アメリカは繁栄と狂乱の20年代に突入した。アメリカが世界の工業生産で占める割合は、自動車で85パーセント、石油で70パーセント、鉄鋼で40パーセントを占めた。実質国内総生産は大戦前の2倍近くまで増え、総人口も1億の大台を突破し12,000万人に達した。1920年から1933年までは禁酒法時代と呼ばれる。その時代、憲法修正第18条によりアルコールの製造、販売および運送が禁止された。全国的な禁酒が立法化されると密売が横行した。連邦政府は禁酒法違反で10年間に50万人を逮捕し、30万人を超える既決囚を収容したが、密輸は増加する一方であった。各都市にはもぐり酒場が乱立した。有毒なメチル・アルコールによって多くの者が死亡した。密売はマフィアの資金源となった。禁酒法時代は憲法修正第18条が1933年に撤廃されるまで続いた。禁酒法時代を支配した共和党政権は、第1次世界大戦への参戦を間違いだと考え、ウィルソンが唱えたニュー・フリーダムを自由企業にとって障害だと見なした。対外的には孤立主義、対内的には政府は企業や個人に干渉しないという方針を貫こうとした。

1920年の大統領選挙は保守派で反国際連盟の共和党の上院議員のハーディングが勝利を収めた。それはウィルソン的な大統領の権限の観念の後退を意味した。また圧倒的な多数でハーディングが大統領に選出されたことは革新主義の時代の終わりを示していた。ハーディングが60.3パーセントの一般投票を獲得した一方で、民主党のオハイオ州知事ジェームズ・コックス(James M. Cox)34.1パーセントの一般投票しか獲得することができなかった。社会党のデブズは、徴兵に抵抗するように運動したために1918年の治安法によって収監されていたのにも拘わらず、3.4パーセントの一般投票を得た。ハーディングが404人の選挙人を得た一方でコックスは127人の選挙人しか得られなかった。ハーディングは南部以外のすべての州で勝利し、南部でも40パーセントの一般投票を得た[i]。テネシー州での勝利は、南部再建の完了後、初めて旧南部連合の11州の1つが共和党の大統領を支持したことを示していた。1920年の大統領選挙で民主党の唯一の明るい兆しは副大統領候補となったフランクリン・ローズヴェルトであった。精力的な選挙運動によってローズヴェルトは全国的な知名度を得て、その後の政治経歴の足掛かりを作った。

表向きは1820年のハーディングの地滑り的勝利は、国際連盟をめぐる戦いに勝利した結果であるように見える。しかし、国民は、革新主義による行き過ぎた政治変動の後に静穏な時間を求めたのである。アメリカは、国際連盟への加盟の拒否に代表されるように国際問題から孤立するようになった。国内では自由放任主義が強まり、革新主義の出現前にあったような政府を経済から隔てる障壁が部分的に復活した。こうした状況の変化を読み取ってハーディングは「常態」への復帰を主張した。常態という言葉は、公共政策だけではなく大統領制度に関する時代の風潮をとらえた言葉であり、1920年の大統領選で共和党のスローガンとなった。常態への復帰は、減税、政府支出の削減、実業に対する規制緩和などを意味していた。ハーディングは共和党が「行政府の独裁」と呼ぶものに対する世論の反感に乗じた。

その一方で打ち負かされたウィルソンは共和党の術中にはまった。1920年の夏期休会に入る前に議会は非常時大権を大統領に与えた60にのぼる戦時立法を撤廃する法案を通過させた。撤廃法は下院で343票対3票で、上院で全会一致で可決された。ウィルソンは撤廃法に対して握りつぶし拒否権を行使し、議会が再び召集される192012月まで非常時大権を握り続けた。そうすることでウィルソンは多くのアメリカ人の支持を失った[ii]

19213月、政権の座を取り戻した共和党は議会と党組織における威信を回復させようと積極的に動いた。ロッジ上院議員はハーディングに憲法の制定者は三権分立がうまく機能するように政府を作ったことを思い出させ、大統領の責任は憲法の制定者の意思に沿うことであると示唆した[iii]。ハーディングもその後継者であるクーリッジやフーヴァーもロッジが示した見解に異議を唱えることはなかった。彼らの行政権に関する見解は、ローズヴェルトの見解よりもタフトの見解と多くの共通点があった。ローズヴェルトとウィルソンが発揮した強力な大統領のリーダーシップは不活発なリーダーシップに取って代わられた。彼らが大統領を務めた12年間は、20世紀における大統領制度の低迷期であると見なされている。

しかしながら、大統領制度が低迷したからと言って、1920年代に議会政治が完全に復活したわけではない。社会的、経済的状況の変化とローズヴェルトとウィルソンが打ち立てた前例によって、古い秩序に回帰することは不可能になっていた。ハーディングの常態に戻るという言葉は必ずしも時間を元に戻すことを意味しているわけではなかった。

共和党の大統領候補指名受諾演説でハーディングはロッジやその他の議会指導者の不安を緩和しようと努めた。ハーディングはもし大統領に選ばれれば政党政治を復活させると誓った。そうした約束に従ってハーディングは議会を主導しようとはほとんどしなかった。ハーディングの意図は、支配することではなく統制することであった。ハーディングは、立法計画を提案するのは憲法によって示された大統領の義務であるが、立法は議会の仕事であると宣言した。ハーディングが立法過程に関心を示した場合でも、ハーディングの行動は常に議会を尊重したものであった。ハーディングがモデルとしたのは、議会指導者との妥協や相談を通じて議会に影響力を及ぼしたマッキンリーであった[iv]

  しかし、マッキンリーのような議会を主導するリーダーシップは1920年代にはもはや不可能であった。1910年の議会改革によって下院議長は権威を低落させ、党の紐帯は弱まっていた。上院でも同様の事態が起きていた。大統領と下院議長が協力して行政府と立法府をまとめる時代は過ぎ去った。さらに1913年に確定した憲法修正第17条によって連邦上院議員は人民の選挙によって選ばれるようになり、上院における党議拘束が損なわれた。以前より議員は自分自身の考えで動くようになり、党に縛られなくなった[v]。ウィルソンの活発な党を主導するリーダーシップは少なくとも暫くの間は大統領と議会の間に新しい紐帯を生み出した。しかし、ハーディングの不活発なリーダーシップは行き詰まりと混乱を生むだけであった。

 ハーディングの不活発なリーダーシップの結果として、関税の引き上げと減税を通して戦後の経済問題に取り組もうとする大統領の計画は議会でほとんど進展を示さなかった。それどころか議会は何をするべきかをめぐって統一見解を持てずに停滞した。自身の政策がなかなか実らないのを見たハーディングは、議会の意思を尊重すると約束したことを後悔し始めた。しかし、そうした後悔は改革を伴ったわけではなかった。

多くの者を驚かせたことに、1921712日、ハーディングは自ら議会に出掛けて自らの政策に対する議会の停滞を非難した。しかし、ハーディングは、議員を行動に移らせるように説得しようとは試みなかった。ハーディングは議会に屈服したわけではなかったが、積極的に議会を主導する活力も能力も持っていなかった[vi]

 19214月、ハーディングは国際連盟に加盟しないことを議会に正式に通知した。これによって、大統領が最終的に国際連盟への加盟を認めるか否かという問題は解決された。しかし、国際連盟への加盟を拒んだことで、ハーディングは過ちを犯した。ハーディングは国際連盟によって設立された国際司法裁判所への参加を推進しようとしたが、上院の支持を得ることができなかった。

 その一方でハーディングは第1次世界大戦の終結を正式に確定した。ウィルソン政権期に議会がヴェルサイユ条約の批准を拒んだために、第1次世界大戦の正式な終結はハーディングによって行われた。192172日、ゴルフを楽しんでいたハーディングは、大統領の署名を求めて書類を手渡しに来たホワイト・ハウスの職員に呼ばれた。滞在していた友人の家でハーディングは犬にじゃれつかれながら第1次世界大戦を終結させる両院合同決議を読んだ。ハーディングはマホガニー製の机で両院合同決議に署名し、「これで終わりだ」と言った[vii]。そして、ハーディングは急いでゴルフに戻ったという。

 国際連盟をめぐる争いで勝利することで息を吹き返した議会は外交政策を主導しようと決意した。最も重要なのは、第1次世界大戦の開始以来、列強間で行われた海軍軍拡競争を抑制するのに上院が主導権を発揮したことである。多くの政治家はハーディングも含めて、海軍力の優位性を保つことが国際連盟加盟に代わる唯一の選択肢であると信じていた。イギリスと日本がアメリカに追いつこうと努力していたために軍拡競争はアメリカにとっても高くついた。こうした状況を打開しようと考えたウィリアム・ボラー(William E. Borah)上院議員は、1921年の海軍予算法案に、大統領がイギリスと日本に海軍軍縮会議の開催を呼びかけるという条項を付け加えるように求めた。ハーディングがより弱い条項に差し替えようとしたのにも拘わらず、ボラーの提案した付帯条項は議会を通過した。ハーディングは会議の開催には反対していなかったが、アメリカが艦船を建造して海軍を強化するのが先決であると考えていた。ハーディングの懸念にも拘わらず、ボラーの提案は国民の間で広く支持された。

 議会と世論の圧力に屈してハーディングは東アジア、太平洋の諸問題、海軍軍縮について協議する会議の開催を呼びかけた。軍縮会議は1921年から翌年にかけて行われた。会議の冒頭でアメリカはイギリスと日本がアメリカに同調するのであれば、既に3億ドルを投じている新海軍建設計画を撤回すると発表し、大胆な海軍主力艦削減を提案した。その結果、米英日に主力艦総トン数で553の比率が定められた。日本の同意を得るためにアメリカは、グアムやマニラなど真珠湾以西にある基地の強化を放棄し、イギリスもシンガポール以東、オーストラリア以北にある基地の強化を放棄した。中国問題に関しては、中国の主権、独立、領土的、行政的保全の尊重、中国における安定政権の樹立、通商の機会平等、中国における友好国の権利、安全を損なう行動の抑制を骨子とする9ヶ国条約が締結された。太平洋に関しては、アメリカ、イギリス、日本、フランスの間で現状維持を約束し、日英同盟の廃棄を明記した4ヶ国条約が締結された。

ウィルソンが国際連盟をめぐる戦いで犯した過ちを避けるために、ハーディングは条約交渉をチャールズ・ヒューズ(Charles Evans Hughes)国務長官に任せた。さらにハーディングはロッジと上院外交委員会の有力者であるオスカー・アンダーウッド(Oscar W. Underwood)をアメリカの代表団に加えた。ハーディングはロッジとアンダーウッドに条約交渉を主導する責任を与えた。皮肉なことに、上院の主導で始まったワシントン海軍軍縮会議がハーディングの最も重要な外交業績となった。アメリカはワシントン海軍軍縮会議を通じて、アジア、太平洋地域でアメリカ、イギリス、日本を中心とする国際協調体制を築くことに成功した。

 1923年までに、ハーディングの不活発なリーダーシップと党組織の尊重は大きな代価を支払ったことが明らかになった。ハーディングの常態に復帰するという約束は新たなる猟官運動を巻き起こした。成果競争主義に基づいて公職を採用する制度は1883年のペンドルトン法の制定以来、拡大してきたがその進展はハーディング政権で停止した。幾つかのハーディングの任命、例えばフーヴァーを商務長官に、ヒューズを国務長官に任命したことなどは素晴らしいものであった。しかしながら、多くの任命はグラント政権と同様に公職制度改革が行われて以来、最も深刻な不正と汚職をもたらした。

 最初に明るみに出た事件は、退役軍人局のチャールズ・フォーブズ(Charles Forbes) 局長をめぐる事件である。19233月、ハーディングは、フォーブズが病院建設に絡んで分け前を貰ったり、余剰軍需品を低価格で横流ししたりしているという報告を受けた。フォーブズは辞任を余儀なくされ、1923314日にフォーブズの主任法律顧問は自殺した[viii]

 退役軍人局のスキャンダルに引き続いて司法長官の事務所での汚職が明らかになった。ハーディングは自らの政権が著しく腐敗していることを認めざるを得なかった。意気消沈し、健康を害したハーディングはワシントンを離れてアラスカまで遊説旅行に出掛けた。その帰途、ハーディングはプトマイン中毒に罹り、さらに肺炎になり、192382日、塞栓症によってサン・フランシスコで客死した。副大統領のクーリッジが昇格して大統領になった。

 ハーディングの死後、数ヶ月経ってティーポット・ドーム事件が明るみに出た。ティーポット・ドーム事件はアメリカ史上、最も悪名高い政治的スキャンダルの1つである。ティーポット・ドーム事件はアルバート・フォール(Albert B. Fall)内務長官によって引き起こされた汚職事件である。1921年の大統領令でカリフォルニア州エルク・ヒルズとワイオミング州ティーポット・ドームにある海軍石油保留地が海軍省から内務省に移管された。フォールはエルク・ヒルをエドワード・ドヒーニー(Edward L. Doheny)に、ティーポット・ドームをハリー・シンクレア(Harry F. Sinclair)に競争入札を行わずに貸与した。その見返りにフォールは少なくともドヒーニーから10万ドルを、シンクレアから30万ドルを受け取った。

 こうした事実と上院の調査による摘発によって、クーリッジに任命された特別委員会は19246月に告発を開始した。審理はほぼ6年間にわたって継続され、フォールには1年の禁固と罰金10万ドルが課され、シンクレアには6ヶ月の禁固が課された。しかし、フォールが収賄の罪で有罪になったのにも拘わらず、ドヒーニーは無罪となった。フォールは有罪判決を受け、禁固を科された最初の閣僚となった。

 他にもスキャンダルが明らかになった。外国人資産の管理者にハーディングによって任命された人物はドイツ人所有の高価な化学薬品の特許を不当に安い値段で売り払ったために解任された。さらに政府財産を詐取する陰謀に加担したとして有罪宣告を受けた。またハリー・ドアティ(Harry Micajah Daugherty)司法長官は酒類の免許状や恩赦上の不法売買を含む違法行為によって解任された。

 存命中、ハーディングの評判は高かったが、死後のスキャンダルの暴露によって政府は動揺させられた。しかし、ハーディング政権は業績がないわけではなかった。例えば、ハーディング政権中に行政府による包括的な予算制度が設立され、省庁の支出を監督する大統領の権限が強化された。こうした権限は1921年予算会計法の制定によって与えられた。予算会計法は、タフトによって創設された経済性と効率性に関する委員会、いわゆるタフト委員会の提言の多くを実現した。

 1921610日に成立した予算会計法により、毎年、包括的な行政府の予算の提出が義務付けられ、大統領は、政府の支出と歳入の両方の見積もりを統括する責任を負うようになった。また同法により、大統領を補佐するために新たに予算局が設立された。予算局には予算の計上と執行の監督義務が課せられた。予算局は公式には財務省に属していたが、大統領直属の機関として働くように設けられた。これにより大統領が予算に関して指導力を行使できる機関ができた。さらに同法により、会計検査院が設立された。会計検査院は会計検査権を持つ行政府から独立した機関であり、予算に基づく支出に関して議会に説明責任を持つ。会計検査院長は上院の同意とともに大統領によって任命され、15年の任期が与えられる。任期は更新されない。大統領は、会計検査院長を、8人の両院の議員から構成される委員会が推薦する候補の一覧から任命者を選ぶ。会計検査院長は大統領によって罷免されず、弾劾か、両院合同決議を通じて議会によって罷免される。

予算会計法の成立により、大統領は行政府における予算配分を行う法的権限を得た。それ以前は、各省庁が予算請求を直接議会に送っていた。こうした権限を行使するには、大統領は、各省庁の長官とともに議会の歳入委員会、財政委員会、予算委員会といった諸委員会と競合しなければならなくなった。しかし、大統領が予算に関してより大きな権限を行使できるようになったのは確かである。それは主に構造上の変革であったが、大統領職の運営だけではなくアメリカ政府全体に実質的な変革をもたらす可能性を持っていた。政府の支出の配分に実質的に何の権限も持たない時代錯誤の行政首長は過去の遺物になり、大統領は政府の行政的機能の中心となり始めた。もちろん大統領はその予算に関する役割を下院歳入委員会のような議会の強力な委員会や議会と直接的な深い繋がりを持つ官僚組織と分有していたが、大統領は19世紀の大統領が持つことができなかったような行政管理上の権限を持つことができるようになった。そうした意味で予算会計法の制定は、合衆国憲法の制定を除けば行政府の歴史上、画期的な事件であった[ix]

  ハーディングは行政府による包括的な予算制度を導入しようとした最初の大統領ではない。タフトとウィルソンも予算に関する大統領の権限を強化する施策を支持していた。1921年予算会計法の基盤となる法案は1918年、メディル・マコーミック(Medill McCormick)下院議員によって提出された。1919年、予算制度に関する下院特別委員会によって公聴会が開かれ、法案が審議された。下院は、新たに設立される予算局が行政府による予算案を作成することを規定する法案を可決した。しかし、上院はヴェルサイユ条約に関する審議に忙殺され、下院が可決した法案を審議しなかった。

1920年の一般教書でウィルソンは行政府による予算案作成に関する法制化と多くの委員会に分散している予算審議を中央集権化する特別予算委員会を両院に設置するように要請した。上院議員になっていたマコーミックは、再度、法案を提出した。マコーミックの法案では、大統領ではなく財務長官が予算作成の責任を負った。さらに予算局は財務省の下に置かれることになっていた。両院協議会の妥協案は予算作成の責任を財務長官から大統領に戻したが、ウィルソンはその妥協案に拒否権を行使した。なぜならマコーミックが議会の両院共同決議によってのみ会計検査院長が罷免され得るという条項を挿入したからである。議会は、会計検査院長の罷免の要件を大統領の署名が不要な両院共同決議から大統領の承認が必要な両院合同決議に変えることで大統領の反対を宥めた。共和党が政権の座を獲得した後、議会は再び法案を可決し、ハーディングの署名によって予算会計法が成立した。ハーディングと初代予算局局長チャールズ・ドーズ(Charles Gates Dawes)は、新たに大統領に与えられた権限を有効に活用した。常態に復帰するというハーディングの約束は政府支出の削減も含んでいた。ハーディングは閣僚に厳しい財政計画を守らせ、1923年までには約20億ドルの貯蓄を成し遂げた[x]

 またハーディングは大統領が行政機関を再編する権限を得た。ウィルソン政権下で議会は再編に関する合同議会委員会を設立した。ハーディングは、大統領が指名した者が委員会の長を務められるように再編に関する合同議会委員会を改組するように求めた。議会はそれに同意し、大統領が指名したウォルター・ブラウン(Walter F. Brown)が議会の委員会の長を務めるという変則的な事態となった。ブラウンは省庁に関する改革案をまとめ、委員会は若干の修正を加えただけでブラウンの案を承認した。その結果、議会が主導で始めた行政制度改革は大統領主導の行政制度改革となった。

 再編に関する合同議会委員会は、共有された目的に基づいて機関を付加する省庁の再編を提案した。しかし、行政府の大規模な変革を行った後、同委員会の提言の中で最も重要なのは、必要であれば大統領に再編を行う権限を与えるべきだという提言である。省庁の再編に関する提言は大部分が受け入れられなかったが、大統領の再編を行う権限は1932年効率的使用法に組み込まれた。

 ハーディングもクーリッジも、ウィルソンやローズヴェルトのように自身を人民の指導者と考えていなかったが、行政府の省庁を厳しく管理しなければ自由放任政策を推進できないと気付いた。ハーディングの経済を常態に戻すという約束は、予算会計法で大統領に与えられた権限なしでは達成され得なかった。さらに国内問題への連邦政府の関与は人民の支持なしでは減らすことはできなかった。ローズヴェルトとウィルソンの時代に引き続いて、人民に対する広報が大統領のリーダーシップにおいて重要な要素を占めた。

 ハーディングは世論を主導するための手段を大統領のリーダーシップに加えようとした。政界に入る前にマリオン・スター紙の編集者兼発行者として培った経験をもとにしてハーディングは報道がどのように動くかよく理解していた。ハーディングと記者の親密な関係は1923年にスキャンダルが発覚するまで大統領としてのイメージを良く見せるのに役立った。1920年の選挙運動で、ハーディングは自宅の近くに記者達を歓待するための別荘を建てた。別荘でハーディングは記者達と日常的に会見し、非公式に政治的話題を語り合った。当選後もハーディングは報道との関係を良好に保つように努めた。ハーディングは儀礼的な活動や親密な記者達とゴルフを楽しむことさえ世論を醸成するのに有用であることを認識した初めての大統領であった[xi]

ハーディングは定例記者会見の開催を復活させた。記者会見を始めたのはウィルソンであったが、1915年以後、記者会見は徐々に開催されなくなっていた。ホワイト・ハウスのスポークスマンが政権から人民に情報を伝える形式を初めて採用したのはハーディング政権である。ハーディングは自身と新聞の読者の間にスポークスマンを置くことで巧みに事を運ぶ余地が残ると考えた。さらにハーディングは写真を有効に使った最初の大統領である。ハーディングは週に数回、写真家の前でポーズをとった。ハーディング政権は、大統領が姿を現す様々な催事に出席できるように、ホワイト・ハウス記者協会の記者に身分証を発行した。

1920年代、ラジオが新しい広報の手段として使われるようになった。ハーディングの就任演説はラジオで最初に放送された就任演説となった。ラジオにより多くのアメリカ人が大統領の声を聞くことができるようになった。ハーディングは1923年夏、ラジオで一連のメッセージをアメリカ国民に流した。セント・ルイスでの演説はニュー・ヨークに特別電信線で伝えられた[xii]

 報道関係に対するハーディングの改革は、ハーディングの温かく魅力的な人格の効果を増幅させ、政権の政策への支持を獲得させた。またハーディングはウィルソンが確立した議会に直接赴いて演説を行う慣習を維持した。ワシントンの外でハーディングは遊説旅行を大いに楽しんだ。レトリック的大統領制度の重荷に対応するためにハーディングは最初の大統領のスピーチライターを任命した[xiii]

 ワシントンがハミルトンやマディソンに頼ったように初期の大統領は時々、演説を準備する時に友人や支持者の手を借りたが、多くの大統領は自分自身の手で演説を準備していた。しかし、1921年までに大統領の権威が高まり、新聞が大統領をよく取り上げるようになったために、大統領のレトリックの必要性が著しく高まった。ハーディングは、スピーチライターに儀礼の際に発表される手短な所感や主要な演説の最終稿を考案するように求めた。しかし、スピーチライターの利用は、大統領を自らが語る言葉から乖離させた。スピーチライターを利用する利便性の代償として、大統領は問題を自分自身で熟慮する精神的鍛錬を行う機会を奪われた[xiv]

 192382日、ハーディングはアメリカ人がその欠点を知る前に死去した。ハーディングは大統領職に伴う刺激的な日常生活や浴びせられる注目を享受していたが、課せられる責任の重大さを耐え難いと考えていた。膨大な通信の束に辟易したハーディングは側近に向かって「私はこの職に向いていないし、決してここにいるべきではなかった」と言ったという[xv]

 ハーディングは2年あまりしか在職せず、成功した大統領とは言えなかったが、その死は国民的な感情の吐露を引き起こした。ハーディングの死に対する一般国民の反応は、大統領制度の重要性が増したことを反映している。ハーディングの遺体をワシントンに運ぶ列車を見送る群衆の列はなかなか途切れなかった。大統領職の威信は減少することなく、ハーディングの時代においても増大し続けた。報道を巧みに利用することで急死した大統領は英雄にまで祭り上げられるようになった[xvi]



[i] CQ Press, Presidential Elections 1789-2008 (CQ Press, 2010), 149.

[ii] William Starr Myers, The Republican Party: A History (Century, 1928), 441.

[iii] Andrew Sinclair, The Available Man: The Life Behind the Masks of Warren Gamaliel Harding (Macmillan, 1965), 152.

[iv] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 217.

[v] George Rothwell Brown, The Leadership of Congress (Arno Press, 1974), 258.

[vi] Robert K. Murray, The Harding Era: Warren G. Harding and His Administration (University of Minnesota Press, 1969), 128.

[vii] Francis Russell, The Shadow of Blooming Grove: Warren G. Harding in His Times (McGraw-Hill, 1968), 461.

[viii] Robert K. Murray, The Harding Era: Warren G. Harding and His Administration (University of Minnesota Press, 1969), 430.

[ix] Herbert Emmerich, Federal Organization and Administrative Management (University of Alabama Press, 1971), 40-41.

[x] Robert K. Murray, The Harding Era: Warren G. Harding and His Administration (University of Minnesota Press, 1969), 178.

[xi] Elmer E. Cornwell, Presidential Leadership of Public Opinion (Greenwood Pub Group, 1979), 63.

[xii] Gleason L. Archer, History of Radio to 1926 (Arno Press/New York Times, 1971), 317-318.

[xiii] Elmer E. Cornwell, Presidential Leadership of Public Opinion (Greenwood Pub Group, 1979), 70.

[xiv] Lewis L. Gould, The Modern American Presidency (University Press of Kansas, 2003), 63.

[xv] Robert K. Murray, The Harding Era: Warren G. Harding and His Administration (University of Minnesota Press, 1969), 418.

[xvi] Elmer E. Cornwell, Presidential Leadership of Public Opinion (Greenwood Pub Group, 1979), 73.


ウォレン・ハーディング大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究