1850年の奴隷をめぐる論争が佳境を迎える前にテイラーは死去した。テイラーの後継者のフィルモアは、大統領の権限を制限するというホイッグ党の原理を確認したが、重大な国内問題を議会の決定に委ねようとはしなかった。しかし、フィルモアは1850年の妥協が成立するのを見守った。フィルモアは大統領になる前から1850年の妥協を支持していた。1850年の妥協が奴隷制度をめぐる最終的な解決策になると信じ、もし上院で票が均衡する場合は、妥協を支持するほうに副大統領として決定票を投じるとフィルモアはテイラーに伝えていた。フィルモアの支持は政治的に重要であった。テイラーが死去する前は20人から30人の議員が妥協に強固に反対していたが、フィルモアの支持が明らかになってからは劇的に態度を変えた

[i]

。フィルモアは18509月に、地域的な争いは最終的な解決が行われたと宣言した

[ii]

  1850年の妥協が成立するのを見守ったフィルモアは逃亡奴隷取締法を積極的に施行した。マサチューセッツ州が逃亡奴隷取締法に違反した市民を告発するのに協力を拒んだ際にフィルモアは、北部であれ南部であれ、連邦法を無効にする権利を認めないと宣言した。しかしながら、逃亡奴隷が保護されている北部で大統領が逃亡奴隷取締法を遵守させる手段は実質的になかった[iii]

西漸運動を進めてきたアメリカは米墨戦争によって広大な領土を獲得し、太平洋国家となった。さらに1844年に中国と望廈条約を結び、アメリカは西欧列強と同様の貿易上の特権を手に入れていた。しかし、中国貿易は中国国内の混乱によって大きな打撃を受けた。また当時、盛んだった捕鯨業の中継基地を確保することも重要であった。こうした事情によって極東に対するアメリカの関心は高まった。

そこでフィルモアはマシュー・ペリー(Matthew C. Perry)を日本に派遣した。185211月、ペリー率いる4隻の艦隊は極東に向けて出港した。ペリーは、難破したアメリカ船員を救助し、アメリカ船に石炭やその他の物資を提供し、少なくとも1つの港をアメリカとの交易のために開くことを日本に約束させるようにフィルモアから命じられた。ペリーはアフリカ西岸沿いに大西洋を南下してインド洋に至り、マラッカ海峡、香港、上海を経て、19535月に那覇、そして6月に小笠原諸島に到着した。7月に浦賀沖に艦隊を進めたペリーは大統領親書の受理を幕府に要求した。ペリーは長崎に回航するように求める幕府の要請を拒絶し、江戸湾に侵入した。幕府は大統領の親書を受理した。ペリーは12ヶ月以内にまた寄港することを約して日本を離れた。ペリーは香港に立ち寄った後、日本に戻り、1854年に日米和親条約を締結した。日米和親条約は下田、函館の開港、燃料、食糧などの補給、難破した米船の船員の救難、保護、米領事の下田駐在などを取り決めている。18551月、ペリーはアメリカに帰還した。

 フィルモアが大統領職を引き継いだ時、既にホイッグ党崩壊の前兆は既に示されていた。主要なホイッグ党員は、西部の準州への奴隷制度の拡大に反対する自由土地党のような政党に鞍替えしていた。1852年の大統領選挙で、ホイッグ党は州権を尊重するフィルモアの代わりに奴隷制度反対派のスコットを大統領候補に指名した。しかし、スコットは大統領選挙で42人の選挙人しか獲得できずピアースに敗れた。主に北部のホイッグ党員から構成される奴隷制度反対派は1854年の共和党の結成に加わった。1856年の大統領選挙が、ホイッグ党が大統領候補を立てた最後の機会となった。



[i] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 106.

[ii] Sean Wilentz, The Rise of American Democracy: Jefferson to Lincoln (W. W. Norton, 2005), 643.

[iii] Leonard White, The Jacksonians: A Study in Administrative History, 1829-1861 (Macmillan, 1954),522, 529.


ミラード・フィルモア大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究