政権の特色と課題


ジョン・アダムズ 閣僚との確執
 初めての政権継承であったために、閣僚人事の変更や政策の継続などについて前例はなかった。まずアダムズ大統領はワシントン政権の閣僚をそのまま留任させた。ワシントンにはハミルトンのような腹心の部下がいたが、アダムズにはそのような部下はいなかった。アダムズ大統領はワシントンの後継者を自ら以って任じていたので、閣僚を留任させることは当然の選択であった。またアダムズは閣僚人事を党派や縁故に基づいて決定すべきではないと考え、大統領自身も党派心に左右されるべきではないと固く信じていた。
 閣僚に対して最も影響力を持っていた人物は、ワシントンを除けばハミルトンであった。ハミルトンは既に財務長官の職を退いていたが、閣僚は事あるごとにハミルトンの裁量を密かに仰いでいた。ワシントン政権下でハミルトンは、連邦政府の財政的基盤を整備したが、アダムズ大統領はそうした計画に対してあまり理解を示してはいなかった。またアダムズはハミルトンに強い不信感を抱いていた。1796年の大統領選挙におけるハミルトンの画策をアダムズが知ったことが原因の一つである。ハミルトンもアダムズを連邦派の領袖だと見なしていなかった。閣僚との確執は彼らの背後にいるハミルトンとの確執であったと言える。
 1800年5月、遂に確執は最終局面を迎えた。次期大統領候補にチャールズ・ピンクニーを担ぎ出そうとハミルトンが陰謀をめぐらせていると確信したアダムズ大統領は、陸軍長官ジェームズ・マクヘンリーと国務長官ティモシー・ピカリングを更迭した。こうした一連の更迭は大統領が自らの判断のみで閣僚の交代を命じることができることを示した。しかし、これは連邦派の分裂を早める結果をもたらした。

ジョン・アダムズ 憲法修正第11条
 1798年1月8日、憲法修正11条が発効した。修正11条は、「合衆国の司法権は、合衆国の一州に対し、他州の市民により、または外国の市民もしくは臣民によって提起された普通法または衡平法上の訴訟にまで及ぶものとすることはできない」と規定する。
 ワシントン政権期にジョージア州に対して他州の一市民が負債の支払いを要求する裁判を起こした。しかし、連邦最高裁の判決の履行をジョージア州は拒否した。これにならって他の州も同様の権利を求めた。それに応じて議会は、1794年3月5日、修正11条を可決した。1795年1月23日にデラウェア州の批准によって憲法修正11条は既に成立していたが、州が連邦への告知を怠ったために、1798年になってようやく国務省が正式に発効を確認した。

ジョン・アダムズ XYZ事件
フランスとの衝突
 フランスはワシントンによる中立宣言とジェイ条約締結を米仏同盟に反すると非難していた。そのうえフランスはイギリスに対する経済封鎖を名目にアメリカ船舶の取締りを強化した。これにより多くのアメリカ船舶が損害を被った。1796年11月、さらにフランスは国交停止を宣言した。就任式の前日、アダムズ大統領はジェファソンのもとを訪れて、関係改善のためにフランスに赴くように求めたが、断られている。そして、1797年5月16日、アダムズ大統領は議会に戦争教書を送付した。それは、フランスが公使としてチャールズ・ピンクニーの受け入れを拒否し、アメリカ船舶に損害を与えたことを非難し、商船の武装と海軍の増強、そして民兵を再編成することを議会に求める内容であった。最初の戦争教書であるが、正式な宣戦布告を求めたわけではない。議会はアダムズ大統領の要請に応えて、8万の民兵を3ヵ月間動員し、80万ドルの借款を締結する権限を与えた。
 その一方で、アダムズ大統領はフランスとの和解を図るために特使を派遣した。民主共和派のマディソンを特使の1人に任命しようとしたが、連邦派の閣僚の反対にあって断念した。最終的に民主共和派からはマディソンの代わりに古くからの友人であるエルブリッジ・ゲリー、連邦派からはピンクニーとジョン・マーシャルが特使に選ばれた。
 アメリカ使節団を迎えた仏外相シャルル・タレーランは、ジャン・ホッティンガ、ピエール・ベラミー、リュシャン・オートヴァルを通じて、25万ドルの賄賂を要求し、交渉開始の条件としてフランス公債を引き受けること、アダムズがフランスを非難した演説を取り消すことなどの条件を提示した。その一方で、使節団はフランスに現在のアメリカの立場に関する報告書を提出した。それに対してフランスは、ジェイ条約が米仏同盟に反する条約であること、最も親仏的なゲリーとのみ交渉することを回答した。そのため使節団はゲリーを残して帰国した。帰国の前にマーシャルは交渉の経緯をまとめた報告書を送っている。その報告書の中で、ホッティンガ、ベラミー、オートヴァルはそれぞれX、Y、Zという暗号に変えられていた。そのため一連の経緯はXYZ事件と呼ばれる。
国民感情の激化
 1798年1月24日、使節団からの報告を待つ間、アダムズ大統領は閣僚と交渉が失敗した場合の善後策を協議した。選択肢は、開戦、出港禁止、もしくはヨーロッパ諸国との関係を変えるかであった。ハミルトンの影響の下、閣僚は強硬な態度を保ち、イギリスとの関係強化を提言した。アダムズ大統領は強硬な態度を保つことには同意したが、イギリスとの関係強化は認めなかった。
 3月19日、アダムズ大統領は対仏交渉の失敗を議会に報告し、軍備の増強を求めた。そして、4月2日、アダムズはXYZ書簡を議会に提出した。さらに6月21日には議会に対して、「偉大で自由で強力な独立国家の代表として公使が接受され、尊重され、そして栄誉を与えられることが確証できない限り、フランスに代わりの公使を送ることはないでしょう」と通告している。
 対仏交渉の経緯を知ったアメリカ国民は激怒した。多くのアメリカ人はフランス革命勃発当初、革命に好意的であった。しかし、革命フランス政府による恐怖政治や非キリスト教運動などが知られるようになると国民感情は一転した。このようなフランスへの反感は「防衛に大金をかけろ、賄賂には一銭たりとも使うな」という当時の言葉に表れている。
 こうした国民感情を追い風にして、連邦派は親仏的な民主共和派に熾烈な批判を加えた。一方で民主共和派は、連邦派がXYZ事件を捏造したのではないかと疑いをかけた。米仏間の交易は途絶し、フランスの私掠船がアメリカ船舶を憚ることなく拿捕し始めた。1798年7月7日、議会によって米仏同盟は破棄され、米仏の決裂は決定的になった。アメリカはフランスと海上で小競り合いを続けたが正式な宣戦布告には至らなかったため、約2年間にわたった衝突は「擬似戦争」と呼ばれる。

ジョン・アダムズ 外国人・治安諸法の制定
外国人・治安諸法の内容
1798年、反仏感情の高まりを追い風にして連邦派は、外国人・治安諸法を制定した。外国人・治安諸法は、帰化法、外国人法、敵性外国人法、治安法の4法からなる。民主共和派は、これらの法律を、フランス革命思想の広がりを阻止し、親仏的な民主共和派の勢力を削ぐことを目的としたものだとして激しく反発した。
 帰化法は、アメリカの市民権を得るための在住期間を5年から14年に延長する法律である。その結果、民主共和派が多くを占める移民は投票権を得ることが難しくなった。外国人法は、危険だと見なされる外国人を国外退去させる権限を大統領に与える法律である。これにより移民の中から強固な親仏・民主共和派を追放することが可能になった。また敵性外国人法は、交戦期間中、敵国人を検挙し収監することを認める法律であった。さらに治安法は、連邦政府や連邦議会、または大統領に対する中傷や名誉毀損を行った者を処罰するという法律である。この法律は実質的に出版の自由や言論の自由を侵害する法律であった。アダムズ大統領は法案に署名はしたものの、連邦派の期待とは裏腹に積極的に同法を執行しようとはしなかった。そのため同法に基づく告発は僅か25件にとどまった。
民主共和派の反撃
 こうした外国人・治安諸法に対して民主共和派は、ケンタッキー決議とヴァージニア決議を動議にかけることで抗議した。ケンタッキー決議は、ジェファソンによって起草され、1798年11月16日、ケンタッキー州議会で可決された。またヴァージニア決議は、マディソンによって起草され、1798年12月24日にヴァージニア州議会で可決された。
 両決議は、外国人・治安諸法が憲法修正第10条の「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」という規定に反していると主張している。こうした州権の考え方は後世にまで大きな影響を及ぼしている。

ジョン・アダムズ 軍備の増強
海軍省の創設
 アダムズ大統領はフランスとの外交関係を一時的に断絶させる一方で1798年1月、海軍省の創設と陸軍を戦時体制に置くための資金を議会に求めた。その結果、4月30日に海軍省が創設された。それ以前は陸軍省が海軍の統括を行っていた。また海軍省に続いて7月11日、海兵隊も創設された。ワシントン政権期、バーバリ国家(16世紀から19世紀にかけてのモロッコ、アルジェリア、チュニス、トリポリ)の海賊に対抗するために議会は合衆国海軍の再建を認めていたが、非常に小規模なものであった。
 海軍を増強することでフランスの対米強硬姿勢を牽制しようとアダムズ大統領は考えた。またハミルトンが主導する陸軍増強案を抑える目的もあった。アダムズ大統領はそうした理由に加えて、急速に拡大する海洋貿易を維持するために、アメリカ船舶を保護する海軍は不可欠な存在であった。
 フランスとの緊張が高まる中、アメリカはイギリスと互いの商船をフランスの私掠船から守る協定を結んだ。連邦派はさらにイギリスとの同盟を推進しようとしたが、アダムズはそれを認めなかった。アメリカは、フランスとの緊張が緩和された後も、イギリスの海軍力に頼ることなく独自に自国の船舶を保護する海軍力を整備しなければならないと考えていたからである。
臨時軍の創設
 1798年5月28日、連邦派の強い影響の下、議会はフランス軍のアメリカ侵攻に備えて臨時軍を編成することを決定した。それを受けてアダムズ大統領は、7月2日、引退していたワシントンを「中将および合衆国に奉仕するために徴募され、徴募されるであろう全軍の総司令官」に指名した。
 アダムズはワシントンを頂点にして、ヘンリー・ノックス、チャールズ・ピンクニー、そしてハミルトンの順序で指揮官を任命しようとした。しかし、ワシントンはハミルトンを次位に置くように強く望んだ。さらに閣僚もワシントンの要請に同調したために、アダムズは不服であったがハミルトンを次位に置く案を承諾せざるを得なかった。また閣僚は大規模な陸軍を編成する計画を推進しようとしたが、アダムズはそれを認めようとしなかった。
フランスとの海戦
擬似戦争では陸戦はなかったが、海戦は何度か起きている。1799年2月9日、ニューヴィス島沖でアメリカ海軍のコンステレーション号はフランスのフリゲート艦ランスルジャント号と交戦し、同艦を捕獲した。さらに1800年2月1日、同じくコンステレーション号が、グアドループ沖でフランスの軍艦ヴァンジャンス号を追尾し、翌2日、砲撃戦をしかけて撃退した。
 擬似戦争を通じてアメリカ海軍は大幅に増強された。開戦当初、僅か10隻程度だった艦船は、終戦時には50隻以上になっていた。戦況はアメリカに圧倒的に優位に進んでいる。最終的にアメリカは戦艦を1隻失ったものの、2隻のフリゲート艦を含む85隻のフランス船舶を拿捕している。

ジョン・アダムズ フリーズの乱
 臨時軍と海軍の増強にともなう歳出の増加を補うために、1798年7月、アダムズ大統領は財産税の導入を認めた。翌年、ペンシルヴェニア州東部の農民が財産税の撤廃を求めて反乱を起こした。この反乱は、首謀者である元民兵隊指揮官ジョン・フリーズの名前に因んでフリーズの乱と呼ばれる。または税の査定官に熱湯を注ぎかけて農婦達が抵抗したことから熱湯反乱とも呼ばれる。フリーズは数百人の暴徒を率いて刑務所を襲い、囚人を解き放った。
 アダムズ大統領は反乱の鎮圧を命じたが、1794年のウィスキー暴動の際にワシントンが自ら鎮圧に乗り出したのとは異なり、クインシーの自宅に滞在していた。アダムズの不在はこの時だけではない。ワシントンが8年の在任期間中に政庁所在地から離れていた日数は合計で181日間であったが、アダムズはその半分の在任期間にも拘らず、合計385日も政庁所在地を離れていた。大統領不在の間、フリーズの反乱に対処したのは主に閣僚であった。
 反乱鎮圧後、裁判にかけられたフリーズは反逆罪で絞首刑の判決を受けた。アダムズ大統領は、さらなる反乱を阻止するために刑を執行すべきだという閣僚の忠告に反して、1800年5月20日、フリーズに恩赦を与えた。アダムズは、フリーズの反乱を危険な暴動と見なしたものの、反逆罪にはあたらないと考えた。そして、「アメリカ人の人道的で心優しい性質に訴えかける」ために恩赦を与える決定を下した。この決断は、アダムズは気まぐれであるという閣僚の確信を強めた。それは、鎮圧の際の不在に加えて、アダムズが連邦派の支持を失う一因となった。
 
ジョン・アダムズ 擬似戦争終結
 アダムズ大統領は、1798年夏に、逸早くフランスから帰国したマーシャルから、タレーランがアメリカ人の怒りに驚いていること、アメリカ国内の政治的分裂に乗じていること、そして交渉を再開しようとしていることを聞き取っていた。さらに10月1日に帰国したゲリーも、タレーランがホッティンガ、ベラミー、オートヴァルの3人の行いを与り知らないと弁明していることをアダムズに伝えた。
 こうしたフランスの対米姿勢の変化を読み取ったアダムズはフランスに対する態度を和らげた。そして、1799年2月18日、誰にも諮ることなくウィリアム・ヴァンス・マレーを特使としてフランスに派遣するように上院に承認を求めた。マレー派遣案への強い反対を知ったアダムズ大統領は詳細な指示を与えたうえで3人を派遣する案を提案した。結局、アダムズの提案を受け入れた上院はマレーに加えてパトリック・ヘンリーとオリヴァー・エルズワースを特使として指名した。この特使派遣の決断は、大統領としてのアダムズの業績の中でも最も大胆な決断であったが、同時に連邦派の支持を失わせる結果をもたらした。
 アダムズ大統領と閣僚は特使に与える指示の内容について同意に至ったが、ブルボン王朝の復活が近いと考えていた閣僚は、アダムズの不在を利用して特使の出発を先延ばしにした。10月10日、黄熱病の流行で臨時に政府機能が移されていたトレントンに到着したアダムズは、エルズワースがまだフランスに出発していないのを知った。15日、アダムズは閣僚とともに指令を綿密に検討したうえで、翌日、11月1日までに出発するように特使に命じた。
 特使派遣を受けて、1800年9月30日から10月1日にかけて行われた米仏会議によって擬似戦争が終結した。この会議によりアメリカとフランスは次のような合意に至った。差し押さえた資産を元の持ち主に返却する。通商に特別な規制を課さない。フランスは貿易において最恵国待遇を与えられる。輸出入禁止品目を明確に規定する。こうした合意について上院は2ヶ月間にわたって討議し、1801年2月3日、条件付で批准した。

ジョン・アダムズ ワシントンD.C.に首都移転
新首都の命名
 アダムズが大統領に就任した当時、アメリカの首都はフィラデルフィアであった。現在のホワイト・ハウスもまだ完成しておらず、当時の大統領官邸はフィラデルフィアのロバート・モリス邸であった。
 1790年7月16日、議会は暫定首都をフィラデルフィアに移転させた後に恒久的な首都を建設する案を既に承認していた。そして、移転の完了日は1800年12月の第1月曜日までとすると定められた。また1791年9月には、恒久的な首都を「ワシントン」と命名することも決定された。その都市計画に、フリーメイスンリーを象徴するコンパスと直角定規が埋め込まれているという説があるが明確な根拠はない。
大統領官邸の建設
 大統領邸の建設が始まったのは1792年10月13日であり、ワシントンの在任中には完成しなかった。完成には8年の歳月とおよそ24万ドルの費用を要した。現在では大統領官邸はホワイト・ハウスと呼ばれているが、当時はまだそう呼ばれていなかった。ワシントンD.C.の都市計画を提案したフランスの建築家ピエール・ランファンは、大統領官邸を「大統領宮殿」と呼ぶように勧めたが、ワシントンは単に「大統領官邸」と呼ぶように定めた。
 ホワイト・ハウスと一般に呼ばれるようになったのはその白塗りの外観による。1798年に外壁ができた時に凍結防止のために石灰を含んだ水漆喰が塗布されたことが始まりである。大統領官邸が「ホワイト・ハウス」と呼ばれた初出は、1810年11月22日のボルティモア・ホイッグ紙であり、ホワイト・ハウスが公式名称として採用されたのはさらに後の1901年のことである。1812年戦争の戦火にあって修復後に白く塗ったのでホワイト・ハウスと呼ばれるようになったという説もあるが、上述の通り、その前から大統領官邸はホワイト・ハウスと呼ばれていた。
大統領の入居
 1800年11月1日、アダムズ大統領はワシントンの大統領官邸に入居した。6月3日、アダムズ夫妻はフィラデルフィアからワシントンを訪問しているが、まだ大統領官邸は工事中であった。そのため11月に入居した後も実際に使用できた部屋は僅かに6部屋に過ぎなかった。隙間風が入る大きな部屋を十分に暖めることもできず、漆喰も完全に乾いていなかった。屋内便所は無く、水も5ブロック先の広場から運んでこなければならなかった。アビゲイルは洗濯物を建築中のイースト・ルームに干していたという。このように大統領邸が未完成にも拘らず、アダムズは大統領執務室(現在のブルー・ルーム)で、ワシントンに倣い「大統領の接見会」を催している。
 1800年11月2日に大統領邸から初めてアビゲイルに送った手紙の中でアダムズは、「この邸と今後、住まうであろうすべての者達に神が大いなる恩恵を賜らんことを。願わくは永久に、実直で懸命な者以外の何人たりともこの家を占めないように」と記している。この言葉は、後にフランクリン・ローズヴェルト大統領によってステート・ダイニング・ルームのマントルピースに刻まれた。

ジョン・アダムズ 1800年の大統領選挙
 アダムズは現職大統領として、現職副大統領に敗れた唯一の大統領である。現代では選挙制度が改正されているので、そのような事態になることはない。
 ニュー・ヨーク州議会選挙の結果が判明しつつあった頃、ジェファソンはアダムズのもとを訪れ選挙の行く末について語っている。ニュー・ヨーク州の帰趨は1800年の大統領選挙の結果を占う鍵であり、それ故、ニュー・ヨーク州議会選挙で連邦派が敗北したことは、すなわち大統領選挙でアダムズ大統領が敗北する公算が高いことを意味した。また連邦派の意向に反して擬似戦争を終結させたことで、連邦派の支持はほとんど望めなかった。連邦党の中心人物であるハミルトンも「ジョン・アダムズの公的行為と性格に関する書簡」を発表してアダムズを攻撃した。さらに、アダムズに直接の責任はないものの、多くの人々が外国人・治安諸法は悪法と見なすようになっていた。
 結局、大統領選挙で、アダムズが敗れた一方で、ジェファソンとバーが同じ票数を獲得したことが判明した。連邦下院で決選投票が行われたが、なかなか結果が出なかった。そのため連邦上院議長に大統領の職務を代行させる案が浮上した。ジェファソンはその案に対してアダムズに拒否権を行使するように求めた。しかし、アダムズは、「選挙の成り行きはあなたの手の内にあります。世間の信頼に応えられるように公正であるように努め、海軍を維持し、職務を遂行している者を妨げることがないとあなたは言うことができるだけですが、そうすれば政府はもうすぐ自分の手に帰すことになるでしょう。我々はそれが国民の願いであることを知っていますし、なるようになるでしょう」と答え、事態に介入することを断った。

ジョン・アダムズ 真夜中の任命
 アダムズ大統領の任期終了が間近に迫った1801年2月13日、1801年裁判所法に署名した。同法は、最高裁判事の数を6人から5人に減らした一方で、16の巡回裁判所を設置することを規定している。その結果、新たに多くの公職が任命されることになった。アダムズは大統領としての最後の夜の3月3日に、連邦派の影響力を残しておこうと夜を徹して判事を任命したと噂された。こうした任命は「真夜中の任命」と呼ばれた。確かに、任期末の数週間でアダムズ大統領は多くの任命を行ったが、3月3日に任命した判事は噂とは異なり僅か3名である。
 しかし、アダムズ大統領の努力も甲斐なく、1802年に1801年裁判所法は廃止され、こうした任命は無効になった。しかし一方でアダムズが最高裁長官に任命したマーシャルは、強固な連邦派として34年間もその職にとどまり、連邦最高裁による違憲立法審査権を確立した。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究