郵政長官ジョン・マクリーン


ジョン・マクリーンの経歴については、モンローの項、副大統領/閣僚/最高裁長官、郵政長官ジョン・マクリーンを参照せよ。
 マクリーンは短期間在職しただけで後任と交代した。ジャクソン大統領から陸軍長官か海軍長官への就任を打診されていたが、マクリーンはそれを拒んだ。その代わりに連邦最高裁判事の任命を受けた。その当時、最高裁判事は巡回裁判区をそれぞれ受け持っていた。マクリーンの管轄は第7管区で、オハイオ、ケンタッキー、テネシーからなる。さらに後にはミシガン、オハイオ、インディアナ、イリノイに改められた。マクリーンの管区は非常に広く、1年間で2500マイルもの距離を移動したこともあった。
 連邦最高裁判事としてマクリーンは、数多くの奴隷制に反対する見解を示している。1841年のグローヴス対スローター事件では、連邦政府は奴隷を財産ではなく人間とみなして決定を下していると示唆し、奴隷制は単に地方の法律に基づいているに過ぎないとした。1842年のプリッグ対ペンシルヴェニア州事件では、連邦の定めた逃亡奴隷法がペンシルヴェニア州の定めた自由民法に優先することを明示した。
しかし一方で、1853年のミラー対マッケリー事件で1850年逃亡奴隷法の合憲性を支持したために、奴隷制廃止論者から批判を受けている。
 マクリーンの反対意見で最も有名なものは、1857年のドレッド・スコット対サンフォード事件の際の見解である。大多数は奴隷であるか自由であるかを問わず、黒人はすべてアメリカ合衆国市民として認められないという見解を示した中で、マクリーンはアメリカ生まれの者で奴隷状態に置かれた者は解放された時に市民として認められると主張した。さらにマクリーンは1820年のミズーリ妥協は違憲であると述べた。
マクリーンを大統領候補に立てる話は何度かあったが、いずれの機会も成功には至らなかった。1861年、マクリーンは在職のままシンシナティで亡くなった。

アンドリュー・ジャクソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究