職業経験


測量技師

遠征隊に参加

 18世紀当時、測量技術は極めて重要な技術であった。なぜなら未だ境界が定まっていない地所を正確に測量することで領域を確定する必要があったからである。ワシントン自身も測量技術は、「大きな地所を所有する者にとって何にもまして必要な」技術であると1771年に書いている。ワシントンは倉庫から父が使っていた測量器具を引っ張り出して測量に励むようになり、174710月、測量で初めて2ポンド3シリングの対価を得た。さらに1748311日、ワシントンは、ジョージ・フェアファックス率いる測量団に加わりシェナンドア渓谷遠征に出発した

測量技師の仕事と兄の病気
 測量団に随行して実地経験を積んだワシントンは、174955日、ウィリアム・アンド・メアリ大学から測量技師の免許を得た。そして、ヴァージニア植民地に新たに建設されたアレクサンドリアの区割りに加わった。さらに720日に新しく設置されるカルペッパー郡の測量技師に任命された。ワシントンが最初に就いた公職である。175210月までにシェナンドア渓谷を中心に190回もの測量を行ったという。測量を通じてワシントンは、情報を簡素に、しかも精確に伝える経験と明らかな指示を下す訓練を積んだ。こうして培われた見識は後々、軍隊を指揮する際に大いに役立った。
 当時、測量技師は現金収入を得ることができる数少ない職業の1つであった。ヴァージニア植民地では現金の代わりにタバコで決済されることが多かったためである。ワシントンは友人や親戚に貸したお金やトランプやビリヤードなどの勝ち負けを克明に記している。さらにワシントンはこの頃から西部の土地の購入を始めた。1750年末には1500エーカーの土地を所有するまでになっている。
 測量技師としてのキャリアは1751年秋に中断を余儀なくされた。結核を患っていた兄ローレンスの転地療養のため、9月にバルバドスまで同行することになったからである。兄弟は11月にバルバドスに到着した。
 バルバドスでワシントンは特にヴァージニアとは異なった農法に関心を抱いた。島に到着してから2週間後、ワシントンは天然痘に罹った。天然痘による痕跡は一生残ったものの、免疫を得たことにより後々の長い軍隊生活の中で天然痘に罹患せずに済んだ。当時、天然痘は軍隊の中で非常に恐れられ、また主な死因の1つであった。このバルバドスへの旅はワシントンの最初で最後の海外訪問である。12月末、天然痘が癒えたワシントンは兄より先にバルバドスを去った。
実らぬ恋路

 「愛してもそれを隠すことは、ああ、何と私を苦しめることか。長らく愛することを願ってきたが、決してそれを明かそうとは思わない。たとえ愛が私にとって苦痛だと激しく感じられようとも」という詩を10代に作っているように若き日のワシントンは女性に対して堅苦しく不器用であった。「私が試みてきたことは何であれ、不安に悲しみを足すような拒絶を得るだけであったとよく分かっていたので」、ワシントンは「若い女性から離れている」ように努めていたという。例えば、20才の頃、ヴァージニア植民地議会議員の娘ベツィ・フォンルロイに思いを寄せ、少なくとも2度アプローチしたがすべて断られて諦めている。それはワシントンにとって「無情な宣告」であった。

民兵隊を指揮
未開の地を行く

 1752726日、ローレンスは転地療養の甲斐無く、マウント・ヴァーノンで亡くなった。ワシントンは、2500エーカーの土地と18人の奴隷の分与を受けた。116日、ワシントンはヴァージニア南部民兵管区の少佐および軍務将校に任命された。
 当時、イギリスとフランスは北米植民地の覇権をめぐって争っていた。そして、ヴァージニア植民地は本国イギリスと協力してフランス勢力と戦っていた。ヴァージニアの北西部領域が侵される危険があったからである。フランスは特にオハイオ渓谷を毛皮交易のために支配下におきたいと考えていた。一方でイギリスも1749年にオハイオ会社にその一部の土地開発を許可していた。ワシントンもこのオハイオ会社の出資者の1人である。まさに英仏両国は一触即発の状態にあった。
 ヴァージニア総督代理ロバート・ディンウィディの命令の下、17531031日にウィリアムズバーグWilliamsburgを出発したワシントンはペンシルヴェニア植民地北東部に向かった。オハイオ川分岐で砦建設に適当な場所を見極めた後、ログスタウンに至ってイロクォイ諸族Iroquoisと接触した。そして、1212日、エリー湖付近のル・ボーフ砦に至り、命令通り、フランス軍に「イギリス王の領土」からの即時撤収を求めるディンウィディの最後通牒を手渡した。しかし、フランスはその最後通牒に応じなかった。返書をフランス軍司令官から受け取ったワシントンは1216日、帰路についた。ワシントンが辿った道程は「少なくとも500マイル」に及ぶ。
 帰還後、この任務に関するワシントンの報告は『ワシントン少佐の日誌』として出版された。ウィリアムズバーグには翌1754116日に帰着した。ワシントンから詳細な報告を受けたディンウィディはオハイオ川分岐に砦を建設することを決定し、早速、部隊を派遣した。
初陣と敗北
 22才にしてワシントンは中佐に昇進し、新しい砦に配属する兵士を徴募する任にあたった。そして、多くの植民地人が、正規兵よりも低い給与しか支払われないことを憤っていることを知った。ワシントン自身も正規軍の中佐の給与よりも民兵の中佐の給与のほうが低いことを知って退役しようかと思ったほどである。
 1754418日、ワシントンは、オハイオ渓谷に築かれたイギリスの砦を守るために160名の民兵を率いて出発した。しかし、砦は既にフランス軍の手中に落ち、さらに後続の軍は指揮官の不慮の死によりほとんど到着しなかった。フランス軍は砦をデュケイン砦と名付けた。砦の陥落を知った時、ワシントン率いる部隊はまだ200マイルほど離れた場所を行軍していたが、ワシントンは行軍をそのまま続行した。そして、デュケイン砦から南方約60マイルの地点にネセシティ砦を築いてフランス軍に備えた。
 1754528日、数十人の分遣隊を率いたワシントンはフランス軍の小部隊に勝利し初陣を飾った。この戦闘はフレンチ・アンド・インディアン戦争の最初の小競り合いとなった。フランス軍は10名の死者と1名の負傷者を出し、21名が捕虜となった。戦闘が起きた場所は現在のペンシルヴェニア州ユニオンタウン付近である
 ワシントンは、この時の模様を弟のジョンに宛てた手紙の中で「君に本当のところを伝えると、弾丸の掠める音を聞いて何か楽しげな響きがあると私が思ったことを信じてくれるだろうか」と語っている。後にロンドンで印刷されたこの手紙を読んだイギリス国王ジョージ2世は、「もしそんなにたくさんの音を聞くのに彼が慣れていたら、そんなことは言わないだろう」と感想を述べている。
 6月初め、約180名からなるヴァージニア民兵の増援軍がネセシティ砦に到着した。さらに614日、食料が尽きる寸前に約100名の正規兵が軍需物資とともに来援した。他にも少数の友好的なネイティヴ・アメリカンが守備兵に加わった。73日、フランス軍とネイティヴ・アメリカンの連合軍が砦に襲来した。ネセシティ砦に立て篭もった兵士は増援軍もあわせて約400名である。その3分の1は病気であり、残りの兵士達も飢えがちであった。対する連合軍は、フランス兵が800名にネイティヴ・アメリカンが400名であった。フランス軍が森と岩場の背後から銃撃を加えたために、約30名の死者と70名の負傷者が出た。さらに雨天により戦場は泥の海と化した。ネセシティ砦には、もはや満足に戦える兵士もほとんどなく、食糧も乾いた弾薬も不足していた。真夜中、ワシントンはフランス軍にネセシティ砦を明け渡すことに同意した
 この時にワシントンが署名した降伏文書は、先に打ち破ったフランス軍の小部隊が偵察部隊ではなく使節であることを認めている。つまり、これはワシントンの勝利が騙し討ちによるものであり、フランス軍の指揮官を「暗殺した」ことを認める文書であった。後にワシントンは、騙し討ちを認めたわけではなく降伏文書に書かれていたフランス語が良く分からなかったためだと弁解している。
  敗残兵を引き連れてワシントンは717日にウィリアムズバーグに戻った。植民地人は、砦を失ったことでワシントンを責めることなく、むしろ勇敢に戦ったことを称賛した。その後、ワシントンは上官の死去に伴ってヴァージニア連隊の大佐に昇進したが、1754115日に退役している。本国からすべての植民地人士官を降格させる命令が届き、したがって大佐から大尉に降格させられることを潔しとしなかったためである。また民兵隊の将校の位階しか持たないために、イギリス軍の将校任命辞令を持つ士官と指揮系統をめぐって衝突したことも、ワシントンが退役した1つの理由である。ヴァージニア連隊も解散し、ワシントンは軍隊での経歴を一時断念せざるを得なかった。
 退役後、ワシントンは1217日に、義姉(異母兄ローレンスの未亡人)から年額1万5000ポンドのタバコでマウント・ヴァーノンを賃借する契約を結んだ。しかし、ワシントンが軍を離れていたのは束の間であった。17553月、北米イギリス軍最高司令官エドワード・ブラドッグ将軍が、デュケイン砦攻略に協力するように求めてきたのである。その求めに応じて、510日、ワシントンはブラドッグの副官として無給ながら随行することにした。経験豊富な将軍から軍事知識を実地で学ぶ良い機会だと考えたからである。
モノンガヒーラの戦い
 デュケイン砦から南東約90マイル離れたカンバーランド砦に部隊を集合させ、175567日、作戦を開始した。ワシントンは行軍速度の遅さに苛立ちを感じていた。手紙の中で「彼らはあらゆる高さのモグラ塚で立ち止まり、すべての小川に橋を架けています。そういうわけで我々は12マイル進むのに4日間もかかります」と記している。
 進軍が始まってから2週目、ワシントンは高熱を発し、ほぼ3週間も後衛に下がっていなければならなかった。175579日、1450名のイギリス軍前進部隊が、モノンガヒーラ川近くで900名からなるフランス軍とネイティヴ・アメリカンの連合軍に大敗を喫した。かねてからワシントンは「山々や茂みがある地域を通る時にカナダのフランス軍とインディアンから経験したような形式の攻撃がおそらくある」と警告していたが、受け入れられなったという。後にワシントンは「狡猾な敵の裏をかくためには良い諜報以上に必要なものはなかった」と回想している。
 連合軍はまさにワシントンが警告したようにイギリス軍を急襲した。まだ体調が完全に戻っていないのにも拘らず軍列に戻っていたワシントンは致命傷を負った将軍を救護した。さらに後方部隊に馬を走らせ、前線に軍需物資を送るようにという指示をワシントンは伝えた。ディンウィディ総督に宛てた手紙の中でワシントンは「弾丸が4発も私のコートを貫き、馬も2頭やられましたが、幸いにも私は一つの怪我も無く乗り切ることができました」と戦いの激しさを語っている。ブラドッグが戦死したことで軍に留まる理由がなくなり、ワシントンはマウント・ヴァーノンに帰った
 この戦いの翌月、敗退したイギリス軍の穴埋めをするために、ヴァージニア植民地は解散していたヴァージニア連隊を再結成した。それに伴い、814日、ワシントンは大佐および「ヴァージニア全軍総司令官」に任命された。その任務は約300人の兵士で350マイルにもわたる境界を守備するという難行であった。2,000人以下の兵士でこうした任務を十分に果たすことは難しいとワシントンは述べている。フランス軍とネイティヴ・アメリカンの諸部族の攻撃から入植民を守ることが主な任務であったが、守備範囲が広く人手が足りなかったのでいつも後手に回っていた 。そうした状況をワシントンは歯痒く思い、全植民地が一致協力してフランス軍とネイティヴ・アメリカンの諸部族に対抗すべきだと考えていた。
 軍隊を指揮するにあたって、ワシントンは『ガリア戦記』、『軍事教練論』などを読むことで兵法を学んでいた。さらに軍隊内での日々の命令を逐一記録し、「規律こそが軍隊の魂である」と考え、軍紀粛正を図った。当時の民兵の規律と装備は劣悪であり、その改善を図らないことには勝利は覚束なかったからである。士官の中には物資を着服する者さえいた。1755125日の総督宛の報告では、「もし閣下が脱走兵を逮捕し、彼らを匿うことを禁じる議会法を定めることを適切だとお考えになり、人民が法律をよく知るまで各教区で毎週日曜日に布告すれば、良い効果が得られるでしょう」と提言している。
束の間の恋
 17562月、ワシントンは、イギリス軍と植民地軍の間で起きていた指揮系統の混乱の解決を図り、さらにイギリス軍の将校任命辞令を得るためにボストンに赴いた。その旅の途中で立ち寄ったニュー・ヨークでメアリ・フィリップスという女性に出会った。メアリは富裕な土地所有者の娘であり、当時、25才であった。ワシントンは1週間、ニュー・ヨークに滞在し、プロポーズしたと言われているが、これも実ることはなかった。
 ワシントンは、1757310日のディンウィディ総督宛の報告の中で、「我々を大陸上の他の部隊と同じく正規兵とする国王陛下からの辞令以外に欲するものはない」と訴えているように、最終的にヴァージニア連隊がイギリス軍の正規兵に編入され、自身もイギリス軍の将校となることを切望していた。イギリス軍の位階と植民地の位階が別々に存在していたために、命令系統の中で位階の上下がしばしば問題となったからである。 ワシントンはイギリス軍の将校に必要な嗜みとしてフェンシングの手解きまで受けている。17562月にボストンへ、17572月にはフィラデルフィアへ、それぞれ北米イギリス軍の最高司令官のもとに直接赴いているが、ワシントンの希望は遂に叶えられることはなかった。イギリス政府は植民地人に大佐以上の位階を与えないという方針を採っていたからである。
民兵隊旅団を指揮
 戦線に転機が訪れたのは1758年である。イギリス軍は、植民各邦から徴募した民兵隊とともに劣勢を挽回しようと一挙に攻勢に出た。17581114日、イギリス軍指揮官のジョン・フォーブス准将は、デュケイン砦攻略に際してワシントンに民兵隊旅団の指揮を委ねた。植民地人の将校の中でこれほど多数の兵力を率いた将校はワシントンの他にはいない。この作戦ではフランス軍が早々にカナダに向かって撤退したために激しい戦闘はなかったが、イギリス軍はヴァージニアの北西部領域におけるフランス勢力を大きく削ぐことに成功した。ちなみに旅団の指揮を任される2日前にワシントンは、ヴァージニア連隊が誤って同士討ちをした際に危うく命を落としかけている。
 ワシントンは部下の将兵から信頼を得ることができた。それは、部下をイギリスの正規兵にするために努力し、できる限り軍需物資の手配に配慮し、そして誰もを職務において公平に扱ったからである。例えばある士官は、ワシントンが若い兵士を司令部に招き入れ食事をさせるだけではなく、必要なお金を無利子で貸し与えていたと記している。しかしながらワシントンは「民兵達は分からず屋で思い通りにならない」と記しているように、民兵に全幅の信頼をおいていたわけではなかった。

ヴァージニア植民地議会議員

イギリスの植民地政策に反対

 1758724日、ワシントンはフレデリック郡Frederick Countyからヴァージニア植民地議会下院議員に当選した。なお初めて立候補したのは175512月だが、その時は落選している。さらに1757年にも落選している。
 当時のヴァージニアでは珍しいことではなかったが、ワシントンは当選を祝って大盤振る舞いをしている。自ら選挙運動を積極的に行なわなかったが、友人達が有権者をもてなす費用は支払っている。当選祝いでは約400人の有権者に160ガロン(600リットル)ものお酒が振舞われた。請求書の総額は39ポンド6シリング(数百万円相当)にもなった。それでもワシントンは全く不平を言わずに、「私に投票しなかった人にも分け隔てなく、皆同じく満足がいくようにもてなされることを望む。それが私の強く願うことだ。私が恐れていることは、君たちがけちけちし過ぎることだ」と語っている。ワシントンは几帳面ではあったが、全く吝嗇とは言えなかった。
 1758125日に民兵隊を退役したワシントンは、翌年110日、士官達に別れの挨拶を行った1755813日以来、3年以上にわたってヴァージニア連隊を指揮したことになる。

1759222日、27歳の誕生日にワシントンは初登院した。ワシントンの戦友ジョージ・マーサーはこの頃のワシントンの様子を、「インディアンのように背筋が真っ直ぐで、靴を脱いで身長6フィート2インチ(193cm)、体重175ポンド(79キロ)」と述べている。議会でワシントンはほとんど演説することもなく、重要な法案を提出することもなかったという。またジェファソンやパトリック・ヘンリーなどのヴァージニア植民地の指導者と知り合う契機となった。議員として立法過程や政治過程を学んだ経験は、独立戦争期における大陸会議との関係調整、さらに大統領として議会に働きかける際に役立った。

 ワシントンは植民地議員としてイギリス本国の植民地政策に反対を唱えた。植民地人の西部への進出を制限する1763年の国王宣言にワシントンは特に強く反対した。さらに1765322日に制定された印紙条例に対しては、「我が邦の人々の目(既に開き始めている)は、これまで我々の物資を気前良くイギリスに与えることで得てきた贅沢品がなくても困らず、一方、生活必需品(大部分)は我々自身で調達できると見抜くだろう。その結果、質素倹約が広まるだろう。それは産業を刺激するために必要なものだ。イギリスが恣に輸出品に重税を課したとしても、それをどこで消費するのだろうか」と同年920日付の手紙の中で述べている。またある時には印紙条例を「合法的な盗み」と酷評している。

 イギリスはさらにタウンゼンド諸法を導入した。タウンゼンド諸法は、イギリス議会が制定した法律に従わなかったニュー・ヨーク植民地議会を解散させる法律、日常必需品に輸入税を課す法律、そして新たに税関委員会を設置する法律からなる。
 こうしたイギリスの植民地政策に対してワシントンは、植民地の権利、特に税を自ら課す権利を主張する決議の採択に主導的な役割を果たした。それに対抗してヴァージニア植民地総督は1769517日に植民地議会を解散した。ワシントンはイギリス製品のボイコットすることを提唱しながらも、もし必要であればアメリカの自由を守る最後の手段として武力に頼ることも辞さないと示唆している
 17731216日に起きたボストン茶会事件について、ワシントンは植民地人が資産を破壊したことを快く思っていなかった。しかし、それに対するイギリスの懲罰諸法を「かつて自由政府の中で行なわれた中で前例の無い最も横暴な専制的な制度の証である」と非難している。ボストン茶会事件以後、イギリスの抑圧に対抗しようという機運が各植民地でさらに高まった。ヴァージニア植民地議会はボストンに対するイギリスの懲罰措置に抗議する表明を採択した。そのためヴァージニア植民地総督は再び植民地議会を解散した。ワシントンも含む、イギリスの政策に反対する議員達はローレー亭に集い、1774527日、全植民地への抗議運動の拡大を決定した。この頃の心境をワシントンは「救いを求めても無駄であったのに、救いを求めてすすり泣くのか。それとも次々と地方が専制政治の餌食になるのを座視するべきなのか」と記している。
 
さらにワシントンは、1774718日にフェアファックス郡で開かれた会議を主催し、イギリスの抑圧的な制度を非難するフェアファックス決議をまとめた。フェアファックス決議は、ジョージ・メイスンによって起草された一連の決議であり、主に植民地の自治の権利と対英貿易のボイコットを謳っている。この頃、友人の宛てた手紙の中でワシントンは「私があなたのポケットにお金を求めて手を突っ込む権利がないように、イギリス議会には私の同意なく私のポケットに手を突っ込む権利はない」と主張している。また「[イギリス]政府は、法と正義を犠牲にして、憲法で保障された我々の権利と自由を覆すお決まりの計画を追求している」と語っているように、ワシントンのイギリス議会に対する不信感は根強いものであった。
 次いで81日、ワシントンはウィリアムズバークで開催されたヴァージニア革命協議会に出席した。その席上、ワシントンは「1000名の兵士を募って私費で養い、ボストンを救うために彼らの先頭に立って行進したい」と述べたという。こうしてヴァージニア植民地で抵抗運動の中心的な役割を担ったワシントンは、第1回大陸会議にヴァージニア植民地代表として参加することになった。

大陸会議に代表として参加
第1回大陸会議
 1774年9月5日、各植民地の代表を集めて第1回大陸会議がフィラデルフィアで開催された。ワシントンは7人のヴァージニア植民地代表の1人としてこの会議に参加した。他の植民地の指導者達と顔を合わせる初めての機会であった。大陸会議は、植民地会議が課税と内政を決定する排他的権利を持つことを表明し、イギリス製品のボイコットを決定した。また第2回大陸会議の開催も決定された。大陸会議の中でワシントンは演説をすることもなく、委員に任命されることもなかった。ただ大陸会議の多くの代表達は、ワシントンの優れた判断力と確かな軍事知識に目を留めている。
 1775年3月20日から27日にかけてリッチモンドで開催されたヴァージニア革命協議会はワシントンを再び大陸会議の代表に選出した。その場でワシントンはパトリック・ヘンリーの「我に自由を与えよ、然らずんば死をGive me liberty or give me death」という有名な言葉を聞いている。この頃、淡黄色の縁取りがある青い軍服をワシントンは新調している。それはフェアファックス郡の民兵隊の色であり、後に大陸軍の色として認識されるようになる。ワシントンは、フェアファックス郡に加えて他4郡の独立民兵隊を率いる指揮官に任命された。
 5月4日、ワシントンは第2回大陸会議に出席するためにマウント・ヴァーノンを発ち、軍装に帯剣という出で立ちでフィラデルフィアに到着した。会議に集まった代表の中で軍装で現れたのはワシントンただ1人であった。これ以後、1781年までワシントンはマウント・ヴァーノンを1度として見ることはなかった。
第2回大陸会議
 第2回大陸会議は第1回大陸会議に比べてより緊迫した会議となっていた。4月19日にレキシントン=コンコードの戦いが起こっていたからである。引き続いて各地で戦闘が勃発した。ワシントンも含め大陸会議の代表達は戦争を避けたいと考えていたが、同時に戦争が避けられないことも認識していた。そのため大陸会議はイギリスに全植民地が一体となって対抗する必要性を感じ、大陸軍を創設し、ボストン周辺に展開するニュー・イングランド諸邦の軍隊を編入することを決定した。大陸会議の中でワシントンは、調達する必要がある資金の総額を計算する委員や軍規を作成する委員に任命されている。
6月15日、トマス・ジョンソンがワシントンの名前を挙げたのに次いで、ジョン・アダムズが、「将校としての技能と経験、自活するのに十分な資産、偉大な才能、そして素晴らしく諸事に通じた性質を持つ紳士は、この国のどんな人物よりも、全アメリカの称賛を恣にし、全植民地の尽力を一つにまとめあげる」とワシントンを推薦する大げさな演説を行った。困惑したワシントンは部屋から出て行ったという。アダムズの呼びかけに会議は全会一致で応じた。ワシントンは就任を一旦固辞した。しかし、翌日、大陸議会から総司令官任命の通知を公式に受けたワシントンは、月額500ドルの給与は辞退し経費を受け取る旨を読み上げて総司令官の任を引き受けた。
総司令官に選ばれた理由
 何故、ワシントンが総司令官に選ばれたのか。主に2つの理由が挙げられる。まず、議員の中で軍事経験が最も豊富だったのは、フレンチ・アンド・インディアン戦争で一個師団を指揮した経験を持つワシントンであった。次に、戦闘がまだニュー・イングランド地方に限定されていたので、全植民地の支援を受けるためにはニュー・イングランド地方以外の植民地の代表者が望ましい。ワシントンが属するヴァージニア邦は南部であったからこの条件を満たしていた。
 またフレンチ・アンド・インディアン戦争で活躍したワシントンの登用は、より多くの植民人の支持を得るために重要であった。大陸会議は人民から直接選ばれた機関ではなく、各植民地の代表達から構成される機関であった。さらに各植民地の代表達もその多くが豊かな資産を持つ者達であり、資産を持たず投票権も持たない一般大衆からの支持を固めることは至難の業であった。ワシントンは彼らの支持を集める象徴として非常に力を持っていた。1777年にラファイエットはワシントンに宛てて「もしあなたがアメリカのために失われれば、6ヶ月たりとも軍と革命を維持できる者はいないでしょう」と書き送っている。

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究