ジョン・クインジー・アダムズの再選の試みは1825年に大統領に就任する以前から行われ、大統領に在任した4年間続いた。アダムズは議会から強い抵抗を受けた。国中でアダムズとクレイの間で闇取引が行われたと非難するジャクソン支持者がアダムズに対して組織だった抵抗を行った。1828年までに1824年の大統領選挙で深まった政治的混迷は新たな政党の編成を伴った。連邦党は既に消滅していた。1801年以来、アメリカ政治を支配してきた民主共和党は2つの主要な党派に分裂した。ジョン・クインジー・アダムズとクレイは国家的な抱負を持つ国民共和派を形成し、ジャクソンと副大統領だったカルフーンは州権を尊重し、連邦政府の権限を抑えようとする古い民主共和党を形成した。1832年までに両者はそれぞれホイッグ党と民主党に発展し、南北戦争の直前までアメリカの政界を支配した。ホイッグ党は、旧連邦党、強固な州権論者、民主党に不満を抱く者、ジャクソンに敵意を抱く者など雑多な連合であった。

ホイッグ党という名称は1834年に広く使われるようになり、1856年の大統領選挙の後に党が解体するまで使われた。「ホイッグ」という言葉はイギリスで国王に反対する一派が自らを「ホイッグ」と称したことに因んでいる。ホイッグ党の代表的な指導者はクレイとダニエル・ウェブスター(Daniel Webster)である。彼らは、アメリカ体制と呼ばれる全国的な経済政策を支持した。アメリカ体制は、保護関税、連邦政府による国内開発事業の推進、合衆国銀行の継続、保守的な公有地販売政策を特徴とし、その本質はハミルトンの経済政策に遡る。またホイッグ党は議会の優越性を確立し、大統領の権限を制限するべきだと考え、民主党の大統領と対立した。ホイッグ党と民主党によってアメリカの二大政党制度は発展した。

ジャクソン派の民主党員はホイッグ党との競争で優位を占めた。1828年から1856年までの大統領選挙で民主党が敗北したのは1840年と1848年のみであった。1828年の大統領選挙におけるジャクソンの勝利は、農業的な南部と西部のフロンティアの利害が東部の金融的、商業的利害に勝る傾向を示していた。1803年のルイジアナ購入と1819年のフロリダ購入は、合衆国に広大な領域を付け加え、以前は政治の埒外にいた人々に大きな影響力を与えた。

1828年の大統領選挙はこれまでにない激しい中傷が交わされた。アダムズはホワイト・ハウスに自ら購入した撞球台とチェスを備えていたが、ジャクソン支持派は公共の資金でそうした賭博に関連する設備を購入したと中傷した。アダムズを支持する新聞は、ジャクソンが不服従の罪で6人の州兵を射殺したことを取り上げ、ジャクソンの決闘騒ぎやジャクソン夫人との関係を中傷した。大統領選挙の結果、ジャクソンは南部と西部を制し、ペンシルヴェニア州とニュー・ヨーク州で勝利を収めてアダムズの83人に対して176人の選挙人を獲得した。ジャクソンの勝利に貢献したのは、南部の猟師や奥地の農民、そして閣僚から大統領を目指す政治家に飽き飽きしていた北部の民衆であった。

 ジャクソンは既存の政界の外部から大統領になった初めての人物であった。ジャクソンの前任者達は副大統領や国務長官として皆、国政や外交で豊かな経験を積んでいた。ジャクソンはほとんど正規の教育を受けていなかった。さらに連邦議会での経験に乏しかったし、行政経験もほとんどなかった。ジャクソンは独立独行の人物であり、時代の強力な象徴であった。松の木の中の小さな小屋から身を起こし大統領にまでなった人物である。ジャクソンは健全な人格と常識を備えた平均的なアメリカ人であれば大統領職に就くことができることを自ら証明した。

 ジャクソンの就任式を見物しようと1万人もの人々がワシントンに殺到した。当時のワシントンの人口は18,000人であったからそうした人々でワシントンは混雑を極めた。ジャクソンは軍隊によるパレードを行うこともできたが、そうした名誉を一切辞退し、投宿先から連邦議会議事堂までの半マイルを友人達とともに歩いただけであった。父ジョン・アダムズがジェファソンの就任式に出席しなかったのと同じく、ジョン・クインジー・アダムズは後任者の就任式に出席しなかった。就任演説を行った後、ジャクソンは馬車でホワイト・ハウスまで向かった。その後には多くの人々が馬車や徒歩で付き従い非公式のパレードを行った。

警察の手配は特にされておらず、2万人に及ぶ人々がホワイト・ハウスに雪崩れ込んだ。ホワイト・ハウスの中で陶器を壊したり、食器を壊したり、窓を割ったり、狼藉を働き始める者もいた。ダマスク織りの椅子に泥だらけの靴でのったり、ソファを潰したり、壁紙を剥がしたり、衣服を引き裂いたり狼藉はひどくなる一方であった。泥酔したり、喧嘩を始めたりする者までいた。ホワイト・ハウスの中で無傷で残された物はほとんどなかった。幸いジャクソンの周りには屈強な友人達がいて、何とか裏窓から逃れることができた。ジャクソンは就任最初の夜をホワイト・ハウスではなく投宿先で過ごさなければならなかった。

ジャクソンの原理はほぼ30年間にわたってアメリカを支配した。アメリカの歴史の中でこの時代をジャクソニアン・デモクラシーと呼ぶ[i]。ジャクソンの時代の最も重要な政治的主題は、何人も他人を犠牲にして特権を得ることができないという信念から生まれた機会の平等を求める運動である。ジャクソンはジェファソンに倣って、社会から特権をなくすためには政治的指導者が連邦政府の役割を厳しく制限しなければならないと考えていた。急速な領土拡大は劇的な経済成長を伴い、すべての人々に無制限の機会を約束しているように思えた。ジャクソン主義者はできる限り州政府を妨害しないように連邦政府の権限を制限するべきだと考えた。

ジャクソンは連邦政府を国内開発事業から撤退させている。1830年、ジャクソンはメイズヴィル道路法案に拒否権を発動し、西部の人民を落胆させた。その法案は、ケンタッキー州内の道路建設に連邦政府が資金を拠出するという内容であった。ジャクソンは、国全体よりも1つの州に特別措置を取ることは憲法違反だとして拒否権を発動したのである。メイズヴィル法案に対するジャクソンの拒否権は、国内開発事業をめぐる争いに終止符を打った。憲法は、州内のみに関する公共事業に出資せず、州間輸送網や外国貿易の港湾施設の建設にのみ出資するという原則が確立した。

ジャクソンは議会が支出を増やすことに警戒感を抱いていた。ジャクソンにとって州権を保護することが重要であり、直接税や公債をできるだけ避けるべきであった。ジャクソン政権下で軍事力、特に陸軍は最小限に縮小された。ジャクソンの財政政策は支出を切り詰めた。合衆国銀行の特許更新は認められなかった。そして、ジャクソンは政府の預託金を合衆国銀行から引き上げ州法銀行に配分した。ジャクソニアン・デモクラシーは1812年戦争後、産業革命と西部開拓の進展により、これまで上層部に限られていた政治運動が民衆運動にまで拡大していった傾向を指す。1820年代から1840年代にかけて、労働組合運動、勤労者党の運動、反フリーメイスンリー運動、奴隷解放運動、第2次信仰復興運動などが相次いで起きた。しかし、1960年代以降、ジャクソン時代における階級間の流動性の低さと貧富の差の拡大から、ジャクソニアン・デモクラシーという歴史学上の概念としての有効性が疑問視されるようになっている。

支持者に見返りとして官職を与えることはこれまでにもあったが、猟官制度として大きく行われるようになったのはジャクソン政権からである。猟官制度は既にニュー・ヨーク州やペンシルヴェニア州など北部の州で行われていた。ジャクソン政権以前は、公職者の在任期間が長く、それが当然だと考えられてきた。また民主共和党が28年間にわたって長期政権を築いたこと、全国的な政党組織が未発達であったこと、そして、初期の大統領が公職者を政治的信条によって解雇してはならないという信念を持っていたことがそうした傾向を強化した。大統領は空席になった公職や新設された公職に党に忠実な者を就けたが、長官職を除けば共和民主党が連邦党の公職者を解雇するようなことはほとんどなかった。

 公職制度は終身的になりつつあったが、それに対する批判が起こるようになった。選挙権の拡大によって、公職を民主化する積極的な是正措置が必要であるという気運が高まった。批判によれば公職制度は終身的だけではなく世襲的になりつつあった。議会は1820年公職在任法によって公職の任期を定め、そうした傾向を防止しようとした[ii]。ジャクソンは「勝者に分捕り品は属する」というスローガンの下、官職の入れ替えを行った。しかし、官職の入れ替えと言っても全面的なものではなく連邦職の約15パーセントに過ぎなかった。

ジャクソンは専門的な官僚主義を否定した。官職に長く在任し続けることは、腐敗を生み、本来、官職は人民に奉仕するべきだという信念を忘れさせる。そうすると官僚制度は多数者を犠牲にして少数者を支持する機関に成り下がる。民主主義自体が官職の交代を必要としている。政府の業務が一般の人々には難し過ぎるというのはエリート主義で非民主的である。人民は彼ら自身を統治できるので特権的な少数者に政府の運営を委ねる必要はない[iii]。ジャクソンは第1次一般教書で以下のように猟官制度の理念を示している。

「相当長期にわたり官職にあって権力を振るいつつも、しかも、その公的な責任の忠実な遂行に有害なような気持ちを多かれ少なかれ持つようにならないでいられる人は少ない。人格がしっかりしていれば就任早々には様々な誘惑に打ち克つこともできるだろうが、[長期にわたり官職にあると]公的な利益に対して無関心な態度をとり、未経験者なら排撃すると思われるような行動まで大目に見るというような習慣を持つようになりがちである。官職は一種の利権と見なされ、政府も人民への奉仕のためにのみ作られた機構であるというよりは、私的な利益を促進する手段と見なされるようになる。すべての官吏の職務責任というものは、著しく簡単明瞭なものであり、ある程度の知能がある者は誰でもそれらの職務責任を遂行する資格条件をすぐに備えるようになれるものである。したがって、私は、一定の人物を長期間にわたって同じ官職に在任させることから生じる損失のほうが、それだけ長い期間から得られる彼らの経験によって生じる利得よりも大きいと信ぜさるを得ない。すべての官職が人民の福祉のために設けられているような国では、何人も自分個人に能力があるからといって、官位に就く権利を他の者以上に持っていない。すべての官職は公的費用において一部の人々に支援、便益を与えるために設けられているのではない。それ故、ある人物を退職させても、その個人に不当な損害を与えることにはならない。官職に任命されることも官職から罷免されることももともと(個人的)権利の問題ではないからである。現在の在任者も初めは公共の福祉という見地から官吏となったのであれば、公共の福祉が私的な利害関係の故に犠牲にされなければならないといことはない。罷免される者も生計を立てていく方法については、まだ1度も官職に就かなかった人々と同様の地位に置かれるに過ぎない。私の提案するこの在任期間の制限は、当今、あまりにも常識的になった官位を利権視するという考え方を打破するに違いない。もちろん、時には個人的に気の毒な結果となる場合も起こるだろうが、それにも拘わらず、この制限は共和主義思想の中で最も重要な1つの原理であるところの『官職交替制』を促進することによって、政府の全機構に健全な活気を注入することができるだろう」[iv]

猟官制度は大統領の権限を著しく拡大した。大統領は行政府内で政権の政策に同意を効果的に求めることができるようになった。しかしながら、実際にはそうした猟官制度は、大統領のリーダーシップを制限する形で地元の党組織によって統御されていた。党の指導者が有権者の票を集めた見返りに官職を求めれば、強力な大統領でさえもそれを拒否することはできなかった。さらに税関や郵便局などの連邦の官職者は、自らの職を保つために給料の一部を地元の党組織に差し出しさえしていた。郵便制度は猟官制度の主要な対象であった。ジャクソン政権から始まって20世紀に至るまで、猟官制度の中心的な周旋人に郵政長官の職を与えることが慣例となっていた。党派心に鈍感な大統領はうまく政治的支持が得られなかった。例えばブキャナンは、前任者のピアースが任命した民主党に忠実な官職者を解任した時に、民主党の有力な指導者から攻撃を受けた[v]

またジャクソンの猟官制度は大きな悪弊をもたらした。それ以前にも大統領に任命された行政官が横領を行ったり、満足に帳簿を付けたりすることができずに批判されることがあった。けれどもジャクソンの猟官制度によって職を得た者の汚職に比べればたいした問題ではなかった。ジャクソンの当選に貢献したことでニュー・ヨーク港の徴税官の職を獲得したある者は10年にも満たない期間で100万ドル以上の公金を横領した。猟官制度が定着したことで行政組織の効率が低下したことは明らかである。

 ジャクソン主義者は、連邦政府の権威という点では矛盾した側面を抱えていた。ジャクソン主義者は大統領を人民の擁護者と見なしていた。そうした考えは、民主主義的な要望が高まる中で大統領に大きな影響力を与えた。ジェファソン主義者の時代においても、大統領はしばしば人民と緊密な関係を築こうと努力した。しかし、そうした努力は、議会の優越を認めたうえで行われていた。しかし、ジャクソンは大統領と人民の間に直接的な関係を築こうと努め、連邦政府を代表する議会の地位に挑戦した。そうすることでジャクソンは独立した権限を獲得し、議会よりも大統領が人民の意思を体現するようになった。ジャクソン政権下で特に強化された大統領制度は民主的なナショナリズムの勃興に即したものであり、関税と奴隷制をめぐる地域的争いに直面する連邦を維持するのに貢献した[vi]

 ジャクソンはネイティヴ・アメリカンの強制移住を促進した。1827年、チェロキー族は成文憲法を採択し、ジョージア州における部族の領域に主権を確立しようとした。ジョージア州はチェロキー族の主権を認めず州の権限を及ぼそうとした。ジャクソンはチェロキー族を支持することを拒否し、一般教書で、チェロキー族はミシシッピ川以西に移動するべきであり、ジョージアの州法に従うべきだと議会に示唆した。ジャクソンはネイティヴ・アメリカンの絶滅を救う手段は強制移住しかないと考えていた。ジャクソンは、大統領にネイティヴ・アメリカンの退去を交渉する権限を与えるように議会に影響力を及ぼした。1830年、議会はインディアン強制移住法を可決し、ネイティヴ・アメリカンを西部に移住させるために50万ドルの予算を認めた。同法によって、ネイティヴ・アメリカンが譲渡する東部の土地と引き換えに、ルイジアナの未編入部分における土地をネイティヴ・アメリカンに下付し、その新しい居留地でネイティヴ・アメリカンを保護し、移住費と1年分の生計費を与えて強制移住の補償を与える権限が大統領に与えられた。

ジャクソン政権は94の退去条約を締結し、1840年までに東部と南部のほとんどすべてのネイティヴ・アメリカンが移住させられた。1831年、チョクトー族は支援を受ける約束で西部に移住したが、約束は実現されなかった。1836年の移住の間に、3,500人のチョクトー族が命を落とした。ジャクソンはチェロキー族を強制移住させるために連邦軍を使った。いわゆる「涙の旅路」で4,000人のチェロキー族が命を落とした。1830126日の一般教書でジャクソンは以下のように述べている。

 「白人定住地から離れた土地へネイティヴ・アメリカンを移住させることに関して、過去30年近く着実に進められてきた合衆国政府の博愛的な政策が目出度くも完成に近付きつつあると議会に報告できることは私の喜びである。速やかな移住がもたらす効果は、合衆国及び各州にとって、またネイティヴ・アメリカン自身にとって重要であろう。それによって連邦政府に約束される経済的利益は、勧告の理由の中では最も比重が小さい。移住を実行すれば、連邦と州の政府当局の間でネイティヴ・アメリカンのために起こり得るあらゆる衝突の危険を終わらせることができる。現在、未開狩猟民が占有している広大な領域に、高密度の文明人口を移すことができる。北はテネシー州、南はルイジアナ州の両州にまたがる領域のすべてを白人の定住地として開放することで、南西部フロンティアを強化し、隣接諸州を将来、遠方からの援軍がなくても侵略に対して反撃できる程に強化することができる。ミシシッピ州全体とアラバマ州西部からネイティヴ・アメリカン占有地を除去し、両州を人口、富、武力の面で急速に発達させることができる。ネイティヴ・アメリカンを白人居住区と直接接触しないように隔離し、州の権力から解放し、彼らも自分達の生活様式と原始的な制度の下で幸福を追求することができる。ネイティヴ・アメリカンの人口減少のようなネイティヴ・アメリカン衰退の傾向を遅らせ、連邦政府の保護と助言者の助けによって、ネイティヴ・アメリカンに徐々に野蛮な慣習を捨てさせ、キリスト教文明社会に転向させることができる。連邦政府の現在の政策は、これまではもっと緩慢であった同じ前進的変化の連続に過ぎない。今、東部諸州を構成している地域に居住していたネイティヴ・アメリカン部族は、絶滅させられたか、あるいは自ら消滅して白人に場所を明け渡した。人と文明の波は西部に押し寄せつつあり、我々は今、ネイティヴ・アメリカンによって占有されている南部と西部の土地を公正な取引で獲得し、合衆国の費用で以って、彼らの存在を永続させ、場合によっては別の土地へ移住させることを提案している。言うまでもなく、先祖代々の墓地を離れるのは苦痛であろう。しかしそれが、我々白人の先祖が過去に行い、子孫が現在行いつつあることとあまり違わない。未知の土地でより良い生活を求めるために、我が先祖達は貴重な不動産をすべて後に残してきた。我々の子孫は毎年何千人も遠く隔たった土地に新しい居住地を求めて、生まれ故郷から旅立って行く。その時、若い魂は、彼が愛着を持つ命あるもの、命なきものすべてに辛い別れを告げるが、これに人道主義は涙を流すだろうか。まずそのようなことはあり得ない。若者が人間の力と能力を最高に発揮し、肉体も精神も束縛されること無く自由に動き回れる場を我が国が提供し得ることは、むしろ喜ばしいことである。若者は自費で数百マイルから数千マイルも移動し、居住する土地を購入し、新しい住居で到着したその時から自活していく。政府の力が及ばない出来事によって、ネイティヴ・アメリカンが古来の居住地でやりきれない思いをしている時に、政府が彼の土地を購入し、新しく広大な領地をあてがうことがどうして残酷と言えるだろうか。このような条件で西部に移住する機会が与えられれば、我が国の何千という人民はその機会を絶対逃さないだろう。もし、ネイティヴ・アメリカンに対する申し出が彼ら白人にも差し伸べられるのであれば、感謝と歓喜を以って迎えられるに違いない。放浪する未開人のほうが定着し文明化されたキリスト教徒よりも故郷への愛着が強いのであろうか。先祖の墓地を後に残すことが、我が白人の兄弟や子孫以上に彼を苦しめるというのか。公平に判断すれば、連邦政府のネイティヴ・アメリカンに対する政策は気前が良く寛大である。ネイティヴ・アメリカンは州法に従い、州民に混じって居住することを好まない。そうしなくてもよいように、もしくは彼らを絶滅から救うために、連邦政府は親切にも新しく居住地を提供し、移動と定着の全費用を支払うことを提案している」[vii]

ジャクソンは奴隷制度廃止論者の活動を州権を侵害するものだとして非難した。ジャクソンとその支持者は議会で奴隷制度に関する議論に緘口令を布き、奴隷制度廃止論者の郵便を違法にした。ジャクソンは州権を支持していたが、大統領職にある間、国家の主権を擁護した。ジャクソンの姿勢は、特に連邦法無効をめぐる闘争で明らかに示されている。北部は高い保護関税を主張する一方で南部はそれに反対した。北部の製造業者は保護関税で多くの利益を得て発展したが、南部の農園主は消費財の高騰という負担に苦しんだ。また綿花を栽培する地域が拡大するにつれ、綿花の価格は下落したのでさらに南部の農園主を苦しめた。保護関税と国内開発事業は北部の利益のために南部に課税する邪悪な策略であるという考えが南部で信奉されるようになった。

ジェファソンの誕生日を祝う公式晩餐会でジャクソンは乾杯のために立ち上がり、カルフーンに向かって「我が連邦は維持されなければならない」と言った。カルフーンはそれに対して「連邦は最も大切な我々の自由の次に位置する」と答えた。1832年関税法が議会を通過すると、サウス・カロライナ州は、1124日、カルフーン副大統領が秘かに起草した連邦法無効宣言をサウス・カロライナの人民の名の下に発表して激しく抵抗した。1832年関税法は、南部にとって忌まわしき唾棄すべき関税の幾つかの条項を削除していたが、鉄と織物原料に対する重関税は手付かずのままであった。連邦法無効宣言でサウス・カロライナ州は1828年と1832年の関税法は同州内では無効であると発表し、もし武力を以って法律の施行を迫るのであれば連邦を脱退すると警告した。連邦法無効の論理は、合衆国憲法は諸州間の契約であるという理論と州が決して奪われない主権を持つという理論から成り立っている。憲法はアメリカ国民によって直接制定されたものではなく、主権を持つ州によって制定されたものである。したがって、主権は州に存在し、連邦政府はその代行者に過ぎない。州の主権を行使する州議会が、連邦法が合憲であるか否かを判断し、もし違憲だと判断されれば、州内での連邦法の実施を阻止する手段を講じることができる。ケンタッキー決議やヴァージニア決議でも同様の主張が行われたが、本質的に異なる点は、両決議が連邦法無効をすべての州による集団的な行為と見なしたのに対して、サウス・カロライナの連邦法無効宣言は、単一の州に連邦法無効を判断する権限を認めた点である。

連邦法無効を唱える者達は、ジェファソンとマディソンが外国人・治安諸法に対して両者がケンタッキー決議とヴァージニア決議を以って抗議したのと同様の抗議を行っているに過ぎないと主張した。それに対してマディソンは、連邦が国民を単一に統合するものではないと譲歩を設けながらも、合衆国憲法は各州の総意ではなく、国民の総意に基づいているので、連邦法は州の権威に優越するという見解を明らかにしている。またマディソンは連邦と州の間で権限の管轄領域をめぐって紛争が起きた場合に、それを最終的に解決するのは連邦最高裁であり、そうした判断を諸州に委ねることは法の権威の一貫性を損なうことになると論じている。こうした見解の根拠としてマディソンは、「この憲法、これに準拠して制定される合衆国の法律、および合衆国の権能をもってすでに締結されまた将来締結されるすべての条約は、国の最高の法である。これによって各州の裁判官は、各州憲法または州法律中に反対の規定ある場合にといえども、拘束される」と規定する憲法第6条第2項と「司法権は次の諸事件に及ぶ―すなわち、この憲法、合衆国の法律および合衆国の権能により締結されまた将来締結されるべき条約にもとづいて発生するすべての普通法ならびに衡平法上の事件」と規定する第3条第2節第1項を挙げている。

さらにマディソンは憲法には連邦による権限の侵害から州を守る措置が多く講じられている一方で、連邦法無効の原理は連邦政府が根拠の疑わしい州の主張に対して自らを擁護する手段を欠いていると論難した。その一方でヴァージニア決議について、その意図は連邦法の執行を差し止める権利が個々の州にあることを明言することにあったのではなく、単に諸州に協力を呼びかけることにあったと弁明している。

 南部人は、州権尊重の立場からジャクソンがサウス・カロライナ州の行動を認めると期待していたが、ジャクソンはそれと反対の行動に出た。確かにジャクソンは自らを州権論者と見なしていたが、同時に国家主権に些かの疑問も抱いたことはなかった。ジャクソンにとって州権は連邦法に対する不服従を決して正当化できるものではなかった。ジャクソンはモールトリーとサムターの要塞を強化し、関税吏が抵抗を受けても関税を徴収することができるように税関監視艇に命令した。ジャクソンはサウス・カロライナ州の連邦法無効宣言に対して1210日に対抗する布告を出し、武力による連邦離脱は反逆罪であると強く抗議した。

「連邦法無効宣言は、合衆国市民の義務を直接侵害するようなサウス・カロライナ州の人民の行動指針を規定し、国の法に反し、その憲法を覆し、我々の父祖が愛国心と共通の大義の他、何も彼らを結び付ける絆がないのに、栄光ある独立した神聖な連邦のために血なまぐさい戦いをした、今まで侵されていない我々の政治的実体とともにあり、我が国の幸福な憲法によって守られ、諸国の歴史に匹敵するような国内での繁栄、海外での尊敬という天の恩恵を我々にもたらす連邦が伝える教条の目的に反しているので、我々の政治的実体の絆を破壊から守り、国家の栄誉と繁栄を傷付けないように維持するために、そして、私に与えられた同胞市民からの信頼を保障するために、私、アンドリュー・ジャクソン合衆国大統領は、憲法と、サウス・カロライナ州議会によって採択された施策と彼らが正当だと考える理由に適用可能な法に関する私の見解を伝え、人民の理解と愛国心に訴え、憲法の命じるものを遵守することによって生じる不可避の結果について警告する声明を発行することを適切だと考える。連邦を保持するために、法を執行するために私に今、与えられている権限、今後、与えられる権限を行使することだけが私に課される厳格な義務である。州の権威で装われたこの事例で想定される差し迫った側面と合衆国人民の利害は、より強力な措置に訴えることを予防する際に感じられ、その一方で、理性と忠告、おそらく要求に何でも従い、サウス・カロライナ州に対する完全な説明と国民に私がこの重要な問題に関して抱く観点、それと同じく私の義務感によって追求することを要する行動指針に関する率直な声明が容認される希望がある。連邦法無効宣言は、明らかに違憲であり、持続させるには抑圧的過ぎる法に抵抗する取り消せない権利に基づいているわけではなく、州は連邦議会の法を無効だと宣言できるばかりか、その執行を禁止でき、憲法に一致してそうすることができ、本当の憲法の解釈は、州にその地位を連邦で保つことを認め、合憲だと考えることを選んだ法以外に束縛されないという奇妙な立場に基づいている。彼らは、この法の破棄を正当化するために、それは明らかに憲法に反していることは本当であると付け加えるが、そういった法に抵抗する権利を与えることは、どの法がその性質に値するか決定する自由な権利とともに、すべての法に抵抗する権限を与えることであることが明らかである。もしサウス・カロライナが歳入法を違憲であると考え、チャールストン港でその執行を妨げる権利を持つのであれば、あらゆる他の港でその徴収に対して憲法上の明らかな反対があるだろうし、どこからも歳入は徴収されないだろう。というのはすべての関税は平等だからである。州自体がその合法性の問題を判断する限り、憲法に反している法は法でないと繰り返すことに対して回答はない。というのは、地方の利益に対して不正に運用されるあらゆる法は、おそらく違憲であり、魅力がないと考えられ、そう表現されるからである。もしこうした主義が初期に打ち立てられていれば、連邦はその萌芽において解体していただろう。ペンシルヴェニア邦の物品税法や東部諸州の出港禁止通商禁止法、ヴァージニアの馬車税はすべて違憲だと見なされていて、今、不平が述べられている法よりもその運用にあたって不平等であったが、幸いにもそうした州は、サウス・カロライナ州が今、主張しているような権利を彼らが持つとは気付かなかった。国家の威信と我が市民の権利を維持するために我々が強制された戦争は、もし州がそれを破滅的で憲法に反すると見なし、法を無効とする権限を持ち、それを宣言し、その防衛のための物資を出すことを拒否していれば、勝利と名誉の代わりに敗北と不名誉で終結しただろう。憲法は、合衆国人民の名と権威の下、示された前文で宣告され、その代表が編成し、その憲法批准会議が承認した重要な目的のために形成された。こうした目的の中で最も重要なのは、すべてのその他のものの中で最初に置かれている『より完全な連邦を形成するために』という言葉である。たとえ憲法と合衆国の法律に州に優越する至高性を与える明確な規定はなくても、連合よりも完全な連邦を形成する目的のために行使される憲法が我が国の集合知によって、その存在を地域的利害、州の党派的精神や州内に広がる党派的闘争に依存する連合の政体に代わるものとして解釈されるように考えられるということは今、あり得るのか。この問題を聞いて平明で単純な理解を持つすべての者は、連邦を保持するように回答するだろう。実行不可能な理論を追求するような抽象的な巧妙さのみがそれを破壊するような回答を編み出すだろう。私は、州によって負われる合衆国の法を無効とする権限は、連邦の存在と相容れず、明白に憲法の条文と矛盾し、憲法が基づくあらゆる原理に矛盾し、その精神によって認められず、憲法が形成された大いなる目標を破壊すると考える。危機によって、私の意図だけではなく、私の行動の原理の自由で完全で明白な言明が必要となった。そして、連邦法に無効とする州の権利の主張が断言され、その意のままに連邦から脱退する主張さえ断言されている中で我が政府の起源と形態に関する私の見解と連邦を創造した憲法に対する解釈を率直に表明することは適切だと思われる。私の義務に関する法的で憲法上の見解の妥当性について完全な自信を持つことが表明されたが、すべての憲法上の意義によって連邦を保持するために、もし可能であれば、穏健だが確固とした措置によって武力に頼る必要性をなくすために、法を執行するという私の決意に対するあなた方の統一された支持をあてにできると同様に私は自信を持つ。そして、もし兄弟の血を流すことが人類に対する原初的な呪いであると回想が我らの大地に降りかかるというのが天の意思であるならば、合衆国の側の攻撃的な行為によってそれは祈念されない。同胞市民よ、極めて重大な事例があなた方の前にある。政府に対するあなた方の統一された支持はそれが関与するあなた方の神聖な連邦が保持されるか、連邦が我々に保障する1つの国民としての恩恵が永続されるか否かという大きな問題の決定にかかっている。その決定で示された同意が共和政体の新しい自信を喚起し、その防衛にもたらされる深慮、叡智、そして勇気が損なわれず活気に満ちたままで我々の子供達に伝えられることは誰も疑うことはできない」 

ジャクソンの考えによれば、1つの州に連邦法を無効にする権限を認めることは連邦の存在と相容れず、明確に憲法に違反し、憲法に基づくあらゆる原理に一致せず、その精神によって認められず、憲法が作成された目的を破壊する。1861年、リンカンは南部の脱退に対して同じ論拠を使用した。1833116日、ジャクソンは関税を徴収するために軍を送る許可を議会に求めた。ジャクソンは自ら軍を率いてサウス・カロライナ州に向かうつもりであった。ジャクソンは連邦を守る責任を大統領が担うことを明言したのである。1794年にワシントンがウィスキー暴動に直面した時は、単なる1つの地方の暴徒の反乱に過ぎなかったが、今度は連邦を構成する1つの州を制圧するというこれまでになかった行動をとらなければならないことを意味した。憲法批准会議を通じて連邦を形成したのは人民自身であり、人民の意思を最も完全に体現するのは大統領であるとジャクソンは信じていた。ジャクソンの大統領制度に関する概念は、ナショナリズムと州権という古い対立軸を超越して新しい国民主権の理解を促すものであった[viii]

サウス・カロライナ州議会は志願兵を招集してジャクソンに公然と反抗しようとした。しかし、他の南部諸州はサウス・カロライナ州を支持しようとしなかった。サウス・カロライナ州とジャクソンが対立している間に議会はクレイの主導で妥協関税法を通過させ、10年間の20パーセントの関税引き下げが認められた。32日にジャクソンは妥協関税法案に署名した。同時にジャクソンは、司法的続きが妨害された場合には関税徴収のために武力を行使することを認める法案にも署名した。こうした硬軟両面の対策が功を奏してサウス・カロライナ州は妥協関税法を受け入れて連邦法無効宣言を撤回し、連邦離脱の危機は回避された。この危機を乗り越えることによってジャクソンは州権に対する連邦法の優位性を確立したのである。

 大統領は人民の直接的な代表であるという考え方はジャクソニアン・デモクラシーの中心的な考え方である。連邦党よりは人民による支配を支持したものの、民主主義に対する民主共和党の信念は限定されたものであった。憲法の解釈をめぐる連邦党と民主共和党の戦いは、立法府、行政府、司法府の関係、州と連邦政府の関係、そして人民とその代表の関係など様々な関係において穏健な民主主義を求めるという両者の暗黙の了解を隠していた。ジャクソン主義者は、憲法や政治制度を世論に従属させることによってそうした均衡関係を覆そうとした。

 1833年、ジャクソンはニュー・イングランドを巡行した。巡行はコネティカット州の民主党委員会の招待状によるものであった。大統領が政党の指導者として遊説旅行に出掛けることは適切だろうかという疑問が生じた。大統領は政党を超越することで品位を守るべきだという観念と政党の指導者たるべきであるという観念の2つの相反する観念があった。大統領は伝統的な大統領の品位を守りながら自らの党派に属する人々を満足させなければならなかった。ジャクソンはできる限り党派的な演説を行うことを避けた。ジャクソンの演説は非常に手短なものに限られた。ジャクソンはそのような姿勢をとることで大統領は政党を超えた存在であるという理想を守ろうとしたのである[ix]

 ジャクソン主義者の人民の概念は限定されていた。人民の概念には黒人、ネイティヴ・アメリカン、そして女性は含まれていなかった。しかし、1830年代の劇的な民主主義的改革が大統領制度に大きな影響を与えた。ジャクソンの大統領選出は、諸州で選挙人の選出を州議会ではなく一般投票に委ねるという変化とともに起きた。最初の3度の大統領選挙では多くの選挙人は州議会によって選ばれた。しかし、1824年には6州を除くすべての州で一般投票の形式をとるようになり、1832年までにはサウス・カロライナ州を除くすべての州で一般投票の形式がとられるようになった。サウス・カロライナ州は南北戦争まで州議会によって選挙人を選出する方式をとり続けた。その結果、ジャクソンは間違いなく一般投票で最初に選出された大統領だと言える。それ故、ジャクソンとその支持者は、大統領の権限はすべての主権の源、つまり人民に直接由来するものだという信念を抱いた[x]

 大統領が人民を代表する存在であるという主張は選挙権の拡大によって強化された。ジャクソン主義者は、諸州に投票権の財産資格を撤廃するように促した。それは1832年までに白人男性による普通選挙が実現したことを意味する。投票権の拡大は農夫、職人、労働者にもたらされ、彼らは大統領の下に政治的勢力を結集させた。彼らによる支持は大統領が、マディソン政権からジョン・クインジー・アダムズ政権を特徴付けた議会の強い影響力から抜け出す手助けをした。1824年に連邦議員を中心とする党幹部会による大統領指名制度が崩壊するとともに、ジャクソンはワシントン以来、連邦議会の関与なく選出された初めての大統領になった。1829年に大統領職に就いたジャクソンは大統領職を新しい活力で復活させることができる立場にいることに気が付いた。

 ジャクソンの登場は党組織の重要な発展と関連している。大統領選挙で帝王的党幹部会が大統領候補を指名する制度として機能しなくなり、代わりに党大会が用いられるようになった。民主党は1832年に、ホイッグ党は1836年以降に党大会を大統領候補指名に用いるようになった。全国党大会の代表は州党大会で選ばれる。州党大会は地方の党員によって構成される。全国党大会の構想は、代表の権威が一般人民に由来するという暗黙の前提を含んでいた。こうした新しい制度は全国に広がり、ジャクソンは議会を超えて直接人民に訴えかける初めての大統領になった。

党組織の改革はそれ自体を強力な大統領制度を意味するわけではなった。全国党組織は州と地方の党組織の緩やかな連合でしかなかった。しかし、大統領候補指名が党幹部会から党大会に移ったことにより、ジャクソンのような強力な指導者は政治的影響力を高めることができた。党組織は中央集権化していなかったが、全国的な選挙運動を行った。その結果、議員はある程度、地域的な利害から離れることができるようになり、党の綱領で示された全国的な政策を支持するようになった。さらに、ジャクソニアン・デモクラシーの時代に確立した二大政党制度によって、初めて政党に対する忠誠心がアメリカ人の心に深く刻み込まれることになった。大統領は人民の支持を直接受けるようになり、議会と人民の注目をめぐって争うことができるようになった[xi]

議会ではなく人民に基づく大統領職の登場は激しい政治的論争を招いた。ホイッグ党は1828年から1856年に行われた8回の大統領選挙の中で僅か2回しか勝利を収めていないが、民主党と鋭く対立した。クレイとアダムズの考えを中心にしてホイッグ党は全国的な問題に対してナショナリスト的な対策を取ろうとした。アメリカ体制と呼ばれる考え方は、第2合衆国銀行の設立、保護関税の制定、国内開発事業の推進からなっていた。アメリカ体制の構想は、ハミルトン的な憲法の拡大解釈に基づき、民主党が唱える州権尊重の考え方と相反するものであった。しかし、ホイッグ党はジャクソンに対立する政党として、行政府の権限拡大に反対し、人民を直接代表する機関として立法府を擁護した。ジャクソンと民主党は下院を支配下に置いた。しかし、上院ではクレイやウェブスターといったホイッグ党の指導者が、カルフーンやその他の州権を尊重する南部の民主党議員と連携してジャクソンの政策と大統領の優位性に挑戦した。

 ジャクソンとホイッグ党の指導者との対立は第2合衆国銀行をめぐる攻防で激化した。ハミルトンの政策の中心的要素であった合衆国銀行は連邦派と民主共和派の主要な争点であった。ジェファソンやマディソンは合衆国銀行を違憲と見なしたが、政権に就いてからは通貨を安定させるために合衆国銀行は必要だと考え直した。第2合衆国銀行は1816年に設立され、特許の有効期間は20年間であった。しかし、クレイとウェブスターの働きかけでニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)合衆国銀行総裁は早期に特許の更新申請を行うことに決定した。クレイはジャクソンが合衆国銀行の特許申請に拒否権を行使すると予期していた。そうすることでジャクソンが大統領に再選される見込みが低くなるとクレイは考えたのである。

 1832年、第2合衆国銀行特許更新が上院では28票対20票で、下院では107票対85票で通過した。しかし、ジャクソンは第2合衆国銀行の特許更新を認めず、拒否教書を710日に議会に送付した。それは、かつて行使された中でも最も重要な拒否権であった[xii]

 「合衆国銀行は、多くの点で政府にとって利便性があり、人民に有用である。私はこういう意見を抱く一方で、現存の銀行が持っている権限や特権が、合衆国憲法によって正当と認められないし、州の権利を侵害し、人民の自由によって危険であるという信念に強く印象付けられているので、大統領に就任したばかりに、同銀行の利点をすべて結合し、上述の欠点を除去した1つの機関を設立する可能性について、連邦議会の関心を喚起することが私の義務だと考えた。非常に残念なことだが、私に提出されたこの法案の中に、同銀行特許の修正、つまり、私の意見では、正義や健全な政策や我が国の憲法と一致させなければならないと考えられる修正を1つも認めることができない。現行の法人組織は、[中略]連邦政府の権限の下、銀行業の排他的な特権を享受し、また政府の支持と援助を独占し、その必然的結果として、外国為替と国内為替の大半の独占を享受している。[中略]。すべての独占とすべての排他的特権は、適正な同価値のものを当然受け取る権利がある人民を犠牲にして付与されている。この法案によって現合衆国銀行の株主に贈与すると規定されている何百万ドルの資金は、直接であれ間接であれ、アメリカ人民の所得の中から生じているに違いない。したがって、もし人民の政府が独占権や排他的特権を売り払うとすれば、少なくとも政府はそれが公開市場で持っている価値と同じだけの金額をそれと引き換えに厳しく取り立てなければならないし、それは人民に対する当然の義務である。[中略]。この法によって提案された現特許状の修正は、私の意見では、この特許状を州の権利または国民の自由と両立させるようなものではない。銀行の不動産所有権の制限や、支店設置の権能の制限や、小額紙幣流通禁止の権能を議会に保留したことは、比較的に価値または重要さを持たない制限である。現銀行のすべての不都合な原則と嫌悪すべき特徴の大部分は軽減されることなく保持されている。[中略]。本会期に連邦議会に提出された文書によれば、183211日現在で、合衆国銀行の個人所有の株式2,800万ドルのうち、8405,500ドルは外国人、大半はイギリス人によって所有されている。西部と南西部の9州で所有されている株式総額は14200ドルで、南部4州が5623,100ドル、中部と東部の諸州が1,3522,000ドルである。同銀行の1831年の利益は、議会に提出された計算書に示されているように、3455598ドルで、このうち西部9州から生じた利益は16448ドル、南部4州が352,507ドル、中部と東部諸州が1463,041ドルであった。西部の株式の所有は僅かであるから、同銀行に対する西部人の負債が主に東部と西部の外国株主に対する負債であること、西部人が負債のために支払う利子は東部諸州とヨーロッパに持って行かれること、そして、その負債が西部の産業の重荷となり、通貨の流出口となって、それがどのような地方も耐えることができない不自由さと、時に困窮をもたらすこと、以上のことは明らかである。[中略]。その本質上、ほとんど我が国に束縛されることない銀行は、我が国の自由と独立に対する危険となりはしないか。たいていの州法銀行は合衆国銀行の寛容によって存立していると合衆国銀行総裁は我々に語った。その利害が外国株主のそれと一致している自選取締役会の手に銀行の勢力が集中されるようになれば、(このようなことは、この法が実施される場合には起こりそうなことであるが)、平時には我々の選挙の純正にとって、戦時には我が国の独立にとって苦悩の種とならないであろうか。彼らの権力は、彼らがそれを行使しようとする時にはいつでも大となるであろう。しかし、もしこの独占権が彼ら自身の提出する条件に従って15年あるいは20年ごとに規則的に更新されるのであれば、彼らが選挙を左右し、国事を支配するために、平時にその力を振るうことは稀であろう。しかし、市民であれ官吏であれ、誰かが干渉してその権力を剥奪し、あるいはその特権の更新を妨害しようとすれば、彼は疑いもなく、その力の程を思い知らされるであろう。合衆国銀行の株が主として外国人の手中に移り、しかも我々が不幸にもその国との戦争に巻き込まれるのであれば、我々の状態はどうなるであろうか。その所有権がほとんど完全に海外強国の人民の手中にあり、また感情はそうでないとしても利害がそれらの外国人と同じ方向に向いているような人々によって経営されている銀行が、どのような進路を辿るかについては疑問の余地はない。国内における銀行の全活動は、国外の敵対的陸海軍を援助することになるであろう。我が国の通貨を統制し、公金を受け入れ、数千の我が市民の独立を支えているのであるから、この銀行は敵の陸海兵力よりも恐るべき危険なものとなるであろう。もし我々が私的な株主からなる銀行を持たなければならないとすれば、健全な政策の考慮のうえからしても、またアメリカ的感情の行動のうえからしても、その銀行が純アメリカ的であるべきことが要請される。[中略]。合衆国銀行擁護論者の主張によれば、そのすべての重要な点に関して銀行が合憲性を有するかどうかについては最高裁の決定によって確定された前例があるものと考えられるべきだと言われる。かかる結論に私は賛同することができない。単なる前例は権威の源泉たるには危険なものであり、また国民と諸州の承認が十分に確定されていると考えら得る場合を除いては、憲法的効能の諸問題を決定するものと見なされるべきではない。それどころか、この問題に関しては却って銀行反対論の論拠を前例に求めることができるのである。[中略]。最高裁の意見がこの法の根拠全体を擁護するものであるとしても、それはこの政府が持っている同様の諸権威を掣肘すべきではない。議会と行政府と裁判所はそれぞれ独立に憲法に関する独自の意見によって指導されなければならない。[中略]。議会の意見が裁判官に優越した権威を有するものではないのと同じく、裁判官の意見は議会に優越した権威を有するものではない。そしてこの点において、大統領は議会と裁判官の両者から独立しているのである。それ故、最高裁の権威にとって許されるべきことは、議会または行政府がその立法上の能力の範囲内で行動しつつある場合にそれを掣肘することではなくて、単に議会や政府の推理力が当然受けなければならないような影響力を与えることでなければならない。しかし問題となっているこの場合において、最高裁は合衆国銀行のあらゆる点が憲法と両立するものだという決定をしたのではない。確かに同裁判所は、この銀行を組織する法は議会による合憲的な権能行使であると言っている。しかし裁判所の全見解と彼らがかかる結論に到達するに至った推理を考慮に入れるのであれば、彼らは銀行が連邦政府の持つ諸権能を遂行するための適当な手段であるが故に、銀行を組織する法はかの憲法の条項、すなわち、『これらの権限を実施するのに必要で適当なあらゆる法を制定する』権能を議会が持つべきだと宣言しているかの憲法の条項に一致するとの裁決を下したものだと私は了解する。憲法の『必要な』という言葉は『有用な』、『必須の』、『肝要な』、『助けになる』ということを意味し、また『銀行』は、政府の『財政活動』を遂行するうえに便利で、有用で、かつ肝要な機関であると考えたうえで、彼らは、『この機関を用いることは議会の任意に委ねられるべき』であり、また『合衆国銀行を組織する法令は憲法に従って作られた法である』と結論するのである。「しかし」と彼らは言う。『法が禁止されておらず、またその法が政府に委任されている何かの目的を遂行しようという意図を真に持っている場合でも、その法の必要度について詮議することは、司法府の埒を超え、立法の領域を侵すこととなるであろう』。ここに述べられている原則は、銀行制度の全細目も含めて『法の必要度』は専ら立法的考慮にとっての問題であるということである。銀行は合憲的であるが、しかしかれこれの特殊なる権能や、あるいは免除が銀行をして政府に対する種々の義務を履行させるのに『必要かつ適当』であるかどうかを決定するのは立法の領域であり、したがって最高裁の決定よりすれば、法廷に訴えるべき理由は何もないことになる。それ故、最高裁の決定の下では、この法令の細部の条項が銀行をして財務代行機関としてそれに割り当てられた公的義務を便利かつ有効に遂行するために必要かつ適当、したがって合憲的であるか、あるいは不必要かつ不適当、したがって違憲であるかどうかを決定するのは、議会と大統領の独占的分野である。最高裁によって確認された一般原則に対する批判は抜きにして、裁判所が設定した立法行為の規則に従ってこの法令の細目を吟味してみよう。そうすれば銀行に付与された権能や特権の多くのものは銀行を創設しようとした目的にとって必要とは思われず、したがって所期の目的達成のための必要な手段ではなく、またその結果、憲法によって正当化されるものではないということが分かるであろう。[中略]。合衆国銀行は政府の行政府の代行機関として公然と設立されており、銀行の合憲性はかかる基礎の上に維持されている。ところが銀行の現行動の妥当性についても、またこの法令上の諸条項についても、行政府はこれまで相談にあずかることはなかったのである。行政府はかかる権能と特典を与えられている代行機関を必要ともしなければまた欲してもいないということを述べる機会をこれまで持たなかったのである。銀行を必要、あるいは適当にするものは何もない。この法令を生じさせたものが、どのような利害あるいは勢力であったとしても、その公的たると私的たるとを問わず、それは行政府の欲するものでも必要とするものでもあり得ないのである。行政府は、現行動は時期尚早であり、その代行機関に付与されている諸権能は単に不必要であるばかりではなく、また政府及び国家にとって危険であると考える。富める者や有力者が自分の利益のために、度々、政府の活動を歪曲させることがあるのは残念なことだと言わなければならない。[中略]。政府に必要悪はない。その悪は、政府が権力を濫用する場合にのみ生じる。もし政府が平等な保護にその仕事を限定すれば、そして天が雨を降らせるように、その恩恵を高きにも低きにも降り注ぐならば、政府は完全に祝福となるだろう。[中略]。今や私は我が国に対する私の義務を果たしたのである。もし我が国民同胞の支持を受けることができれば、私は感謝と幸福にたえないであろう。もしその支持を受けることができないのであれば、私は私の心を動かしてやまない動機の中に満足と平和のための十分な根拠を見出すであろう」[xiii]

ジャクソンの拒否の事由は、議会は銀行を設立する憲法上の権限がないと判断したためである。それは州権に対する違憲的な侵害であるだけではなく、独占と排他的特権を存続させ、外国人株主による支配の危険性があるものであった。またジャクソンは合衆国銀行が、ニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)総裁の下、一般庶民を犠牲にして東部の商業階級の利益を守るために銀行業を独占していると考えた。ジャクソンは「憲法制定者が、我々の政府は仲買人の政府になるべきだという意図を持っていたということは本当に主張され得ることなのか。もしそうであれば、その場合には、この全国的な仲買人の店は全体の利益のために役立てるべきで、多数の利益をまったく無視して少数の特権的で金持ちの資本家の御用を勤めるというようなことはあってはならない」と述べている。そもそも合衆国銀行は西部や南部で人気がなかった。健全通貨と信用収縮方針に基づいて、合衆国銀行が地方銀行の手形を即時支払いを求めて提示することによって、地方銀行を抑制し、投機のための手形信用額を引き下げていたからである。それは西部や南部の人々からすれば、地方銀行に対する不当な干渉であり束縛であった。ジャクソンはそうした西部や南部の不満を共有していた。しかし、合衆国銀行は1819年のマカロック対メリーランド州事件で合憲と判断されていた。裁判所の判断を無視することによってジャクソンは憲法を解釈する権限は司法府だけではなく大統領にも存在するという考えを提示した。

 拒否権は大統領制度を強化するものであった。ワシントンを初めとする歴代の大統領は議会の立法が違憲だと認められる場合のみ拒否権を行使することに合意していた。憲法が制定されて以降、40数年の中で9つの法案のみが拒否権の行使を受けた。一方、ジャクソンは8年間の任期で12の法案に対して拒否権を行使した。拒否教書の中でジャクソンは国家を害すると思われる法案に対して大統領は拒否権を行使すべきだという信念を示した。ジャクソンの考えでは、大統領は国民の意思を代表する議会に優越する存在であり、拒否権は何の制限もなく大統領に与えられた立法権であった。立法過程に関与する権限を要求することでジャクソンは行政府と立法府の関係を大きく変化させた[xiv]。こうした拒否権に関するジャクソンの姿勢は、クリーヴランド、セオドア・ローズヴェルト、ウィルソン、フランクリン・ローズヴェルトなどによって踏襲された。

ジャクソンの拒否教書の中には他にも2つの重要な側面がある。第1に議会と同じく大統領は裁判所とともに違憲性を問う権限があるという側面である。ジャクソンは憲法の解釈において大統領は議会の法案にも裁判所の裁定にも縛られないと主張した。立法府、行政府、司法府はそれぞれ独自の解釈に従うべきだとジャクソンは考えた。したがって、ジャクソンの拒否教書は、1803年のマーベリー対マディソン事件で決定した司法府の判断が立法府の判断に優越するという原理を再び問い直すことになった。

 第2に重要な側面は、アメリカ国民の前に議論を提示したやり方である。拒否教書の最後の段落でジャクソンは最終的な判断は人民によるものだと明記した。第2合衆国銀行をめぐる争いが持つ政治的影響を心配して、議会は特許法案を再可決することができなかった。1832年、クレイは合衆国銀行の廃止を金銭的な利害と少額の借り手の安全性を損なうものだと激しく非難した。しかし、一般の多くの人々は合衆国銀行の破棄を特権の打破とみなし歓迎していた。そのためジャクソンに批判的な新聞でさえも合衆国銀行に関してジャクソンは人民の支持を得ていると報じるほどであった。ジャクソンの勝利は議会ではなく大統領が人民の真の代表であるという確信を強めた[xv]

 行政府の中でジャクソンは閣僚の地位を低下させた。8年間で4人の国務長官、5人の財務長官、2人の陸軍長官、3人の司法長官、3人の海軍長官、そして3人の郵政長官が入れ替わった。大規模な入れ替えは1831年に起きた。ジャクソンはペギー・イートン問題を解決することができないことに苛立ちを募らせ、全閣僚に辞任を要求して閣僚の再編を行った。これはアメリカ史上唯一の事例である。

またペギー・イートン問題の影響でジャクソンは定例の閣議を行わなくなった。ペギー・イートン問題とはペギー・ティンバーレイク(Peggy O’Neale Timberlake)という女性をめぐる問題である。一般に流布したゴシップによるとペギーは夫がある身でありながらジョン・イートンと関係を持ったという。1828年に夫が海で亡くなったのも自殺だと言われている。ペギーはその後、すぐにイートンと結婚した。

 閣僚の妻やホワイト・ハウスの接待役であるエミリー・ドネルソン(Emily Donelson)などワシントンの社交界はペギー・イートンを仲間に入れず疎外した。このような仕打ちを見てジャクソンは自分の妻に向けられた非難を思い起こした。ジャクソンはイートン夫人の擁護に回り、閣僚の妻に適切な尊敬の念で以ってイートン夫人を扱うように要求した。しかし、ほとんどの閣僚はそれを拒絶した。定例の閣議を開く代わりにジャクソンは友人や顧問と秘密裡に協議することが多くなった。それは非難の意味を込めて、台所の階段を通ってこっそり大統領の書斎に行くために「台所閣僚」と呼ばれた。それに対して従来の閣僚は「客間閣僚」と呼ばれた。しかし、憲法上、アメリカ大統領は、個人、または集団で公的にあるいは私的に助言をすることを禁じられていない。台所内閣の構成員は絶えず入れ替わり、恒常的に助言を行う組織ではなかった。

 1832年のウースター対ジョージア州事件でジャクソンは最高裁の権威に従わなかった。ジョージア州は州法によってネイティヴ・アメリカン以外がネイティヴ・アメリカンの領域に居住することを禁じていた。州政府から特別の許可を得た者だけが居住を認められた。サム・ウースター(Sam Worcester)とその家族はネイティヴ・アメリカンの領域と定められた場所から立ち退くことを拒否した。ウースターは州政府から特別の許可を得ることも拒んだ。州政府は軍隊を派遣してウースターを逮捕した。ウースターは、退去は憲法に認められた権利の侵害であるとして最高裁に訴えた。ウースターの考えではジョージア州はネイティヴ・アメリカンの領域で法を執行する権限はなかった。ウースター対ジョージア州事件の判決は183233日に下された。最高裁は、ジョージア州の州法を違憲であり無効であるという判決を下した。この判決に不服を抱いたジョージア州は裁判所の命令を無視した。ジャクソンは判決を公然と批判することもなく、ジョージア州への支持を明らかにすることもなかった。ヴァン・ビューレンの助けでジャクソンは陰から妥協を図った。ウースターは告発を撤回する代わりに知事から特赦を得た[xvi]。実質的にジャクソンは、最高裁は憲法上の問題の最終的な裁定者であるという考えを認めなかった。ジャクソンの考えでは、行政府、立法府、司法府はそれぞれ憲法に関する独自の見解で導かれるべきであった[xvii]

1832年の大統領選挙で勝利して人民の支持を確実なものとしたジャクソンは1833101日に合衆国銀行から政府の預託金を引き上げることを決定した。しかし、議会は預託金を移動させる権限をジャクソンに与えることを拒否した。1816年に第2合衆国銀行の特許が認められた際に預託金を移動させる権限は財務長官に与えられていた。ルイス・マクレーン(Louis McLane)財務長官は合衆国銀行から預託金を州法銀行に移動させることを拒否した。そのためジャクソンはマクレーンを国務長官に指名し、ウィリアム・デュエイン(William John Duane)を財務長官に据えた。しかし、デゥエインもその決定に署名しなかったので更迭された。法によって大統領は財務長官に預託金の引き上げを強制することはできなかった。ジャクソンはデュエインを罷免するしか選択肢はなかった。議会が休会中なのを利用してジャクソンは議会の承認なく新たな財務長官を任命した。

ジャクソンは新たな財務長官に命じて合衆国銀行から1,100万ドルの政府の預託金を引き上げ、「ペット・バンク」と呼ばれた州法銀行に移管した。ジャクソンに対抗してビドルは厳しい金融引き締め策を実施し、そのため1833年から34年にかけて金融危機がもたらされた。それでもジャクソンは合衆国銀行に対する姿勢を変えず、合衆国銀行は1836年に特許の期限切れを迎えた。

ジャクソンの預託金引き上げに動きに対して上院は1834328日、26票対20票でジャクソンを憲法や法律で授与されていない権限を行使した旨で問責する決議を採択した。1834415日、ジャクソンはそれに対して抗議声明を発表した。抗議声明の中で、ジャクソンは大統領こそ人民の代表であり、州議会によって選ばれる上院は人民を直接代表していないと述べた。さらにジャクソンは、問責決議は憲法によって認められておらず、その精神を失墜させるものであると非難した。上院の問責決議で罷免されることはなかったが、大統領の権威が損なわれる可能性があった。デュエインに代る新たな財務長官の任命も28票対18票で否決された。これは閣僚指名が上院によって否決された最初の例である。またジャクソンは預託金の引き上げに関する書類の開示を求める上院の要請を拒否した。ジャクソンは行政特権に基づいて、上院にはそのような要請を行う憲法上の権限はないと主張した。

 デュエインの更迭と預託金の引き上げ、そして上院の問責決議は、大統領が憲法に暗示されている罷免権を使って、議会が省庁の長官に与えている自由裁量権に対してどの程度の命令が下せるのかという問題を提起した。クレイやウェブスターは財務長官に自由裁量権を与える議会の権限を擁護した。それに対してジャクソンは、大統領は行政府全体の行動に責任を持つと主張した。それは行政府内部の管理をめぐる大統領と議会の長い戦いの1つであった。その戦いにジャクソンは勝利を収め、1837116日、問責決議は上院の議事録から抹消された。ジャクソンの勝利は個人的な政治的勝利であっただけではなく、大統領が行政府を監督する権限を確定するものであった[xviii]

 18351月に公債は完済され、連邦政府は多額の余剰金を抱えるようになった。メイズヴィル道路法案に拒否権を行使したことからジャクソンが国内開発事業にそうした余剰金を注ぎ込むことはないように思えた。そのためクレイは連邦歳入分与法案を提出した。連邦歳入分与法によって、約2,800万ドルが国庫から各州に分配された。そうした資金は投資活動を促進した。さらにこれまで合衆国銀行が果たしてきた金融規制がなくなることで半ば無法状態になった。州法銀行が乱立して適切な正貨の裏付けがない銀行券を増発した。そうした紙幣の膨張に関して不信感を抱いたジャクソンは正貨回状で公有地の売却に関する支払いを正貨に限るように財務省に命じた。市場に十分な正貨がなかったために公有地の売却は滞り、土地投機は壊滅的な打撃を受けた。その結果、金融業界、特に西部の銀行は深刻な影響を被った。議会はそうした状況を考慮して正貨回状を無効にする法案を可決したがジャクソンは法案に握りつぶし拒否権を行使した。

 ジャクソン政権下で戦争の瀬戸際まで対仏関係は悪化した。アメリカは、ナポレオン戦争の間にフランスによってアメリカ船舶に加えられた損害に対して2,300万ドルの賠償金を請求していた。フランスはそれに対して、独立革命期にアメリカ植民地に貸与された糧食の代価に対する請求権を持っていた。183174日に結ばれた条約によってフランスはアメリカに差し引き500万ドルの賠償金を支払うことを約束した。しかし、フランスは支払期限が来ても賠償金を支払わなかった。

 ジャクソンは1834年の一般教書で、賠償金が支払われない場合は、フランスの財産に対する報復的強奪を認める法を制定するように議会に求めた。そうした威嚇に対してフランスは艦隊を西インド諸島に急派した。ジャクソンは合衆国海軍に非常召集をかけた。フランスは、ジャクソンが報復的強奪を求める一般教書について満足できる説明ができない限り、賠償金を支払わないと通告した。ジャクソンはそうした説明を行うことを拒絶した。幸いにもこうした行き詰まりはイギリスの仲介によって解消され、両国の戦争の危機は回避された。

 ホイッグ党によれば、ジャクソン政権の主要な遺産は大統領権限の危険な拡大であった。合衆国銀行問題を引き合いに出してホイッグ党は、行政府が立法府と司法府の影響力を縮小させるような権限を持ち、三権分立の原理を損なっていると指摘した。ホイッグ党は、民主党が「国王アンドリュー1世」を支持するあまりにジェファソン主義の原理を放棄したと批判する[xix]。しかし、ジャクソン政権下で培われた政治的伝統は曖昧なものであった。ジャクソンは単純に行政府の単独的な行動の機会を拡大したわけではない。ジャクソンの行政府の権限拡大は人民の指導者としての大統領の出現に依拠していた。ジャクソンは合衆国銀行問題で人民に訴えかけようとしたが完全に直接的に訴えかけたわけではなかった。その代わりにジャクソンは政党を通じて人民に訴えかけた。

 合衆国銀行をめぐる争いや他の政治的闘争は1830年代に発達した政党よりの新聞によって行われた。政党よりのジャーナリストとの緊密な関係は、ジャクソンのリーダーシップに新たなる側面を与えた。そうしたジャーナリストは大統領の決定を効果的に人民に伝える手段を提供した。グローブ紙はジャクソン政権とヴァン・ビューレン政権の公的な機関紙となった。新聞は政界に特別な伝手を持ち、様々な利得を得た。ジャクソンからブキャナンまでのすべての民主党の大統領は少なくとも1つの重要な新聞に手厚い支援を与えた。そうした新聞は同時に民主党の新聞であり、党の計画や組織に貢献していた。したがって大統領は独断的であればある程、より攻撃的で大衆的な政党寄りの新聞に頼るようになった。

 ジャクソンが活気付けた大統領権限は党組織だけではなく、ジャクソン自身が信奉した政治的信条によって制限された。つまり、連邦政府の責任を制限するという政治的信条である。民主党の狭義の憲法解釈は連邦政府の組織的能力を弱めた。ジャクソン主義者は州権を国家の信条にまで高め、連邦政府の権限と大統領権限を制限した。またジャクソン主義者は国内開発事業を否定し、合衆国銀行の設立を拒んだ。さらにジャクソン主義者は、連邦政府が諸州における奴隷制度の拡大も廃止も妨げる権利を持たないと考えていた。アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、「ジャクソン将軍の権威は絶えず増しているが、大統領の権威は落ちている。ジャクソンの手の中で連邦政府は強大であるが、後継者の手に渡ることになれば弱くなるだろう」と評している[xx]

 ジャクソン政権の末期、テキサスの併合の是非が問題となった。1836年、6,000人のメキシコ軍がテキサスに向かっていた一方で、テキサス各地から集まった代表は独立を宣言した。サム・ホーストン(Sam Houston)率いるテキサス軍はサン・ジャシント川の戦いでメキシコ軍を破り、メキシコに独立を承認させた。ホーストンはテキサス共和国の大統領に選ばれ、合衆国にテキサスを奴隷州として併合するように求めた。ジャクソンは奴隷制度の拡大という激しい論争を引き起こしかねない問題に取り組みことを避け、またメキシコと衝突するのを避けるために決定を先延ばしした。任期の最後の日にジャクソンは公式にテキサス共和国を承認した。



[i] Robert V. Remini, Andrew Jackson and the Course of American Democracy, 1833-1845 (Harper and Row, 1984), 7.

[ii] デイヴィッド・ルイス、『大統領任命の政治学―政治任用の実態と行政への影響』(稲継裕昭監訳、ミネルヴァ書房、2009)16

[iii] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 313.

[iv] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1952)3:441-443

[v] Sean Wilentz, The Rise of American Democracy: Jefferson to Lincoln (Norton, 2005), 313.

[vi] Major L. Wilson, The Presidency of Martin Van Buren (Univeirsity Press of Kansas, 1984), 13.

[vii] State of Union Address, December 6, 1830.

[viii] Major L. Wilson, The Presidency of Martin Van Buren (Univeirsity Press of Kansas, 1984), 13.

[ix] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 93.

[x] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947), 67.

[xi] Edward S. Corwin, The President: Office and Powers, 1787-1957 (New York University Press, 1957), 20-21.

[xii] Robert V. Remini, Andrew Jackson and the Course of American Democracy, 1833-1845 (Harper and Row, 1984), 369.

[xiii] Veto Message Regarding the Bank of the United States, July 10, 1832.

[xiv] Robert V. Remini, Andrew Jackson and the Course of American Democracy, 1833-1845 (Harper and Row, 1984), 370.

[xv] Robert V. Remini, Andrew Jackson and the Course of American Democracy, 1833-1845 (Harper and Row, 1984), 373.

[xvi] Robert V. Remini, Andrew Jackson and the Course of American Democracy, 1833-1845 (Harper and Row, 1984), 275-279.

[xvii] Keith E. Whittington, Political Foundations of Judicial Supremacy: The Presidency, the Supreme Court, and Constitional Leadership in U. S. History (Priceton University Press, 2007), 33.

[xviii] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947),82-85.

[xix] Wilfred E. Binkley, President and Congress (Knopf, 1947),80.

[xx] Alexis de Tocqueville, Democracy in America (Doubleday, 1969), 394.


アンドリュー・ジャクソン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究