学生時代


ジョン・アダムズ 父の希望でハーヴァードに進学
ピューリタン教育と数学
 父ジョンから読み書きの基本を教わったアダムズは近所にある私塾に通うようになった。私塾では読み書きや簡単な算数を学ぶことができた。生徒たちは『ニュー・イングランド祈祷書』を暗証させられ、ピューリタンの価値観を徹底的に叩き込まれた。例えば「激しく燃え盛る地獄在り。邪悪な者が永遠に住まう処。悦楽に満ちた天国在り。善良な者が永遠に住まう処。死を迎えるその時に我が魂はそのいずれかに旅立たねばならぬ」というような文章が含まれていた。
 学校に退屈したアダムズは、本や勉強にあまり興味を示さなかった。その当時、農夫になるのであれば高い教育は必要ではなかったからである。私塾を卒業した後、アダムズはラテン語学校に通った。ラテン語学校の進度は、アダムズが既に身に付けている算数を教えるほどとても遅かった。それに業を煮やしたアダムズは、教師に頼ることなく自力で一連の課題を終えてしまった。このことはアダムズにとってその後の人生を変える体験となった。自ら進んで勉強することの喜びを知ったのである。
ハーヴァード進学に備える
 数学の面白さに目覚めた一方で、アダムズはラテン語に全く興味を持つことができなかった。そのためアダムズの学業は捗らなかった。決して豊かではない家計から学費を捻出していることを申し訳なく思ったアダムズは、ある日、学校を辞めて農場で働くことを父に申し出た。父は「おまえに大学教育を受けさせると私が心を決めていることは分かっているだろう。それになぜ逆らう必要がある?」と息子を問い詰めた。父の落胆する姿を見たくなかったアダムズは、「先生が好きになれない。先生はとても怠慢で怒りっぽいから、もうそういう先生の下で何も学びたくはない。もし、僕を受け入れてくれるようにマーシュ先生を説得してくれるなら、僕に素質がある限り、勉強に専念して準備が整ったら大学に進学するよ」と答えた。息子の思いを聞いた父は早速、マーシュを訪問し、翌朝、息子に問題は解決したと告げた。
 マーシュの下で、アダムズは見違えるほど熱心に勉強するようになった。あれだけ熱中したハンティングさえも忘れて本を耽読するようになった。マーシュは懇切で辛抱強い先生であり、アダムズの素質をいち早く見抜いた。僅か1年足らずでアダムズは入学試験に必要な知識を習得した。
 進学先は最初からハーヴァード大学以外に選択肢はなかった。父ジョン自身は高い教育を受けていなかったが、兄ジョゼフは、1710年にハーヴァードを卒業し、ニュー・ハンプシャーの教会で牧師を務めていた。父は息子が聖職者になることを希望していたので、兄ジョゼフと同様の道をたどれるように取り計らったのである。
 当初、ハーヴァード大学の入学試験にマーシュが同行する予定であったが、急病のために15歳の少年は独りで大学に向かわなければならなかった。その道すがら、アダムズは、入学試験を受けずに家に帰ることも考えたが、父と先生を落胆させまいと勇気を振り絞ってハーヴァードの門をくぐった。ラテン語に苦戦したアダムズであったが、幸い入学を認められた。

ジョン・アダムズ 順調な大学生活と聖職者になる道への疑念
 この当時から既にハーヴァード大学は創建されて100年以上を経た名門校であった。しかし、現在とは違って学生数は僅かに100名程度に過ぎなかった。大学の教科は、ラテン語、ギリシア語、論理学、修辞学、哲学、形而上学、物理学、地理学、数学、幾何学、そして神学などであった。特に好んだ教科は数学と哲学である。
 アダムズは学びの傍ら、読書クラブに入っていた。新しく出た本や詩などをお互いに音読しあうクラブである。特に悲劇を演じることにアダムズは長じていた。このクラブに所属することで、アダムズは言葉によって他人を動かす醍醐味に気付いたらしい。またディベート・クラブに参加した際も、聖職者よりも弁護士のほうが向いているのではないかと思ったという。この頃、「私はよく、何よりも特に悲劇を朗読するよう頼まれていた。で、私は演説の才能があるから、実に有能な弁護士になるに違いない、と耳もとで囁かれたり、学生たちの間で噂されたものである(曽根田憲三訳)」とアダムズは語っている。
 後にアダムズは自伝の中でこうした大学生活を、「すぐに私は、広がりつつある好奇心、本に対する愛好、そして勉強への没頭に目覚めた。それはスポーツへの私の興味を失わせ、さらに社交界のご婦人方への興味さえ失わせた」と回想している。卒業後、アダムズは聖職者への道へ進むことになっていた。しかし、アダムズの胸のうちには厳格なカルヴィニズムの「教条主義と偏狭さ」に対する疑念が生じていた。父の期待は大きかったが、そうした疑念を払拭しない限り、聖職者になったとしても「教区を受け持つことができないし、よしんば受け持つことができたとしてもすぐに去らざるを得なくなる」とアダムズは考えていた。1755年7月16日、アダムズは24人中14位で卒業を迎えた。順位は純粋に本人の学業成績だけではなく、社会的地位も勘案して付けられたのでアダムズの順位は決して悪いものとは言えない。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究