職業経験(独立戦争以後)


大陸軍総司令官
戦略の特徴
戦力比

 「イギリスの国力はいわば無尽蔵であり、イギリスの艦隊は海を覆い、イギリスの軍隊は地球上のあらゆる場所で勝利の栄冠を摘み取っていたことはよく知られていました。その時、我々は1つの国家として、または1つの国民としてまだ全く組織されておらず、我々は何の準備もすることができませんでした。戦争の肝であるお金は不足していました。剣は必要性という鉄床で鍛えられました」とワシントンは第1次就任演説の草稿で記している。
 独立戦争中、イギリスは水兵と陸兵あわせて最大4万5000人もの兵員を1つの作戦で動員している。イギリス軍は主に正規兵とヘッセン傭兵で構成されていたが、いずれも熟練度は高かった。他にも王党派や同盟関係にあるネイティヴ・アメリカンの支援を期待することができた。また強力な海軍により制海権を確保することができ、海岸部では補給が容易であった。
 対するアメリカは数でこそイギリスに匹敵する兵員を動員することができたが、熟練度の点では劣っていた。当初は兵役期間が1年間と短いうえに、しばしば徴募に応じる者が少なく、イギリス軍に対抗できるだけの人数を揃えることは容易ではなかった。弾薬や食糧は慢性的に不足し、装備の点でもイギリス軍に劣っていた。再三再四、ワシントンは大陸会議に対して、大陸軍の兵役期間が長期化されなければ民兵に依存せざるを得ないと忠告している。それは大陸軍が満足に機能していないことを意味していた。
 ワシントンの努力が実り、1776年後半になってようやく大陸会議は、兵役期間を3年に延長し、兵士達に1人あたり20ドルの報奨金と100エーカーの土地を与えることを決定した。しかし、こうした約束はしばしば守られなかった。大陸会議が積極的な是正策をなかなかとらなかった理由として、財源の不足と職業軍人による政府転覆への警戒が挙げられる
作戦会議

 ワシントンは戦争を通じて作戦会議をしばしば開いた。作戦会議でワシントンは、できる限り将軍達の意見を引き出すように努め、たいてい大多数の意見に従った。時には最終的に自ら判断を下すこともあったが、年長の将軍達に命令を下すことを躊躇うこともあったという。このように会議を主催する経験は後に大統領職を務めるうえで有用な経験となった。
 またラファイエット侯爵やアレグザンダー・ハミルトンのような若い士官達に父親のように親身に接した。そのためハミルトンはワシントンの実子であるという噂まで囁かれるほどであった。
 ワシントンは賞罰にも注意を払っていた。ある将軍に「すべての者への賞罰は、依怙贔屓や偏見なく、功績によって与えること、不満を聞き、もしそれが妥当ならば改善すること。もし妥当でなければ、勝手気ままを防ぐために不満を抑えるようにすること」と助言している。それでも将軍達が反目しあうことは珍しいことではなく、それもワシントンの悩みの種であった。また将軍達の任命もワシントンの独断では決定できず、大陸会議の政治的意向を受け入れなければならなかった。
政治的問題
 ワシントンの総司令官としての職権は大陸会議の権威に基づいていた。しかし、大陸会議は戦争を遂行するのに必要な権限がほとんどなかった。まず徴兵する権利がなかった。その代わりに兵士を募集しようにも報奨金を支給する財政的裏付けに乏しかった。なぜなら大陸会議は諸邦に分担金の支払いを請求することはできても、直接課税する権限はなかったからである。当然、それは大陸軍の補給を著しく滞らせる結果を招いた。しかも、大陸会議の代表達の根底には、常備軍に対する警戒心があったので、常にワシントンは議会の意向を違えないように慎重に行動する必要があった。
 また将校の任命も実力ではなく、しばしば諸邦の政治的バランスに基づいて行なわれた。こうした人事は指揮系統の混乱を招き、ワシントンの悩みの1つとなった。さらにアメリカ軍の将校はその大半が元来、一般市民であり、専門的知識を持った職業軍人がいなかった。頼るべき軍事的伝統もなく、ワシントンは新たにアメリカ軍の伝統を築かなければならなかった。

1775年の戦況
ボストン包囲

 1775年6月23日、大陸軍総司令官の重責を負ってワシントンはフィラデルフィアから旅立った。この頃の気持ちをワシントンは、「私は今、嵐の海に乗り出そうとしている。そして、おそらくそこには友好的な港は見つからないだろう。[中略]私は3つのことで[その状況に]応じることができる。我々の大義は正しいという信念、その信念を遂行することに専念すること、そして厳格な高潔さで」と述べている。実は戦争初期において、この戦争が長期化し、最終的に独立に繋がるとはワシントン自身も思っていなかった。単にイギリスから有利な条件を引き出すために軍事的勝利を利用しようとワシントンは考えていた。
 しかし、イギリスはアメリカに強硬姿勢を示した。8月23日、ジョージ3世は反逆宣告を発令した。それはワシントンに反逆の咎で「然るべき刑罰」を与えるものであった。次第にワシントンは戦争に勝利するためには独立以外に道が残されていないのではないかと思うようになった。
 7月3日、ニュー・ヨークを経てボストン郊外ケンブリッジに到着したワシントンは、6月17日のバンカー・ヒルの戦いで意気上がるアメリカ軍(大陸会議によって召集された正規兵である大陸軍と各植民地によって召集された民兵隊から成る)の指揮を引き受けた。実動の兵士数は約1万4000人である。
 アメリカ軍はボストンを占領するイギリス軍を包囲していた。アメリカ軍と言ってもその内実は、コネティカット、ロード・アイランド、ニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ各植民地の軍の寄せ集めであり、統一した指揮系統を持っていなかった。戦争中、アメリカ軍は主に大陸会議が徴募した軍隊と各邦が編成した民兵の2つに別れていた。 
軍隊の維持管理
 指揮系統を明らかにするためにワシントンは、指揮権をなかなか手放そうとしない各植民地と交渉する必要があった。それだけではなく、将校の綱紀粛正を図らなければならなかった。
 また徴募で集められた兵士は訓練が行き届いておらず、また軍需品も十分とは言えなかった。そもそも民兵は一般市民であり職業兵士ではなかった。大砲や工兵部隊もほとんど配備されていなかった。テント、毛布、軍服なども不足していた。
 ワシントンは、兵士の待遇改善の必要性について「人々を軍務に喜んで就かせるためには、愛国心に加えて何か他に[彼らを]鼓舞するものがなければならない」と述べている。また「軍事行動において、兵士達がその義務を正しく果たすように促すものが3つあります。もともと備わった勇気、報酬への期待、処罰への恐れです」とも述べている。さらに兵士の脱走は戦争中、継続してワシントンの頭を悩ませた問題であり、絞首刑を含んだ厳罰で対処しなければならなかった。ワシントンがまず行なわなければならなかった仕事は、こうした雑多な集団を1つの軍隊として統合する作業であった。
 ワシントンはボストンの攻囲網を再構築し、イギリス軍の補給を絶つ作戦をとった。例えばボストン周辺の畜牛を退避させるなど「私の力の及ぶ限り、イギリス軍を悩ませることすべて」を行った。
海軍の創設
 ワシントンが総司令官に就任した時、海軍力は皆無に等しかった。そこで海軍の結成もワシントンの仕事であった。1775年9月2日に最初の海軍将校を任命し、さらに10月13日、大陸会議は2隻の船を武装しイギリスの補給船を襲撃する許可を与えた。これが実質上、アメリカ海軍の発祥となった。
 
1776年の戦況
ボストン解放

 1776年2月16日、ワシントンは作戦会議を開き、ボストン攻撃開始を幕僚に諮った。幕僚達は全員、ワシントンの計画に反対を唱えた。1つの転機となった出来事は、タイコンデローガ砦で鹵獲した大砲が届いたことである。
 まずその大砲を戦略的に効果的な場所に配置しなければならなかった。最適な場所はボストンを南から見下ろす位置にあるドーチェスター・ハイツであった。しかし、イギリス艦隊の目を掻い潜り、砲兵隊からの砲撃を避けながら大砲を運び上げることは至難の業であった。そこでワシントンは陽動作戦を行なう一方で、夜陰に乗じて別働隊が堡籃をドーチェスター・ハイツに運び堡塁を築いた。3月4日のことである。ドーチェスター・ハイツを占領することによりアメリカ軍はボストンを自由に砲撃できる拠点を手にした。
 ボストンのイギリス軍指揮官ハウ将軍は水陸両面からの攻撃を試みようとしたが、悪天候のために断念を余儀なくされた。結局、3月17日、戦況の不利を悟ったハウ将軍は軍を率いてボストンから退避し、ノヴァ・スコシアに向けて出港した。退却に際してボストンに火が放たれる恐れがあったので、ワシントンは出港するイギリス軍に攻撃を加えなかった。また大陸会議からボストンを破壊しないように命じられていた。
ニュー・ヨーク防衛作戦
 ボストンから北方のノヴァ・スコシアに一旦後退したハウ将軍は態勢を立て直し3万2000のイギリス軍とヘッセン傭兵を率いてニュー・ヨーク攻略の準備に取り掛かった。ニュー・ヨークを制圧し、通信や輸送の大動脈であるハドソン川を抑えて、ニュー・イングランド諸植民地を孤立させることがイギリス軍の狙いであった。またニュー・ヨーク周辺は王党派が多く、支援を当てにすることができた。さらに王党派の支援が強固であることを示せば、イギリス本国での戦争懐疑論を抑えることもできると考えられた。
 次にイギリス軍が攻撃するのはニュー・ヨークであると確信していたワシントンは、3月27日、ボストンからニュー・ヨークに向かった。ニュー・ヨークという要害の特性についてワシントンは「航行可能な深い水域に囲まれているので、水域を支配する者が町を支配するに違いない」と述べている。制海権はイギリスに握られていたのでアメリカ軍の勝機はほとんど見込めなかった。
 7月3日、ハウ将軍はスタテン・アイランドに部隊を上陸させ、さらに周辺水域を完全に制圧した。約3万2000人の兵士と約1万3000人の水兵からなるイギリス軍は、これまでのイギリス史上、最大級の海外派兵であった。対するワシントン率いるアメリカ軍は、約1万9000人で、大陸軍はそのうち9000人であった。アメリカ軍は8月までに2万8000人まで増強された。 
 さらにイギリス海軍は多くの軍艦を駆使して制海権を掌握していた一方で、アメリカ海軍は依然として配備が遅れていた。1775年の時点で既にイギリス海軍は60門以上の大砲を備えた軍艦だけでも131隻を擁していた。
 ワシントンはニュー・ヨークを防衛するためにアメリカ軍を大きく5つに分けた。そのうち3つはマンハッタン島の南部に布陣した。そして1つの部隊がマンハッタン島北部のワシントン砦を守備し、さらに残りはロング・アイランドに配置された。
 こうした最中、大陸会議が独立宣言を発表したという報せが届いた。ワシントンは、7月9日、「栄えある大陸会議は、道義、政策、そして必要に迫られて、謹んで我が国とイギリスの間で存続していた繋がりを解消し、北アメリカ植民地連合が自由で独立した国であることを宣言した」ことを通告し、独立宣言を兵士達の前で読み上げるように指示した。
ロング・アイランドの戦い
 8月22日、約3000名のイギリス軍部隊がスタテン・アイランドからロング・アイランドに上陸した。翌日、ワシントンは兵士達に「敵軍がロング・アイランドに今、上陸している。そして、我が軍の栄光と成功、そして祖国の安全が決まる時が迅速に近付いている」と告げている。続いて8月26日夜、イギリス軍の大部隊がロング・アイランドに上陸を開始した。そして、8月27日、ロング・アイランドで激しい衝突が起きた。このロング・アイランドの戦いは、アメリカが独立を明らかにして以来、初めての大きな戦いになった。
 ロング・アイランドにはニュー・ヨーク市街が一望できる北部のブルックリン・ハイツにイズレイル・パットナム配下の6500名に加えて、その南部にウィリアム・アレグザンダー将軍率いる1600名とジョン・サリヴァン率いる1500名が布陣していた。その他の部隊はニュー・ヨーク市街を中心にマンハッタン島各所を固めていた。つまり、アメリカ軍はイースト川を挟んで、ロング・アイランドとマンハッタン島に大きく二分されていた。一方、イギリス軍は制海権を抑えていたのでどこでも自由に攻撃することができた。
 合計約2万2000のイギリス軍がブルックリン・ハイツの前に布陣したアレグザンダーとサリヴァンの部隊に襲い掛かった。ジェームズ・グラント少佐率いる7000名のイギリス軍と5000名のヘッセン傭兵部隊が正面攻撃を開始する一方で、ハウ将軍率いる1万名の部隊はアメリカ軍の左後部に迫った。サリヴァンの部隊は頑強に抵抗したが、イギリス軍が後ろに回り込みつつあるのを知ってブルックリン・ハイツに退却した。指揮をとっていたサリヴァンは捕虜となった。それに引き続きアレグザンダーの部隊も退却した。アメリカ軍の損失は死傷者や捕虜をあわせて1500人近くにのぼった。イギリス軍は要塞化されたブルックリン・ハイツを攻略する準備に取り掛かった。その一方でワシントンは事態を収拾するために自らマンハッタン島からロング・アイランドに渡った。
 翌28日、ブルックリン・ハイツを守りきれないと判断したワシントンは全軍をマンハッタン島に退却させることを決定した。8月29日夜から30日にかけて、夜陰と霧に乗じて、アメリカ軍はイースト川を渡ってマンハッタン島に撤退した。この夜間撤退の際、ワシントンは最後の兵士が渡河を渡るまで待っていたという。イギリス軍は30日の早朝までアメリカ軍の撤退に気付かなかった。このロング・アイランドの戦いの敗北により、アメリカは独立宣言に基づいた新たな闘争の出鼻を挫かれることになった。その時、ワシントンの 麾下にある兵は1万5000人を下回っていた。
ハーレム・ハイツの戦い
 イギリス軍は9月中旬までさらなる攻撃を行なわなかった。ハウ兄弟がロング・アイランドの戦いで捕らえたサリヴァン将軍を使者に立て、大陸会議に和平を提案したからである。結局、会談は物別れに終わり、戦いが再開した。
 天候に恵まれた9月15日、クリントン将軍率いるイギリス軍はマンハッタン島のアメリカ軍に攻撃を加えた。攻撃はワシントンが予測していた場所とは違った場所に加えられた。ワシントンは、「彼らは我々の背後をとることによって、我々をニュー・ヨークの島[マンハッタン島]に閉じ込めるつもりでしょう」と大陸会議議長に語っているように、マンハッタン島の北方からイギリス軍は攻撃してくるだろうと予測していたのである。そのため北部のハーレム周辺を中心として16マイルにわたる防衛線を引いた。しかし、イギリス軍が上陸地点に選んだのは、ハーレムより6マイル南のキップス・ベイであった。
 クリントン将軍はアメリカ軍を包囲殲滅できるように北部から攻撃するように提案したが、ハウ将軍が市街に甚大な被害が及ぶという理由でその提案を却下したからである。その代わりに防備が脆弱なキップス・ベイが上陸地に選ばれたのである。
 キップス・ベイ周辺を守備していたコネティカット民兵は練度も戦闘経験も乏しい部隊だったので、4000名のイギリス軍を前にしてほとんど銃火を交えず撤退した。イギリス軍襲来を砲声で知ったワシントンはハーレムから南に向かい、何とかして兵を糾合しようとした。それに失敗したワシントンは激昂して将校や兵士達を乗馬鞭で打った。敵軍が迫ってきたのにも拘らずワシントンが後退しようとしないので、側の者がワシントンの乗馬の馬勒を掴んでようやくその場から離れさせるほどであった。
 翌16日朝、コネティカットの150名からなるレンジャー部隊がイギリス軍と遭遇した。司令部で銃声を聞きつけたワシントンは交戦地の近くまで馬を走らせ、将校達と対応を協議した。その時、イギリス軍が軍隊ラッパを吹き鳴らした。その音色は狐が仕留められて狩りは終わったという意味であった。侮辱を受けたワシントンはすぐさまレンジャー部隊に応援部隊を送るように指示した。戦闘は現在、コロンビア大学がある辺りで正午過ぎに行われた。
 戦闘の結果、アメリカ軍は約1500名のイギリス軍を撃退した。アメリカ軍の死傷者はレンジャー部隊と応援部隊の指揮官を含め135名ほどであった。対してイギリス軍の損失は約270名にのぼった。この戦闘によってアメリカ軍は10月半ばまでマンハッタン島の北部を失わずに済んだ。さらにワシントンは、「この小さな勝利が並外れて我が軍を鼓舞した。彼らは、敵軍を打ち破るために必要なものは、決意と優れた将校のみであるということを知った」と述べている。この戦いはハーレム・ハイツの戦いと呼ばれている。
ホワイト・プレーンズの戦い
 10月半ばまでイギリス軍はハーレム・ハイツに攻撃にほとんど攻撃を仕掛けてこなかった。そうした動きに対して、ワシントンは北方のウェストチェスターに軍を上陸させて包囲網を敷くつもりではないかと考えた。
事実、ハウ将軍はヘルズ・ゲイトを通って東から水路で北に回り込もうとしていた。10月12日、スロッグス・ネックに敵軍が上陸しようとしているという報せを受け取ってワシントンはハウ将軍が北に回りこもうとしているという確信を強めた。スロッグス・ネックへの上陸は難しいと判断したイギリス軍は、さらに北上し、18日、に上陸した。
 同日、ワシントンはマンハッタン島からニュー・ヨーク北郊のホワイト・プレーンズ に向けて撤退を開始していた。ホワイト・プレーンズに到着したアメリカ軍はの3つの丘陵に分かれて陣取った。
ホワイト・プレーンズに到着したハウ将軍は、10月28日、西側の最も険しいチャタートンの丘が手薄なのを見て強襲を仕掛けた。アレグザンダー・マクドゥーガル将軍Alexander McDougall率いるアメリカ軍はニュー・ヨーク失陥による士気の低下や兵士の脱走に悩まされながらも強い抵抗を示した。しかし、結局、チャタートンの丘はイギリス軍の手に落ちた。有利な態勢を確保したハウ将軍であったが、増援軍の到来を待ったためにワシントンの本営を攻撃する機会を逃すことになった。
 ワシントンは10月31日から11月1日にかけて、雨天に乗じて軍をキャッスル・ハイツまで首尾よく退却させた。このホワイト・プレーンズの戦いでアメリカ軍が約150名の死傷者を出した一方で、イギリス軍は300名以上の死傷者を出した。
ワシントン砦の陥落
 11月初め、ハウは軍をマンハッタン島へ戻す動きを見せた。幕僚会議が急遽開かれ、イギリス軍の攻撃目標がどこに向けられているかが議論された。その結果、イギリス軍がニュー・ジャージーへの侵攻を目論んでいるという推定の下、あらゆる動きに備えるためにアメリカ軍は大きく3つに分散した。まずノース・キャッスルにチャールズ・リー指揮下の7000名が残った。残りは北方のピークスキルに向かった。同地に4000名を配置した後、約3000名がワシントンの指揮の下、ハドソン川を渡り対岸のハーヴァーストローからニュー・ジャージーを南下した。
 こうしたアメリカ軍の推測は完全に外れた。ハウの攻撃目標はマンハッタン島の最北部の丘陵に築かれたワシントン砦であった。ワシントン砦には、マンハッタン島を撤退する時に残した部隊に増援部隊をあわせた2900名近くの守備兵が駐留していた。ワシントン砦は対岸のリー砦とともにハドソン川を扼し、イギリス軍の北上を妨げていた。
 11月15日、ワシントン砦にイギリス軍が向かっているという急報を受けてワシントンはまずリー砦に向かった。リー砦には防備を任されていたグリーン将軍の姿はなかった。グリーン将軍が対岸に渡ったことを聞くとワシントン自身も船を用立ててハドソン川を渡ろうとした。その途中でワシントンは対岸から向かってくるグリーン将軍の一行に出会い、ワシントン砦の防備は問題ないという保証を受けて一行とともに戻った。
 11月16日10時、降伏勧告を拒絶されたイギリス軍は三方から砦を攻撃した。対岸からそれを見ていたワシントンは砦を守るロバート・マゴー大佐に、夜陰に乗じて撤退を試みるように促す急使を送った。しかし、時既に遅く、急使は砦が降伏したという報せを持って帰っただけであった。砦が陥落した結果、2,858人のアメリカ軍兵士が捕獲された。さらに4日後、対岸のリー砦もイギリス軍に占拠された。ワシントンがリー砦の放棄を決定したので、守備兵はイギリス軍が到着する前に砦から脱出した。  
 11月20日、ワシントン率いる部隊はハッケンサック付近でリー砦から退却してきたグリーン将軍の部隊と合流した。そして、イギリス軍の追尾をかわしてニューアークに向かった。11月22日にニューアークに到着した後、アメリカ軍はフィラデルフィアに向かって軍を退いた。12月7日、ワシントンはデラウェア川を渡ってペンシルヴェニア邦に入った。渡河後に船をすべて破壊してイギリス軍の進軍を妨げた。
 この間、ワシントンが最も気にかけていたのはリー指揮下の部隊の合流であった。リーがワシントンの指揮能力に疑問を抱き、イギリス軍の後背を脅かす作戦行動に固執していたために両部隊の合流が遅れていたのである。またリーはかねてからワシントンに不信感を抱き、自らが総司令官に就くべきだと考えるような傾向があった。結局、リーの部隊の大半は捕虜となるか、散り散りになるかして失われた。
 ワシントンの見積もりでは、約1万人のイギリス軍がアメリカ軍を追尾していた。一方で、ワシントンの指揮下で戦闘可能な兵士は3000人を切っていた。こうした状況についてワシントンは、弟のジョンに宛てた12月18日付けの手紙の中で「もし新しい軍の召集に全力を尽くさなければ、[中略]ゲームはもうまもなく終わりだと思う」と述べている
トレントンの戦い
 12月20日、ようやくリーの残兵が合流した。合流命令をなかなか実行に移そうとしなかったリーが誤って敵軍の捕虜となり、大きな障害がなくなったからである。ちなみにリーは後に捕虜交換で軍に復帰している。
大部分の兵士の兵役期間が12月31日で切れるために、兵力に余裕があるうちに何らかの戦果をあげようとワシントンは考えた。そして、幕僚にほどんど諮ることなく作戦を決定した。いわゆるトレントンの戦いである。トレントンはデラウェア川の東岸にあり、春になればペンシルヴェニア邦に対する攻撃の始点に使われる恐れがあった。
 まずワシントンは陽動作戦としてジョン・カドウォーラダ中佐率いる1900名にトレントンの南に位置するボーデンタウンを攻撃するように命じた。さらにジェームズ・イーウィング准将に700名の兵士を与え、トレントン南部を流れるアサンピンク川に架る橋を占領するように命じた。敵軍の退路を絶つためである。
 25日夜、ワシントンは約2400人の兵士を率いてトレントンの北約9マイルの地点で流氷の浮かぶデラウェア川を渡った。夜間行軍と厳しい寒さの中の渡河はアメリカ軍にとって大きな賭けであった。その一方、イーウィングの部隊は渡河を諦めた一方で、カドウォーラダの部隊も渡河には成功したものの、大砲を渡すことができず、すぐには攻撃に移らなかった。
 ワシントン率いる部隊は渡河に成功した後、降りしきる雪の中、二手に分かれてトレントンの町に南下した。8時頃、町の外れに到着したアメリカ軍は不意打ちに驚く前哨隊をやり過ごして一気に町の中央に進んだ。トレントンを守っていた1400名のヘッセン傭兵は、数で優るアメリカ軍と砲火にさらされて圧倒され、身を守る物がない町の外に追い出された。指揮官が戦死し、さらにアメリカ軍に包囲されたのを悟ってヘッセン傭兵は降伏した。
 砲火が止み、1人の将校がワシントンのもとに駆け寄り勝報を告げた時、ワシントンは「ウィルキンソン少佐、今日は我が国で最も栄光ある日である」と言ったという。この戦でヘッセン傭兵は、少なくとも22名の死者と84名の死傷者を出し、900名以上が捕虜なった。一方でアメリカ軍の損失は数名の死傷者にとどまった。
 27日、カドウォーラダの部隊も攻撃を開始し、ボーデンタウンの守備兵をプリンストンに追った。一旦、ワシントンは、イギリス軍の増援部隊による包囲を避けるために西岸に撤退していたが、その報せを聞くとトレントンに兵を戻し、カドウォーラダ率いる部隊の合流を待った。
 新たな敵軍がトレントンに接近中であったが、それに対抗するべき兵士達の兵役期間の終了が間近に迫っていた。新年になる前に、多くの兵士が陣営を離れる予定であった。そのため、ワシントンは10ドルの報奨金を与える代わりに、兵役期間を6週間延長するように兵士達に呼びかけた。将校は兵士達に、それに応じる者は太鼓の音とともに前に進み出るように命じた。しかし、太鼓が打ち鳴らされた時、動いた者は誰もいなかった。それを見たワシントンは兵士達にさらに訴えかけた。再び太鼓が打ち鳴らされた。数人の兵士が前に進み出た。それに続いて多くの兵士たちが前に進み出た。
 こうして数日もすれば去る予定だった兵士達の3分の2が6週間の兵役期間延長に応じ、アメリカ軍が瓦解する危機は回避された。兵士達がワシントンの要求に応じたのは、ワシントン個人に対する忠誠心によるところが大きい。

1777年の戦況
プリンストンの戦い

 1777年1月2日、チャールズ・コーンウォリス率いる5500名のイギリス軍がトレントンに入り、アサンピンク川を挟んでアメリカ軍と対峙した。川を挟んで両軍は砲撃の応酬を交わした。ワシントンはイギリス軍の兵力を見て、軍需物資が置かれている背後のプリンストンが手薄なことを察した。そこで400名の部隊を陣営に残し、篝火を絶やさず、物音を立てて擬装するように命じた後、ワシントン自身は大部分の部隊を率いてプリンストンを奇襲すべく北上した。物音を立てないように砲車にはぼろきれが巻かれた。
 1月3日黎明、アメリカ軍の分遣隊がプリンストンからトレントンへ増援に向かう800名のイギリス軍部隊と遭遇した。分遣隊の指揮官が戦死し、イギリス軍の銃剣突撃により部隊は総崩れになった。それを察したワシントンは自ら敵の銃火まで僅か30ヤードの距離に馬を進め、「共に進め、我が勇敢なる同志よ。敵は一握りに過ぎない。我々は彼らを完全に打ち負かせる」と士気を鼓舞した。その様子を幕僚の1人は、「無謀にも彼は自身を[敵陣に]晒したので、私はきっと将軍が崩れ落ちるに違いないと思い、外套を引き上げて顔を覆い、その恐ろしい光景を見まいとした」と語っている。銃火による硝煙が止んだ時、ワシントンは無傷で立っていた。後退するイギリス軍をアメリカ軍が追撃し始めた時、ワシントンは「諸君、昔懐かしいヴァージニアの狐狩りだったね」と叫んだという。
 このプリンストンの戦いの結果、イギリス軍は18名の死者と58名の負傷者を出し、約300名が捕虜となった。一方、アメリカ軍は25名の死者と40名の負傷者を出した。2時間後、アメリカ軍はプリンストンを占領し、莫大な軍需物資を鹵獲した。ワシントンはさらにプリンストンと同様に軍需物資が置かれているニュー・ブルンズウィックの攻撃を検討したが、兵士達が疲労の極みに達しているのを見て攻撃を断念した。コーンウォリスは軍を率いてプリンストンに向かったが既にアメリカ軍は去った後であった。プリンストンを失い兵站線を脅かされたことでイギリス軍は、ニュー・ジャージー中央部と西部から撤退を余儀なくされた。
 こうした一連の戦いを、同時代のフリードリヒ大王Frederick the Greatは、軍事史上、最も優れた作戦の一つだと賞賛している。しかし、ニュー・ヨークは未だに敵の手中に落ちたままであった。
 プリンストンの戦いの後、ワシントンはニュー・ジャージーのモリスタウン冬営地に軍を宿営させた。モリスタウンは、背後を丘陵地帯で守られた要地である。さらにウォッチャング山系により沿岸部と隔てられていたので、イギリス軍の接近を容易に知ることができた。モリスタウンでワシントンは、1月25日、イギリスの支持者に対して、30日以内にアメリカに忠誠を誓うか、またはイギリスの勢力圏内に立ち去るように布告している。
 この頃、多くの兵士達の兵役期間が満了を迎えたために、兵士の数が3000人を割り込むこともあった。新たな兵士達を迎えて5月までには約1万人程度まで兵数は回復していたが、実働数は7000人程度であった。それはハウ将軍が動員できる兵数の3分の1程度に過ぎなかった。幸いにもハウ将軍は夏を迎えるまで大きな動きを見せなかった。
ブランディワイン・クリークの戦い
 ニュー・ヨークに続いてフィラデルフィアの攻略にハウ将軍は本格的に乗り出した。まずフラデルフィアに向かう前に後顧の憂いを絶とうと、6月、ハウ将軍はワシントンをウォッチャング山系から誘い出そうとしたが試みた。しかし、ワシントンが全く誘いに乗らなかったので、ハウ将軍はニュー・ジャージーを横断してフィラデルフィアを攻撃する計画を断念した。
 7月23日、ハウ将軍は1万8000名の兵士を率いてニュー・ヨークを出港して南下を始めた。そして、8月25日、イギリス軍はフィラデルフィア南西を流れるエルク川河口よりさらに8マイル南のトルーキー岬に上陸した。デラウェア川を遡るほうが断然近道であったが、アメリカ軍の要塞群がイギリス軍の遡上を阻んでいた。そこでイギリス軍はさらに南西に回り込んでフィラデルフィアを攻略する作戦に出たのである。
 敵軍はサウス・カロライナ邦チャールストン付近に上陸すると予測していたワシントンにとってそれは驚きであった。諜報により、ハウ将軍の攻撃目標はフィラデルフィアだと確信したワシントンは、8000名の大陸軍と3000名のペンシルヴェニア民兵からなる軍を進発させた。8月24日、アメリカ軍はフィラデルフィアを行進した後、デラウェア邦ウィルミントンWilmingtonに野営した。ワシントンは自ら偵察隊を率いて長い船旅で疲弊しているイギリス軍の様子を視察している。その道中の8月26日夜、嵐のためにワシントン一行は敵軍のすぐ傍にある農家で一夜を過ごさなければならなかった。
 東進を開始したイギリス軍は9月3日、クッチズ・ブリッジで民兵の前衛部隊を一蹴した。一方、ワシントンはアメリカ軍本隊をデラウェア邦ニューポートの西にあるレッド・クレイ川の東岸に移動させていた。そして、イギリス軍が到着する前にブランディワイン川の各所にチャズ・フォードを中心にして兵員を配した。
 9月11日、ケネット・スクウェアからイギリス軍は二手に分かれて進軍を開始した。コーンウォリス将軍は厚い霧にまぎれ8200名を率いて北方に向かった。残りの5000名はウィルヘルム・クニプハウゼン将軍の指揮の下、南部のチャズ・フォードに向かった。これは陽動作戦であった。
 ハウ将軍が部隊を進発させたという諜報をワシントンは得た。しかし、クニプハウゼン将軍率いる部隊の動きは判明したものの、コーンウォリス将軍率いる部隊の動きをつかむことができなかった。11頃、コーンウォリスの部隊はアメリカ軍が見落としていた北部の浅瀬でブランディワイン川の1つ目の支流を渡り、その3時間後、2つ目の支流を渡った。
 ワシントンはハウ将軍が部隊を二分したのではないかと疑いながらも、チャズ・フォードに部隊を集結させ、孤立しているように見えるクニプハウゼンの部隊に全面攻撃を仕掛ける準備を進めていた。その準備が完了する間際、右翼を指揮していたサリヴァン将軍から、疑わしい兵士の姿は遅れてきた民兵隊であるという誤報が届いた。そのためワシントンはクニプハウゼンの部隊の他にハウ将軍率いる本隊が控えている可能性を恐れて全面攻撃の開始を取り止めた。
 1時頃、コーンウォリス率いる部隊が右背後に回り込みつつあることを地元の農夫の報せでワシントンは知った。ワシントンは早急に無防備な側面を固めるために右翼に増援を送った。しかし、戦場に到着したサリヴァンがその配置を変更するように命じた。イギリス軍はその隙を衝いて攻撃した。バーミンガム・ヒルで3つのアメリカ軍部隊がイギリス軍を撃退しようと善戦したが、最後には退却を余儀なくされた。
 チャズ・フォードを守っていたグリーン将軍に来援を求め、ワシントンは自ら殿軍を配置し退路を確保した。チャドズ・フォードを守る兵力が減少したのを見たクニプハウゼン将軍は早速、渡河を開始した。それを知ったワシントンは全軍を東のチェスターに退却させた。
 このブランディワイン・クリークの戦いBattle of Brandywine Creekでイギリス軍の死傷者が約600名であったのに対し、アメリカ軍は約900名の死傷者を出し、約400名が捕虜となった。
フィラデルフィア陥落
 一旦、アメリカ軍はスクーキル川の東岸に退却した。スクールキル川でイギリス軍の侵攻を食い止めるためである。しかし、ワシントンは作戦を再考し、スクールキル川を再び渡ってイギリス軍に向かって進軍した。9月16日、両軍は現ペンシルヴェニア州モルバーン付近の峡谷部で遭遇したが、突然の集中豪雨により激しい交戦には至らなかった。この戦いは豪雨の戦いと呼ばれる。
 また9月21日、パオリでウェイン将軍率いる1,500名の部隊が夜襲を受けた。ウェインの部隊は死傷者や捕虜となった者をすべて含めて272名の損失を出した。その一方でイギリス軍は6名の死者と22名の負傷者を出したに過ぎなかった。この夜襲はパオリの戦いと呼ばれる。
 9月26日、コーンウォリス率いるイギリス軍がフィラデルフィアを占領した。その1週間前、難を避けるために大陸会議は再度、ワシントンに全権を与え、フィラデルフィアから既に離れていた。フィラデルフィアを放棄した大陸会議は西方のランカスターを経てヨークに移った。
ジャーマンタウンの戦い
 コーンウォリス将軍がフィラデルフィアを占領する一方で、ハウ将軍はフィラデルフィアから約5マイル離れたジャーマンタウンに本営を構えていた。各地に連隊を派遣したのでハウ将軍の手元にいる兵力は約9000名に減少していた。防備が脆弱なのを知ったワシントンはハウ将軍の本営を奇襲する作戦を立案した。
 その作戦は、10月3日夜、約1万1000名のアメリカ軍が北方から4列に分かれて進軍し、夜明けに奇襲を開始するという高度な作戦であった。4つの部隊はそれぞれ、サリヴァン少将率いる3000名、グリーン少将率いる5000名、ジョン・アームストロング少将率いる民兵隊1500名、そして、ウィリアム・スモールウッド准将率いる民兵隊1500名であった。ワシントン自身はサリヴァンが指揮する隊列の中に陣取っていた。2つの民兵隊は手違いもあってほとんど攻撃に参加しなかった。
 10月4日、ワシントンはすべての部隊が配置に着く頃を見計らって攻撃開始を命じた。サリヴァンの部隊による奇襲は、立ち込めた霧の助けもあって、完全に成功したかのように思えた。アメリカ軍はイギリス軍を陣営から追い散らした。しかし、濃霧で視界が遮られたので、逃れるイギリス軍を追撃することは容易ではなかった。
 サリヴァンの部隊は、ベンジャミン・チュー邸を拠点に頑強に抵抗する約100名程度の敵兵に行く手を阻まれた。その処置をめぐって幕僚の意見は分かれた。一部の守備兵を拠点の前に残して進軍を続行すべきだという意見と背後に敵軍を残したまま進軍するべきではないという意見があった。ワシントンは後者を採用したが、チュー邸に対するアメリカ軍の攻撃は何度も撃退された。そのためサリヴァンの隊列に遅れが生じた。この遅れに乗じてハウ将軍はイギリス軍の攻撃態勢を整えた。
 一方、グリーンの部隊は道案内の不手際のせいで30分ほど遅れて戦場に到着した。その際に、深い霧の中で味方を敵と見誤ったアダム・スティーヴン将軍が友軍に対して発砲を命じた。発砲された側も応戦したので同士討ちが起きた。イギリス軍がアメリカ軍の混乱に乗じて反撃を行なったのでサリヴァンは自らの部隊を撤退させた。グリーンはそのまま進軍を続けたが、前衛部隊が両面攻撃を受けたので退却を余儀なくされた。
 一連の交戦により、アメリカ軍は152名の死者と521名の負傷者、さらに約400名が捕らわれるか行方不明になった。対してイギリス軍は70名の死者と450名の負傷者、14名の行方不明者を出した。
コンウェイの陰謀
 こうした敗北の連続はワシントンの威信を低下させ、サラトガの戦いで勝利をおさめたホレーショ・ゲイツ将軍を総司令官に据えようという動きが一部であった。いわゆるコンウェイの陰謀である。この陰謀が本当に実在したかどうかは研究者により意見が分かれている。しかし、ワシントン自身はコンウェイの陰謀があったと信じていた。
 また名前が冠せられているトマス・コンウェイ少将は陰謀の中心的人物ではなく、ワシントンの指揮能力に不信を抱く大陸会議の一部の者が画策したと言われている。ワシントン自身は「一般大衆が私の努力に満足しているのであれば、私は自らの使命に怖じることはありません。しかし、一部の党派の声ではなく一般大衆の声が私に辞職を求めるのであれば、疲れ果てた旅人が休息を望むと同じくらい喜んで辞職するでしょう」と述べている。こうした陰謀だけではなく、士官同士の衝突も絶えずワシントンを悩ませる問題であった。
ヴァリー・フォージ冬営地
 1777年も終わりにさしかかり、12月19日、ワシントンはペンシルヴェニア邦ヴァリー・フォージ冬営地に引き籠った。ヴァリー。フォージが冬営地に選ばれたのは、まずフィラデルフィアを占領したイギリス軍の動きに対応できる距離にあり、それに加えて天然の要害であったので奇襲に備えることができたからである。またいざとなれば、ランカスター、そしてヨークに逃れた大陸議会を支援できる位置にあった。さらに冬期遠征の実施を求めていたペンシルヴェニア邦に応じた結果であった。
 しかし、アメリカ軍は冬期遠征を行なうどころではなかった。冬営地では飢餓や病気で約2500人もの兵士が栄養失調、チフス、天然痘などで命を落とし、勝利の希望も完全に色褪せたかのように思えた。死者の数は約4分の1にも達した。また1778年2月末には、4000名が靴、衣服、毛布などが不足しているために軍務に就くことができなかったという。兵士達の常食はファイヤーケーキfirecakeと呼ばれる小麦粉を水で捏ねて焼いただけの代物だった。物資の不足に困り果てたワシントンは、地元の住民から徴発することを認めざるを得なかった。
 1778年1月11日から12日にかけて12インチの積雪があったが、その年の冬は例年に比べて決して厳しい寒さではなかった。それにも拘らず死者が多かったのは、栄養状態と公衆衛生の悪さに問題があったと考えられている。ワシントンは大陸会議に「もし積極的な措置と一致協力して調整が行なわれなければ、我が軍は解体するでしょう」と警告している。ワシントンは将官の待遇改善を大陸議会に求めた。ワシントンに促されて大陸議会はようやく現役の半額の給与を年金として7年間支給し、兵士1人あたり80ドルの報奨金を出すことを認めた。
 このような過酷な環境に悩まされながらも、ヴァリー・フォージとフィラデルフィアの間では何度か散発的な戦闘が起きている。いずれも数十人から数百人規模の小規模な交戦であった。
 冬の間、アメリカ軍にとって唯一の良い兆しとなったのがフィリードリヒ・シュトイベンの到着である。シュトイベンはフランスからアメリカ軍の訓練を支援するために派遣されたプロイセン軍の士官である。ワシントンはシュトイベンに全幅の信頼を置き、軍の命令系統の再編と教練の刷新を任せた。また兵站の効率化も行なわれた。その効果は後々の戦闘で現れるようになった。シュトイベンの業績は士官の教本である『青本』で知られている。ワシントンは、シュトイベンの他にもフランス人技師のルイ・デュポルタイユやポーランド人技師のタウデシュ・コシチューシコなど能力に応じて外国人士官を積極的に活用している。

1778年の戦況 
米仏同盟成立

 兵士達がようやく1つの希望を見出したのは、1778年5月、米仏同盟締結を知らされた時である。なお米仏同盟は、1949年に北大西洋条約に加盟するまで唯一の同盟条約であった。アメリカ軍は全軍で「フランス国王万歳」を叫び、同盟の締結を祝った。銃で祝砲を放つ兵士達にワシントンはラム酒を配った。冬の間に多くの兵力を失ったが、新兵の加入により兵力は1万3000人程度まで回復している。
 イギリス軍の動きを知るためにワシントンはラファイエット率いる2,200名の部隊をフィラデルフィアに向けて派遣した。ラファイエットの接近を知ったハウ将軍は6000名のイギリス軍を率いて迎え撃った。5月20日、バレン・ヒルの戦いでラファイエットは危うく殲滅を逃れた。バレン・ヒルの戦いで撤退したものの、アメリカ軍は効果的に殿軍を配置し、潰走することはなかった。そのことはワシントンにフリードリヒ・シュトイベンの訓練の効果を実感させた。
モンマスの戦い
 一方、イギリス軍ではハウ将軍が辞任し、クリントン将軍が代わってイギリス軍の総指揮を担った。1778年6月18日、1万3000名からなるイギリス軍はフィラデルフィアを離れた。
 6月19日、ワシントンはアメリカ軍を率いてヴァレー・フォージを出発し、ニュー・ヨークに向かうイギリス軍を追尾した。それとともに軽騎兵や民兵にイギリス軍の進軍に対して妨害工作をするように命じた。クリントン将軍はフランス遠征軍との戦いに備えてニュー・ヨークに兵力を結集しようと道を急いでいた。一方、ワシントンは、イギリス軍の後尾を叩くことで進軍をできるだけ遅らせようと考えた。
 イギリスは北米植民地か西インド諸島のいずれかを諦めるだろうとワシントンは思っていた。しかし、その一方でイギリス軍は守備兵を割ける限りニュー・ヨークを占領し続けるだろうとも思っていた。
 クリントンの部隊がモンマスを通過することを知ったワシントンは、6月27日、5,000名の前衛部隊でイギリス軍後尾の輜重隊を攻撃することに決定した。そこでチャールズ・リー将軍に「もし不利になるという強い根拠がなければ」攻撃を開始するように命じた。ワシントンは内心、ラファイエットを指揮官に任命したかったが、ワシントンの次に位階が高いリーを無視することはできなかった。リーは一旦、任命を断ったが、ワシントンがラファイエットに指揮を委ねようとしているのを知って指揮を引き受けた。自分より若く経験に乏しいラファイエットを信用していなかったからである。
 6月28日朝、リーは敵軍の動きをほとんど偵察することなく、また攻撃の計画を特に練ることもなく軍を前進させていた。それに対してクリントン将軍は後衛にアメリカ軍に対峙するように命じた。戦闘が始まったが、全体の統一がとれていなかったために各部隊がばらばらに進退を行なったので、前衛部隊は混乱に陥って後退し始めた。それを見たクリントン将軍は、輜重隊を逃がしたうえで、コーンウォリス将軍に退却するリーの部隊を追撃するように命じた。そこでリーは前衛部隊を再編成することなく退却させた。リーの部隊の退却を知ったワシントンは怒り心頭に達した。幕僚の1人は後にワシントンの様子について次のように回想している。「誰もが悪態をついたのはまさにその日、モンマスでのことでした。彼[ワシントン]は、その日、木の葉が震えるまで[リーに]悪態をつきました。素敵でした。愉快でした。それまで私はそんな悪態で楽しんだことはありませんでした。その記憶すべき日に、彼はまるで天から来た天使のように悪態をつきました」。ワシントンは自ら前衛に乗り込んで総崩れを防いだ。ワシントンに叱責されたリーは、引き続く戦闘で勇敢に戦ったが、後の軍法会議で命令違反と敵前での不行跡の咎で有罪になった。
 アメリカ軍の後続部隊による反撃が開始され、中でもアンソニー・ウェイン准将率いる部隊の攻撃はイギリス軍の砲兵隊まで迫る勢いを示した。しかし、敵が増援を送ったのでウェイン将軍の部隊は後退を余儀なくされた。しかし、その間にワシントンは強力な反撃を行なうのに十分な態勢を整えることができた。午後遅く小休止を挟んで2度、両軍は激しく衝突したが、6時頃、折からの酷暑のために疲弊したイギリス軍は1マイルほど後退した。同じく疲弊していたアメリカ軍は再攻撃の準備を整えたが、日没が迫っていたので攻撃を取り止めた。翌日、ワシントンは戦闘を再開しようと意気込んだが、イギリス軍は夜半過ぎに秘かに行軍を開始してサンディ・フックに向けて去った後であった。
 モンマスの戦いで両軍ともに勝利を宣言したが、勝敗は明らかではない。しかし、イギリス軍と互角に渡り合えたことはアメリカ軍にとって大きな自信をもたらした。それはシュトイベンの教練の成果であった。アメリカ軍は72名の死者と161名の負傷者、そして132名の行方不明者を出した。一方、イギリス軍は、250名の死者、174名の負傷者、行軍中に600名以上の脱走者を出した。酷暑のために日射病で亡くなった死者は両軍あわせて約100名にものぼる。このモンマスの戦い以後、翌年の7月までワシントンは大きな軍事行動を取っていない。さらに1781年まで北部と中部では大規模な戦闘は起きなかった。
 アレグザンダー・ハミルトンは戦闘の様子を7月5日に「私はそれほど多くの長所を持った将軍を見たことがありません。彼[ワシントン]の冷静さと断固とした態度は尊敬すべきものです。彼はすぐに迫り来る敵の進軍を阻止する対策を講じ、軍が適切な配置をとれるように時間を稼ぎました。それから彼は馬に乗って後ろに戻り、部隊が有利な地勢を占めるようにしました。[中略]。アメリカは、この日の働きでワシントン将軍から大きな恩恵を被っています。全体的には敗走、混乱、そして不名誉が他ならぬ彼の手のうちにある全軍に見受けられました。彼自身の良識と不屈の精神がその日の運命を覆したのです」と記している。
 結局、ワシントンはイギリス軍がニュー・ヨークに結集するのを阻むことはできなかった。ワシントンはハドソン川を渡ってホワイト・プレーンズまで軍を進めた。フランスの艦隊が近郊に姿を現したためにニュー・ヨーク奪還の好機かと思われたが、共同作戦の計画もないままで攻撃の実行は不可能に思われた。ワシントンは「敵の海軍における現在の優位性は、当面の間、我々のすべての連携攻撃の計画を保留させることになる」と述べている。フランス軍との連携は今後の課題として残された。アメリカ軍は引き続きニュー・ヨーク周辺で好機をうかがったが、12月11日にニュー・ジャージーのミドルブルックの冬期本営に篭った。その後、ワシントンは大陸会議と協議するためにフィラデルフィアに向かった。

1779年の戦況
戦略の転換

 ワシントンは各地で散発的な戦闘を続けることによってイギリス軍を奔命に疲れさせる作戦をワシントンは大陸会議に進言した。1779年1月15日、大陸会議はワシントンの進言を受け入れた。圧倒的な戦力を持つイギリス軍に会戦を挑んでも勝てないことをワシントンはこれまでの戦いで十分に認識していたのである。
 またワシントンはジョージ・メイスンに3月27日付の手紙で「各邦は時計の細かい部品のようなもので、彼らの苦労がいかに無用で役に立たないかなどと思い煩うことなく時計がうまく動くように努力しても、大きな歯車や発条が全体の動きをうまくいくようにしない限り、十分な注意が必要ですし、きちんと働くようにしておかなければなりません」と語っているようにアメリカ全体の政治制度自体の欠陥に早くから気付いていた。さらに大陸紙幣の乱発による信用の低下に対しても警鐘を鳴らしている。士官達は給与で「哀れな妻子に1ブッシェルの小麦も与えられない」あり様であった。
 冬期本営に帰還したワシントンは5月31日、イギリスと連携してフロンティアの居住地を襲撃した6部族連合に対してジョン・サリヴァン将軍率いる遠征隊を派遣した。サリヴァンが受けた命令は、6部族連合の居住地を破壊し、多くの人質を確保することであった。さらに、ナイアガラ砦への攻撃を和平の条件とすることであった。
 1779年6月21日、フランスに加えてスペインもイギリスに宣戦布告した。しかし、フランスとは違って、スペインはアメリカの独立を認めたわけではなかった。それにワシントンはスペインの戦争遂行能力にほとんど期待していなかった。また1780年12月にはイギリスの宣戦布告により、オランダも交戦国に加わっている。
ストーニー・ポイントの攻略とパウルズ・フックの襲撃
 ウェスト・ポイントに司令部を置いてイギリス軍の北上に備えていたワシントン自身は大規模な軍事行動を起こさなかったが、分遣隊を派遣して各地で散発的な戦闘を行なっている。ワシントンは、ウェイン将軍にハドソン川西岸に位置するストーニー・ポイントの攻略を命じた。ストーニー・ポイントはハドソン川の渡航を確保するための要所であり、1779年5月31日にイギリス軍の手に落ちていた。
 7月15日から16日にかけて、1,360名を率いたウェインは夜陰に乗じてストーニー・ポイントに銃剣突撃を仕掛けた。30分の交戦の後、要塞はアメリカ軍の手に帰した。この攻撃でアメリカ軍は95名の死傷者を出した。一方、イギリス軍は133名の死傷者を出し、500名近くが捕虜となった。イギリス軍に再び占領されないために要害はアメリカ軍の手で取り壊された。
 ストーニー・ポイントの失陥により、ハドソン川沿いに前哨基地を展開しようとするクリントン将軍の計画は頓挫した。したがって、ハドソン川の航行を扼する要害であるウェスト・ポイントに対する脅威も取り除かれた。
 ウェイン将軍の成功を見たヘンリー・リー将軍は、パウルズ・フックの攻撃をワシントンに願い出た。パウルズ・フックはハドソン川を挟んでニュー・ヨーク市街の対岸にあった要塞である。ワシントンは攻撃を許可した。
 リーはポールラス・フックを急襲し、イギリス軍に50名の損失を与え、150名を捕虜とした。リーの部隊が被った損失は僅かに5名であった。リーはパウルズ・フックの弾薬と大砲を使えないようにし、捕虜をそのまま残して撤退した。
 こうした攻撃は小さな勝利に過ぎなかったが、アメリカ軍の勝利を喧伝する意味で有用であったし、イギリス軍に奇襲を恐れさせるという心理的効果もあった。しかし、1779年を通じて、かねての方針通り、大陸軍本隊による大規模な会戦は行われなかった。
 12月1日、ニュー・ジャージーのモリスタウンに冬期本営が築かれた。モリスタウンは防衛には最適な場所であったが、アメリカ軍の最大の問題は慢性的な物資の不足であった。ワシントンは12月16日、諸邦の知事に宛てて「もし我々が補給を得られるような特別かつ迅速な措置が行なわれなければ、軍は間違いなく2週間以内に解体するでしょう」と支援を求めている。

1780年の戦況
スプリングフィールドの戦い

 1780年1月1日、ウェスト・ポイントでマサチューセッツの兵士達が兵役の条件に不満を抱いて反乱を起こしたが、すぐに沈静化された。1月14日、ワシントンはスタテン・アイランドのイギリス軍駐屯地を攻撃するように命じるが失敗に終わった。その一方、5月12日、南下していたクリントン将軍率いるイギリス軍がチャールストンを陥落させ、ジョージア邦と両カロライナ邦の大部分を支配化に置いた。その結果、5000人ものアメリカ人が捕虜になった。革命戦争の中で最大の敗北である。
また1777年から始まった3年間の兵役期間も切れ、1780年5月までに実働兵士数は約9,500名に減少した。一方、イギリス軍は本国から増援部隊を迎え、合計2万8700人の兵員を擁していた。1780年から1781年にかけては独立戦争の中でも最も過酷な期間であった。
 5月25日、モリスタウンでコネティカットの兵士達が給与と食糧の配給をめぐって暴動を起こしたが、説得を受けて軍務に戻った。モリスタウンの将兵の不満が高まっているという情報を得てクニプハウゼン将軍はアメリカ軍を一気に壊滅させようと考えた。6月6日、クニプハウゼン将軍は約5,000人の部隊をスタテン・アイランドから西岸のエリザベスタウンに派遣した。7日、同部隊は北東のコネティカット・ファームズまで進軍した。
 ウォッチャング山系の峡谷を目指してイギリス軍が進軍中という報せを7日早朝に受けたワシントンは、モリスタウン南東約10マイルのショート・ヒルズまで軍を進めた。ショート・ヒルズは峡谷を扼するのに最適の場所であった。コネティカット・ファームズで小競り合いが起きた他は大規模な衝突は起こらなかった。アメリカ軍の盛んな戦意を知ったイギリス軍はモリスタウン攻撃を諦めてエリザベスタウンに引き返した。
 一時期、南部からニュー・ヨークに帰還した英将クリントンは、モリスタウン攻略の作戦を再度、試みることになった。ヘンリーはワシントンをショート・ヒルズから誘い出して会戦に持ち込んで一気に決着をつけようと考えた。そこでクリントンは、ハドソン川を北上し、ウェスト・ポイントを衝く構えを見せた。ウェスト・ポイントはハドソン川を扼する要地であり、もしここが陥落すればニュー・ヨーク邦の奥地までイギリス軍の侵入を許すことになる。
 イギリス軍の動きに対応してワシントンは軍を率いて北上した。一方、峡谷の入り口にあたるスプリングフィールドにナサニエル・グリーン将軍率いる一軍を残した。6月23日、誘い出しの成功を確信したクリントンは、軍を転進させてスプリングフィールドに向かった。グリーン指揮下のアメリカ軍が激しく抵抗したので、イギリス軍はスプリングフィールドに火を放って退却した。この戦いはスプリングフィールドの戦いと呼ばれる。
フランス遠征軍の到着とアーノルドの反逆
 こうして両軍が睨み合いを続けていた一方で、7月10日、ジャン=バプティスト・ロシャンボー将軍率いる5500名のフランス遠征軍がロード・アイランド邦ニューポートに到着した。9月20日、ワシントンはコネティカット邦ハートフォードHartfordでロシャンボーと今後の戦略を話し合ったが結論は出なかった。
 9月25日、ウェスト・ポイントを視察中にベネディクト・アーノルド将軍の反逆計画が発覚した。アーノルドは1775年に1000名の兵士を率いてケベック攻略に加わるように命令を受けていた。反逆計画は、ウェスト・ポイントの要塞を手土産にイギリス軍に投降しようという計画である。この計画は未然に防がれたが、ワシントンはアーノルドの背信に甚だしく動揺したという。
 ワシントンは、8月16日のキャムデンの戦いで敗れたゲイツ将軍に代わってグリーン将軍を南部方面の指揮官として大陸会議に推薦した。ゲイツ将軍に比べてグリーン将軍は一回りも若く、戦争が始まるまでほとんど軍事経験はなかった。しかし、ワシントンはグリーンがこれまで示してきた堅実な戦い方を評価し、異例の抜擢を行なったのである。この抜擢は成功であった。翌1781年の軍事作戦でグリーンは両カロライナ邦で有利に作戦を展開し、ワシントンに勝報をもたらした。
 1780年10月、ワシントンは大陸会議に軍隊の徴募制度の見直しとその他の諸制度の改革を協議した。また諸邦に改革に協力するように求めている。10月22日に「もし我々が戦いを続けるつもりであれば、(そして、我々の主張を撤回したくないと望むのであれば)我々は全く新しい計画に基づいてそれを行なわなければなりません」とワシントンは述べている。夏以来、北部では大きな交戦はなく、12月1日、ニュー・ウィンザーに冬期本営が築かれた。

1781年の戦況
相次ぐ兵士の暴動

 100年に一度と言われる厳冬がモリスタウン冬営地に籠っていた部隊を襲った。吹雪のために補給が滞り、兵士の反抗や脱走が頻発した。1781年1月1日、モリスタウン付近に駐留していたペンシルヴェニア連隊で暴動が起きた。兵士達は弾薬庫を占拠した。制止しようとした将校のうち1名が死亡し、2名が負傷した。2,400名のペンシルヴェニア連隊のうち、約1,000名がフィラデルフィアに向けて行進を開始した。兵士達の数は徐々に増え、1,700名を数えるまでになった。プリンストンで兵士達はペンシルヴェニア邦の代表と待遇改善について話し合った。その結果、暴動は収束したが、結局、1200名の兵士が離隊した。ワシントンは暴動収束に直接関与していないが、暴動が他の部隊に波及することを危惧していた。
 ワシントンの危惧は的中し、今度は1月20日に、ポンプトンに駐留していたニュー・ジャージー連隊に所属する約200名の兵士達が暴動を起こした。ワシントンはニュー・イングランドの兵士達にその鎮圧を命じた。その結果、首謀者2名が処刑され、秩序は回復された。このように1781年前半は幸先が良いとは言えない状態であったが、後半は、各地からの勝報が相次ぎ、事態が一気に好転した。その中でも最大の勝利はヨークタウンの戦いである。
ヨークタウン包囲
 5月21日から22日にかけてワシントンはロシャンボー将軍と作戦を協議した。ロシャンボーはワシントンにフランソワ・グラース提督率いるフランス艦隊が西インド諸島に向かった後、共同作戦に参加することを伝えた。さらにロシャンボーは南部のイギリス軍を攻撃する案を示したが、ワシントンがニュー・ヨーク攻撃を強く主張したので、夏の中頃に連携してニュー・ヨーク攻略にあたることが決定した。
 7月2日、ワシントンはロシャンボーとともに5月の協議に基づいて、ニュー・ヨークのイギリス軍に奇襲を仕掛ける作戦を遂行しようとした。アメリカ軍はハドソン川に沿って下流に進み、途中でフランス軍と合流する予定であった。しかし、アメリカ軍の行動は事前にイギリス軍に露顕し、奇襲は失敗に終わった。ワシントンはドブズ・フェリーまで司令部を前進させ、ニュー・ヨーク攻撃の好機をうかがった。7月6日、アメリカ軍とフランス軍はドブズ・フェリーの近くのフッリプスバーグで邂逅した。
 8月11日、ニュー・ヨークを守るクリントン率いる部隊は、本国からの増援を得て約1万5000人まで増強された。またアメリカ軍にはニュー・ヨークを包囲するのに十分な装備がなかった。そのためニュー・ヨーク攻略が成功する見込みはほとんどないように思われた。
 その一方で、南部のイギリス軍を指揮していたコーンウォリス将軍は、8月2日、チェサピーク湾に要塞を建設するためにヴァージニア邦ヨークタウンを占領した。要塞が完成すれば、東海岸沿岸部に位置する海港のほぼすべてがイギリスの手に落ちる危険があっただけではなく、コーンウォリスは海路を通じて増援を受けることができた。
 8月14日、グラース提督のフランス艦隊がチェサピーク湾に向かっているとの報せを受けたワシントンは、「敵の最も脆弱な部分に攻撃を加える」だと考えを改めた。つまり、フランス艦隊の協力で海路を遮断し、ヨークタウンにコーンウォリスを封じ込めれば決定的な勝利が得られるとワシントンは判断したのである。ワシントンは南部で部隊を指揮していたラファイエットに、両カロライナに回り込んでコーンウォリスの退路を絶つように命じた。米仏両軍は、スタテン・アイランドに対する陽動作戦を仕掛けた後、急遽、南部に進路を転じた。
 8月30日、ワシントンはロシャンボーとともに軍に先立ってフィラデルフィアに到着し、市民の歓呼に迎えられた。9月5日、ワシントンはデラウェア邦ウィルミントンに向けてフィラデルフィアを出発した。同日、道中のチェスターで、グラース提督の艦隊がチェサピーク湾に到着したという報せが届いた。喜びのあまりワシントンは自ら馬を駆ってロシャンボーのもとに報せを届けに行ったという。それからワシントンはボルティモアに向かい、9月8日午後遅くに同地に到着した。街はワシントンに敬意を表して蝋燭や松明の灯りで満たされていた。翌日、ワシントンはボルティモアを未明に発ち、約60マイルを踏破してマウント・ヴァーノンに帰宅した。独立戦争開始以来、6年4ヶ月ぶりの帰宅であった。11日、ワシントンはフランスの将軍達と幕僚を自宅で饗応した。その際にフランスの将軍がワシントンに、軍事について最も参考にしている書籍は何かと聞いた。ワシントンは『プロイセン国王の将軍への軍事教令』をあげたという。12日に一行はマウント・ヴァーノンを出発し、14日にウィリアムズバーグに到着した。なお近年の研究では、マウント・ヴァーノンからウィリアムズバーグの旅程について見解の相違がある。ウィリアムズバーグでラファイエットに再会した。その時、ラファイエットは、目撃者の回想によると、ワシントンを抱擁し、「離れていた恋人が帰ってきた時に情婦に熱烈に接吻するように」接吻したという。
 その頃、グラース提督の艦隊はチェサピーク湾外に一旦出てイギリス艦隊と砲火を交えた後、9月11日にチェサピーク湾まで戻って来ていた。それを知ったワシントンは15日、グラース提督に面会を要請する手紙を送った。17日、グラース提督はワシントンを旗艦に招いた。両者の協議によって、フランス艦隊が10月末までヨークタウン包囲に協力することが取り決められた。
 こうしてワシントンが別行動をとっている間も英仏両軍は南下を続け、ウィリアムズバーグに集結した。水陸に別れて約450マイルを踏破した連合軍は、アメリカ軍が約9000名、フランス軍が約7800名にのぼった。9月27日、ワシントンは、「我々が従事している大義の正義と両国の栄誉が勝利を予感とともにすべての者の胸を鼓舞している」という言葉とともにヨークタウンへの進軍を軍に命じた。翌日、連合軍はウィリアムズバーグからヨークタウンに向けて出発した。アメリカ軍はヨークタウンの南部の湿地帯を前にして布陣した。その夜はまだテントが届いていなかったので兵士達はそのままで夜を過ごさなければならなかった。司令部用のテントも届いていなかったのでワシントンはマルベリーの木の下で一夜を過ごしたという。
 まずワシントンは2つの堡塁を築き、大砲の据え付けに取り掛かるように命じた。防備の準備が整った後、10月6日、2000ヤード(約1800メートル)に及ぶ第1並行壕の開削が始まった。作戦に参加した1人の工兵の回想によると、ワシントンは自らつるはしで数回、塹壕を掘ったという。作業は夜間に行なわれ、朝までに防衛に十分な深さまで開削が進んだ。第1平行壕は、敵軍から800ヤードから600ヤードの距離にあった。さらに10月9日、アメリカ軍は総砲撃を開始した。この時の様子を軍医の1人は「ワシントン閣下が最初の一撃に火を点けると、大砲と迫撃砲の咆哮がすぐに続き、コーンウォリスは最初の挨拶を受けた」と記録している。
 さらに11日、第2並行壕の開削が開始された。ヨークタウンの胸壁から300ヤードの距離である。翌朝までに、長さ750ヤード、幅7フィート、深さ3フィート半まで並行壕は掘り進められた。ワシントンは、「コーンウォリス卿の行動は今までのところ、思いの外、受身だ。防衛手段を持っていないのか、それとも我々が近付くまで力を温存しているのか」とイギリス軍の反撃がほとんどないことに驚いていた。
 10月14日から15日にかけて米仏両軍は連携して、障害となっていたイギリス軍の2つの堡塁に攻撃を仕掛けて奪取した。この攻撃の間、ワシントンは間近で戦闘を見守っていた。1人の幕僚が「閣下、ここではあまりに無防備です。少し後退されては如何でしょうか」とワシントンに注意を促した。するとワシントンは、「もし君が恐れるのであれば、自由に後退してもよろしい」と答えたという。
 厳重な包囲にさらされたうえに、既にフランス海軍に制海権を奪われていたコーンウォリス将軍は10月16日、最後の大規模な反攻を試み、またヨーク川を渡って対岸のグロースターに兵を渡そうとしたが失敗した。翌朝、連合軍はイギリス軍の要塞に100門以上の大砲で激しい砲撃を加えた。午前遅く、イギリス軍の陣営で和平を求める太鼓が打ち鳴らされ、休戦旗を掲げた士官が姿を現した。降伏文書の取り交わしが決定され、19日、コーンウォリス将軍以下8,081名は降伏することになった。イギリスが提示した降伏条件は、王党派の処罰を禁じた条項を除いて受諾された。実は同日、大規模な増援軍を乗せた艦隊がニュー・ヨークを出港したところであった。包囲作戦で連合軍は340名の死傷者を出し、イギリス軍は596名の死傷者を出した。
10月19日、コーンウォリスはチャールズ・オハラ准将を代理に派遣し降伏の手続きを行った。イギリス軍の先頭に立っていたオハラ将軍は、「ロシャンボー将軍はどこにいる」とまず聞いた。剣を差し出そうとするオハラ将軍に対してロシャンボーは丁重にワシントンの姿を指し示した。今度はワシントンに剣を差し出そうとしたオハラ将軍であったが、ワシントンはそれを拒否し、下僚にオハラ将軍の扱いを任せた。
 連合会議(大陸会議の後継機関)へ勝利を伝える報せの中でワシントンは、「コーンウォリス卿指揮下のイギリス軍に対する征服が首尾よく成し遂げられたことを謹んで議会に報告します。連合軍のすべての将兵を動かした絶え間のない熱意が、私が最も楽観的に予期したよりもずっと早い時期に、この重要な出来事を実現に導いたのです」と誇っている。ヨークタウンの戦いは独立戦争最後の大規模な戦いであり、勝利を決定的なものにした戦いであった。

戦後処理
講和条約締結

 ヨークタウン包囲終了後、ワシントンはグラース提督に南部のチャールストンとサヴァナを奪還する作戦に協力するように求めた。しかし、グラース提督はフランス艦隊を引き連れて西インド諸島に向かった。ロシャンボーはヴァージニアに暫く留まった後、ニューポートを経てフランスに帰った。ワシントンは2,000名の増援部隊をグリーンに送った後、11月4日、ヨークタウンを出発した。途中、フレデリックスバーグの母のもとに立ち寄った後、13日、マウント・ヴァーノンに帰った。そして、20日、連合会議と協議するためにフィラデルフィアに発った。フィラデルフィアまでの道中、アナポリスとボルティモアでワシントンはまるで凱旋将軍のような歓待を受けた。11月28日、連合会議はワシントンの勝利を祝った。しかし、ワシントンとはグリーン将軍に「私が最も恐れることは、連合会議がこの一撃[ヨークタウンの勝利]を差し込んだ光としてあまりに重く見過ぎて、我々の事がもうすぐ終わりだと思って、脱力と緩んだ状態になることです」と警告しているように戦争の行く末について必ずしも楽観的なわけではなかった。ニュー・ヨークをはじめ、サウス・カロライナ邦チャールストン、ジョージア邦サヴァナなどはまだ解放されていなかった。翌年の春にイギリス軍が軍事作戦を再開する可能性は依然として捨て切れなかった。
 1781年末の時点でイギリスは北米に約3万の兵員を擁していた。しかし、イギリスは世界各地でフランスとスペインの脅威にさらされていた。さらにコーンウォリスの敗北がロンドンに伝わると、イギリス議会は甚だしく落胆し、戦意を失った。クリントン将軍は更迭され、戦闘を回避するようにという訓令を携えた新司令官が着任した。その方針にしたがってイギリス軍は戦闘を回避する姿勢を示したが、各地で民兵と王党派の間で小競り合いが散発した。
 翌1782年4月、イギリスはアメリカとの講和交渉を開始した。イギリス軍の新司令官は、和平交渉の開始と独立承認についてワシントンに書簡を送った。その頃、軍事作戦再開に備えて部隊の編成を終えていたワシントンは、その書簡の内容を容易に信じようとしなかった。さらにワシントンは、パリで交渉にあたっていたベンジャミン・フランクリンに宛てた1782年10月18日付の手紙の中で、「我々は今、再び[イギリス]国王の頑迷さ、内閣の悪辣さ、そして国民の誇りの高慢さを斟酌しなければなりません。こうした考えは、我々の心に不愉快な見通しと現在の争いが続く可能性を思い起こさせます」と不信感を吐露している。
幸いにもワシントンの不安は杞憂に終わり、11月30日、予備講和条約が締結された。それに伴い、翌1783年1月20日、交戦諸国も予備講和条約に調印した。
ニュー・バーグの陰謀
 その一方で、こうした平和の到来を素直に歓迎できない人々がいた。独立戦争を戦い抜いた兵士達である。ワシントンは、「軍の雰囲気は不機嫌なようで、開戦以来のどんな時期よりも苛立っているようです」と1782年12月14日付の手紙の中で軍の不穏な空気を察している。そして、1783年3月10日、給与の正当な支払いや年金の授与などを求め、それが受け入れられないのであれば直接行動を取ることを呼び掛ける檄文が流布した。いわゆる「ニューバーグの陰謀」である。檄文の起草者は匿名であったが、ゲイツ将軍の副官を務めた人物であり、コンウェイの陰謀と同じくワシントンの威信を低下させようという意図があったとも考えられる。
 ワシントンは3月12日にハミルトンに宛てて「軍は公正を得るまで解散するつもりはないことが例外なく予期されます」と述べている。ワシントンが最も恐れたことは、窮地に陥った士官達が「我が勃興しつつある帝国を血で染める」ことであった。
 3月15日、不穏な動きを阻止しようとワシントンは自ら士官たちの前に姿を現して説得を試みた。連合会議からの手紙を読み上げようとしたワシントンの声がふと止まった。するとポケットから眼鏡を取り出しつつワシントンは、士官達に「諸君、眼鏡をかけてもよいだろうか。我が国に奉仕しようにも、白髪になってしまっただけではなく、目もほとんど見えなくなってしまったのだから」と告げた。この様子を見た士官達は我にかえった。敬愛するワシントンへの思慕が士官達の気勢を削いでしまったからである。またこの時、ほとんどの士官達がワシントンの眼鏡を着用した姿を初めて見たという。
キンキナートゥス
 イギリス軍の撤退や兵士達への年金問題の解決などの戦後処理を終えたワシントンは、11月2日、アメリカ軍への別れの挨拶を発表した。11月25日、イギリス軍の撤退を見届けた後、ワシントンはアメリカ軍を率いてニュー・ヨークに入市した。
 12月4日、司令部が置かれていたフローンシス亭でワシントンは、士官達に「心一杯の愛と感謝の念をもって、君たちに別れを告げる。これまでの日々が栄光と誉れに満ちていたように君たちのこれからの日々が順調で幸せなものとなるように強く願う」と別れの挨拶を行った。士官達と握手を交わした後、ワシントンはフローンシス亭を出て、儀仗兵の間を通り抜けて埠頭に向かった。その後、ニュー・ジャージー邦を旅してフィラデルフィアに向かった。道中の町々はワシントンを歓迎してパレードを催した。12月8日、一行はフィラデルフィアに入った。フィラデルフィアでも全市をあげた歓迎が行なわれた。12月15日、フィラデルフィアを出発したワシントンは、ウィルミントンを経てボルティモアに至った。18日、ボルティモアで行なわれた舞踏会に参加した後、翌日、連合会議が開催されていたアナポリスに入った。23日正午、ワシントンの姿は連合会議の会議場にあった。書記に導かれて議長の前に立ったワシントンは、議長の言葉に続いて告別の辞を読み上げた。総司令官職の退任と今後、一切の公職に就かない旨を伝えた後、ワシントンはポケットから大陸軍総司令官の委任状を取り出し、議長に手渡した。短い儀式が行なわれ、連合議会の代表達と握手を交わした後、ワシントンは会議場から退出した。
 この時、もしワシントンがこの時期に軍事独裁性を目論めば不可能ではなかったと指摘する研究者もいる。だからこそワシントンが戦後処理を終えた後にすぐに軍権を連合会議に返上したことは文民統制の顕著な模範となった。
 ワシントンのこうした行為は、ジョージア邦議会議員ウィリアム・ピアースが「キンキナートゥスのように、彼は農園に帰り、一介の市民であることに完全に満足していた」と述べているように、共和政ローマの伝説的な人物キンキナートゥスに喩えられ称賛された。キンキナートゥスはローマが外敵に攻められ危機に陥った時に、元老院から独裁官に指名された人物である。ローマ軍の陣頭に立ったキンキナートゥスは侵略軍を打ち破った。そして、すぐに独裁官の地位を返上し自分の農園に帰った。キンキナートゥスと同様に一市民に戻ったワシントンは12月24日、マウント・ヴァーノンに戻った。
 この時の気持ちをワシントンは「重荷を背負って苦難に満ちた足取りを多く辿って来た後で、疲れきった旅人が遂には安らぎを得てきっと感じるように今、私は感じている」と友人に書き送っている。独立戦争の間中、ワシントンは連続して3,4時間以上の睡眠をとることがほとんどできなかったという。

帰還後
 主が8年半も不在だったためにマウント・ヴァーノンの運営は支障をきたしていた。ワシントンはマウント・ヴァーノンの建て直しを行う傍ら、ヴァージニアとメリーランドの間で起こった通商紛争の仲裁役を務めたり、ポトマック川の航路開拓を計画したりして忙しく過ごしていた。
 ポトマック川の航路開拓はワシントンのかねてよりの念願であった。1754年には既にポトマック川の調査を行なっている。1772年、ワシントンの働きかけによってヴァージニア植民地議会はカンバーランド砦から河口までの航路開拓を決定したが、独立戦争の勃発により、計画は頓挫していた。
 戦後、ワシントンは計画の再開を目指した。ワシントンがヴァージニア邦とメリーランド邦に航路開拓に関する立法を促した結果、ポトマック川会社の設立が決定した。ワシントンを社長としたポトマック川会社は、各地で着工したが、資金がなかなか集まらず工事はなかなか進まなかった。航路が開通したのはワシントンの死後の1802年2月である。ワシントンはこうしたポトマック川の航路開拓により、商業上の利点だけではなく、西部が政治的に統合される利点があると考えていた。
 マウント・ヴァーノンに在宅時、ワシントンは5つに分けた地所を毎日1つずつ巡回していた。およそ15マイルの行程であった。他にも騾馬の飼育を始めている。また当時としては先進的な農法を採用し、漁場の廃棄物を肥料に利用したり、輪作を導入したりしているマウント・ヴァーノンには訪問客の列が絶えず、接待のために使われた費用は毎年莫大な額にのぼった。1787年にワシントンは「私の地所は、ここ11年ばかり収支を合わせられていない」と記している。


憲法制定会議議長
連合規約改正を望む
 大陸会議は1777年11月15日、最初の憲法となる連合規約を可決し、国家の名称を「アメリカ合衆国」と定めた。次いで1781年3月1日、連合規約はメリーランド邦が批准することで発効した。連合規約の下では、連合会議が中央政府の役割を担っていたが、内外に迫る危機に対して各邦が一体となって対処することができなかった。そうした欠陥を是正するために新たに合衆国憲法が編まれたのである。
 早くからワシントンは大陸会議および連合会議の改革を訴えてきた。それは、1783年3月31日にハミルトンに宛てた手紙の中で「合衆国の中で私よりも現在の連合を改革する必要性を深く感じているか、または感じ得る人物はいないでしょう。連合の悪い影響を私よりもよく分かっている者はおそらくいないでしょう。というのは連合会議の欠陥と権限の欠如が、まさに戦争の長期化の原因であり、その結果、莫大な費用が必要となったのです。私が軍を指揮する間に経験した困難の半分以上、軍の苦難と困難のほぼすべてはそれに起因するのです」と述べていることからも分かる。
 ワシントンは、連盟規約を改正することでより強力な中央政府を樹立することにより、債権者を邦が定める不利な法律から守り、通貨の下落を阻止し、公債の召還に必要となる課税も可能になると考えていた。また外国からの輸入に依存しなくても済むように国内製造業を政府の手で育成することも必要だと考えていた。
 さらに1786年に勃発したシェイズの反乱は連邦の先行きに暗雲をなげかけた。ワシントンはシェイズの反乱のような混乱を抑止するためには「我々の生命、自由、そして財産を守るための政府」が必要であると述べている。しかし、一方で、シェイズの反乱が、連合規約に基づく政府の欠陥の是正を促す契機になるのではないかと考えていた。
 1786年12月4日、ヴァージニア邦はワシントンを憲法制定会議の代表の1人に選出した。1783年に一切の公職に就かないと述べていたように、ワシントン自身は、マウント・ヴァーノンを離れるつもりはなく、新しい国を創る役割は次の世代に任せるべきだと願っていた。そのためワシントンは最初、任命を辞退した。しかし、マディソンとヴァージニア邦知事エドモンド・ランドルフに促されて、結局、ワシントンは参加を承諾した 1787年5月9日にマウント・ヴァーノンを出発したワシントンは、5月13日、フィラデルフィアに到着した。フィラデルフィアではワシントンの到着を歓迎して鐘が鳴らされ、礼砲が撃たれた。さらに軽騎兵隊がワシントンに扈従した。5月25日、憲法制定会議の始まりを迎えて、ワシントンは全会一致で議長に選出された。
隠然たる影響力
 会議が始まる直前にワシントンはペンシルヴェニア代表グヴァヌア・モリスに「我々が提案する案が採択されない可能性もある。おそらく、さらなるひどい衝突が続くかもしれない。もし我々自身は承認できない案を提出すれば人民を喜ばせることができるかもしれないが、以後、どのように我々の業績を擁護できるだろうか。賢明で実直な者が直すことができる基準を打ちたてよう。成り行きは神の御手の中にある」と語ったという。憲法制定に対するワシントンの複雑な心情がよく現れている。この言葉はモリスによって会議の冒頭で紹介された。
 会議でワシントンはほとんど発言することはなかったが、大統領制の創始の他、様々な局面で隠然たる影響力を及ぼした。ワシントンが唯一口を挟んだ機会は、会議も終わりを迎えようとしていた9月17日、連邦下院の議員定数割り当てについて3人の代表が改正案を提議した時だけである。彼らは、「下院議員の数は、人口4万人に対し1人の割合を超えることはできない」という規定を「人口3万人に対し1人の割合」に修正するように求めた。ワシントンは、憲法に反対する者をなくし、署名を速やかに進めるために修正を支持した。会議は修正を全会一致で可決した。
 従来、各邦は、中央政府に対する疑念が強く、当然、憲法制定会議の参加者達もその思いは同じであった。しかし一方で、各邦の独立を諸外国の侵攻から守るために、各邦が団結して一つの強力な国家を形成する必要があることも明らかであった。ワシントン自身も中央政府が圧政を行う危険性よりも、権力の不在がまねく無秩序を恐れていた。そのため強力な連邦政府を創設する必要があると考え、合衆国憲法の制定に賛成していた。そして、一方で、新政府が強固な基盤を築くためには20年程度の安定期が必要だとワシントンは考えていた。
 会議の参加者達は、そうしたワシントンの思いを汲み取り、さらにワシントンが大統領職に就任するという想定に基づいて大統領制を創始した。既に国民的な英雄であり、新国家の象徴的存在でもあるワシントンが大統領職に就任することで、大統領制自体に正統性を持たせることができると考えたのである。サウス・カロライナ邦代表のピアース・バトラーは会議の様子を、「多くの会議の参加者達がワシントン将軍を大統領と目していた。そして、ワシントンの美徳に対する彼らの見解に基づいて大統領に授与されるべき権力を構想していた」と描いている。
 後に大統領職をワシントンから受け継ぐことになるジョン・アダムズは、「もしワシントンを最も偉大な大統領と言えないとしても、我々はワシントンをこのうえなくうまく大統領としてふるまった者だと言えるだろう」と評している。またモンローは「ワシントン将軍の影響力が政府を支える」と述べている。
憲法批准を静観
 各邦で憲法批准をめぐる論議が高まる中、ワシントンはそれをマウント・ヴァーノンから静観していた。実際、1788年6月3日から開催されたヴァージニア憲法批准会議にワシントンは参加していない。しかし、新たな憲法の下、自分が大統領に選出される可能性はよく認識していた。1788年10月3日にハミルトンに宛てた手紙の中で、ワシントンは「もし私が[大統領]指名を受けることになれば、そしてもしそれを受け入れるように説得されることになれば、その受諾は、私の人生で今まで経験したことがないほどの気後れと不本意をともなうものとなるでしょう」と示唆している。

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究