ファーストレディ・継子


富裕な未亡人
生い立ち
 妻マーサ(1731.6.21-1802.5.22)は、1731年6月21日、ヴァージニア植民地ニュー・ケント郡で裕福なタバコ農園主ジョン・ダンドリッジの娘として生まれた。8人(さらに異母妹が1人いたという説もある)の子供の中で一番年長であった。少女時代の日課は、朝6時の読み書きの勉強から始まり、音楽、裁縫、編み物、糸紡ぎ、機織り、料理などで埋められていた。15歳で社交界にデビューするまでに、当時、主婦として修める必要があった仕事はすべて身に付けていた。1749年6月、マーサはダニエル・カスティスと結婚したが1757年に死別した。マーサは子供達の分も含めて1万7000エーカー(約6800ha)の土地と約300人の奴隷、そして約36万ドルを所有する富裕な未亡人となった。
出会い
 マーサの孫ジョージ・カスティスの回想によると、ワシントンとマーサがお互いに初めて面識を得たのは1758年のことである。カスティスは彼らの出会いを次のように回顧している。
 「話によると、彼らは初めての出会いをお互いに喜んだという。しかし、それは注目に値することではない。彼らのような年頃では、感ずるところが大きいのだから。淑女はじっと見つめたくなるほど美しく、人の心をとらえる物腰で、素晴らしく世故に長けていた」
 1758年3月にワシントンから結婚の申し出を受け、翌1759年1月6日、ホワイト・ハウス(ヴァージニア植民地ウィリアムズバーグ北西にあったマーサの邸宅)で挙式した。新朗は26歳、新婦は27歳であった。
ワシントンとの間に子供が生まれなかった原因
 マーサはワシントンと再婚する前に4人の子供(2人は夭折)をもうけていたが、ワシントンとの間に子供は生まれなかった。そのためワシントンの血を引く子供は1人もいない。
直系の子孫はいないが、甥のブッシュロッドは、1798年から1829年まで連邦最高裁判事を務めたことで知られている。
 子供が生まれなかった理由は、一般的には、ワシントンがバルバドスに行った際に患った天然痘が原因で生殖能力を失ったからだと言われている。しかし、ワシントンは、マーサが前夫との間に4人目の子供をもうけた時に合併症に罹り子供を産めなくなったと指摘している。また結婚後、暫くして患った風疹が原因だとも言われている。

マーサの子供達
ダニエル・カスティス
 長男ダニエル・カスティス(1751.11.19-1754.2.19)は夭折した。
フランシス・カスティス
 長女フランシス・カスティス(1753.4.12-1757.4.1)は夭折した。
ジョン・カスティス
 次男ジョン・カスティス(1754.11.27-1781.11.5)はヴァージニア植民地ホワイト・ハウスで生まれた。父ダニエルが亡くなった時、ジョンは、将来、5つの郡にある地所の主要な相続人になった。ワシントンはジョンを養子にすることはなかったが、後見人を務め、養育に責任を持った。
 ジョンの教育について細心の注意を払っていたことは多くの手紙からうかがえる。例えば1768年3月30日に寄宿を依頼する手紙ではジョンについて、「彼は良い性質の14才の少年で道徳において汚れをしらず、作法に関しても無邪気です。2年かそれ以上、ヴァージルを読んできましたし、([家庭教師の]マゴワン氏が彼を残して旅だった時)ギリシア語版聖書に入ったところでした。3月に郷里から離れるのにも拘わらず、クリスマス以来、家庭教師の教えを受けていないので、両方ともかなり鈍っているかもしれません」と述べている。
1768年、ワシントンはジョンをキャロライン郡のジョナサン・バウチャーの学校に入学させた。さらに1773年、ジョンはキングズ・カレッジ(現コロンビア大学)に入学した。
 1775年にワシントンは大陸軍総司令官に就任するにあたって、ジョンに母マーサの面倒を見るように依頼した。そのためジョンはたいていマウント・ヴァーノンに滞在た。1778年にジョンはヴァージニア邦議会議員に選ばれた。1781年、ジョンはヨークタウン包囲に参加したが、終結後間もなくキャンプ熱に罹って亡くなった。
マーサ・カスティス
 マーサ(1755.12?-1773.6.19)は成人前にマウント・ヴァーノンで亡くなった。
ジョージ・ワシントンの名を受け継ぐ者
 ジョン・カスティスの死後、ワシントンは遺児の4女ネリーと「小ワシントン」と呼ばれる息子ジョージ・カスティスをマウント・ヴァーノンに迎え入れている。しかし、ワシントンは、ジョージ・カスティスを養子にしたわけではなく、父ジョンと同じく被後見人と言及している。
 ジョージ・カスティスは、プリンストン大学に通い、1799年に卒業後、合衆国陸軍騎兵隊旗手を務め、大佐になった。 ワシントンの死後、ジョージ・カスティスはポトマック川沿いに邸宅を建てアーリントンと名付けた。その名はイギリスにあったワシントン家の邸宅に因んでいる。ジョージは、郷紳として生涯を過ごした。アーリントンには様々な人が訪れた。その中にはジャクソン大統領も含まれている。またジョージ・カスティスは劇作も手掛け、『インディアンの予言』(1828)や『ポカホンタス、あるいはヴァージニアの居住者達』(1830)などを発表した。
 ジョージ・カスティスの娘メアリは、父ジョージが1826年から書き始めた回顧録をまとめて『ワシントンの養子によるワシントンに関する回想集および個人的な回顧録』(1860)を出版している。そのため後代の伝記作家はジョージ・カスティスをワシントンの養子であると度々言及している。しかし、上述の通り、ワシントン自身は被後見人としか言及していない。ジョージは娘に、ワシントンの名前を絶やさないように子供に名前を継がせるようにと言い残した。そのため長男はジョージ・ワシントン・カスティス・リーという名前になった。しかし、ジョージが未婚のまま亡くなったのでジョージ・ワシントンの名を受け継ぐ者はいなくなった。

レディ・ワシントン
農園の女主人
 マーサはマウント・ヴァーノンで数多くの使用人を監督する農園の女主人としての役割を果たした。料理の献立を考え、調理を監督し、野菜を植える。それだけではなく機織り小屋で、奴隷が行う機織りを監督している。その他、ワインや薬など農園内で必要とされるいろいろな物資をマーサは作っていた。1768年から1775年の間に、延べ2000人もの訪問客があったが、多くの訪問客がマウント・ヴァーノンの温かいもてなしと食物の豊富さを称賛したという。
冬営地に赴く
 1775年12月11日、マーサは夫の求めに応じて厳しい環境の冬営地に到着した。それ以来、毎年マーサは冬営地で夫とともに過ごしている。マーサは、冬営地で率先して兵士のためにシャツを作ったり、靴下を編んだり、くたびれた服の綻びを縫ったりした。「どんな状況におかれても楽しく幸せでいるように私は固く決心しています。幸せや不幸は環境に因るものではなく、自分自身の気の持ち方に因るのだと経験から分かったからです」と友人に書き送っている。
 ヴァレー・フォージでも兵士達の家からの手紙に耳を傾け、彼らの子供の名前を覚え、擦り切れた軍服や毛布を修繕した。物資も場所も娯楽も満足にない野戦病院では、夜の集会を主催し、負傷兵達とともに歌や家の思い出話などに興じた。本来、外国製の服飾品をマーサは好んでいたが、戦時中はそうした服飾品の変わりにホームスパンの服を自ら進んで身に付けた。こうしたマーサの活躍は多くの将兵に認められ、ある連隊は「レディ・ワシントンの竜騎兵」と名乗るほどであった。
この当時のマーサの様子を、アメリカ初の女性劇作家マーシー・ウォレンは、「彼女の上品な態度は、即ち彼女の慈愛に満ちた心を物語っている。彼女の愛想のよさ、率直さ、そして優しさは私生活に和らぎを与え、英雄[ワシントン]の気苦労を慰め、厳しい戦争の苦痛を緩和する」と記している。
大統領夫人としての役割
 ワシントンが大統領に就任する前から、マーサは「レディ・ワシントンLady Washigton」と呼ばれるようになっていた。マーサは金曜日の夜に上流階級の紳士淑女を接待する「公式招待会」を開いた。それはファースト・レディの公務と言えるだろう。
 公式招待会はイギリスとフランスの宮廷儀礼をモデルにしている。まず招待客はマーサの前に案内され会釈する。マーサはそれに軽く頷いて応じる。次に招待客は、マーサを中心にして半円形に並べられた椅子に着席する。その場での招待客どうしの私語は禁じられていた。その周りを大統領が順番に巡り、それぞれに2、3言の言葉をかける。その後、招待客は軽い夕食が用意された別室に移動する。大統領夫妻は招待客とともにコーヒーを楽しむ。この公式招待会にはもちろん男性も参加できたが、下品な話やカード遊び、女性に対してふざけることが禁じられていたので随分と窮屈に感じたであろう。
 ある金曜日の夜、宴もたけなわになり、訪問客たちはイギリスの宮廷作法にしたがってマーサが退出するまで待つべきか、それとも民主的に各自が帰りたい時に帰るべきか判断に迷った。機転を利かせたマーサは、「将軍はいつも9時に退出します。私はだいたい彼よりも早く退出します」と言って退出した。
 マーサは、マウント・ヴァーノンで夫とともに静かに暮したいと親戚に語っていたという。それはワシントンが大統領の任期を終え、マウント・ヴァーノンに帰ることになった時、マーサは「将軍と私は、さながら学校、または厳しい親方から解放された子供のように感じています。そして、大切な我が家を離れる気持ちにさせるものは何もないと思います。[中略]黄昏が私達の人生に訪れようとしています。私は、古風なヴァージニアの主婦の楽しい務め、時計のように規則正しく、蜂のように忙しく、そしてクリケットのように愉快な務めにようやくまた没頭することができます」と友人に書き送っていることからもよく分かる。しかし、マーサは「私の個人的な願いが政治的意思と決して反しないようにすることを、ずっと以前から経験により学んでいました」と述べているように、「私は国家の囚人に他なりません」と友人に打ち明けながらも、こうした社会的な儀礼を自らの義務だと考え忠実に果たしていた。そんなマーサをワシントンは「物静かな妻、物静かな人」と評している。 
 1790年1月1日、マーサは「新年歓迎会」を開いた。この歓迎会は誰もが参加することができた。この新年歓迎会は1930年まで、戦時や弔時を除いて140年にわたって開催され、1つの伝統となった。この頃のマーサの様子を、ジョン・アダムズの妻アビゲイルは「ワシントン夫人は、気取らない性格で敬愛の念を抱かせる人物の1人です。彼女の表情によってとても愉快な気分になりますし、わざとらしさがない態度は尊敬と敬意の対象になっています」と記している。
 しかし、反連邦派の新聞はこうしたマーサの振る舞いを、「軽薄でお上品ぶった無用の費え」と批判し、「女王然とした」行いでアメリカの共和主義を損なおうとしていると攻撃した。このような一部の批判にも拘らず、マーサが公式行事を取り止めなかった理由は、儀礼を通して大統領の威厳を高めることで諸外国に認められることが大切だと考えていたからである。

政権終了後
 ワシントン政権終了後、マーサは夫とともに念願の我が家に帰った。1799年12月14日、マーサはワシントンの最期を看取った。葬儀の後、マーサは寝室を閉じてしまい、屋根裏部屋に移った。その部屋には暖房がなく寒かったが、窓からワシントンの墓所を眺めることができた。
 ワシントンの死後、マーサを訪問したマナセ・カトラーは、「彼女は将軍[ワシントン]のことを、非常に愛情を込めて語り、たくさんの厚意や優しさに恵まれているけれども、最も欲しいものは神のお恵みであり、友達の中に居てもまるで余所者のように感じ、故人の後を慕って行く日を待ち望んでいると言っている」と記している。その後、死が近いことを悟ったマーサは、ワシントンから受け取った手紙を、2人の思い出が汚されないようにするために焼却した。焼却を免れた手紙は、書き物机の引き出しに押し込まれていた2通のみである。マーサは、1802年5月22日にマウント・ヴァーノンで亡くなり、愛する夫の傍らに葬られた。

エピソード
服装と趣味
 マーサは質素な服装を好み、豪華な装飾品にほとんど関心を示さなかったという。マーサを主賓に迎えて開かれた舞踏会に、マーサは粗い手織りの布でできたガウンを纏い、白いハンカチを首に巻いた姿で現れた。ワシントンは友人に宛てた手紙の中でマーサの服装について、「ワシントン夫人の考え方は、服装のシンプルさに関して私の考え方と一致している」と述べている。またマーサが着用していたドレスの中には綿にシルクの縞が入っているドレスがあった。そのシルクの縞の正体は、ブラウンのシルクの靴下と深紅の椅子のカバーを解いて再利用したものであった。マーサは編み物が大変好きで一日中、編み物をしていた。親しい女性と話す時も片時も編み物を手離さなかったという。
 なおマーサは1866年9月に発行された紙幣の肖像画に選ばれている。アメリカで女性が紙幣の肖像画に選ばれたのはそれが初めてである。
 ワシントンの子孫の所在を聞いて驚いた福沢諭吉
 1898年から1899年にわたって「時事新報」に掲載された『福翁自伝』の中で、福沢諭吉はワシントンの子孫についてアメリカ人に聞いた体験を述べている。以下は、1860年当時、福沢が咸臨丸で渡米した際の話である。
 「私が不図胸に浮かんで或人に聞いて見たのは外でない今華盛頓[ワシントン]の子孫は如何なつて居るのかと尋ねた所が其人の云ふに華盛頓の子孫には女がある筈だ今如何して居るか知らないが何でも誰かの内室になつて居る容子だと如何にも冷淡な答で何とも思て居らぬ是れは不思議だ勿論私も亜米利加は共和国大統領は四年交代と云ふことは百も承知のことながら華盛頓の子孫と云へば大変な者に違ひないと思ふたのは此方の脳中には源頼朝徳川家康と云ふような考があってソレから割出して聞いた所が今の通りの答に驚いて是れは不思議と思ふたことは今でも能く覚ゑて居る理学上の事に就ては少しも膽を潰すと云ふことはなかつた一が方の社会上の事に就いては全く方角が付かなかつた」
 本文中、「華盛頓の子孫には女がある筈だ今如何して居るか知らないが何でも誰かの内室になつて居る容子」とアメリカ人が指摘している「誰かの内室」とは、おそらくロバート・リーと結婚したメアリ・カスティスを指すと思われる。メアリ・カスティスはワシントンの被後見人ジョージ・カスティス(マーサの孫)の娘にあたり、ワシントン自身の血は受け継いでいない。

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究