結果的にヘイズは南北戦争後の大統領の威信の低下を終わらせたが、ヘイズ政権の始まりは幸先の良いものではなかった。1876年の大統領選挙で共和党の敗北は確実視された。民主党の大統領候補であるニュー・ヨーク州知事のサミュエル・ティルデンが勝利を収めるように思われた。しかし、軍政下の3つの南部の州とオレゴンの選挙人の投票は不確定であった。そうした票がなくてもティルデンは184票の選挙人を獲得していた。その一方でヘイズは不確定の選挙人をすべて獲得したとしてもようやく185票の選挙人しか獲得できないと予測された。

 フロリダ州、ルイジアナ州、オレゴン州、そしてサウス・カロライナ州の4州はそれぞれ2組の選挙証明書をワシントンに送った。そのどちらが有効か、また有効を判定する権限を持つのは誰かという問題が生じた。その問題を解決するための規定は憲法に存在しない。当時、上院は共和党が多数派を占め、下院は民主党が多数派を占めていた。上院仮議長がどちらの選挙証明書が有効か認める権限が与えられれば、ヘイズの当選は確実となるだろう。その一方で、両院合同会議にその決定が委ねられれば、ティルデンの当選が確実となるだろう[i]

事態に対応するために議会は、両党からそれぞれ5人ずつに最高裁判事の5人を加えた15人からなる選挙委員会を設立した。その結果、共和党の指導者と南部の民主党の指導者の間で妥協が成立した。いわゆる1877年の妥協である。南部の民主党がヘイズの当選を黙認し、憲法修正第13条、第14条、第15条を遵守し、南部の共和党に報復を行わない代わりに、共和党が南部の軍政を終わらせることを約束した。また密約としてヘイズは、連邦政府がミシシッピ川の堤防工事や南部を通る大陸横断鉄道建設に助成金を出し、郵政長官に南部の白人を任命することを約束した。結局、密約の中で実現したのは郵政長官に旧南部連合の人物を任命したことだけである。それに対して南部の民主党は、結局、守られることはなかったが新しい連邦議会下院議長に共和党のガーフィールドを選出することに同意した。187732日、選挙委員会はヘイズをティルデンと1票差で勝者と宣言した。

妥協に従ってヘイズはサウス・カロライナ州とルイジアナ州の州議会議事堂を警備していた連邦軍に兵舎に戻るように命じた。それは南部再建が実質的に終わりを告げた象徴的な出来事であった。しかし、そのために元奴隷を含むすべての市民に公民権を保障する憲法修正第14条を守らせる試みは放棄されることになった。さらに連邦政府は人種に拘わらず投票権を認める憲法修正第15条を支持する試みを放棄した。共和党の勢力は南部から一掃され、民主党が支配する「堅固な南部」が形成された。

共和党が南部再建を終わらせることに同意したのは、南部再建計画による混乱に幻滅していたからである。1875年に州の選挙が行われた際に共和党のミシシッピ州知事は、白人の暴徒から黒人の投票者を守るために連邦軍の派遣を求めた。しかし、司法長官は、「人民は、南部でこうしたことが毎年起こるのにうんざりしていて、大多数の人々は連邦政府の介入を今、批判しようとしている。ミシシッピ州の軍隊で治安を維持し、大部分が共和党員であるミシシッピ市民が彼らの権利のために戦い、無実で害のない自由民を殺害した血に濡れた暴徒を打ち破るのを国中に知らせよ」と宣言して州知事の要請を拒んだ[ii]。いわゆる1875年の革命でミシシッピ州の白人は黒人を投票所から追い払い、州政府を掌握した。したがって南部再建計画は1877年の妥協が成立する前から既に綻びを見せていた。南部から連邦軍を撤退させたヘイズの措置は、共和党過激派による南部再建計画の崩壊を加速させただけであった[iii]

1876年の大統領選挙をめぐる議論の最中、ティルデンは完全に冷静さを保っていた。危機の1ヶ月間をティルデンは過去の選挙人投票の歴史をまとめて過ごした。最終的に問題が解決した時、ティルデンは、人民によって自身が大統領に選ばれたことを後代の人々が認めてくれるのを期待すると述べただけであった[iv]

1877年の妥協のような芳しくない取引が、上院の行政府に対する支配を打ち破り、公職制度改革を行う大統領を生み出したことは皮肉である。ヘイズは改革を志向するオハイオ州知事であった。共和党の大統領候補指名を受諾する手紙の中で、公職制度改革を支持することを表明した。大統領の任命権は不適切に議会の手に握られているとヘイズは考えていた。さらに就任演説の中でヘイズは公職制度改革を徹底的に行うことを宣言した。

 しかし、議会は公職制度改革に無関心であった。グラントの2期目の終わりまでに、連邦議員の公職任命への影響力は大きくなっていた。ヘイズは上院に諮ることなく閣内人事を決定したことで上院の共和党指導者の感情を害した。特に旧南部連合に属していた人物を郵政長官に任命したことは彼らの怒りをかった。さらに公職制度改革論者のカール・シュルツ(Carl Schurz)を内務長官に任命したことは彼らを不安がらせた。彼らはシュルツが猟官制度を攻撃するのではないかと恐れた。事実、シュルツは内務省に成績競争主義に基づく任用制度を積極的に導入した。

 たとえヘイズが優秀な人物を指名したとしても、上院はそうした指名を上院に対する挑戦と見なした。ヘイズが上院の同意を得るために閣内人事を提出した際に、それは長期の査定を行うために諸委員会に送付された。承認の遅延が大統領の意思を挫くことを期待して、上院はジョン・シャーマン(John Sherman)上院議員の国務長官への指名も査定から除外しなかった。それは、シャーマンのような十分に資格のある同僚議員の指名は査定なしで認めるという慣例に反していた。上院が閣僚人事全体の認定を遅らせることは異例であったので、国中に怒りの嵐を巻き起こした。ホワイト・ハウスは大統領を勇気付ける電報や手紙で埋まった。上院はすぐに世論に屈し、ほぼ全会一致で閣僚人事全体を認定した。南北戦争以来、初めて上院は大統領との間の問題において譲歩した。これは上院がその絶頂期を過ぎたことを示す出来事であった[v]

  けれどもヘイズと議会の戦いはまだ続いた。閣内人事を思い通りにすることに成功したヘイズは次に猟官制度に目を向けた。1877422日の日記にヘイズは「今度は公職制度改革だ」と記している[vi]。まず手始めにヘイズはニュー・ヨーク、サン・フランシスコ、ニュー・オーリンズなどの税関を監査する数多くの独立委員会を設置した。そうした連邦の出先機関は地元の党組織に支配されていて、連邦の歳入を徴収する際に常軌を逸した慣習を作り上げていた。監査は国中の多くの地域で改革をもたらしたが、最も税収高が多いニュー・ヨークの税関は地元の党組織に支配されたままであった。ニュー・ヨークの税関を監査した独立委員会は、職員が政治的圧力によって選ばれていること、給料を政党に差し出すことで査定される制度があること、そして税関で無能と汚職が広がっていることを報告した。

 ニュー・ヨークの税関に関する報告を受けたヘイズは、3人の上級職員を更迭しようとした。その3人はニュー・ヨーク州の共和党の有力な党員であり、後に大統領となるアーサーも含まれていた。しかし、大統領の決断は慣習と法によって阻止された。1つの障害は建国初期以来、行われてきた上院儀礼の慣習である。ニュー・ヨーク州選出上院議員であるコンクリングはニュー・ヨークの税関を政治力の重要な基盤としており、上院儀礼を以ってヘイズが更迭した3人の上級職員の代わりに指名した人物の認定を拒んだ。

 大統領の指名は上院通商委員会に送付された。議会は指名を承認することなく会期を終えた。公職在任法の改正された条項の下、上院は大統領の罷免を承認する権限を失っていたが、上院が大統領の指名した後任者を承認するまで前任者は在職し続けることになっていた。結局、ヘイズの指名は承認されず、ヘイズが更迭しようとした3人の上級職員はその職に留まり続けた。そして、コンクリングとニュー・ヨーク州の共和党は税関の支配を続けた。

 ヘイズは諦めずに戦いを続行した。18771212日の日記にヘイズは「報道によるとコンクリング上院議員は政権との戦いで大勝利を収めたという。しかし、終わりはまだ分からない。私は正しいし、戦いを諦めようとは思わない」と記している[vii]。ヘイズとコンクリングの戦いは個人的な側面もあった。コンクリングは1876年のヘイズの大統領候補指名に反対していた。ヘイズの当選が確定した後、コンクリングは公然とヘイズを批判した[viii]1878年に議会が休会になった後、ヘイズは問題となった3人の上級職員を再び更迭し、「大統領は、上院の閉会中に官吏の欠員が生じた場合には、その欠員の補充することができる。ただし、その任命は次の会期の終わりに効力を失う」と定める憲法第2条第23項に基づいて、代わりの人物を一時的に任命した。そして、12月に上院に再び空席となった税関の職員の指名を上院に送付した。コンクリングは上院の決定を2ヶ月間にわたって遅らせたものの、閣僚の個人的な手紙を読み上げたことで多くの上院議員を辟易させた[ix]187923日、上院はヘイズの指名を承認した。

 ヘイズはニュー・ヨークの税関の人事制度を完全に改める原理を打ち立てた。新しく任命された徴税官に向けてヘイズは、「単に彼が前徴収官の友人であるという理由で誰も追放しないようにし、単に彼が我々の友人であるという理由で就職させることがないようにしよう」と述べて、できる限り猟官制度を制限するように求めた[x]。ヘイズは上院から官職任命権を奪おうとしたのではなく、猟官制度を完全に廃止しようとしたのである。公職に関する改革者としてヘイズは、連邦の公職を党派ではなく、試験に基づく成果主義で充当しようとしたのである。ヘイズは連邦職員にあらゆる政治活動に参加することを禁じた。ヘイズは、政治制度をジャクソンの時代やホイッグ党の時代に戻そうとしたのではなく建国初期に戻すことを目標とした[xi]

 ヘイズは1期のみ大統領に在任することを誓っていた。それは、再選を実現するために官職任命権を使わないとヘイズが決心したためである。任免権はそれを行使する者を腐敗させるというのがヘイズの信念であった。官職任命権は議会と大統領を腐敗させる。政治的な野心を持たない大統領のみが猟官制度を突き崩すことができる。しかし、政党を主導する地位に就かなかったヘイズは制度的改革を行うのに必要な影響力を十分に議会に及ぼすことはできなかった。

ヘイズのコンクリングに対する勝利は大きな犠牲を伴った。問題の上級職員を更迭するのにほぼ18ヶ月かかったが、その間、大統領は行政府の長として実質的に無力な状態に置かれた。したがってヘイズの勝利がリンカンの暗殺以来失われた大統領の権威を回復したとしても、ヘイズ政権は新しい地平を切り開いたと言うよりも礎を守ったと言える[xii]。ヘイズ自身も長い間、政府を支配してきた上院の権威に打撃を与えられたことで満足していた。1880714日の日記でヘイズは「私が主に目指した目標は議会の猟官制度を壊すことであった。戦いは苦しいものであった。それは私を攻撃、反対、誤解、そして権力ある者の憎しみにさらした。しかし、私は大きな成功を収めた。両院の誰も今や指名に指図しようとはしない。指名を行う単独の私の権限が明確に認められた」と記している[xiii]

ヘイズは労働争議に連邦軍を出動させた。1877年、1873年の景気後退の影響から脱しきれない鉄道会社は従業員の賃金削減を開始した。従業員はストライキを行った。州軍は装備も整わず、兵士達はストライキを行っている従業員に対して行動することを拒んだ。暴徒を抑えるのに必要な実力行使ができないと悟ったウェスト・ヴァージニア州知事は、緊急事態に対処するために州議会を招集する余裕がないと主張して連邦軍を送るようにヘイズに求めた。ヘイズは暴徒の強さと州が暴徒に対処できない理由を詳細に報告するように求めた。当初、ヘイズは鉄道会社と従業員の間で問題を解決することを望んだ。連邦裁判所がストライキを行っている者が法廷を侮辱しているという声明を出した後、ヘイズは、暴徒に解散を命じるとともに、憲法第4条第4節の侵略や反乱にさらされた州を連邦政府が保護するという規定に基づいて連邦軍を出動させた。

同様の事例においてこれまでの大統領の中でヴァン・ビューレン、タイラー、ピアースは平和を維持するために連邦軍の派遣を求める州の要請を拒否していた。ジャクソンのみメリーランド州の要請に応じて、チェサピーク=オハイオ運河の労働争議を鎮圧するために連邦軍を出動させている。これまでの事例は地域に限定され、連邦の介入の必要性があるのか否かは必ずしも明確ではなかった。しかし、ヘイズが直面したストライキに関する暴動は深刻であった。暴動はウェスト・ヴァージニア州だけではなく、太平洋岸の諸州と中西部にも拡大した。そのためヘイズはウェスト・ヴァージニア州に加えメリーランド州の要請に応えて、カンバーランドとボルティモアに連邦軍を派遣し、地元当局が治安を回復する支援を行った。鉄道会社の中には賃金改正を行い労働者と交渉する会社もあったが、多くの鉄道会社は州軍と連邦軍を後ろ盾にして力でストライキを終息させた。

ヘイズは中国からの移民を禁止しようとする議会に対立して中国との関係を悪化させないように努めた。中国からの移民は年々増加し、1880年までにはカリフォルニア州の人口の9パーセントを占めるまでになっていた。当初、アメリカは中国人の移民を鉄道建設のために安価な猟動力が獲得できるとして歓迎した。しかし、鉄道建設熱が冷めると、中国人の移民は他の職を探すようになり、西部の政治家の有権者にとって深刻な脅威となった。1879年、議会は中国とアメリカの相互の国民の権利を認めるバーリンゲーム条約を一方的に破棄する法案を可決した。それは中国人の移民を認めないことを意味していた。ヘイズは中国との関係を損なうことを恐れてその法案に拒否権を行使した。さらにヘイズは新しい条約を結ぶように国務長官に命じ、中国人の移民を制限するが、完全には禁止しない条約が締結された。



[i] 宇都宮静男、『アメリカ大統領制度論』(有信堂、1974)181

[ii] Richard Nelson Current, Those Terrible Carpetbaggers (Oxford University Press, 1988), 321-322.

[iii] James M. McPherson, Abraham Lincoln and the Second American Revolution (Oxford University Press, 1992), 148.

[iv] Morton Keller, Affairs of State Life in Late Nineteenth Century America (Harvard University Press, 1977), 258.

[v] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 155.

[vi] Diary of Rutherford B. Hayes, April 22, 1877.

[vii] Diary of Rutherford B. Hayes, December 12, 1877.

[viii] Ari Hoogenboom, Outlawing the Spoils (University of Illinois Press, 1961), 156.

[ix] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 157.

[x] Letter from Rutherford B. Hayes to E. A. Merritt, February 4, 1879.

[xi] Steven G. Calabresi and Christopher S. Yoo, The Unitary Executive: Presidential Power from Washington to Bush (Yale Univeristy Press, 2008), 199.

[xii] William M. Goldsmith, ed., Growth of Presidential Power: A Documented History (Chelsea House Publishers, 1974), 2:1113.

[xiii] Diary of Rutherford B. Hayes, July 14, 1880.

ジョージ・ワシントン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究