副大統領ジョン・カルフーン


ジョン・カルフーンの経歴については、モンローの項、副大統領/閣僚/最高裁長官、陸軍長官ジョン・カルフーンを参照せよ。アダムズ政権で副大統領を務めたカルフーンは引き続きジャクソン政権でも副大統領を務めた。
1828年関税法案に対して、カルフーンはサウス・カロライナ州の求めに応じて「サウス・カロライナの論議と抗議」を起草していた。当初、カルフーンが起草者であることは内密であったが、次第に明るみに出るようになった。それはジャクソン政権の方針に真っ向から対立するものであった。またカルフーンがマディソン政権下で陸軍長官を務めていた時にジャクソンのフロリダ侵攻を査問にかけようとしていたことが蒸し返された。
 さらにペギー・イートン問題が追い打ちとなった。カルフーンの妻やその同僚の妻達が、陸軍長官の妻であるペギー・イートンを不品行であるという疑惑を理由に社交の場で受け入れることを拒否した。ジャクソン大統領はカルフーンや同僚を批判した。
 国務長官ヴァン・ビューレンはカルフーンの影響力を政権内から排除しようと考えた。ヴァン・ビューレン自身も国務長官を退任し、次々に閣僚を入れ替えようとした。ヴァン・ビューレンは国務長官に代わってイギリス公使の指名を受けた。上院でヴァン・ビューレンの指名承認をめぐって票が均衡した時に、均衡を破るための一票を投じたのは他ならぬカルフーンであった。カルフーンは承認反対に票を投じたのでヴァン・ビューレンのイギリス公使就任は承認されなかった。その結果、ヴァン・ビューレンは1832年の大統領選挙で副大統領候補となって当選し、ジャクソンの後継者となった。その一方でカルフーンは、副大統領を退任し、サウス・カロライナ州選出連邦上院議員に就任した。
1832年、サウス・カロライナ州が連邦法無効宣言を出すと、ジャクソン政権は軍事介入も辞さない構えを見せた。そうした衝突を回避しようとカルフーンはヘンリー・クレイと協力して、南部の農園主の必需品に課せられる関税を引き下げる妥協関税法案を成立させた。
 奴隷制問題についてカルフーンは、ミズーリ妥協以来、奴隷制に反対する意見が強まっていることを危惧していた。いわゆるフォート・ヒル声明の中でカルフーンは、少数者の権利の擁護という観点を基に、奴隷制は産業化した経済の中において守られるべき少数者の制度であると主張した。
 カルフーンは1833年から1843年まで連邦上院議員を務めた。その間、ホイッグ党の指導者としてジャクソン政権とヴァン・ビューレン政権に対峙した。上院議員を退任後、公職に就かずに自らの農園フォート・ヒルに退隠したが、1844年、タイラー大統領から国務長官の指名を受けた。

アンドリュー・ジャクソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究