大統領選挙戦

1789年の大統領選挙
 合衆国憲法の発効に伴い、初めて大統領が選ばれることになった。大陸軍総司令官として独立戦争の勝利に最も貢献し、さらに憲法制定会議で議長を務めたワシントンの他に大統領となるべき人物はいなかった。しかし、ワシントン自身は「私自身の農園で1人の実直な人として生き、そして死ぬこと以上の望み」はないと明言しているように大統領就任に乗り気ではなかった。また「政府の首長に私が着任することは、犯罪者が処刑場に赴く時に抱く感情とまったく同様の感情をともなうだろう」とも語っている。
 1788年9月13日、大陸会議は大統領選挙の日程を決定した。1789年2月4日(2月の第1水曜日と決定されていた)、選挙人の投票が行われ、69名の選挙人(10州)すべてがワシントンを大統領に指名した。すべての選挙人を獲得した候補はワシントン以外には存在しない。選挙人を出した州が10州であった理由は、ニュー・ヨーク州は選挙人の選出に間に合わず、ノース・カロライナ州とロード・アイランド州は憲法をまだ批准していなかったからである。
 一方、34票で次点になったジョン・アダムズが副大統領になった。当時は、現在と違って選挙人は2名を指名し、投票の結果、首位の者が大統領に、次点の者が副大統領になるという方式を取っていた。
史上初の就任式
宣誓式
 1789年4月30日正午過ぎ、ワシントンを迎えるために議員たちはウォルター・フランクリン家を訪問した。12時30分、茶色の手織る羅紗を着たワシントンは、群衆の喝采の中、豪華な装飾が施された4頭立てのクリーム色の馬車に乗り込み、フェデラル・ホールに向かった。フェデラル・ホールに到着すると、ワシントンは上院会議場に導かれた。ジョン・アダムズが代表してワシントンを歓迎する挨拶を行った。それが終わるとワシントンはバルコニーに出た。そこには小さな机が1つあり、1冊の聖書が置かれていた。宣誓式で聖書を使うことはその日の朝に決定されたばかりであった。しかし、フェデラル・ホール内には聖書が1冊もなく、最も近くにあるフリーメイスンリーのセント・ジョンズ・ロッジから借用して済ませた。
 群衆は轟くような歓呼でワシントンを迎えた。次にニュー・ヨーク裁判所長のロバート・リヴィングストンが進み出て宣誓の言葉を述べた。続けてワシントンが「私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓の言葉を述べ、最後に「神にかけて誓います」と付け加え、聖書に口づけした。宣誓の間、ワシントンは聖書の詩篇の第127篇1節を開いていた。「そはなされり」とリヴィングストンは言った後、「合衆国大統領ジョージ・ワシントン万歳」と群衆に向かって叫んだ。国旗がフェデラル・ホールの円屋根に掲揚され、13発の銃声が鳴らされ、教会の鐘の音が響き渡った。
 就任式の様子を5月21日の週刊誌「クロニクル」は「合衆国大統領は、彼の就任式の日に、自国製のスーツを纏って現れた。ヨーロッパ製の素晴らしいスーツのように、それは素晴らしい織物で丁寧に仕上げられていた。情況からすると、それは我が国の工業製品を引き立てるためだけではなく、我が国民に対する関心を示しているようにも思われた。副大統領閣下もアメリカ製のスーツを着て登場し、両院の議員達も我が国の工業的利益に配慮する同様の徴候が見られた」と描いている。ワシントンが身に付けていたスーツはハートフォード織で、国内産業への支持を示すために選ばれた生地である。
就任演説
 宣誓が終わり、群衆に向かって何度もお辞儀をした後、ワシントンは会議場へ戻って行った。登壇したワシントンは就任演説を開始した。その間、列席者は起立して演説に耳を傾けた。聴衆は議員や要人など限られた人数であった。それでもワシントンは聴衆を前にして赤面し、口ごもったという。ある上院議員は、その時の様子を「この偉大なる男は、大砲を向けられるか、マスケット銃を突き付けられた時よりも動揺し困惑しているようだ。彼は身震いし、時にはほとんど読み上げることさえできなかった」と日記に記している。
 最初、ワシントンは73ページにも及ぶ政策提言を含めた就任演説を行うことを考えていたが、簡素な内容にとどめるように変更した。この演説の中でワシントンは、「自由の聖なる炎の保全と共和政体の運命は、まことに、最終的に、アメリカ国民の手中に委ねられた実験に託されているとまさに考えられる」という今なお語り継がれる名言を吐いている。
 またワシントンは、政府が国民の自由と幸福追求の実現という本質的目的のために樹立されたと説いている。それだけではなく、自由とそれを保障する共和政体を保持できるか否かは国民自身にかかっているとも述べている。つまり、国民自身も、自由の精神を放縦の精神から分け隔てる必要があると論じているのである。
 ワシントンが行った就任演説の一般的なスタイルは以後の大統領も踏襲している。すなわち、大統領職に選ばれたことに感謝し、自らの能力を謙遜しながらも職務に全力を尽くすことを誓い、そして神の恩寵を願うというスタイルである。
 1789年5月7日、最初の就任記念舞踏会が行われた。舞踏会には大統領をはじめ、著名な政治家や軍人、外交官が出席した。大統領夫人はその頃、まだニュー・ヨークに着いていなかったので出席していない。
就任式に出席するために借金
 この就任式に赴く前、負債の清算と諸費用の工面のためにワシントンは600ポンド(数千万円相当)借金しなければならなかったという。これは、当時の農園主が、土地貧乏(多くの土地を所有していても現金収入があまりない)であり慢性的な現金不足だったのが一因である。また誰かからお金を貸すように頼まれてもあまり断ることがなかったことも一因であろう。
 ワシントンは、1788年にオハイオの土地を売却するか、賃貸しようとしたがあまりうまくいっていなかった。ワシントンは借金を依頼する手紙の中で、「ここ2年間は、これまでに経験したことがないほどお金が欠乏しています。穀物の作柄が悪く、そして私の手の及ばない他の理由から、今、お金が不足していることを強く感じています」と書いている。
就任式が遅れた理由
 就任式が4月30日に行われた理由は、3月4日に第1回連邦議会が招集されたものの、定足数を満たすことができず、大統領の就任が正式に認められなかったからである。ワシントンが大統領として正式に認められたのは4月6日になってからである。4月14日になってようやく正式に大統領選出の報せが、マウント・ヴァーノンに居るワシントンに伝えられた。そして4月16日、マウント・ヴァーノンを出発するにあたってワシントンは、「10時頃、マウント・ヴァーノンに、私生活に、家庭内の幸福に別れを告げた。言葉では表せないような不安と苦痛に満ちた気持ちで心が押し潰されそうになりながらニュー・ヨークに向けて出発した」と日記に記している。マウント・ヴァーノンから就任式が行われるニュー・ヨークまでの道中、沿道の市民からワシントンは熱狂的な祝賀を受けた。暫定首都のニュー・ヨークに到着したのは4月23日である。

1792年の大統領選挙
 もともとワシントンは大統領を1期で退任するつもりであった。それは1792年5月20日にマディソンに告別演説の仕上げを依頼していることからはっきりしている。しかし、党派対立の激化によって連邦政府が瓦解することを恐れてワシントンは続投を決意した。もともと大統領の任期を1期に限るべきだと主張していたジェファソンでさえ、ワシントンに続投を勧めている。
 焦点になったのは副大統領の人選である。ハミルトンを代表とする連邦派はジョン・アダムズを支持していた。その一方、連邦派と拮抗する民主共和派はまだ発展段階であったが、ニュー・ヨーク州知事のジョージ・クリントンを推した。
 12月5日、132人の選挙人(15州)が投票を行った。翌1793年2月13日に議会が集計を行った結果、ワシントンはすべての選挙人を獲得して再選するという偉業を成し遂げた。一方、ジョン・アダムズは77票を獲得し副大統領に再選された。
 1792年の大統領選挙では、選挙人を選出する日程が変更された。1789年の大統領選挙では、1月の最初の水曜日に選挙人を各州で選出するように定められていた。しかし、1792年3月、議会は12月の第1水曜日に先立つ34日間に選挙人を各州で選出するように日程を改定した。
 就任式は1789年と異なり、フィラデルフィアにあるフェデラル・ホールの上院会議場で行われた。宣誓は最高裁判事のウィリアム・カッシングが執り行っている。ホームへ