郵政長官ティモシー・ピカリング


 ティモシー・ピカリング(1745.7.17-1829.1.29)はマサチューセッツ植民地セイレムの農家に生まれた。1763年、ハーヴァード大学を卒業後、エセックス郡の公証人事務所で事務員として働いた。その後、町役人と公証人に選ばれた。さらに行政委員とセイレムの通信連絡委員会の一員に選ばれた。1774年、エセックス郡の民兵隊の大尉になった。独立戦争勃発当初、ピカリングはもともと王党派に親近感を抱いていたので戦争には参加しなかった。1777年、もはやイギリスとの和解が望めないことが明らかになると、ピカリングは志願兵の一隊を率いてアメリカ軍に加わった。ピカリングは軍事教練のマニュアルを書いたことで知られており、軍務局長としてワシントンに迎えられた。1780年から1785年にかけては主計総監を務めた。
 独立戦争後、土地投機と事業を手がけるが失敗した。その後、ペンシルヴェニア邦のルツェルン郡設置に尽力した。1789年から1790年には、ルツェルン郡の代表としてペンシルヴェニア州憲法制定会議に参加した。
 破産の危機に瀕したピカリングを見かねた友人達は、ワシントンに何らかの公職をピカリングに与えるように請願した。ワシントンは、セネカ族が北西部領地に対する攻撃に参加しないようにする任務をピカリングに与えた。ピカリングは、セネカ族がフォート・スタンウィクス条約で失った土地の返還を約束することで任務に成功を収めた。ワシントンはその報奨としてピカリングを郵政長官に任命した。ピカリングは郵政長官になってからもネイティヴ・アメリカンとの折衝を続けた。その後、陸軍長官に異動になった。

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