政権の特色と課題


数々の慣例を作る
大統領の在任期間を2期に
 ワシントン大統領は「私は人跡未踏の地を歩いている。私の行いの中で、今後、前例とされないような行いなどほとんどないだろう」と述べているように初代大統領として自らの行いが連邦政府の将来に大きな影響を与えることをよく分かっていた。新国家を象徴する人物となっていたワシントン大統領は、ワシントン自身ではなく、大統領職自体をアメリカの象徴にするように務めなければならなかった。また大統領職の威厳を保つように行動しなければならなかった。それと同時に、共和制国家という枠組みの下、国民に不信感を抱かせないように、そうした行動が君主然として見えないように配慮する必要があった。
 まず大統領の在任期間を2期に限るという慣例を作ったのはワシントン大統領である。もともとワシントン大統領は1期で退任するつもりであったが、閣僚やマディソンの強い勧めで続投を決意した。2期在任の伝統は1940年にフランクリン・ローズヴェルトに破られるまで守られた。現在では1951年に成立した憲法修正第22条により、2期をこえて大統領に選出されることが禁じられている。 
1796年9月17日、ワシントン大統領は告別の辞で「退任するという既に固めた決意」を明らかにしている。ワシントン大統領が自ら退任したと聞いてジョージ3世は、ワシントンを「当世随一の偉大な人物」と評したという。
 現在では、1951年の憲法修正第22条により、「何人も、2回を超えて大統領の職に選出されてはならない。他の者が大統領として選出された場合、その任期内に2年以上にわたって大統領の職にあった者または大統領の職務を行った者は、何人であれ1回を超えて大統領の職に選任されてはならない」と定められている。
条約の締結と閣僚制度
 またクリーク族との条約の締結に関して、ワシントン大統領は「助言と同意」を得るために1789年8月22日と24日に上院に出席したが、捗々しい成果を得ることができず、以後、再び上院に助言を求めるために出席することはなかった。この慣例は以後の歴代大統領すべてが踏襲した。条約の締結以外の法律については、拒否権の行使を除いてワシントンは大統領自ら議会に影響力を行使するべきではないと考えていた。また大統領の責務を議会が制定した法律を実行し、諸外国との関係を管理することにあると憲法に沿って厳格にとらえていた。
 閣僚制度の原型を作ったのもワシントン大統領である。当初、ワシントンは閣僚の一人ひとりに文書で助言を求めるスタイルを好んだが、徐々に閣議を開いて政策を議論するようになった。ワシントン自身は大統領として議会に影響力を及ぼすべきではないと考えていたが、閣僚による議会への働きかけは自由に任せていた。
 最初に記録された閣議は1791年11月26日に行われている。ただ「閣僚」という言葉が一般に広まったのは1793年以降である。またワシントン大統領は、上院の同意を得ずに官吏を解任する権利を得たが、それにより行政府の官吏がすべて大統領に対して責任を負うことになった。こうした閣僚制度が法により公式に認定されたのは実に1907年のことである。
国民的な儀式
 さらにワシントン大統領は就任演説を行う慣例を作った。就任演説や就任式については特に規定は無いが、現在でも多様な国民をアメリカ国民として統合する重要な儀礼となっている。
 初めて感謝祭を全国的な祝日にしたのもワシントン大統領である。1789年10月3日、ワシントンは感謝祭を全国的に祝う布告を出した。その布告に従って、初めての感謝祭は1789年11月26日に行われた。現在でも感謝祭(1941年以来、11月の第4木曜日)は重要な祝日である。感謝祭は1621年にピルグリム・ファーザーPilgrim Fatherが移住後、初めての収穫を神に祈ったというアメリカ建国神話の1つだからである。
 このような試みが考案された理由は、建国当時の人々が州に対する帰属意識を強く持ち、アメリカ国民としての帰属意識をほとんど持っていなかったからである。感謝祭を祝うだけではなく、ワシントン大統領はアメリカ各地を巡幸することでアメリカ統合の象徴的存在としての役割を果たした。1789年10月15日から11月13日にかけて、ワシントンはコネティカット、マサチューセッツ、ニュー・ハンプシャーのニュー・イングランド各州を巡幸している。さらに1791年4月7日から6月12日にかけて、ヴァージニア、ノース・カロライナ、サウス・カロライナ、ジョージアの南部諸州を巡幸している。
 歴史家ジョアン・フリーマンは「ワシントンは非常に難しい役割を担った。君主制の要素を過度に出すことなく、何とかして新政府の品位と権威を体現しなければならなかった」と指摘している。
大統領の呼称と一般大衆との関係
 それは大統領の呼称をどうするかという論議を一例として挙げることができる。ジョン・アダムズは「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を呼称として上院に提案した。しかし、下院はそれを拒否し、単に「大統領閣下Mr. President」という呼称になった。この呼称は今でも使われている。ちなみにワシントンは大陸軍総司令官を務めていた時は、「閣下(高官に対する敬称)Your Excellency」と呼ばれていた。
 また大統領が一般大衆とどのように接触を図るべきかという問題もあった。議会は、大統領夫妻が一般市民からの食事の招待に応じることを禁止していた。一方でワシントン大統領はあらゆる市民に対して常に門戸を開くことを考えていたが、現実には絶え間のない訪問を制限する必要があった。そのためワシントンは毎週火曜日に「大統領の接見会levee」を催した。正装をした男性であれば誰でも事前予約なしで大統領に接見することができた。これは非常に堅苦しい儀式であり、ワシントン大統領は訪問者と握手をすることもなく、お辞儀をして軽く話しかける程度であった。正式な場に登場する際のワシントンの格好は、黒いビロードに繻子の装束にダイヤモンドの膝止めを締め、髪粉をつけ帯剣して軍帽を持つというスタイルであった。
 さらにワシントン大統領は毎週木曜日に、官吏や議員を招いて4時から「公式晩餐会」を行った。ワシントンが公式行事の中で楽しんだことはダンスくらいであった。大統領の誕生日には決まって舞踏会が行なわれ、真夜中まで続いたという。

権利章典の採択
 1789年4月30日の第1次就任演説でワシントン大統領は、次のように権利章典の必要性を述べている。
 「議員諸君は統一的、効率的な政府の恩恵を危険にさらすような変化、もしくは経験という将来の教訓を待つべき変化を注意深く避けようとしていますが、その一方で、自由民の固有の権利を尊重し、国民の調和を尊重することは、前者をどの程度強化すべきか、または後者をいかに安全にうまく促進するのかという問題に関する議員諸君の思慮に十分に影響を及ぼすだろうと私は確信しています」
 ワシントン大統領は、連邦政府に反対する人々を宥めるために権利章典を早期に付け加えることを議会に提案した。1789年9月25日、議会は審議を経て12箇条の憲法修正案を可決し、10月2日、ワシントン大統領がそれを各州に通達した。権利章典の採択により、いまだに合衆国憲法に強固に反対している人々の支持を得ようとしたのである。1791年12月15日、ヴァージニア州の批准によって権利章典(2箇条が否決されたので10箇条となった)が成立した。ちなみにコネティカット、マサチューセッツ、ジョージアの3州はこの時、権利章典を批准していないが、成立150周年を記念する形で1941年に批准している。

各省の創設
 1789年7月27日、外務省(9月15日に国務省に改称)が創設された。次いで8月7日、陸軍省が創設された。また同日、判事を除くすべての連邦職員の罷免権を大統領に与える法案が成立した。そして、9月2日、財務省が創設された。さらに9月22日、財務長官の下に郵政長官職が設けられた。

1789年裁判所法
 1789年9月24日、1789年裁判所法により連邦裁判所が設置された。まず最高裁判所の構成員は長官が1名、判事が5名の計6名と定められた。さらに、13の連邦地方裁判所と西部、中部、東部の3つの巡回裁判所からなる二重構造が採用されている。巡回裁判所は2名(1793年以後は1名)の最高裁判事と地方裁判所の判事からなる。また行政府の法律顧問として司法長官職も創設された。ワシントン大統領はジョン・ジェイを最初の最高裁長官に任命した。ここに至ってようやく連邦政府は、立法府、行政府、司法府の三権の機能を備えることができた。
 裁判所法により連邦裁判所は、連邦政府の権限と州政府の権限が衝突を招く訴訟事件に関して再審査することができるようになった。つまり、連邦裁判所が州裁判所に対して優位性を持ち、州議会が制定した法律に対して違憲立法審査権を持つことを1789年裁判所法第25条は明確に規定している。これは連邦政府と州政府が均衡を保ちつつ合衆国を発展させていくために不可欠なことであった。

公債償還
 大陸会議は独立戦争中、莫大な債務を抱え込んだ。さらに連合会議は課税権を持っていなかったので資金を調達するためには借入に頼らざるを得なかったからである。連邦政府は、大陸会議の債務を継承しただけではなく、州債も引き受けたために巨額な債務に悩まされた。州債の引き受けは主に次のような政治的な目的による。それにより債権者となった市民から連邦政府への忠誠が期待できる。さらに州政府が州債に悩まされることがなくなれば、連邦政府の輸入関税に対する独占的な徴税権に対して異議を唱えることもなくなる。
 『合衆国歴史統計』によれば、連邦政府は実に7722万8000ドル(1789-1791年)もの債務を抱えていた。当時の連邦政府の年間歳入は441万9000ドル(1789-1791年)であり、利子の支払いに歳入の半分にあたる231万9000ドル(1789-1791年)をあてていた。さらに貿易赤字も抱えていた。輸出額が2100万ドル(1791年)に対して輸入額が3100万ドル(1791年)にのぼっていた。差し引き1000万ドルの貿易赤字である。債務は国内にとどまらず、フランス、スペイン、オランダなど対外債務もあり、しばしば支払いが滞っていた。
 こうした状況の下、連邦政府の信用を築くことがアメリカの発展にとって不可欠だと考えた財務長官ハミルトンは、1790年1月14日、公債償還計画を議会に提出した。それは、政府公債のみならず独立戦争時の州債約2500万ドルを引き受け、課税と新たな借り入れで返済する計画であった。しかし、この計画は様々な利害対立をまねいた。マディソンは連邦政府による州債引き受けは、負債額が多い州にとっては歓迎すべきことだが、それが少ない州にとっては特に利益がないと計画に反対を唱えた。そのうえ公債償還計画によって利益を得るのは北部の投機家だという南部の根強い不信感があった。公債償還計画は頓挫しかけたが、それを救ったのはフィラデルフィア遷都である。

フィラデルフィア遷都
特別区の創設
 大陸会議では、各州の間で公平を期すために州の領域と分離させた特別区を創設して首都とすることが決められていた。しかし、特別区をどこに設けるかはまだ決定していなかった。そのため各地で首都誘致合戦が行われた。ハミルトンが強く推すニュー・ヨークは既に暫定首都となっていたので有利な立場を占めていた。
公債償還計画と首都移転問題
 1790年6月20日、ジェファソンはハミルトンとマディソンを自宅の晩餐会に招いた。その席で、ハミルトンはニュー・ヨークを首都にする案を放棄する代わりに、南部のフィラデルフィアを暫定首都にした後に、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設ける案を容認した。そうすることでハミルトンは、公債償還計画に対する南部の支持を取り付けることに成功した。
 この晩餐会での妥協の結果、7月16日、議会は暫定首都をフィラデルフィアに移転させた後に恒久的な首都を建設する案を承認した。一方で公債償還計画も7月26日、上院を通過した。こうして独立国家として今後、発展するために必要となる首都と信用というアメリカの2つの礎が築かれることになった。恒久的な首都の名前が「ワシントン」に公式決定されたのは1791年9月である。
ワシントンD.C.の建設開始
 実は、ワシントン大統領は、歴代大統領の中で唯一、ワシントンD.C.に住むことがなかった大統領である。ワシントンが大統領に就任した当時、ニュー・ヨークが暫定首都であった。ニュー・ヨークで大統領官邸の建設が進められていたが、完成前に首都がフィラデルフィアに移転することになった。さらにフィラデルフィアでも大統領官邸の建設が進められたがワシントン大統領の在任中には完成しなかった。
 1791年、フランス人の建築家ピエール・ランファンがワシントンD.C.の設計者に選ばれた。ワシントン自らは首都を「ワシントン・シティ」と呼んでいない。その代わりに「フェデラル・シティ」と呼ばれていた。
 さらにデザイン・コンペによりジェームズ・ホーバンの設計に基づいて3階建ての大統領官邸が建築されることになった。そして、1792年10月12日、コロンブスの新大陸発見300周年を記念して大統領官邸の建築が開始された。ホーバンは建設費用を40万ドルと見積もったが、ワシントン大統領は建築規模を2階建てにするように変更を求めた。
 退任後、ワシントンはワシントンD.C.に立ち寄っているがその時、ホワイト・ハウスは建設中であった。ワシントンD.C.に首都機能が移転し、第2代大統領アダムズがホワイト・ハウスに移ったのはワシントンの死後である。

第1合衆国銀行創設
 当時、慢性的な通貨不足にアメリカは悩まされていた。流動資本を供給するだけではなく様々な金融機能を果たす中央銀行がアメリカ経済の発展に不可欠であると考えたハミルトンは、1790年12月13日、合衆国銀行の創設を議会に提言した。
 ハミルトンの提唱は党派対立を助長する結果をもたらした。特にジェファソンやマディソンは、金融に対して根強い不信感を持っていた。農本主義的傾向を持つの彼らからすれば、銀行は自営農を圧迫し、貧困層を搾取する悪しき存在に他ならなかったからである。また連邦政府が特許状を与える権限について定めた規定がないという憲法上の問題もあった。つまり、反対派は、中央銀行の創設を行政府による立法権限の侵害だと見なしたのである。
 こうした反対にも拘わらず、20年を期限とする合衆国銀行特許法案は、1791年1月20日、上院を通過し、2月8日、下院を通過した。マディソンは同法案が違憲であると議会で演説するだけにとどまらず、ワシントン大統領に拒否権を行使するように求めた。そこでワシントンは閣僚に第1合衆国銀行設立の合憲性について諮った。まず司法長官エドマンド・ランドルフは合衆国銀行が違憲であるという見解を述べた。2月15日、ジェファソンも合衆国銀行特許法案に対して拒否権を行使するようにワシントンに提言した。ジェファソンの見解はランドルフの見解とほぼ同じであり、連邦に付与されることが明記されていない権限は州に留保されることを規定した憲法修正第10条に基づいて、合衆国銀行を設立する権限は憲法に明記されていないという見解であった。
 ワシントン大統領はランドルフとジェファソンの意見書をハミルトンに送って意見を求めた。2月23日、ハミルトンは、連邦政府は憲法によって規定されている権限を行使するために必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限implied power」の原則に基づいて、合衆国銀行設立は合憲であると結論付けた。最終的に、ワシントン大統領はハミルトンの意見を採用し、2月25日、合衆国銀行特許法案に署名した。ワシントンはある問題に対して特に強く反対するべき点がなければ、その問題を担当する閣僚の意見を優先することが多かった。
 合衆国銀行は完全な官営ではなく銀行株を発行することで資本金を集めた。連邦政府は資本金の2割を出資した。連邦政府が全額出資しなかった理由は、合衆国銀行を民間に委ねることで政治家からの干渉をできるだけ防ごうと考えたからである。しかし、財務省が経営を監視することで、民間の利益だけではなく公共の福祉が保たれるように配慮している。連邦政府は合衆国銀行の設立により大きな財政的利益を受けることができた。それだけではなく、合衆国銀行により生み出される莫大な信用はアメリカ経済の発展に寄与した。

ネイティヴ・アメリカン政策
不安定な北西部領地
 イギリスは講和成立後もオハイオ川北西部領地に7つの交易所を保持していただけではなく、周辺のネイティヴ・アメリカンに武器弾薬を供給し影響力を保持していた。
イギリスとネイティヴ・アメリカンの脅威を解消するためにワシントン大統領は北西部領地長官を務めるアーサー・セント・クレアにネイティヴ・アメリカンとの和平を図るように指令した。その地域で活動的だった部族は、オタワ族 、ポタワトミ族、チペワ族、ショーニー族などである。ワシントンは、セント・クレアに戦争を「フロンティアの住民の安全、軍の安全、そして国の威信を損なわなければ、あらゆる手段で避ける」ように命じていた。しかし、ネイティヴ・アメリカンとの交渉は失敗に終わった。
 セント・クレアはワシントン大統領にネイティヴ・アメリカンに懲罰的な攻撃を行うように提案した。その提案に基づき先遣隊が派遣されたが失敗に終わった。
 さらにワシントン大統領は1791年3月4日、セント・クレアを司令官とする遠征隊を派遣した。しかし、1791年11月4日、セント・クレア将軍率いる遠征軍は、北西部領地でリトル・タートル率いるネイティヴ・アメリカンに奇襲され敗北した。その敗報を受け取った時、ワシントンは食事会に出席していたが努めて平静を保った。散会後、ワシントンはかねてより奇襲に気を付けるようにセント・クレアに警告していたこともあって、怒りを爆発させたという。1792年、ワシントン大統領はネイティヴ・アメリカン政策について、「インディアンに関して合衆国がまず望むことは、彼らすべてとの平和であり、相互の利益についてより理解を深めることである。我々は、血を流さずにそれを達成することできなかったので、次善に望むことは、最も迅速な方法で戦闘行為を終わらせる方針を追求することである」と語っている。
フォーレン・ティンバーズの戦い
 1792年5月8日、ネイティヴ・アメリカンに対応するために連邦議会は民兵法案を可決した。同法に基づいて、独立戦争でも活躍したアンソニー・ウェイン将軍が最高司令官に任命され、18才から45才までのすべての白人男性を民兵として入隊させることが認められた。
 1794年8月20日、ウェインの部隊はフォーレン・ティンバーズの戦いでリトル・タートルを指導者とするネイティヴ・アメリカン連合軍に雪辱を果たした。その結果、1795年8月3日、ウェインとネイティヴ・アメリカンの族長たちとの間でグリーンヴィル条約が取り交わされた。この条約により、ネイティヴ・アメリカンは北西部領地からの後退を余儀なくされ、白人の入植者が急増した。さらにジェイ条約の取り決めにより、イギリスの7つの交易所も閉鎖された。
平和共存の呼びかけ
 北西部領地のネイティヴ・アメリカンの反抗を鎮圧する一方で、南部のネイティヴ・アメリカンに対してワシントン大統領は外交的手段で平和を獲得した。1792年3月23日、ワシントンはクリーク諸部族の族長を招いた。その中の一人であるレッド・ジャケットは、ワシントン大統領より銀のメダルを贈られた。そのメダルには、左に手斧を地面に置き煙管を吸うレッド・ジャケット、右に手を差し伸べたワシントン大統領の姿が彫られ、下部に「ジョージ・ワシントン大統領1792年」と刻まれていた。レッド・ジャケットは生涯にわたってこのメダルを大切に身に付けていたという。

ウィスキー暴動
 1791年3月3日、連邦議会は内国税法案を可決した。同法により、14の徴税区が創設され、蒸留酒へ1ガロンあたり7セントの税が課された。莫大な負債を返済するために必要不可欠な措置であった。蒸留酒は西部の農民達にとっては重要な産品であり、新たな課税は死活問題であった。西部の農民たちは税金支払いを拒否するだけにとどまらなかった。1794年7月、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ郡で暴徒が徴税吏を襲撃した。
 ワシントン大統領は、このように法律が踏みにじられれば、「共和主義政府は一撃で終わりを迎える」と考えていた。そのため、8月7日、ワシントンは1万2900人の民兵を招集し、9月1日までに降伏するように暴徒に呼び掛けた。しかし、呼び掛けが無視されると9月25日、遂に暴動の鎮圧を命じた。しかし、ほとんどの暴徒が既に検挙されていたか、もしくは逃走するかしたために戦いにはならなかった。20人が反逆罪で訴追され、2人が有罪となった。その2人にも大統領によって恩赦が与えられた。
 ウィスキー暴動は、連邦政府の威信に対する最初の挑戦であったが、ワシントン大統領はこの危機をうまく切り抜けることができた。幸いにも軍事力による実力行使をできる限り最小限にとどめながらも、社会秩序を回復することができた。

フランス革命戦争に対して中立を宣言
中立宣言の意図
 フランス革命勃発後、周辺諸国の君主は危機感を強めた。1792年4月、フランスは機先を制してオーストラリアに宣戦布告した。さらに翌1793年1月21日、ルイ16世の処刑が行われ、ヨーロッパ諸国は第1回対仏大同盟を結成した。
 ヨーロッパで激化する戦争の報せがアメリカにも届き始めた。アメリカは旗幟を明らかにする必要に迫られた。マウント・ヴァーノンに滞在していたワシントンは急遽、首都フィラデルフィアに戻り、対応策を練るために閣議を4月19日に開いた。当時のアメリカの脆弱な軍事力からして、中立を守ることが最善であるという点では閣僚の意見は一致していた。また休会中の議会を招集すれば危機感を煽ることになるので、特別会期を設けるべきではないという点でも意見は一致していた。しかし、中立を実際にどのように行うかについては激しい議論が行われた。
 最終的にワシントン大統領は、1793年4月22日、中立宣言を公表した。ただし、国務長官ジェファソンの勧めに従って、ワシントン大統領は宣言の文面に「中立」という言葉は盛り込まず「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」という表現に留めた。さらに国民に対しては「合衆国市民は何人といえども、先述の諸国に対する敵対行為を行うか、支援するか、もしくは扇動する者は、諸国の法の下に、処罰、または[資産の]没収を免れ得ず。また諸国の現行慣習法に基づいて密輸とみなされる品目を交戦諸国に持ち込む者は、処罰や没収を被っても合衆国の保護を受けることはできない」と呼びかけた。これは上院に諮らずに大統領が外交を取りしきる先例となった。またアメリカがヨーロッパの紛争に距離を置いて孤立を守る先例ともなった。
 ワシントン大統領が中立宣言を出した理由は、建国まもないアメリカは、自国の安全保障のためにヨーロッパの戦乱に巻き込まれる危険性を回避しなければならないと判断したからである。またアメリカは他国のためではなく自国のために動くことをヨーロッパ列強に納得させる効果もあった。その一方でワシントンは、ジェファソンを通じて外交官のウィリアム・ショートに「フランスは我が国の最後の頼みの綱であり、その友好関係が第1の目標である」と伝えている。
 こうしたワシントンの配慮にも拘らず、この中立宣言は、独立戦争をともに戦った同盟国フランスを裏切ることになると親仏派から激しい非難を受けた。そうした非難をワシントンは、フランス革命をめぐってアメリカ国内で党派を組んで争うのは馬鹿げたことだと考えていたが、党派対立は深刻になる一方であった。

党派対立の深刻化
対立の要因
 対立の火種になったのは財務長官ハミルトンと国務長官ジェファソンである。前者を中心に連邦派が、後者を中心に民主共和派が形成された。連邦派は、ニュー・イングランド地方の商人を支持基盤として強力な中央政府、中央銀行の設立、製造業の振興、公債償還、親英姿勢などを推進しようとした。一方、民主共和派は南部諸州の農園主を支持基盤として立法府と州権の尊重、農本主義、親仏姿勢などを推進しようとした。両派の対立が深化した主な契機は合衆国銀行設立である。
 さらに1791年10月31日、フィリップ・フレノーがフィラデルフィアで「ナショナル・ガゼット」紙を創刊している。フレノーはジェファソンの支援を受けていた。一方で、ハミルトンは「ガゼット・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ」のジョン・フェノを後援していた。両紙は、激しい党派論争の舞台となった。
 両派は「政党」と目されるが、この時代は、政党は君主制の遺物だという考えが強く、政治を腐敗させる存在として否定的に見られていた。そのため、連邦派と民主共和派は、実質上は政党であるが、正式に「政党」を名乗っていたわけではない。
 ワシントン自身は明らかに連邦派寄りであったが、ハミルトンとジェファソンを何とか和解させようと努力した。1792年8月23日にジェファソンに、同月26日にハミルトンに手紙を送って、両者の意見の相違を仲裁しようとしたが失敗している。1793年7月31日(辞任の発効は12月31日)、その努力にも拘わらずジェファソンは国務長官を辞任した。しかし、これで党派対立が終息したわけではない。
 当初、ワシントン大統領は党派対立に関して均衡を保とうとする立場にあったが、次第にワシントン自身も民主共和党の非難の的となった。特にジェイ条約は激しい論議の的になり、連邦派と民主共和派の亀裂をさらに広げた。ジェファソンの『トマス・ジェファソン語録Anas of Thomas Jefferson』によると、中傷にさらされたワシントンは激怒して、「神にかけて、今のような状況に置かれるくらいなら、むしろ墓の中に置かれるほうがましである。この世の帝王になるよりも、むしろ自分の農場に居るほうがよい。それにも拘らず、私は王になりたがっていると非難されている」という旨を述べたという。
世論を分断したジェイ条約
 1793年6月8日、イギリス政府はフランスの港に穀物を輸送する中立国の船舶を拿捕するように海軍に命じた。さらに11月6日、フランス領西インド諸島を完全封鎖する命令が出された。その結果、250隻のアメリカ船が拿捕され、積荷が差し押さえられるようになった。翌1794年1月8日、イギリスは11月6日の命令を撤回し、非軍事物資に限ってアメリカ船に仏領西インド諸島との通商を認めた。しかし、それまでアメリカが受けた損害への補償はなされなかった。一連のイギリスの措置に対抗してワシントン大統領は、3月26日、国外の港に向かう船舶に対して出港禁止を命じた。さらに4月16日、ジェイを特命全権大使に指名し、講和成立後の諸問題の解決にあたらせた。
 その結果、11月19日、ロンドンでジェイ条約が取り交わされた。その内容は、1796年までに北西部領地からイギリス軍を撤退させること、アメリカが被った損害を調査する委員会の設置、英領西インド諸島との限定的な通商、アメリカ国内で敵国による私掠船の艤装を禁止することなどを含む。一方、アメリカは、独立戦争以前の負債をイギリスの債権者に返済するように取り計らうこととイギリス人に引き続き毛皮交易を認めることを約した。しかし、ジェイがアメリカ人船員の強制徴用に対する補償と独立戦争中に連れ去られた奴隷の賠償金を得ることができなかったので同条約は不評を招いた。また親仏姿勢をとる民主共和党からすれば、ジェイ条約の締結はイギリスを攻撃しフランスを支援する望みが断たれたのに等しかった。またフランスもジェイ条約が米仏同盟に反するとしてアメリカに対する姿勢を硬化させ、両国の関係は悪化の一途をたどった。
 1795年3月7日、条約の詳細が到着した。ワシントン自身はまだ条約を認めるかどうかを決断していなかったが、6月、特別議会を召集し、上院に条約を上程した。そして6月24日、上院での非公開審議を経てジェイ条約は、西インド諸島との制限貿易を規定した項目を除いて20票対10票で承認された。しかし、早くも7月1日に条約内容が暴露され民主共和派の怒りを誘った。多くの民主共和派は、通商停止を取引材料にすれば、イギリスからもっと譲歩を引き出せたはずだと非難した。南部の農園主達は連れ去れた奴隷の補償がなされなかったことに大きな不満を抱いた。また北部の商人達も条約で取り決められた通商条件に満足していなかった。
 7月3日、ワシントン大統領はハミルトンに内密でジェイ条約の是非について諮問している。その8日後、ハミルトンは53ページにもわたる注釈を書いてジェイ条約を認めるように勧めた。結局、ワシントン大統領がジェイ条約に署名したのは8月18日である。
 ジェイ条約は不評であったために、それに署名したワシントンも様々な根拠の無い中傷にさらされることになった。例えば「もし国が人間によって滅ぼされるのであれば、アメリカはワシントンによって滅ぼされるであろう」という中傷があった。ワシントンはこうした中傷に対して怒り心頭に達していた。告別の辞の中でワシントン大統領はそうした新聞の姿勢を非難する文句を盛り込もうとしたが、演説草稿を作成したハミルトンの反対で取り止めたというエピソードが残っている。このように怒りをあらわにした理由は、ワシントンが公的に良い評判を得ることを「人間として真に価値ある要素」だと考えていたからである。この頃のワシントン大統領について、パンフレット作成者のウィリアム・コベットは、「すべて人の心からの歓迎で出迎えられると確信することなく彼が議会の中に入ったのは、これが初めての機会であった」と記している。
 翌1796年2月29日、ワシントン大統領はジェイ条約の発効を宣言した。それに対して下院は、、3月24日、ジェイ条約に関連する文書の開示を大統領に求める決議を採択した。翌日、ワシントン大統領は閣僚に下院の要求に応じるべきかどうかを諮問した。26日、すべての閣僚が要求に応じるべきではないと返答した。その結果、ワシントン大統領は下院の要求を拒絶した。これは行政府が外交に関して主導権を持つことを示した重要な先例となった。またマディソンを中心とする民主共和派は下院で、条約に関連する予算を差し止めようとしたが、4月30日、条約に関連する予算は僅差で認められた。

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究