソ連はイスラエルと衝突するエジプトに武器を売却し始めた。アラブ諸国は植民地時代の権益を保持しようとするイギリスと対立し、ソ連に接近した。ソ連と対抗するためにトルコ、パキスタン、イラン、イラクを支援するアメリカの防衛構想はエジプトのアラブの盟主という自意識を逆撫でした。1956年、エジプトのソ連への接近を警戒したアメリカはナイル川のアスワンに巨大ダムを建設する資金を援助することを拒んだ。イギリスもアメリカに倣った。その報復としてエジプトはスエズ運河を国有化した。ロンドンでスエズ運河を使用する主要な国の間で会談が行われた。会談の結果、エジプトに平和的解決案が提案されたが拒否された。最終的にイギリス、フランス、イスラエルの連合軍がエジプトを攻撃した。エジプトはそれに対抗してスエズ運河を封鎖した。アイゼンハワー政権は外交的解決を図り、平和の回復に成功した。アイゼンハワーは国連大使に訓令して、ソ連の要求を認め、即時停戦を要求するアジア、アフリカの決議案を支持させた。イギリスとフランスは決議案に拒否権を行使した。しかし、国際連合の支持が得られず、アメリカの支援も受けられないことを悟った両国はスエズ運河の占領を断念して停戦に合意した。国務省が経済援助を停止して国際連合の制裁を求めると通告したことからイスラエルも両国に倣った。

ソ連の中東に対する勢力拡大を防止するために、アイゼンハワーは、いわゆるアイゼンハワー・ドクトリンで共産主義の侵略に脅かされる中東諸国のいかなる国家に対してもアメリカは経済的、軍事的支援を行う権利を持つと表明した。アイゼンハワー・ドクトリンは若干の修正を経て議会に承認された。アイゼンハワー・ドクトリンはアメリカが海外に軍事介入する際の重要な先例となり、台湾決議と共に大統領の戦争権限の拡大に寄与した。

「大統領と議会が他の自由主義国の国家の安全が直接我々自身の安全保障に関連するとともに認めることは何ら新しいことではない。我々は、国際連合の安全保障制度を創造して支持するために協力した。 我々は一連の集団的自衛協定で国際連合の集団安全保障制度を補強した。 今日、我々には、我々の安泰と関わっていると認められる他の42の国と安全保障条約を結んでいる。 我々は、ギリシアとトルコ、そして台湾に関連して断固たる行動を取るために協力した。したがって、大統領と議会、条約の場合は上院の共同行動を通じて合衆国が外部の脅威、著しい国際共産主義の脅威に対して自由で独立している政府と平和を支持するために多くの危険にさらされた領域で目的を表した。 その結果、我々は、重大な危険がある期間、安泰を維持するのを助けた。 合衆国が大統領と議会の共同行動を通じて援助を望んでいる中東領域の諸国を援助する我々の決断を表すことが、現在、不可欠である。私が提案する行動は、以下の特徴を持っている。それは第1に、合衆国が中東の一般領域の諸国について国家の独立の維持に捧げられた経済力の開発に協力して、どのような国家も国家群も支援するのを認める。第2に、それは、大統領が、同じ領域で援助を望むどのような国家や国家群に対しても軍事援助と協力に関するプログラムを行うのを認める。第3に、それは、国際共産主義によって支配されたどのような国からの明白な武力侵略に対して、支援を求める国家の領土の保全と政治的独立を保障して、保護するために、合衆国の軍隊の使用を含むのを認める。これらの措置は、国連憲章と国際連合のいかなる行動や提言を含む合衆国の条約における義務と一致しなければならない。 また、武装攻撃が起こるなら、国連憲章に従って、そうした措置は国連安全保障理事会の最優先の権威に従う。第4に、現在の提案は、大統領が経済の、そして、防衛的な軍事目的として、既存の制限に関係なく1954年相互安全保障法に基づき利用可能な予算を使うのを認める」[xix]

スエズ危機でアイゼンハワー政権は軍事介入を行わなかったがレバノン危機では積極的な介入を行ってアイゼンハワー・ドクトリンを実行に移した。エジプトとシリアが連合して結成されたアラブ連合共和国はレバノン政府を倒そうと試みた。レバノン政府は国際連合に支援を求める一方でアメリカにも支援を求めた。アイゼンハワーは要請に応じて第6艦隊をパレスティナ沖に派遣し、海兵隊をベイルートに上陸させた。イギリスもアメリカの行動に倣った。こうした軍事的圧力によりアラブ連合共和国はレバノン政府の転覆を断念した。レバノン危機への対処によってソ連の脅威を排除することができ、アメリカは有効国家を支援する能力があることを示した。

アイゼンハワー政権は欧州防衛共同体条約の成立によって西ドイツの再軍備を推進することを最優先課題の1つにしていた。しかし、欧州防衛共同体条約の調印によっても西ドイツの再軍備を推進することはできなかった。西ドイツの再軍備を警戒するフランスが欧州防衛共同体条約を批准しなかったからである。アメリカは欧州防衛共同体条約の代替案を準備していなかったために新たな方針を策定するうえで主導権を握ることができなかった。アメリカの代わりにイギリスは、西欧連合と北大西洋条約機構に西ドイツを参加させ、再軍備を認める案を提案した。西欧諸国はイギリスの提案を受け入れ、西ドイツの再軍備が実現した。

アイゼンハワーは台湾危機に効果的に対応した。19549月、国民党が実効支配する金門島と馬祖列島の要塞に対して中国共産軍が砲撃を開始した。第1次台湾海峡危機である。イギリスは台湾問題を平和的に解決するために金門島と馬祖列島を中国に譲渡するように蒋介石に圧力をかけようとした。アメリカはそうしたイギリスの試みを阻んだ。アメリカは従来、中国と台湾の間で武力衝突が起きた場合に巻き込まれることを恐れて台湾と同盟関係を結ぶことを躊躇していたが、アイゼンハワーは国民党政府と相互防衛条約を締結することを決断した。しかし、条約には金門島、馬祖列島に対するアメリカの防衛責任が明記されていなかったこともあり、中国の攻撃は止まなかった。それどころか中国は19551月、一江山島を占領した。そこでアイゼンハワーは事態に対処するために軍隊を使用する権限を議会に求めた。議会は台湾決議で大統領に軍隊を使用する権限を与えた。台湾決議は大統領に大幅な戦争権限を認める重要な歴史的先例となった。アイゼンハワーは第7艦隊に中国本土沖を哨戒するように命じた。3月、ダレス国務長官が、中国の攻撃に対して原子爆弾の使用も辞さずと表明したことから台湾危機は緊迫の度合いを深めた。アイゼンハワーは事態を収拾するために国民党政府に金門島と馬祖列島から撤退するように求めたが、蒋介石はアイゼンハワーの要請を拒否した。しかし、中国の周恩来首相が停戦を提唱し、それにアメリカが応じたために危機は終息した。

19588月、中国が金門島と馬祖列島に対する砲撃を再開した。第2次台湾海峡危機である。アイゼンハワー政権は核戦力の使用も辞さない姿勢を示し、断固として台湾を防衛する意思を示した。そうした決意によって中国側は砲撃を控えるようになった。これはアイゼンハワー政権の瀬戸際外交の顕著な成功例である。

1954年、アイゼンハワー政権は共産主義政権と見なしたグスマン政権の打倒を援助した。1951年にグアテマラ大統領に就任したハコボ・グスマン(Jacobo Arbenz Guzman)は農地改革を行うためにアメリカの会社であるユナイテッド・フルーツ社の30万エーカーの土地のうち225,000エーカーを接収した。国務省はグスマン政権に抗議し、接収した土地に対する補償を求めた。グスマンは、グアテマラの土地はグアテマラ人民に属するとして国務省の要請を拒否した。ダレス国務長官はグスマンを共産主義者と見なし、何らかの対応をとる必要があると考えた。そこでダレスはヴェネズエラの首都カラカスで行われた米州機構会議において、共産主義の浸透は南北アメリカの平和を危機に陥れるという旨の宣言を採択することに成功した。グアテマラだけが宣言の採択に反対した。中央情報局の支援を受けたホンジュラスに亡命中の保守派がカルロス・アルマス(Carlos Castillo Armas)に率いられてグアテマラに侵攻した。グスマン政権はチェコスロヴァキアから武器援助を受けていたが、反乱軍に敗北した。アメリカはアルマスが樹立したグアテマラ反共臨時政府を直ちに承認した。ダレスは公使を送り込んだ。アメリカ公使の指示の下、アルマスは軍事政権の基盤を固め、グアテマラを支配した。

アメリカは非共産主義の南ヴェトナム、ラオス、カンボジアの独立を承認し尊重することを約束した。それらの国々を外部からの攻撃や政府転覆から守るためには経済的、軍事的支援が必要であった。東南アジアを安定させるためにアメリカが中心となって、オーストラリア、ニュー・ジーランド、イギリス、フランス、パキスタン、タイ、フィリピンの間で東南アジア条約機構が結成された。調印国は、外部からの侵略に対して相互に協力することを義務付けられた。しかし、後に共産主義の脅威に対抗するのには東南アジア条約機構では不十分なことが分かった。インドシナを共産化から守る責務がアメリカだけに課されることになった。

アイゼンハワーはソ連との緊張緩和に努めた。1950年代、アメリカとソ連の軍備拡張競争は激化した。ソ連は核保有国になった。1952年にアメリカが水爆実験に成功した後、ソ連も1953年に水爆実験に成功した。大陸間弾道弾の信頼性は増し、核ミサイルで武装した原子力潜水艦が就航した。核による報復の脅威に基づく防衛政策は通常兵器を維持するよりも安価だったために、アメリカとソ連は核戦力を中心に軍備拡張を行った。

1953年に亡くなったスターリンの後を継いだニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)の登場は冷戦の緊張緩和を予感させた。1955年、米英仏ソの間でジュネーヴ首脳会談が開催された。米ソの首脳が会談するのは1945年のヤルタ会談とポツダム会談以来、初めてであった。アイゼンハワーはジュネーヴ会談の冒頭で演説を行って、自由選挙によるドイツの統一、東ヨーロッパ諸国のための民族自決の尊重、東西交流の回復、国際共産主義に起因する緊張の緩和、軍備の制限、査察の重視、原子力エネルギーの平和的利用について触れ、アメリカ国民の平和への切望を表明した。

その中でも特にアイゼンハワーは、ドイツ再統合を主要議題にすべきだと主張し、自由選挙に基づく新統一ドイツ政府の樹立を提案した。アメリカの目的は、ドイツがもし望めば北大西洋条約機構に加盟させることであった。ソ連は、かねてより提案していた全ヨーロッパ諸国が諸国間紛争の平和的解決と各国軍備の現状維持を誓約した後に初めて発効する全ヨーロッパ集団安全保障の協定案を再び提案した。ソ連の全ヨーロッパ諸国による安全保障案は、全関係諸国間の不可侵の約束、紛争の平和的解決、被侵略国に対する協同援助、東西同盟機構の廃棄を骨子とした。ソ連の最終目的はヨーロッパ諸国からの駐留外国軍隊の一切の撤退させドイツを中立に保つことであった。またソ連はドイツ統一問題を副次的に扱い、東ヨーロッパ衛星諸国の問題については、それは各自の国内問題であり、国内干渉に反対であると強調した。軍備制限についてソ連は核兵器の生産と使用を絶対に禁止し、4ヶ国にそれぞれ軍備制限を課すことを提案した。その直後にアイゼンハワーは、アメリカとソ連が軍事施設の詳細を交換し、空中偵察の便宜をお互いにはかるオープン・スカイズ政策を提唱した。オープン・スカイズ政策の目的は、原爆と水爆を保有したソ連からの奇襲攻撃を未然に防ぐことであった。東西関係の改善について、米英仏は、刊行物の自由な交流と個人旅行者のより多くの自由を力説した一方で、ソ連は公式的な視察団の相互交換と戦略物資の交流規制の緩和を主張した。アメリカは東ヨーロッパ諸国の自由開放に言及したがソ連は討論を拒否した。その一方でソ連は共産中国の承認問題に言及したがアメリカは討論を拒否した。ジュネーヴ首脳会談はほとんど何の成果もなく終わったが、米ソの争点を解決するために外交交渉という選択肢の可能性を切り開いたという点では意義のある会談であった。

1957104日、ソ連は世界初の人工衛星スプートニクを地球の周回軌道に載せることに成功した。アメリカはスプートニクの打ち上げ成功に大きな衝撃を受けた。それは、ソ連が核ミサイルによってアメリカ本土を攻撃できる技術力を持っているという潜在的可能性を示唆していたからである。もしソ連が核ミサイルによってアメリカ本土を攻撃できるならば、アメリカはソ連の攻撃に対して核戦力で報復する抑止政策を実行できるなくなる恐れがあった。それはアイゼンハワー政権の冷戦政策の根幹を揺るがしかねなかった。民主党を中心にミサイル開発の促進や防衛費の増大を求める声が高まった。その中にはケネディも含まれていた。アイゼンハワー政権は、ミサイル開発の促進を限定的に受け入れたものの、アメリカの国防体制を長期的に重視する方策をとった。国防政策を合理化するために国防総省の改革を行い、科学技術振興のための基礎教育を充実させ、科学技術担当大統領補佐官を設置した。

1955年、ソ連は東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリアを合わせてワルシャワ条約機構を結成した。1956年、ポーランドとハンガリーが独立を求めた時、ソ連はポーランドにある程度の自由化を認め、ハンガリーに軍隊を送って反乱を鎮圧した。ソ連はアメリカに、もし介入すれば全面戦争になると警告した。そのためアイゼンハワーは何の干渉も行わなかった。国際連合も抗議の決議を通過させただけであった。

19581110日、フルシチョフは西側諸国の軍隊にベルリンから退去し、ベルリンを自由都市にするように要求した。フルシチョフは西側諸国が西ベルリンを東ドイツとその他の共産諸国に対する攻撃に使用しようとしていると主張した。フルシチョフは北大西洋条約機構による西ベルリンの核武装化は事態を悪化させると警告した。さらにフルシチョフは、西ドイツの再軍備によってこれまでのベルリンに関する協定が無効になったと主張し、6ヶ月以内にベルリンを非軍事化する最終条約を締結するように求めた。アメリカと西側諸国はフルシチョフの要求を拒否した。アメリカは軍事力で西ベルリンとの通路を確保しようとしたが、西側諸国の反対によって、外交交渉で解決を図る方針に転換した。アメリカと西側諸国はベルリン問題の解決はドイツ統合とヨーロッパの安全保障の観点からなされなければならないということで合意した。

1959年にニクソン副大統領がソ連を訪問し、フルシチョフがアメリカを訪問するまでアメリカとソ連の関係は進展しなかった。9月、アイゼンハワーはキャンプ・デーヴィッドでフルシチョフと会談した。アイゼンハワーは会談について記者会見で以下のような声明を発表した。

「最初にアメリカ国民に謝意を表したい。その自制と全般にわたる振る舞いは、真に我が国民の真価を高めるものであった。もしもフルシチョフ氏が我が国民について、またはその希求や国際問題に対する一般的な態度、とりわけ平和への願望について理解を促進することがあったとすれば、それは真にアメリカ国民の所為によるものであった。知ってのように私はフルシチョフ氏を当国を訪問するように招待した。それは重要な未解決の問題の故に国際情勢に緊張もたらしている、とりわけ米ソ両国間に緊張を生んでいる明白な理由の若干につき討議の機会を持つためであった。私は実質的な交渉をするためフルシチョフ氏の訪米を要請したわけではない。このような交渉は提携各国の参加を抜きにしては不可能だからである。しかし以前にも述べたが、フルシチョフ氏の今回の訪米と一連の討議を通じて氷のある部分は解けるだろうと私は考えていたし、現在もそう考えていると言ってよい。もしこのように事が運んでいるとすれば、それはまったくアメリカ国民のお蔭であるし、とりわけ今回のフルシチョフ氏訪米を実現するにあたり、また各地への訪問のために必要な数多くの手配を指図するうえで責任を担った各地の市長、州知事、それにその部下の人達のお蔭であると格別の謝意を述べたい。さて私を強く印象づけたも1つの点がある。それはアメリカを国民がこのような国際問題に対して進んだ見方を持っていることを実証した点である。また彼らが自己の信念や心情に揺るぎを見せない一方で、他人の言い分を礼儀正しく傾聴し、そして、いかなるを押しつけにも厳しく反発する権利を留保する一方、異なるイデオロギーに支持され、そこから発した信念や心情、また生活のある面について聞く耳を持ち、すぐれた理解力すら示したことである。これらの問題について高度に洗練された理解力とまではいかないにしても、よく啓蒙された理解力を示したことである。さてフルシチョフ氏と私はベルリン問題を長時間討議した。知ってのように、この種の問題について同盟国を抜きにしては特別の交渉が行われるわけにはいかない。しかし、この問題を取上げ、適切な準備の後に交渉は再開されるだろうと述べた共同声明を読まれたであろうが、ソ連、東ドイツ、西ドイツ、そしてとりわけ西ヨーロッパ側の正当な利益を擁護する解決を求める目的で交渉は再開されるであろう。さらに付け加えるのであれば、これまで述べた点や共同声明で言われている点に加えて、我々はこの交渉が無限の長期におよんではならないが、さりとて一定の時間的制限を付すべきではない点でも同意した。この点は完全に明瞭であると考えている。しかし、これはフルシチョフと私の間の合意であるので、これ以上立ち入ってこの点について説明することは避けたい」[xx]

会談ではベルリン問題の根本的解決には至らなかったが、ベルリン占領4ヶ国による首脳会談の実施が決定された。その一方で民間交流の分野では進展があった。フルシチョフの訪米後、米ソ間の文化交流は拡大した。アイゼンハワーは年内に4ヶ国首脳会談を開催しようとしたが、フランスの反対によって19605月にパリで首脳会談を開催することになった。しかし、米ソの関係はU-2撃墜事件で急激に悪化した。

U-2撃墜事件は、パキスタンのペシャワールからノルウェーのボードーまで偵察飛行する予定だったU-2偵察機が196051日、ソ連領内に1,200マイル入ったウラル地方のスベルドロフスク近郊で、ソ連の地対空ミサイルによって撃墜されたというのが事件の概要である。U-2計画は、U-2高高度偵察機を利用してアメリカが行っていた偵察作戦である。計画は195412月にアイゼンハワー大統領の認可を受けて着手され19567月に初飛行が成功した後、同年74日からソ連上空飛行を開始している。最初のソ連上空飛行に対して、ソ連はアメリカに抗議を行ったが、国務省はそれを全面否定した。
 アイゼンハワー政権にとってミサイル・ギャップが本当に存在するか確認するために偵察を行うことは、政策の妥当性をはかり、ソ連との軍備削減交渉を行うにおいて不可欠な試みであった。特にU-2による偵察飛行はソ連の軍事能力に関してこれまでにない画期的な情報をもたらしていた。
 U-2事件勃発当初、ワシントンは事件の詳細を全く把握していなかった。51日、アイゼンハワーは電話でU-2墜落について知らされた。ソ連がU-2事件を利用してアメリカを非難することをアイゼンハワーは危惧した。しかし、中央情報局が機体は破壊されたか、自爆したはずなので何の心配もないと説明したのでアイゼンハワーは特別な措置を何もとらなかった。
 U-2に関してアメリカ側からの公式発表は、52日に行なわれた。公式発表の中ではU-2は非武装の天候調査機と説明された。もともとU-219564月にその存在が公表された際、全米航空諮問委員会によって、ロッキード社が気象研究用に開発したものだと説明されていて、偵察飛行用という本来の目的は明かされていなかった。
 しかし、フルシチョフが196055日、ソ連最高評議会で行った演説で、アメリカの航空機が侵入したことを、国際的緊張を無用に高めるものだと非難した。この演説では、フルシチョフは、故意に操縦士が健康に生存し、航空機のパーツを回収することができたことについて何も言及しなかった。実は、このことがアメリカの信頼を揺るがせる事態を引き起こすのである。
 55日に国防省は、気象観測を行っていたアメリカ航空宇宙局のU-2が行方不明になったことを確認したと公表した。また操縦士は民間人であるとされた。さらに国務省は、フルシチョフの声明に対してソ連に覚書を送付した。その覚書は、ソ連がアメリカの航空機を撃墜したことを照会し、操縦士の安否を問い合わせるものであった。アイゼンハワーは、混乱を防止するため、事件に関する情報の公表は国務省がまとめて行うことが望ましいと考え、ホワイト・ハウスを事件から離しておくつもりだった。 

55日の演説に加えて、フルシチョフは57日に操縦士が生存していることを認める演説を行った。フルシチョフは演説で、さらにソ連がロケットにより2万メートル上空のU-2を撃墜し、撮影フィルムを回収したことを発表した。フルシチョフは、アメリカの高高度軍事偵察の実態を暴露し、ソ連だけでなく周辺諸国の領空も侵犯していると非難した。  

フルシチョフの演説によってアメリカの発表が虚偽であると露見した結果、国際社会の信用を失うことを恐れて、国務省は高高度偵察の事実を認めざるをえないと判断し、57日に声明を発表した。アイゼンハワーが、U-2事件に関する公式発言を初めて行ったのは、511日の記者会見であった。記者会見の冒頭で発表した声明でアイゼンハワーは、大統領が国務省と見解を同じくすることを示し、世界平和実現を目指して隠蔽と疑心暗鬼を終わらせなければならず、そのためには情報収集活動が必要不可欠であるという情報収集活動の一般的な正当性を主張した。

U-2事件は深刻な政治不信の原因となった。またU-2事件は、不利な立場に置かれていたソ連にとってパリ首脳会談を有名無実にする絶好の機会であった。パリ首脳会談でアイゼンハワーは戦略兵器の削減や大気中での核実験の禁止などを実現したいと思っていた。しかし、フルシチョフはU-2事件でアメリカを激しく非難し、パリ首脳会談は流会した。さらにフルシチョフは予定されていたアイゼンハワーの訪ソを撤回し、政府高官の相互訪問も減少した。ベルリン問題や軍備をめぐる交渉も停滞し、ソ連のアメリカに対する非難も激しさを増した。

 アイゼンハワーは近代的大統領制度の制度化に貢献した。軍人としての長い経験を活かしてアイゼンハワーはホワイト・ハウス事務局を拡大し有効に組織化した。アイゼンハワーは、ホワイト・ハウスと他の行政組織の間で明確な指揮系統を作るべきだというブラウンロー委員会とフーヴァー委員会の提言を積極的に採用した[xxi]。アイゼンハワーは大統領から首席補佐官を通じて残りの職人に意思を伝達する階層的な指揮系統を作った。初代首席補佐官になったシャーマン・アダムズ(Sherman Adams)は、ホワイト・ハウスと他の行政組織に関する日常業務から大統領を解放するために精力的に働いた。しかし、後にアダムズはゴールドファイン事件で辞任を余儀なくされた。大統領の下で働く者は実行しなければならないことを細部にわたって計画立案し、大統領が最終判断を下した。大統領はどのような問題に関しても意見の分かれている勧告はそのまま差し戻し、意思決定のもとになる全面的合意が得られた勧告を提出するように命じた。そのためアイゼンハワーの下した決定はしばしば曖昧な妥協に陥りがちであった[xxii]

 アイゼンハワーは初めてホワイト・ハウス内に議会連絡局を設置した。議会連絡局の業務は議会で大統領の政策を促進することである。任期1年目にアイゼンハワーは議会に立法提案をしなかったが、次第に積極的に議会の立法過程に関与するようになった。アイゼンハワー自身は立法府と行政府の均衡を修正したいと考えていたが、政策の刷新をしようとしない保守的な大統領でさえ自身の見解を議会に示す必要性があることを認識させられた。それ故、1954年の一般教書でアイゼンハワーは立法措置を提案し、議会連絡局と協力してその法制化を働きかけた。アイゼンハワーは8年間の在職中、州間高速道路の建設や宇宙計画を推進するためにますます立法過程に関与するようになった。1954年の中間選挙以後、民主党に支配された議会と協調するようにアイゼンハワーは努めた。

 議会との関係でアイゼンハワーが収めた著しい勝利は、国防費の抑制であった。アイゼンハワーはソ連との軍拡競争を避けようとした。なぜなら軍拡はインフレを引き起こし、最終的にアメリカ政府を破産させると考えていたからである。ケネディ上院議員を中心とする民主党議員は、大統領がアメリカの安全保障よりも予算の均衡を重視していると批判した。しかし、自らの軍事的判断に自信を持っていたアイゼンハワーは民主党の訴えかけに動かされることはなかった。トルーマンから年間約500億ドルにのぼる国防費を引き継いだアイゼンハワーは国防費を年間約400億ドルまで抑制することに成功した。

 国防費の抑制の重要性が1961年のアイゼンハワーの離任演説の重要な主題であった。アイゼンハワーの離任演説はテレビで初めて放送された離任演説であった。アイゼンハワーは共産主義の脅威を軽視したわけではなかった。アイゼンハワーは冷戦の恒常化がアメリカにもたらす影響を述べている。冷戦の恒常化とそれに伴う軍事拡張競争は軍産複合体を生み出した。核兵器に代表される現代的な兵器は開発に莫大な費用と時間、人員を必要とした。国家財政のほぼ半分を占める巨額の軍事支出が軍需産業に流れた。平時でも軍需産業が幅を利かせるという事態はアメリカが初めて迎える事態であった。アイゼンハワーは軍産複合体が政治に影響力を及ぼす危険性を示唆した。

「大国間の間での大きな戦争を4度も経験した世紀の半ばも過ぎて、今や10年になる。この4度の戦争のうち3度まで、我がアメリカは関わりを持った。その大きな犠牲にも拘わらず、アメリカは今日、その軍事力において、その影響力において、その生産力において世界最大の国家である。この優勢を当然誇りに思いつつも、我々は、アメリカの指導力という威信が単にその他に類を見ない物質的進歩、富、軍事力にのみ依存しているのではなく、我々が我が国力を世界の平和と人類の進歩のためにいかに用いるかにかかっていることをよく弁えているものである。自由な政府というアメリカの試みを通じて、アメリカの基本的な目的となってきたのは、平和を維持することであり、人類の成果を促進することであり、人々の間に、そして諸国民の間に自由という意見と誠実を増大させることであった。これ以下のことのために労することは、凡そ自由にして敬虔なる国民にとって相応しからざることであろう。かりそめにも驕り高ぶったり、理解を欠いたり、犠牲を払う用意を怠ったりして失敗することがあれば、国内外においてアメリカを深く傷つけることになろう。だが、こうした高貴な目標へ向かっての前進も、現在世界覆っている紛争によって絶えず脅かされている。この紛争たるや我々の関心をすべて奪い、我々の存在そのものに覆いかぶさっている。我々は今、敵対する1つのイデオロギーに直面している。そのイデオロギーは、その規模において全世界に及び、その性格において無神論的であり、その目的において無慈悲であり、その方法において陰険である。しかも不幸にしてそのもたらす危険たるや、いつ終わることなく続くものであることを覚悟しなければならない。この危機に成功裡に対処するために必要なのは、危機に伴う感情的な一時的な犠牲的行為ではない。必要なのは、自由がかけられている長期に及ぶ複雑な闘争の重荷を背にして、一方一歩着実に、不平を言うことなく前進するような犠牲的行為なのである。そうしてのみ、我々はあらゆる挑発にも拘わらず、永久の平和と人類の進歩へと定められた進路を踏み外すことなく歩むことになろう。危機は今後も続くことであろう。それが外からのものであれ内からのものであれ、大きいものであれ小さいものであれ、凡そ危機に直面すると、何か特別な華々しい行動が現存する一切の困難な問題を一挙に解決してしまうことができるのではないかという感じが起こってきやすいものである。例えば、国防中の新しい要素を途方もなく増大させるとか、農業に関する病弊をことごとく癒してしまうといった非現実的な計画を発展させるとか、基礎化学や応用科学の研究を飛躍的に拡大させるとか、あれやこれやの可能性がいずれもそれ自体おそらく有力なものなのであろうが、我々の歩もうとしている旅路にとっての唯一の道なのだと示唆されるかもしれない。しかし、そうした提案はいずれもより広範な配慮の下で、よく比較考量されなければならない。すなわち、いろいろな国家計画の間に均衡を保っていく必要がある。例えば私経済と公経済の均衡、犠牲と望まれる利益の均衡、明白に必要なものとあれば望ましいと思われるものの均衡、なべて国民として当然要求されるものと個々の人の上に国家が課する義務の均衡、現時点における行為と将来の国民の福祉の均衡、これらの均衡を保っていく必要がある。正しい判断は均衡と進歩を求めるものであり、正しい判断を欠けば遂には不均衡と挫折がもたらされることになる。数十年間にわたる歴史の記録は我が国民も我が政府も緊張と脅威に当面しつつ、だいたいにおいてこの真理を弁え、うまく対応してきたことを示している。だがその質において、その量において新しい脅威が絶えず生じてくるものなのである。私はここでただ2つの新しい脅威について述べることにしたい。平和を維持していくうえで、重要な要素となっているのは我が軍事組織である。いかなる潜在敵国も敢えて己の自滅の危険を冒すことのないように、我が国の軍事力を強力なものにし、直ちに行動できるように備えておかなければならない。この点、我が国の軍事組織は現在、平時において史上かつて見られない程、事実、第2次世界大戦、朝鮮戦争の兵士達も経験がない程、強大なものである。最近の世界的な紛争以来、合衆国は軍需産業を持っていなかった。アメリカの鋤を作る者たちは、時と場合に応じて剣も作った。しかし、我々はもはや国家の防衛を急場の行き当たりばったりに任せる危険を冒すわけにはいかない。我々は恒久的な大規模軍需産業を育成せざるを得ない。それに加えて、350万の人々が防衛施設で働いている。我々は年間に軍事安全保障費用だけで合衆国全土の企業の純利益を上回る額を費やしている。アメリカのこれまでの経験では、今や巨大な軍事施設と巨大武器産業の結合は新しいことである。すべての影響、すなわち経済的、政治的、さらに精神的な影響は、あらゆる町、あらゆる州議会、あらゆる連邦政府の部門で感じられる。我々は、こうした発展が不可避のものであると認識している。だが我々はそれが含みうる大きな意味を理解しようとしなければならない。我々の労苦、資源、そして生計がすべて関係している。すなわちまさに我々の社会構造なのである。政府委員会において、我々は、求めるのであれ求めないのであれ、軍産複合体が正しいと認められていない影響力を得ることを防止しなければならない。場違いな権力が不吉にも勃興する可能性があり、それが存続する可能性もある。我々は決して軍産複合体の重圧が我々の自由、もしくは民主主義的過程を危機に追いやることがないようにしなければならない。我々は思い込みを避けるべきである。警戒心に富み聡明な市民こそが、安全と自由がともに繁茂できるように、平和的な手段と目標を持って軍産の巨大な防衛機構を適切に機能させることができる。我が国の軍事、産業面に起こったこのような飛躍的な変化と相通じるものとして、その変化を起こした大きな原因として、ここ数十年の間に起こった技術革命がある。この技術革命において、科学研究は中心を占め、また一段と政府と関係のあるものとなり、複雑化し、費用のかかるものとなっている。連邦政府のために、連邦政府による、あるいは連邦政府の指示に従って行われる科学研究が、次第に増大しつつある。我が国の科学者達が連邦政府に雇われたり、政府によって研究計画を配分されたり、あるいは資金の力によって左右される可能性が常に存在し、憂慮されている次第である。しかし、科学的な研究と発見に当然なことながら敬意を払いつつも、我々はまた、公共政策自体が科学上、技術上のエリートの虜になってしまうという、これまた等しく逆な危険に対して警戒を怠ってはならない。我が国の民主的制度の原理の中で、常に我が自由な社会の最高目標に向かって、あれやこれやの諸勢力、新旧の諸勢力を融合させ、それらの間の均衡を保ち、それらを統合していくことこそ政治家の使命なのである。均衡を保っていくもう1つの要素として時間の問題がある。社会の将来に目を転じる時、我々は、つまり、諸君や私、そして我が政府は、明日のための貴重な資産を我々自身の慰安と便宜のために今いたずらに消費し、ただ今日のために生きようとする衝動を避けなければならない。我々の子孫の物質的な資産を今、抵当に入れてしまえば、彼らへの政治的、精神的遺産をも失ってしまう危険を冒すことになる。我々は、民主主義が来るべきあらゆる世代を通じて生き延びることを望むものであり、明日には敗れた幻影となってしまうことのないように望むものである」[xxiii]



[i] Duane Tananbaum, The Bricker Amendment Controversy: A Test of Eisenhower’s Political Leadership (Cornell University Press, 1988), 77-79.

[ii] Letter from Dwight D. Eisenhower to Edgar Newton Eisenhower, November 8, 1954.

[iii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)6:196-199

[iv] Elmo Richardson, The Presidency of Dwight D. Eisenhower (University Press of Kansas, 1979), 14.

[v] Erwin C. Hargrove, The Power of the Modern Presidency (Temple University Press, 1974), 60.

[vi] William E. Leuchtenburg, In the Shadow of FDR: From Harry Truman to Ronald Reagan (Cornell University Press, 1985), 48.

[vii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1958)、別:132-135

[viii] デイヴィッド・ルイス、『大統領任命の政治学―政治任用の実態と行政への影響』(稲継裕昭監訳、ミネルヴァ書房、2009)14

[ix] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 305.

[x] Dwight D. Eisenhower, Public Papers of the Presidents of the United States: Dwight D. Eisenhower, 1953 (Government Printing Office, 1960), 415.

[xi] Dwight D. Eisenhower, Public Papers of the Presidents of the United States: Dwight D. Eisenhower, 1953 (Government Printing Office, 1960), 639.

[xii] Elmo Richardson, The Presidency of Dwight D. Eisenhower (University Press of Kansas, 1979), 55.

[xiii] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 426-427.

[xiv] Atoms for Peace Speech, December 8, 1953.

[xv] William E. Leuchtenburg, The White House Looks South: Franklin D. Roosevelt, Harry S. Truman, Lyndon B. Johnson (Louisiana State University Press, 2005), 219.

[xvi] David Alistair Yalof, Pursuit of Justices: Presidential Politics and the Selection of Supreme Court Nominees (University of Chicago Press, 1999), 42. 

[xvii] William M. Goldsmith, ed., The Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea, 1974), 3: 1619.

[xviii] Duane Tananbaum, The Bricker Amendment Controversy: A Test of Eisenhower’s Political Leadership (Cornell University Press, 1988), 108-109.

[xix] Special Message to the Congress on the Situation in the Middle East, January 5, 1957

[xx] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)6:334-335

[xxi] Philip G. Henderson, Managing the Presidency: The Eisenhower Legacy, from Kennedy to Reagan (Westview Press, 1988), 17-24.

[xxii] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 296.

[xxiii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)6:218-222


ドワイト・アイゼンハワー大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究