金ぴか時代は、狭義では南北戦争が終結した1865年から1873年までを指す。広義では同じく1865年から1890年頃までの時代を指す。この名は、マーク・トウェイン(Mark Twain)が当時の成金趣味を風刺して書いた小説の題名からとられた。金めっき時代は、自分の為になることならどんなことでもしてよいという個人主義が幅を利かせた時代であり、一般市民にとって誰もが大金持ちになれるというアメリカの神話が現実のものとなる時代であった。

近代工業を基盤にした資本主義が急速に発達を遂げ、多くの大実業家達が登場した。大実業家達はこれまでにない巨大企業を生み出し、アメリカ社会に大きな影響を及ぼすようになった。アメリカは、これまでの地域共同体が散在する社会から、大きな1つの国民社会に変貌しつつあった。

 金ぴか時代は、アメリカン・ドリームが現実となる時代であったが、一方で暗い側面も持っていた。当時は労働者を保護するのに十分な労働法も、巨大企業の不当な独占を有効に防止する独占禁止法もまだなかった。そのため貧富の差が著しく拡大した。また労働者と資本家との衝突も激しくなった。現代では労働者と資本家の間に国家が立って調停を行うが、当時は、国家は最大限の自由を保障すべきで実業に介入すべきではないと考えられていた。こうした暗い側面がありながらも、昔よりも今が、そして未来がより良いものとなるという楽観主義がこの時代を支配していた。そうした楽観主義はグラントの第1次一般教書に如実に現れている。

 「最初にこの偉大な国の行政部としてあなた方の前に私が姿を現した際に、我々が享受する多くの利益をもたらしてくれた神に感謝の念を捧げる。我々は国内では平和に恵まれ、国外でも困難を予感させるような同盟に絡んでいない。5億もの人々を十分に養うことができ、数世代間、世界に供給しても十分な量のありとあらゆる有用な鉱物に溢れ、比類なく肥沃な領土に恵まれている。有り余るほどの穀物に恵まれている。あらゆる種の大地の富を産出するのに適し、あらゆる生き物の習性、嗜好そして要件に適する多様な気候に恵まれている。すべての人が1つの言語を話す4,000万人の自由民に恵まれている。あらゆる人が教育を受ける施設に恵まれている。名声か、もしくはいかなる財産の恩恵を得る手段が誰にも閉ざされてはいない制度に恵まれている。説教の自由、言論の自由、学派の自由に恵まれている。政府が必要とする分を超えて国庫に流れ込む歳入に恵まれている。幸いにも国内の調和は急速に回復している。これまで国内で知られていなかった工業製品がすべての分野で続々と出現し、他のどのような大国の地位とも比べることができない程の国家の独立した地位を生んでいる」

ジョンソンが罷免を免れても大統領職の権威は回復しなかった。ジョンソンの残りの任期は行政府と立法府の間で比較的静穏な停滞状態にあった。1868年の大統領選挙でグラントが当選しても大統領の権威は回復しなかった。もしアメリカ人が大統領の議会への従属を不安に思ってグラントを大統領に選んだとしたら、それは誤りであった。軍歴からするとグラントは優秀な行政能力を持っているように思われたが、その能力をうまく戦場からホワイト・ハウスに転移させることはできなかった。文官としての経験不足からグラントは行政府の長として責任を果たすのに必要な政治過程の知識を持っていなかったし、他の指導者を自らの目的に向けさせるのに必要な政治的能力も持っていなかった。

 文民の指導者としてのグラントの欠点はすぐに示された。グラントは当選後に1867年公職在任法の撤廃を望むことを明らかにし、同法が撤廃されるまで閣僚人事以外は行わないと公表した。上院は共和党の過激派の支配の下、実質的に行政府の役人を罷免する際の上院の役割を残したままの妥協的な修正のみを認めた。大統領に有利になった点は、停職させた公職者について大統領はその理由を上院に報告する必要はなくなった。また従来は、罷免は不法行為、犯罪行為、そして不能力、無資格の場合に限られていたが、大統領の自由裁量で停職させることができるようになった[i]。大統領としてグラントは公職在任法の撤廃を望むことを明らかにした時、自らの任期と名声によって勝利できると考えていた。それどころか自らの決定を実現できず、結果的にグラントは上院に降伏することになった。

 グラントの戦略的誤りはグラント政権に付いて回った。グラントは上院の共和党の指導者との最初の衝突で失った権威を回復することができなかった[ii]。公職在任法を撤廃するか否かという問題においてグラントは上院に黙従したが、それはグラントの大統領職に関する概念に明らかに影響されていた。グラントは自身を単なる管理職と考えており、大統領としてアメリカ人の意思を反映する議会の意向を疑問もなく受け入れるべきだと考えていた[iii]

グラントの大統領のリーダーシップに対する理解は、議会の優越性を信じる上院の共和党の指導者の理解と一致していた。リンカンやジョンソンと違って、共和党議員はグラントを御しやすいと見なしていた。その結果、グラント政権において上院の権威は最高に達した。議会の優越は議会の活動において明らかであった。1865年から1875年にかけて、制定された法や決議の数はそれ以前の10年間にくらべて約3倍に達した。南北戦争後の議会の活動が頂点に達したのは第42議会であり、実に1,012にのぼる法や決議が制定された[iv]

 議会の支配に直面してグラントは完全に大統領の責任を放棄したわけではなかった。実際、グラントは19世紀の大統領制度の中で最も重要な権限である拒否権を復活させている。ジョンソンは拒否権を攻撃的に行使したが、その大半が議会によって覆された。グラントは93回も拒否権を行使した。その数はこれまでの大統領が行使した拒否権の合計よりも多く、しかもそのうち覆されたのは4回のみであった。最も重要な機会は1874年紙幣増刷法案に対する拒否権の行使であった。同法案は国中の銀行の倒産によって引き起こされた1873年の恐慌に対応するために紙幣を増刷し、西部の小規模農場主の債務危機を緩和しようと努めるものであった。グラントは地方の窮状に同情的であったが、紙幣を乱発することで政府の信用を損ない、物価高騰を引き起こし、景気後退が本格的な不況になることを恐れた。さらにグラントは正貨兌換復帰法の成立を促し、アメリカの金本位制を確立した[v]

 金融業者のジェイ・グールド(Jay Gould)とジム・フィスク(Jim Fisk)1869年、金相場を吊り上げようと大量の金を買い占めた。金の購入は金融危機を引き起こし、株式市場は1869924日に閉じられた。その日は「暗黒の金曜日」として知られる。グールドとフィスクは金相場を左右する企てにグラントの協力を求めようとグラントの妹の夫であるアベル・コービン(Abel R. Corbin)に賄賂を贈った。グラントはグールドとフィスクの申し出を断り、金の価格を下げるために政府が保有する金を売却するように命じた。高い価格で金を購入していた投資家は大きな損失を被った。しかし、グラント政権と金融業者との関係は議会の調査の対象となった。

 その他の国内政策にグラントはほとんど興味を示さなかった。軍人としての経歴からグラントの関心は国家安全保障の分野に向けられた。合衆国の海外における利権を守るべきだと信じてグラントは中央アメリカに目を向けた。グラントは議会に宛てた教書の中でカリブ海と太平洋を結ぶ運河の建設を訴えた。グラントは、海軍は大規模な天然の良港をカリブ海に持つべきだと考えた。そのためグラントは、ジョンソン政権によって始められたサント・ドミンゴ購入計画をやり遂げようとした。

サント・ドミンゴはサマラ湾に面するカリブ海の中でも屈指の良港である。サント・ドミンゴは独立する前、何回かスペインとフランスの支配を交互に受けてきた。独立後、サント・ドミンゴをスペイン支配に戻そうとする一派が蜂起した。グラント政権はサント・ドミンゴの独立を守ろうとした。深刻な経済的問題を抱えていたサント・ドミンゴは密使を通じて、ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish)国務長官にサント・ドミンゴを売却する提案を行った。フィッシュは提案に疑いを抱いたが、グラントは提案に関心を示し、秘書のオーヴィル・バブコック(Orville R. Babcock)を通じて交渉を進めた。グラントのサント・ドミンゴ購入計画は政権内でほとんど支持されなかった。さらにサント・ドミンゴ購入計画は上院に騒ぎをもたらした。

サムナー上院外交委員会議長はグラントの拡大主義的な政策に反対し、共和党の理念を傷付けるものだと非難した。多くの元奴隷制度廃止論者は、世界中で数少ない黒人の独立国家を併合することを非難した。サムナーの道義的義憤は別の怒りによって助長されていた。国務長官に指名されないことを怒っていたサムナーは、アメリカの外交を上院外交委員会を通じて左右しようとした。サムナーはサント・ドミンゴ併合条約を上院外交委員会で否決した。グラントは併合条約を上院の本会議にかけるように求めた。上院はグラントのサント・ドミンゴ併合条約を否決した[vi]。表決が行われる前に、バブコックがサント・ドミンゴの大統領に10万ドルと武器を供与する約束をしていたことが判明した。そうした事実が判明したのにも拘わらず、グラントはバブコックを罷免しなかった。

 グラントは上院の否決を軽くは受け取らなかった。グラントは上院の共和党の指導者を説得してサムナーから外交委員会議長の座を剥奪した。そうした復讐はグラント大統領のサント・ドミンゴに対する外交政策に何の変化ももたらさなかった。1871年、議会はサント・ドミンゴを併合する条約を再び否決した。

しかし、グラント政権はワシントン条約に関して上院の同意を取り付けることに成功した。同条約は国境問題、漁業権問題、アラバマ号事件などイギリスとの長引いた紛争を解決するものであった。アラバマ号事件は、アラバマ号やその他のイギリスの援助で建造艤装された南部連合の商船襲撃船により合衆国が被った損害に関わるものであった。イギリスは当初、アラバマ号事件を調停裁判に持ち込むことを拒否していた。もしアラバマ号事件の解決が行われなければ、反英感情が爆発し戦争になる恐れもあった。サムナーは、イギリスが奴隷制度に反対すると公表しておきながら、南北戦争で南部連合に封鎖破りの船を売ることで利益を得たと非難した。さらにサムナーは、イギリスは合衆国が間接的であれ直接的であれ被った損害に対して補償すべきだという強硬な姿勢を示した。サムナーの主張によれば、イギリスが南部連合に売った船によってアメリカの商船は大きな損害を被っただけではなく、南北戦争そのものも長期化した。グラントはサムナーと同様の見解を抱いていたが、紛争を早期に解決しようと試みた。グラントはイギリスの仲裁提案を受け入れた。上院に提出された紛争を仲裁する条約はすぐに認められた。その結果、イギリスの中立義務違反が認められ、賠償金は1,550万ドルと定められた。これは国際法上の重要な先例となった。なぜなら国家の威信をかけた問題で世界の2つの大国が武力ではなく、複数の国から構成される国際的な仲裁裁判を経て紛争を解決した最初の事例だからである[vii]

 18713月、議会はインディアン収用法を定め、ネイティヴ・アメリカンと連邦政府の間で条約を締結することを終わらせた。行政府の条約締結交渉ではなく議会に認められた法を通じてネイティヴ・アメリカン問題が処理されるようになった。

 1840年代までに西部の開拓者はオレゴン地域に達した。大統領は有権者から開拓者を保護し、領域拡大を求める圧力を受けた。グラントはネズ・パース族からの要請に応えて1873年に大統領令でワロア渓谷をネズ・パース領地として認めた。しかし、2年後、その地域へ開拓者をさらに多く導入するために荷馬車道を建設するためにインディアン問題局の圧力を受けてグラントはその大統領令を撤回した。

 グラントは、人種に関係なく合衆国市民に投票権を保障する憲法修正第15条を祝う大統領声明を発した。グラントは、アフリカ系アメリカ人の投票権を保護するために連邦軍の使用を認める1870年執行法を支持した。また南部の人種に関係する暴力を除外するための1871年クー・クラックス・クラン法をグラントは支持した。グラントは、黒人が投票するのを州が妨害する場合、武力を使うと仄めかした。サウス・カロライナ州のクー・クラックス・クランの活動が盛んな地域でグラントは人身保護令状を差し止め、大量検挙を認めた。1875年公民権法で、公営住宅と輸送機関における人種隔離が禁止された。しかし、1883年、最高裁はそれを違憲と判断した。最高裁の判決は、議会によって可決された多くの公民権に関する法を無効化した。最高裁は、議会が憲法に反して、州の権利を超えて人種的隔離から解放された奴隷を保護しようとしていると結論付けた。

 明らかにグラントは大部分の研究者が思っているよりも強力な大統領であった。しかし、グラントには国家を導く大きな戦略がなかった。グラントは、南北戦争期からアメリカが軍事的、商業的大国として勃興する金ぴか時代へ移り変わる転換期の大統領であった。紙幣増刷法案に反対した姿勢で示されているように、グラントはそうした変化を好ましく思っていた。しかし、そうした変化を導くような具体的政策は何もとらなかった。グラントの主な関心事は共和党が政権を掌握し続けることであった[viii]

 グラントが率いる共和党員は党組織の活力を維持するために猟官制度を使う実践的な政治家であった。しかし、そのためにグラント政権は数々のスキャンダルに見舞われた。1872年、クレディ・モビリエ社に関するスキャンダルが発覚した。スカイラー・コルファックス(Schuyler Colfax)副大統領をはじめとする政治家が、鉄道建設の利益を吸い上げるためにユニオン・パシフィック社の発起人によって創設されたクレディ・モビリエ社の運営に関与した。議会によって、クレディ・モビリエ社が鉄道建設予算を水増ししていたことが発覚した。さらにクレディ・モビリエ社と深く関与するオークス・エームズ(Oakes Ames)は、ユニオン・パシフィック社に有利になるように、3,300万ドル相当のクレディ・モビリエ社の株式を市場よりも安値でコルファックスや多くの議員を含む株主に売却していた。

最大のスキャンダルはウィスキー汚職事件である。南北戦争以後、酒類税は酒類の価格の8倍まで引き上げられた。セント・ルイス、ミルウォーキー、シカゴなどの大規模な酒造業者は国税庁の役人や共和党の有力者に贈賄して税金を免れていた。1875年に事件はベンジャミン・ブリストー(Benjamin Helm Bristow)財務長官によって暴露された。グラントは「一人の有罪者も逃すな」と検事に言明したが、事件の関係者に秘書のバブコックも含まれていた。バブコックはグラントが準備した宣誓証言のお蔭で無罪となった。告発された者の中にはその他にもグラントの長男や弟も含まれていた。ブリストーの摘発によって、300万ドル以上の税収が取り戻され、110人の共謀者が有罪宣告を受けた。グラントは、汚職を摘発し、犯人を司法の裁きの下に引きだしたブリストーに冷遇を以って報いた。グラントは明らかにブリストーの政治的野心に苛立ちを深めていた。グラントは、ブリストーが自分の評判を傷付け、後継者の地位を狙っているのではないかと思うようになった[ix]。最終的に、ブリストーは1876年に辞任した。その一方でバブコックは灯台の検査官に任命された[x]

 このウィスキー汚職事件の他にも数多くのスキャンダルに見舞われた。1876年、ウィリアム・ベルクナップ(William W. Belknap)陸軍長官は貿易業者から収賄した罪で弾劾された。ベルクナップは弾劾を受けた初めての閣僚となった。ベルクナップは辞職して弾劾を避けようとしたが上院は審判を進めることを決定した。審判の結果、有罪判定を下すには票数が足りず、ベルクナップは免職を免れた。

数々のスキャンダルにも拘わらず、中間選挙で共和党が敗北を喫した後、グラントは1870年に公職制度改革を打ち出し、猟官制度では公職にふさわしい最善の人物が得られないと宣言した。改革派に譲歩するためにグラントは、公職者の採用に関する規定を作り、公職者の適正を評価する職員を置き、公職者の行動規範に関する規則を定める権限を大統領に与える法を制定するように議会に求めた。3月に議会から公職制度改革を行う全面的な権限を与えられたグラントは公職委員会を設立し、改革的な規則を考案させた。公職制度改革運動の指導者であるジョージ・カーティス(George W. Curtis)が公職委員会の議長に選ばれた。最も腐敗した政権の1つであるグラント政権は公職制度の改革に初めて本格的に乗り出した政権となった。

公職委員会が最初の規則を勧告した時、共和党議員は黙認した。公職委員会は公職の任用に関する規則を制定し、試験委員会を設け、限定的であったが、ワシントンの官庁やニュー・ヨーク税関、ニュー・ヨーク郵便局に競争試験を導入した。しかし、1872年の選挙が終わり、1873年に財務省で初めて公職採用試験が行われることになると共和党議員は敵対的になった。

ロスコー・コンクリング(Roscoe Conkling)を中心とする共和党議員の堅固派は公職委員会を攻撃した。コンクリングは多くの共和党の指導者だけではなく官職を求める民主党員にも支持された。堅固派の勃興は南北戦争後の政治的状況を多分に示している。共和党の過激派と同じく、堅固派は最初、南部再建を重要課題として挙げていた。しかし、戦争が終わり、次第にその政治的重要性が薄れ始めると、猟官制度の擁護と政党組織の維持が堅固派の重要課題になった。堅固派は、政党組織の必要性が政治的原理よりも優先されるという新しい政治的状況の産物であった。共和党内で堅固派が支配力を持つことにより、イデオロギーの政治から組織の政治に移り変わった[xi]

こうした堅固派の抵抗もあって、議会は翌年の公職委員会の予算を承認しなかった。公職制度改革を支持し、堅固派の支配に反対する共和党員は第三政党となる自由共和党を1870年代初期に形成した。しかし、自由共和党は草の根まで勢力を拡大することはできなかった。1872年の大統領選挙で独自の大統領候補を擁立した自由共和党はグラントに嫌われ、グラントと協力して公職委員会を議会の攻撃から守ることができなかった。しかもグラントはもともと改革派に譲歩するために公職制度改革に乗り出したので、議会の決定にほとんど何も抵抗しなかった。グラントは公職制度改革にそれ程、熱心ではなかった。1872年の選挙の後、グラントがニュー・ヨーク税関をはじめとする多くの公職に政治任命者を就かせると、カーティスは辞任した[xii]

1875年に議会が再び人事委員会の予算を承認しなかったので、グラントは公職委員会の規則を無効とした。最終的に議会が公職委員会の予算を認めないという形で公職制度改革に抵抗したために、グラントは公職制度改革を断念した。立法府が政策を決定する機関であるという信念を持っていたグラントは、1874年の127日の一般教書の中で、議会が公職制度改革法案を通過させないで休会した場合、公職制度改革を継続しないと公表した。結局、議会は公職制度改革法案を通過させないまま休会した。187539日、グラントは全国の公職監査委員会を解散するように命じた[xiii]

グラントは1877年に大統領職を退任した。大統領の権威はグラント政権期を通して凋落した。グラントは無能な人物を閣僚に任命し、評判の悪いニュー・ヨークの金融資本家と関係を持ち、関税の実質的な引き下げに失敗し、公職制度改革を効果的に前進させることができなかった。上院の指導者は行政府を完全に支配していると信じていた[xiv]。しかし、グラントの後継者であるヘイズは行政府を議会の支配から脱却させようと考えていた。南北戦争以来、初めて大統領の権限が一貫的、かつ効果的に擁護された。



[i] Steven G. Calabresi and Christopher S. Yoo, The Unitary Executive: Presidential Power from Washington to Bush (Yale Univeristy Press, 2008), 191-192.

[ii] William M. Goldsmith, ed., Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea House Publishers, 1974), 2:1102.

[iii] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 147.

[iv] Morton Keller, Affairs of State Life in Late Nineteenth Century America (Harvard University Press, 1977), 108.

[v] Frank Scaturro, President Grant: Reconsidered (University Press of America, 1998), 60.

[vi] Geoffrey Perret, Ulysses S. Grant: Soldier and President (Random House, 1997), 393-400.

[vii] Geoffrey Perret, Ulysses S. Grant: Soldier and President (Random House, 1997), 409-410.

[viii] Geoffrey Perret, Ulysses S. Grant: Soldier and President (Random House, 1997), 416.

[ix] Geoffrey Perret, Ulysses S. Grant: Soldier and President (Random House, 1997), 44.

[x] Thomas A. Bailey, The American Pageant: A History of the Republic (Heath, 1966), 493.

[xi] Morton Keller, Affairs of State Life in Late Nineteenth Century America (Harvard University Press, 1977), 266-268.

[xii] デイヴィッド・ルイス、『大統領任命の政治学―政治任用の実態と行政への影響』(稲継裕昭監訳、ミネルヴァ書房、2009)20258

[xiii] Leonard White, The Republican era; A study in administrative history, 1869-1901 (Macmillan, 1958), 281-287.

[xiv] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 161.


ユリシーズ・グラント大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究