1880年の大統領選挙までに党内の派閥抗争がアメリカの政治を左右するようになっていた。ガーフィールドは36回目の投票でようやく大統領候補指名を獲得した。ガーフィールドはコンクリング率いる堅固派とブレイン率いる穏健派の妥協の結果、選ばれた。共和党は、コンクリングに近く、ニュー・ヨークの税関の長を務めていたアーサーを副大統領候補として選ぶことで亀裂を埋めようとした。民主党は南北戦争の将軍であるウィンフィールド・ハンコック(Winfield S. Hancock)を大統領候補に選んだ。一般投票でガーフィールドは僅か9,457票差でハンコックに勝利した。選挙人票ではガーフィールドが214票、ハンコックが155票を獲得した。

接戦は主要な問題に関する熾烈な戦いの結果ではない。高度に組織化された全国的な政党組織が支持者を投票するように動員した結果であった。南北戦争後、接戦は普通のことであり、二大政党に対する人民の曖昧な心理を示していた。そうした有権者の姿勢は、地元の問題や利権をめぐる組織的な争いのような党内の派閥抗争を反映するものであった[i]

大統領に就任してすぐにガーフィールドはトマス・ジェームズ(Thomas L. James)郵政長官に、郵便路線に関する契約で不正行為が行われているという非難を調査するように命じた。ジェームズの調査によって収賄に共和党員が関与していることが明らかになった。これはスター・ルート・スキャンダルと呼ばれる。調査を続行し、スキャンダルを暴露すべきだというジェームズの要望に応えて、ガーフィールドは「あなたがどこに誰とぶち当たっても前に進むように。私はあなたにこの病根を完全に明らかにし、除去してしまうように命じる」と述べた[ii]。共和党の上院議員や郵政省内の職員が関与しており、検察官は400万ドルの損害が生じたと見積もった。結局、誰も有罪判決を受けなかったが、このスキャンダルは公職制度改革を進める1つの契機となった。

ガーフィールドは政党政治の新しい傾向に適しているように見えた。ヘイズとは違ってガーフィールドは懐柔的であり妥協的であった。ガーフィールドは共和党内の堅固派や穏健派とうまく協調していくことを望んだ。しかし、そうした意思に反して、ガーフィールドは派閥争いに巻き込まれることになった。公職の管理をめぐる大統領と議会の間の戦いはヘイズのコンクリングに対する勝利でも終わらなかった。そうした戦いはガーフィールド政権の初めの数週間で再び開始された。過熱する派閥争いの中でガーフィールドは前任者が始めた上院儀礼に対する攻撃を続けざるを得なかった[iii]

 財務長官の人選に口を挟む堅固派に対抗するためにガーフィールドは上院を攻撃した。堅固派はニュー・ヨークの銀行家のリーヴァイ・モートン(Levi P. Morton)を財務長官に任命するように大統領に求めた。ガーフィールドは、モートンのウォール街との繋がりや保守的な経済感覚が西部の共和党員に受け入れられないと論じて抵抗した。モートンを財務長官の代わりに海軍長官に任命し、財務長官にはその他の者を堅固派が推薦するというガーフィールドの妥協案は拒絶された。堅固派はあくまでモートンを財務長官に任命するように要望した。

 ガーフィールドはそのような大統領の権威に対する甚だしく攻撃的な挑戦に対して妥協を許さなかった。ニュー・ヨークの共和党のコンクリングの一派の多くを公職に就けた後でガーフィールドは閣僚人事を自ら選ぶことを主張した。ガーフィールドはヘイズと同じく、行政府の独立は、上院の意思に対する大胆な挑戦と上院儀礼に対する戦いによって保持され得ると悟った[iv]

  ガーフィールドはウィリアム・ロバートソン(William H. Robertson)をニュー・ヨーク港の徴税官に指名した。ロバートソンはコンクリングの政敵であった。それ故、ロバートソンの指名はコンクリングに対する挑戦であり、上院儀礼の慣習に対する挑戦であった。コンクリングはガーフィールドにロバートソンの指名を撤回させるように政治組織を総動員した。副大統領のアーサーは、大統領の支持者や報道から厳しく非難されながらも、コンクリングの策動に全面的に協力した。1881414日、アーサーは記者の目を逃れ、ホワイト・ハウスでガーフィールドと面談した。アーサーは、ニュー・ヨークの共和党を安定させるためにロバートソンの指名を撤回するようにガーフィールドに求めた。しかし、ガーフィールドの考えを変えさせることはできなかった。

 ロバートソン以外の指名を認めることで大統領と出し抜こうとコンクリング一派が企んだ時、ガーフィールドはニュー・ヨークに関するその他の指名をすべて撤回した。公職を誰が管理するべきかという問題が解決されるまで指名を行わないとガーフィールドは主張した。大統領の大胆な行動はコンクリング一派を手も足も出ないようにさせた。ガーフィールドは日記に「ニュー・ヨークの指名の撤回は多くの側から大きな反応を得た。それは人民が上院でボスの支配の継続を望んでいないということを示していると私は思う」と記している[v]

1881516日、ロバートソンの指名が避けられないことを悟って、コンクリングともう1人のニュー・ヨーク州選出のトマス・プラット(Thomas C. Platt)上院議員は、州議会が彼らの面目を施すために再選してくれることを望んで辞職した。しかし、州議会は彼らの再選を拒んだ。長い戦いの後、別の2人が新たにニュー・ヨーク州選出の上院議員に選ばれた。

 ガーフィールドの勝利は完全であった。上院は全会一致でロバートソンの指名を認め、コンクリングが復帰することはなかった。ヘイズがニュー・ヨークの税関を改革しようと始めた長い戦いは大統領の勝利で終わった。その勝利はホワイト・ハウスの権限と権威が復活したことを示す画期的な出来事であった。上院が大統領に人選を示唆し、好ましくない指名を拒否する際に振るう影響力は残ったが、大統領の判断を無視するような傾向は終わりを迎えた[vi]

  ガーフィールドは包括的な公職制度改革の計画を実行する十分な時間が持てなかった。188172日、ワシントンの駅でチャールズ・ギトー(Charles J.Guiteau)は大統領を銃で撃った。ギトーは大統領から公職に任命されることを期待する一方で、ガーフィールドによるコンクリング一派への攻撃に怒っていた。ギトーは暗殺の朝、「大統領の悲劇的な死が悲しいが必要であり、それが共和党を1つにし共和国を救うことになる。私は大統領に対して悪意を持っていない。彼の死は政治的に必要だ」と記している[vii]。ギトーは逮捕された時、「私は堅固派であり、アーサーが大統領だ」と述べた[viii]。弁護士はギトーが狂っていることを理由に無罪を訴えたが、ギトーは有罪宣告を受け、1882630日、絞首刑に処せられた。 

今日の医療技術であればガーフィールドは命を落とすことはなかっただろうと医療史の研究者は考えている。1881年当時の医療技術では大統領を救うことができず、むしろその死を早めた。医師は消毒されていない器具で打ち込まれた銃弾を発見しようとガーフィールドの体内を探った。その頃、発明された金属探知機も使用された。ガーフィールドは敗血症に罹り、919日に亡くなり、副大統領のアーサーが大統領に昇格した。

 検死の結果、医師は誤った場所を探っていたことが分かった。銃弾はガーフィールドの背骨の右側に入ったが、左側に移っていた。嚢腫が銃弾の周りに形成され、実質的に無害になっていた。自然回復に委ねれば、ガーフィールドはおそらく数週間で復帰できたと考えられる。ガーフィールドは「大統領は連邦議会の記録係に過ぎないのか、それとも合衆国の行政府の最高責任者であるのか、その点を明確にしたい」と考えていた。もしガーフィールドが職務に復帰することができていればヘイズと同じく、アンドリュー・ジョンソン政権以来、議会の度重なる権限の侵害によって名目上の首長になりかけていた大統領の権限を回復しようと努めただろう。



[i] Morton Keller, Affairs of State Life in Late Nineteenth Century America (Harvard University Press, 1977), 266-268.

[ii] Allan Peskin, Garfield (Kent University Press, 1978), 580.

[iii] John A. Garraty, The New Commonwealth: 1877-1890 (Harper and Row, 1968), 268-273.

[iv] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 158-159.

[v] Theodore Clarke Smith, The Life and Letters of James Abram Garfield (Yale University Press, 1925), 2:1127.

[vi] John A. Garraty, The New Commonwealth: 1877-1890 (Harper and Row, 1968), 273.

[vii] Robert J. Donovan, The Assassins (Harper and Bros, 1952), 42.

[viii] Kenneth D. Ackerman, Dark Horse: The Surprising Election and Politicqal Murder of President James A. Garfield (Carroll and Graf, 2003), 348-380.


ジェームズ・ガーフィールド大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究