海岸通り、緑のポストを越えたところ

 海岸通り、緑のポストを越えたところに一軒の絨毯屋がある。イスタンブールに暫く滞在した時、そこの主人と仲良くなり私はそこに居候をきめこんだというわけだ。
 イスタンブールに来て最初の一週間目は物珍しいこともあっていろいろな所を見て回った。しかし、二週間目にもなると余裕がでてきてこの街をゆっくり眺めて楽しむことができるようになった。
 絨毯屋の屋上はボスポラス海峡に面していて、白く塗られた鉄製のテーブルが設えてある。上がりたければいつでも上がってもいいよ、と言われていたので私は終日、頬杖を突いて、カモメが風にのって海上を舞うのを飽かずに眺めていた。
「ニシクワ、チャイドウゾ」
 振り返るとエリフがエルマ・チャイを提げて立っていた。彼女はここの娘で、主人が商用で日本によく行くこともあって少し日本語がわかる。
「ありがとう」
潮風が微かに香り、穏やかな陽射しが硝子を透かして僕の掌上で遊ぶ。海岸通りでは暇を持て余した男達が異国の遊戯盤に興じている。
 あれはどこの船だろう、大きな外航用のクルーザーが海峡を通過していく。どんな人達が乗っているのだろうか。誰一人としてこんな所から見られているとは気付いてはいないだろう。
 海面は銀の鱗を並べたように煌き、クルーザーの航跡を無数の漁り舟が滑っていく。
 エリフの微笑を見ながらのティーブレイクも悪くはない。そういえばこんなゆったりとしてお茶を飲むのはどれくらい振りだろう。
 僕は世界中至る所でお茶を飲んできたが、いつもカフェテリアの片隅に陣取って独りで飲んでいたような気がする。茫洋としながらとりとめもなく流れていく雑踏を眺めていたような気がする。何かをしなければいけないけれども何もしたくはないという怠惰で甘ったるい気分。
 しかし、今はそんな気分とは無縁な静かで落ち着いた気分。今日は何故こんな気分になるのだろうか。
 僕は、その時、瞳を細めながら海峡を眺めているエリフの横顔をいとおしいと思う自分にふと気が付いた。これが心に響く幸福の足音なのか、それとも幻影なのかは僕にはわからない。