エピソード


友人の妻への恋文
恋文の内容
 1758年9月12日、前線に赴こうとするワシントンは友人の妻であるサリーに次のような不可解な手紙を送っている。
 「私自身の名誉と故国の幸せだけが心を動かすべきものではないはずでは。それが真実なら、私は愛の信奉者だとはっきり言おう。さる女性がその境遇にいることを私は分かっています。そして、彼女は君がよく知っている女性であることを告白します。君と同じく彼女は自分の魅力をよく弁えているので、彼を虜にしてしまう影響力を打ち消そうとします。彼女の心優しい数多の文章を思い出すと、彼女の気立てのよさを感じます。復活させるように命じられるまで、そうした文章を消してしまえればよいのに。しかし、経験は、ああ、悲しくもこれがいかに不可能かを私に教えます。そして、私が長い間、心の中に抱いてきた考え方を実証するのです。人間がいくら努力しても抗えない、我々の行いを支配する運命があるという考え方を。親愛なる貴女、君は私の思いをあらわにさせてしまった。いやむしろ、私が自ら率直な事実をつい話してしまったのだろう。私の本心を見誤らないで欲しい。疑わないで欲しい。暴こうとしないで欲しい。世間は私が愛する人が誰かを知る権利はないが、たとえ私がそれを秘密にしたくても、君にこうした形であれ言っておきたい。この世界のすべてのことの中でも最も私が知りたいことは、君の知人の中で一人だけが私が愛する人が誰かを私に解き明かしてくれること、もしくは私の本心を推し量ってくれることです」
 文中の「君が良く知っている女性」はサリーを示しているとされる。サリーがワシントンと手紙を交わしていたことは事実である。ワシントンがこのように難解な文章を書いた理由は、途中で手紙が盗まれる可能性を恐れたためである。
 1754年から1755年にかけてワシントンはよく隣人であるジョージ・フェアファックスの家を訪ねていた。その際に、サリーと親しくなったと考えられる。ジョージ・フェアファックスの家での思い出は、若い頃の記憶の中でも特別に楽しいものであったようで、独立戦争が終わった後にワシントンは焼失した家の跡をめぐって次のように記している。
 「瓦礫の山を見た時、そこで過ぎ去った私の人生の最高に幸福な時期に思いを馳せる時、(今やすべて瓦礫と化した)家の部屋の跡を愉快な情景を思い起こすことなく辿ることができない時、私は瓦礫の山から逃げて、苦痛に満ちた感情とあまりに変わり果てたことへの悲しみを抱いて家に帰るしかありませんでした」
恋文の行方
サリーへ宛てた手紙は1877年3月30日の「ニュー・ヨーク・ヘラルド」紙にもう1通の手紙とともに掲載されたが、その後、オリジナルはオークションにかけられてしまい行方不明になった。そのため現在、手紙の真贋を確かめることはできない。ワシントンからサリーへ宛てた他の81通の手紙も1886年に公刊された。しかし、ワシントンとサリーの関係を立証する決定的な証拠は含まれていない。
また1920年代にJ. P. モーガン・ジュニアがワシントンの手紙を購入し、それが「淫猥」だという理由で焼却したと発表したことがある。何が「淫猥」であったのか、またその手紙が本物であったのかは不明である。晩年にサリーに送った手紙の中で、ワシントンは次のように往時を振り返っている。
 「多くの重要な出来事をすべてあわせても、私の人生で最も幸福だったあの幸せな瞬間、君と一緒に楽しんだ瞬間の思い出を私の心から消し去ることができる出来事は1つとしてないだろう」

ノーブレス・オブリージュ
大統領の報酬をめぐる議論
 1787年の憲法制定会議では、大統領の報酬についても議論された。その際にフランクリンは次のように述べて大統領に報酬を与えることに反対した。
「仕事に強い影響を及ぼす情熱が2つある。野心と貪欲である。すなわち、権力を愛し、お金を愛することである。それらは別々であっても各々、人を行動に駆り立てる大きな原動力になる。もし、それらが同じ対象[官職]において一挙に得られるのであれば、多くの人々の心に深甚な影響を及ぼす」
 ワシントンも公職に就くことを上流階層の名誉であり義務だと考えていたので、大陸軍総司令官として戦塵に身を置いていた時も大統領として勤めていた時も、単に給与を受け取る形式ではなく、公務に関わる必要経費だけを受け取る形式にするように求めた。しかし、議会は大統領の年俸を2万5000ドルと決定した。年俸を与えることで大統領が王とは全く別の存在だということが明示できるという利点があることが一因である。国民から年俸を受け取って働く王など存在しないからである。
当時の年俸額
 大統領の年俸は、副大統領の年俸が5000ドル、最高裁長官の年俸が4000ドル、そして司法長官に至っては年俸が1500ドルであったことを考えると、かなりの額であることが分かる。ただし、当時の考え方では社交に関わる費用などはすべて大統領のポケット・マネーから出すべきだと考えられていたので、これだけの年俸を受け取っても大統領職は経済的には割に合わない仕事であった。ワシントンが1年間で受け取った酒代の領収書だけでも総額3000ドルにものぼったという。
 さらにニュー・ヨークからフィラデルフィアに首都が移転する際に、ワシントンのために公費で邸宅が提供されることになった。しかし、ワシントンはその邸宅を私費で所有するか、賃借しない限りは住むつもりはないと断った。最終的にワシントンは私費でロバート・モリス家を賃借した。賃借料は年間3000ドルであった。

星条旗の誕生
 ワシントンがベツィ・ロスという未亡人の家具店を訪問し、スケッチを渡して新しい国旗を作るように依頼したという話がある。およそ100年後にペンシルヴェニアの歴史愛好家協会に子孫がそれを証言した。証言によると、新しい国旗を作る小委員会に属していたワシントンが未亡人の店を訪れたのは、夫の死後数カ月後のこと、つまり1776年の5月か6月頃であった。ロスは「ワシントンとは以前から良く知り合った仲で、彼は用事で来るだけではなく、しばしば私の家に遊びに来た。シャツの胸部や袖口に刺繍をしていたので、友情の証として旗を作ることを選んだ」と娘に語っていたという。
 しかし、大陸議会の記録には、ロスが言うような小委員会に関する言及はない。またワシントンは自らの行動の記録を詳細に手紙や日記に書き残しているが、この件については何も言及していない。本当にロスが星条旗の誕生に関与したかどうかは定かではない。しかし、ロスの名前は未だにアメリカ人にとって非常に馴染み深い名前であることは確かである。
 ちなみに星条旗が採用される前の旗はグランド・ユニオン・フラッグである。1776年1月1日に初めて公式に掲揚された。赤縞が7本、白縞が6本の計13本が横に入った意匠である。しかし、左上に母国イギリスのユニオン・ジャックが入っていたために、イギリス軍はワシントンが降伏するつもりなのだと勘違いしたという。大陸議会が星条旗のデザインを公式に定めたのは1777年6月14日である。

財産よりも大事なこと
 独立戦争の最中、イギリスの戦艦がマウント・ヴァーノン付近まで迫った。ワシントンからマウント・ヴァーノンの管理を任されていた親戚のルンド・ワシントンは機転を利かせてイギリスの戦艦に赴いて物資を供給する約束を結び、マウント・ヴァーノンを兵火から救った。ルンドはそれだけではなくイギリスの戦艦に逃れたマウント・ヴァーノンの奴隷を引き渡すように求めている。それを聞いたワシントンは、1781年4月30日、ルンドを叱責する次のような手紙を書いた。
 「イギリス軍の要求に応じなかったがために私の家が焼かれ、農園が崩壊させられたと聞かされたほうが、私にとってそれほどつらい状況ではない。あなたは私の身代わりであることを弁え、敵と通じ、戦災を防ごうとして自発的に物資を与えてしまう悪い例となり得ることを熟慮するべきであった」
 またワシントンは別の機会に、ルンドに「貧しい人達に対して我が家が居心地の良い場所になるようにしなさい。空腹のまま誰も我が家を立ち去らせてはならない。もしそうした人々が必要に足りるだけの穀物を持っていなかったら、それを与えるように。そうしても彼らを怠惰にすることはないだろうから。それに私のお金を年に40か50ポンドほど、もし与えるべきだとあなたが思うのであれば、慈善に使うことには反対しない」と指示している。

様々な入れ歯
 独立革命の英雄、銀細工師ポール・リヴィアがワシントンの入れ歯を作ったという伝説がある。またワシントンの入れ歯は木製だったという伝説もあるが、いずれの伝説も事実無根である。22歳から歯を失い始めたワシントンは、大統領就任時には自歯はたった1本しか残っていなかったという。日記の中でワシントンはよく歯のトラブルについて書いていた。おそらく歯周病か、または木の実を歯で割る習慣があったために歯を失ったと言われている。そのためワシントンは入れ歯を着用していた。その材質は、人間の歯、牛の骨、河馬の牙、鉛など多岐にわたっていた。ワシントンの肖像画が厳めしい表情をしているのも歯の不具合により口をしっかりと閉じる癖があったからだと考えられる。
 ワシントンの入れ歯の作成者として最も有名な人物はジョン・グリーンウッドである。グリーンウッドはポート・ワインで河馬の牙を着色し、封蝋を歯茎の代わりにしたという。
 ワシントンの入れ歯は1933年にシカゴで開催された万国博覧会で展示され衆目を集めた。また1981年、スミソニアン協会の保管庫内に収蔵されていたワシントンの入れ歯が紛失していることが発覚した。それは1795年に象牙と金で作られ、「これは偉大なるワシントンの歯であった」と刻まれていた。翌年、入れ歯の下部のみが発見されたが、上部は未だに行方不明である。

全米各地に名を残す
 全米各地に、「ワシントンが馬を繋いだ場所」や「ワシントンの馬の蹄の跡」など様々な言い伝えが残っている。1932年にワシントン生誕200周年を祝って刊行された『ジョージ・ワシントン地図帳』によれば、ワシントンゆかりの地は1000か所以上にのぼるという。首都のワシントンはもちろんのこと、由来がはっきりしている場合で少なくとも1つの州、31の郡、22の町、2つの湖、1つの山、1つの島がワシントンに因んで命名されている。
 ワシントンの名前が初めて町の名前に付けられたのは1775年11月5日である。ノース・カロライナ邦のフォークス・オブ・タール・リヴァーという名前で呼ばれていた町が、その当時、大陸軍の総司令官だったワシントンの名前に因んで「ワシントン」と名付けられた。また1782年6月15日にはワシントン大学が開校した。アメリカで10番目に古い大学である。

敵将の猟犬を返す
 1777年10月、1頭の猟犬が、ペニベッカーズ製粉所(ジャーマンタウン近郊)に設けられたワシントンの司令部に迷い込んだ。その犬を捕らえた将校たちは、マスコットにするか、それともそのまま放してやるか議論した。その中の1人が、犬の首輪に持主の名前が書かれていることに気が付いた。それは敵将であるウィリアム・ハウ将軍の名前であった。ワシントンは、休戦の旗の下で犬を正当な飼い主に返却すべきだと主張した。ワシントン自身も猟犬をこよなく愛していたので、猟犬と飼い主の間にある強い絆をよく理解していた。
 「ワシントン将軍がハウ将軍へご挨拶申し上げる。偶然、1頭の犬が我が手に落ちた。首輪に刻まれた文字からハウ将軍の犬のようだ。その犬をお返しすることを喜ばしく思う」というカードを付けてワシントンはハウ将軍に犬を送り返した。犬を返した後、ワシントンはハウに手紙を送っている。その手紙の中でワシントンは、イギリス軍兵士が一般市民に害を及ぼさないように求めている。ハウに犬を返すという人道的な行いを示すことでワシントンは、ハウにも占領下のフィラデルフィア市民に対して人道的な行いを示すように求めた。

ヨーロッパ連合の結成を予言
 「我々は自由と連帯の種を播いた。暫くすればその種は世界中で育つだろう。いつの日か、アメリカ合衆国をお手本にしてヨーロッパ連合が構成されるだろう」とワシントンはラファイエットに宛てた手紙の中で語っている。

心憎い返答
 ワシントンはワシントンD. C.に住むことはなかったといえ、その建設に大いに貢献した。ある時、ワシントンは1人の農園主を訪問し、土地を譲渡するように迫った。その農園主の土地は、ちょうどワシントンD. C.の建設予定地にあった。「もしここに連邦の首都ができなければ、一生、貧乏なタバコ農園主のままだぞ」とワシントンが言うと、農園主はこう答えたという。
「ああそれなら、もしカスティス未亡人と彼女が持っていた奴隷がいなければ、あなたは未だに測量技師のままでとても貧乏だったでしょうね」
 そう言いながらも農園主は土地を快く譲渡した。その土地は今ではラファイエット広場になっている。

 使われなかった第1次就任演説草稿の行方
 ワシントンがマディソンに示した第1次就任演説の草稿は73ページにもわたる長大なものであった。マディソンが新たに草稿を書き起こしたためにその草稿は使われずに終わった。1827年、それが再発見された際に、大部分がワシントンの手跡によるものだったので、肉筆文書を求める人々にばらばらに刻まれて配布された。
 1996年、2つの断片がイギリスの民家のソファの下から見つかり、ロンドンで行われたオークションで落札価格30万7230ドルを記録した。2つの断片がもとの草稿のどの部分にあたるかは全く判明していない。これまで他に13の断片が発見されている。

友誼に報いる
 1792年、かつて独立戦争でともに戦ったラファイエットは引き続く政治変動の余波でフランスからオーストリアに亡命したが、同地で投獄の憂き目に会った。1796年4月、ワシントンはアメリカに亡命していたラファイエットの息子をフィラデルフィアの大統領公邸に招待している。さらに5月15日、オーストリア皇帝フランツ2世に個人的な書簡を送り、ラファイエットの解放を求めた。1797年夏、ラファイエットは晴れて自由の身となった。

ワシントン記念塔
 ワシントン記念塔はよく知られているようにワシントンにある。高さ555フィート5と8分の1インチである。1848年から1884年にかけて建設されたオベリスク状の構造物である。
冠石は当時、希少金属であった高純度のアルミニウム製であり、四方に刻印がある。北面には、冠石設置合同委員会の名の下に第21代大統領チェスター・アーサーの他関係者の名前が見える。西面には、1848年7月4日に定礎石を置き、冠石が1884年12月6日に置かれたことが記されている。南面には、建造関係者の名前が刻まれている。そして、東面には、「神を讃えよLaus Deo」というラテン語が刻まれている。
 その内部の一隅には、1785年10月7日にラファイエットに宛てた「私の一番の願いは[中略]全世界が平和になり、世界に住まう人々が兄弟のような絆で結ばれ、誰が人類の幸福に最も貢献するかを競うのを見ることです」という言葉が刻まれている。
 またワシントンは1900年に創設された栄誉の殿堂で「偉大なアメリカ人」として最初に選ばれている。

甥への戒め
 1783年1月15日、ワシントンは甥のブッシュロッド・ワシントンに次のような手紙を送っている。
 「皆に礼儀正しくあれ、しかし、親密にするのは少数にとどめなさい。そして、彼らを信頼する前によく試してみるように。真の友情はゆっくり成長する植物であり、そう呼ぶのに相応しくなるまでに数多の困難を耐え忍ばなければなりません。[中略]。素晴らしい羽が素晴らしい鳥とならないのと同じように、素晴らしい服装が素晴らしい人物になるとは思わないように。簡素だが品の良い衣装のほうが、レースや刺繍よりも分別とセンスがある目から尊敬され信用を得ることができます。最後に私が言いたいことは第1に重要なことで、つまり、賭博を避けることです。これは、すべてのありうる害悪を生み出す悪徳であり、同じくその信奉者の健康と道徳に有害です。それは貪欲の子であり、不公正の兄弟であり、危難の父です。それは多くの名だたる一族を破滅させてきました。多くの男の名誉を失わせました。そして、自殺の原因にもなっています。勝っている賭博師は、分が悪くなるまでつきを追い求め、負けている賭博師は過去の損失を取り戻そうとしてますます悪い状態にはまり込みます。絶望に至るまで彼はすべてのものを賭けて、そしてすべてのものを失うのです。つまり、この憎むべき慣習には百害あって一利(もし利があってもすぐに消し飛んでしまいます)もないのです」

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究