引退後の活動・後世の評価


再び総司令官就任
 後任のジョン・アダムズの就任式に出席した後、ワシントンは1797年3月15日にマウント・ヴァーノンに戻った。ワシントンは、在任時に「もし誰も突然、やって来ないようになれば、ワシントン夫人と私自身は、ここ20年でできなかったことをするでしょう。つまり、我々自身で夕食を決めることです」と友人に書き送っていることから分かるように、誰にも煩わされること無く静かに引退することを望んでいた。
 しかし、1798年7月4日、米仏関係が悪化により万が一に備えて、ジョン・アダムズはワシントンを「中将および合衆国に奉仕するために徴募され、徴募されるであろう全軍の総司令官」に任命した。侵略軍を迎え撃つ時にのみ指揮をとること、そして士官の任命を一任することを条件にワシントンは任命に応じた。前大統領がそのような官職に就いた例はこの他にはない。ワシントンは、11月にフィラデルフィアに赴き、臨時軍の編成に関して助言を行った。幸いにもフランスとの紛争は全面戦争には至らずに「擬似戦争」に終わりワシントンが実際に軍役に就く機会は訪れなかった。このためワシントンの最高位は中将である。1976年に議会はワシントンに最高位である六星の合衆国総軍元帥を追贈している。
 1798年にヴァージニア決議とケンタッキー決議が出された際に、ワシントンは反対の立場をとっている。連邦法が国内の最高法規であるという憲法の規定に両決議が反していると判断したからである。
 晩年、ワシントンは資金繰りに行き詰ったらしく、銀行から初めてお金を借りている。税金や諸経費が嵩んでいたらしい。また絶えることのない訪問客にも悩まされた。訪問客の中には古くからの友人だけではなく、前大統領とその家族の生活を覗きに来る者までいたからである。
 またワシントンは、建設途上の新しい首都、つまり後のワシントンD.C.に度々、出掛けていた。建設の様子を見て、「1世紀後、もし我が国が統一を保っているのであれば、[中略]さしあたって、ロンドンほど大きくはならないだろうが、ヨーロッパのほとんどの都市に劣らず壮麗な都市がポトマック河畔に築かれるだろう」とワシントンは述べている。

奇妙な遺言
 1799年12月12日の朝、ワシントンは騎乗して習慣となっている農園の見回りに出掛けた。「1時頃、雪が降り始め、すぐに雹になり、それから安定した冷雨になった」とワシントンはその日の様子を記している。雨に濡れながらワシントンは5時間にわたって馬を歩ませ続けた。14日早朝、ワシントンはひどい寒気で目を覚ました。ほとんど何も嚥下できない状態になり、医師は処置を施したが脈拍は弱る一方であった。ワシントンの死因は急性喉頭蓋炎と考えられている。医師達に向かってワシントンは、「私をこれ以上、煩わせず、静かに逝かせて下さい。私は長くは持ち堪えられません」と言ったという。
 ワシントンが側仕えの者と最後に交わした会話は次のような会話だったという。「私は今、逝こうとしている。私をきちんと埋葬せよ。死後3日経たないうちに遺体を墓所に納めないように。私の言うことが分かったか」。側仕えの者が「分かりました」と答えると、ワシントンは「それでよい」と言い、それが最後の言葉になった。14日午後10時頃のことである。こう言い残したのは生き埋めにされることを恐れたからだと言われている。脈拍を自ら取りながら臨終を迎えたのもその為だと思われる。また防腐処理のために遺体にウィスキーを塗布するように指示したという。享年は67才と295日である。
 遺体はマホガニー製の棺に納められた。棺には「審判の下に立つ」と「神の栄光」という言葉が刻まれた。さらに「ジョージ・ワシントン将軍この世を去る、1799年12月14日、享年68」と刻まれた銀板が添えられた。18日に葬礼が行われ、棺はマウント・ヴァーノンの墓所に安置された。墓石には「イエスは言われた。私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。また生ける者で私を信じる者は、決して死ぬことはない」と刻まれている。これは「ヨハネによる福音書」第11章の25節と26節である。
 さらにワシントンの功績を記念するためにワシントン記念碑を建造することが決定された。記念碑は1884年に完成した。遺体を記念碑に移すことも提案されたが実現しなかった。

莫大な遺産
 不動産が大半であったがワシントンは莫大な財産を遺した。1799年7月9日に書かれた遺言によると、その財産は、3万3000エーカー(山の手線内の面積の約2倍に相当)以上の土地、羊640頭、牛320頭、騾馬42頭、馬20頭などの動産を含めて総計53万ドルであった。当時の連邦政府の年間予算が754万7000ドルであることを考えると、いかに大きな額であるかが分かる。

遺言で奴隷解放
 1799年7月9日に作成された遺言状には、財産目録と分与の他にマーサ夫人の死後、自らが所有する奴隷をすべて解放するようにという指示が記載されていた。その当時、マウント・ヴァーノンには314人の奴隷が存在し、そのうち122人が解放された。マウント・ヴァーノンに所属する奴隷でも、マーサ夫人が前夫から受け継いだ奴隷はワシントンの意思では解放できなかったからである。さらに年少者には成年に達するまで援助を与え、老齢者には生涯にわたって保障を与えるように指示している。その遺言に従い、1833年に最後の受給者が亡くなるまで援助や保障の支払いが続けられた。建国の父達の中で自らが所有する奴隷をすべて解放したヴァージニア出身者はワシントン唯一人である。1786年9月9日の手紙の中で、ワシントンは奴隷について次のように述べている。
 「ゆっくりだが確実に感じられない程度で我が国の奴隷制度を廃止するという計画を立法府が採択するのを見ることが私の何よりの願いだ」
 ワシントンがこのように考えていた理由は、奴隷制度を廃止するという計画によってもたらされる政争によって連邦制度自体が崩壊することを恐れていたからである。さらにワシントン自身も奴隷の手を借りずに農園を経営することはできなかっただろう。ただしワシントン自身は1790年代にマウント・ヴァーノンの奴隷を解放して賃役夫として農園で雇用することを検討していたことも確かである。

神格化された建国の祖
「桜の木」伝説の虚実
 ワシントンはアメリカ独立戦争を勝利に導いた建国の祖Founding Fatherとして存命中から衆人の尊崇を受けていた。アメリカは神に選ばれた国であるという理念の下、ワシントンをアメリカの「救世主」であり「神の子」と称賛する者も珍しくなかった。その死後も衆人の尊崇はとどまることを知らず、ワシントンにまつわる数々の伝説が生み出された。
 最も代表的な伝説は、「桜の木」伝説Story of the Little Hatchet and the Cherry Treeであろう。ワシントンが6歳の頃、父オーガスティンが大事にしていた桜を切ってしまった。オーガスティンに「庭のあそこにある小さな美しい桜の木を切ったのは誰か」と詰問された時に、ワシントンは少しもたじろぐことなく「お父さん、僕は嘘をつけません。僕が嘘をつけないことはお父さんもよく分かっていますよね。私の手斧で桜の木を切りました」と答えた。オーガスティンはワシントンを「我が息子の英雄的行為は、銀を咲かせ純金を実らせるような何千本の木にも優るものだ」と褒めたという。
 この逸話はメイスン・ウィームズMason Locke “Parson” Weems(1756.10.11-1825.5.23)による創作だとされている。ウィームズはワシントンと同時代の人物で、1787年3月、実際にワシントンを訪問している。後にウィームズは、『ジョージ・ワシントンの生涯と記憶すべき行いThe Life and Memorable Actions of George Washington』と題する80ページの小冊子を出版した。非常に人気を博したこの伝記は第7版まで改訂を加え、228ページにまで膨らんだ。その後も80版以上を重ねている。後にワシントンの伝記を書くことになるウッドロウ・ウィルソンWoodrow Wilson(1856.12.28-1924.2.3)も、子供の頃にこれを愛読していたという。
様々な作品に登場
 イギリスの劇作家オスカー・ワイルドOscar Wilde(1854.10.16-1900.11.30)は「桜の木」伝説を皮肉って『嘘の衰退The Decay of Lying』を執筆したという。ワシントンは他にもジェームズ・クーパーJames Fenimore Cooperの『密偵Spy』やサイラス・ミッチェルSilas Weir Mitchellの『ヒュー・ウィニー―自由なクェーカーHugh Wynne, Free Quaker』、ポール・フォードPaul Leicester Fordの『ジャニス・メレディスJanice Meredith』、パーシー・マッケイPercy MacKayeの戯曲『ワシントン―我々を作った人物Washington: The Man Who Made Us』、ウィリアム・サッカレーWilliam Makepeace Thackerayの『ヴァージニア人The Virginians』などの文学作品で描かれている。
その他の有名な伝説
またポトマック川を横断して1ドル銀貨を投げることができたという話やオーガスティンが秘かに「GEORGE WASHINGTON」という形になるようにキャベツの種を植えたという話もウィームズの創作Weemsianaである。こうした話は、1806年に発行された第5版から登場している。
 また進退窮まったヴァレー・フォージで、ワシントンが謙虚に神の恩寵を願うことで窮地を脱したという伝説も有名である。この祈りをポッツなる人物が見ていたとウィームズは記している。しかし、ポール・ボラーPaul F. Bollerによると、ポッツなる人物はその当時、ヴァレー・フォージにいなかったという。
 こうした神格化についてマーカス・カンリッフMarcus Cunliffeは、「ワシントン以後、早くても1775年以後、またはワシントンが大統領であった時に洗礼を受けた赤子であった国民は、ワシントンを偶像と見なす。ワシントンの崇拝者にとってワシントンは『神のようなワシントン』であった。そして、ワシントンを中傷する者は口々にワシントンは、批判することが背信とされる『半神』のように見なされていると不平を言った」と指摘している。
 さらに政治学者トマス・クロウニンThomas E. Croninは「模範的な大統領像textbook presidency」という概念を提唱している。つまり、大統領を神格化し英雄に仕立てることで、あたかも大統領が全能の存在であるかのように思わせる傾向を指す。その結果、多くの人々が大統領の能力に過度に期待するようになり、大統領個人の資質を見極めようとする視点が欠落してしまうと研究者は指摘している。
ワシントンの多くの事績がアメリカの建国神話と固く結び付いているので、ワシントン個人の実像を見極めることは極めて困難である。なぜならワシントンに対する否定的評価は、アメリカの建国の理念そのものを揺るがしかねないからである。

後世の評価
各人物による評価
 ワシントンの下で国務長官を務めたジェファソンは、後年、「彼の精神は、第一級ではありませんでしたが、偉大で力強いものでした。彼の洞察力は、ニュートンやベーコン、ロックほど正確ではないにしろ鋭いものでした。彼が確かめる限り、分別のない判断はかつてありませんでした」と振り返っている。またマディソンも「彼の性格の長所は、清廉潔白であったこと、正義を愛したこと、不屈であったこと、健全な判断力を持っていたこと、愛国的義務の高邁な精神と一体となった優れた深慮を持っていたこと、そして告別の辞で言明されたように賢明で公正な世評に信頼をおいたことにある」と評している。
イギリス首相ジョン・ラッセルは、「アメリカの成功は、その敵対者の失策のお蔭でもあるが、まずはワシントン将軍の指揮と品性のお蔭であった」と評価している。同じくイギリス首相を勤めたウィリアム・グラッドストーンは、「彼は歴史上、最も純粋な人物だ」と評している。またフランソワ・シャトーブリアンも「ワシントンの名前は時代から時代へ自由とともに広がるだろう」と述べている。
 歴史家ヘンリー・アダムズは、「彼は信念を持った偉大な軍事的指導者であり、私が思うに、模範的な姿勢を強く示したので、神は人々が置かれた緊急事態に対応できるような資質を与え、創造主の御業が及ぶ限り、1人の個人にアメリカ独立の大義と偉大で崇高な道義をお集めになった。その人物が他ならぬワシントンである」と記している。また政治学者シーモア・リップセットは、ワシントンを、マックス・ウェーバーの言葉を借りて「超自然的、超人的、もしくは少なくとも人並み優れた能力や才能がある」カリスマ的リーダーの典型である評価している。そして、ワシントンの事績については、レオナード・ホワイトが、ワシントンは政権を運営することで「アメリカ人の心に、連帯、活力、そして有能であるという理由で政府は敬意を得ることができるというモデルを植え込んだ」と述べている。
総評 
 大統領としてワシントンは大統領制の確立に貢献したが、一方で党派対立を抑えることができなかった。ワシントンは超党派的に振る舞うことで、連邦党と民主共和党の均衡の上に身を置こうとした。しかし、実際にはワシントンの考え方は連邦党寄りであったので、政権末期までに均衡の上に身を置くという考え方は放棄せざるを得なかった。
 また独立戦争時にワシントンが発揮した軍事能力を疑問視する評価もある。確かにワシントンの部下の中には、分野によってはワシントンを凌駕する才能を示す人材がいた。また何度も敗退を繰り返している。しかし、ワシントンが最も評価されるべき点は、単に軍隊を指揮する能力ではなく、大陸会議や諸邦と折衝を数多く重ね、勝利を手にするまで大陸軍を維持し続けた点にあると言える。そして、自ら大陸軍総司令官の地位を手放すことによって、軍事独裁の可能性を否定し文民統制の原則を打ち立てた点を忘れてはならない。

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究