職業経験(独立戦争以後)


ジョン・アダムズ 大陸会議での活躍が認められる
第1回大陸会議

 1770年、アダムズはボストンを代表してマサチューセッツ植民地議会議員General Courtに選出された。しかし、翌年、体調不良と神経衰弱が原因でアダムズは公職を離れた。以後、16ヶ月にわたって、旅に出たり、コネティカット植民地スタッフォードの鉱泉に滞在したりして、療養生活を送った。1773年5月、植民地議会議員の中の急進派達は、アダムズを総督評議会の一員に指名したが、総督トマス・ハッチンソンは、アダムズが反動的であるという理由でその指名を拒否した。
 マサチューセッツでの抵抗運動はさらに強まり、1773年12月16日、ボストン茶会事件が起きた。その報復としてイギリスは懲罰諸法に基づいてボストン封鎖を断行した。ボストン茶会事件についてアダムズは12月17日の日記に「昨夜、下等紅茶3荷が海に投げ込まれた。これは最たる壮挙である。歴史の中で画期的な出来事だと考えざるを得ない」と記している。この頃、アダムズはボストンに住居を移していたので、身を以ってボストン封鎖を体験している。こうした懲罰諸法は第1回大陸会議開催の主な契機となった。
 1774年9月5日、アダムズはマサチューセッツ植民地の5人の代表の一人として第1回大陸会議に出席した。日記には「新たな、素晴らしい場面が私の前に開かれた。大陸会議である」と記されている。その一方で「私は独り悩み、考え、憂鬱になり、沈思黙考した。私の目の前にある目標は大きすぎて理解が及ばない。時代にうってつけの人物がいないのか」とアダムズは不安も吐露している。なお会議開催の3日前にアダムズは初めてジョージ・ワシントンに会っている。大陸会議でアダムズに割り当てられた役割は、「権利と抗議の宣言」を起草する委員であった。「権利と抗議の宣言」の草稿はアダムズの手による。「権利と抗議の宣言」の中でアダムズは、イギリス議会による北アメリカ植民地に課税や懲罰諸法が「違法であり無効である」ことを訴えている。
 当初、アダムズは第1回大陸会議に期待を寄せていたが、大陸会議は懲罰諸法の廃止を求めてイギリス製品に対して不買運動を行なうことを決定した他は特に際立った政策を打ち出さなかった。そうした方針はアダムズにとって満足のいくものではなかった。
この頃のアダムズの考えは「ノヴァングラス」によく表れている。1775年1月から4月にかけてボストン・ガゼット紙に掲載された「ノヴァングラス」は、イギリス議会を支持するマサチューセッツ人への返答という形で書かれた。
 アダムズは、新大陸という自然状態の環境に建設された北アメリカ植民地は独自に運命を決定する権利を持ち、「この地域の愛国者達は新しいものを何も望んでおらず、ただ古い特権を守ろうとしているだけである」と主張した。さらに、イギリス外務省の腐敗を非難しただけではなく、イギリスの国制について体系的に論じ、アメリカが一方的にイギリス議会の支配下に置かれることは不当であることを歴史的に論証した。
第2回大陸会議
 翌1775年に開催された第2回大陸会議に再びアダムズはマサチューセッツ植民地代表の1人として参加した。この会議の意義を「これだけ多くの偉大な目標を持った会議は今までになかった。諸地方や諸国、諸帝国など我々の前では小さなものに思えた」とアダムズは語っている。
 会議は、4月19日にレキシントン=コンコードの戦いが起こっていたために、前年よりも緊迫した雰囲気に包まれていた。アダムズはボストン周辺に展開するニュー・イングランド各邦の民兵隊約1万6000名を大陸会議の統率と管理の下に置くことを強く主張した。さらに6月15日、ジョン・アダムズは、「将校としての技能と経験、自活するのに十分な資産、偉大な才能、そして素晴らしく諸事に通じた性質を持つ紳士は、この国のどんな人物よりも、全アメリカの称賛を恣にし、全植民地の尽力を一つにまとめあげる」と演説し、ワシントンの大陸軍総司令官選出の立役者になった。6月17日にアビゲイルに宛てた手紙の中で、アダムズは「会議は、慎み深く高徳、親しみやすく思いやりがあり、勇敢なジョージ・ワシントン氏をアメリカ軍の将軍に選出した。ワシントンは、ボストンの前に布陣する陣営を迅速に立て直すだろう。この任命は、国の連帯を固め保つのに大きな効果をもたらすだろう」と語っている。
 しかし、事態ここに至っても、依然としてイギリスとの和解を希望するジョン・ディキンソン達の主張は衰えなかった。7月8日、彼らはオリーヴ・ブランチ請願を決議した。請願はイギリス国王に送られたが、完全に拒絶された。アダムズはこうした請願は全くの無駄であると考え、ディキンソンに反感を抱いていた。
 この頃、アダムズはリウマチと悪疾の風邪に悩まされながらも毎日12時間から14時間も働き続けた。午前7時から10時は委員会に出席した後、今度は総会に午後遅くまで出席し、また午後6時から10時まで委員会に取って返すという働き振りであった。渡欧のために大陸会議を離れるまでにアダムズは90以上の委員会に携わり、25の委員会で委員長を務めた。「大陸会議は嬉々として、私の能力以上に仕事を与えている」と語っているように、アダムズは他の誰よりも多くの委員会に参加し、大陸会議のメンバーの中で重要な役割を果たすようになった。
 非常に早い時期からアダムズはイギリスからの独立を考えていた。それだけではなく、フランスおよびスペインとの同盟、憲法を起草し全植民地に責任を負う政府を樹立すること、海軍の創立を構想していた。特に海軍の創立については、10月30日に委員の1人として任命された海軍委員会で、大陸海軍規定を起草している。アダムズは12月初旬に休暇を取ってマサチューセッツに戻った。大陸会議に戻ったのは翌1776年2月9日である。
 アダムズが大陸会議に戻った頃、トマス・ペインによる『コモン・センス』が世を賑わしていた。『コモン・センス』ほどはっきりと本国イギリスとの決別を宣言した書物はこれまでになかった。アダムズは『コモン・センス』の影響力は認めたものの、独立後にどのような国家を建設するかという視点を欠いていると批評している。
 『コモン・センス』に対抗して、1776年1月、アダムズは「政府論」を発表した。トマス・ペインは『コモン・センス』の中で直接民主制と一院制を示唆しているが、アダムズはそうした政治形態を危険なものと見なし、『コモン・センス』に対抗する形で「政府論」を発表することにしたのである。
 「政府論」は、政府は万人の幸福を実現するために存在するという理念の下、どのような政体がその目的を実現し得るのかという問題を追究している。アダムズは「人間は危険な生物」であるので、「人間ではなく法の支配」に基づく共和政体こそ最も優れた政体であると主張した。さらにアダムズは「その政府が一院制であれば、国民は長らく自由でいることはできないし、ずっと幸福でいることもできない」と一院制に対して反対を唱えている。「政府論」は古から当代に至るまで様々な政府を論じた事例集であり、多くの政治家が邦憲法案や後の合衆国憲法案を構想する際に参考にした。
 米英関係は悪化の一途をたどり、1776年5月10日、大陸会議は諸邦に「構成員とアメリカの幸福と安全のために最善を尽くす政府を採択する」ように通告を出すことを決議した。さらに5月15日にアダムズの手によって、あらゆるイギリスの権力を停止する旨を闡明した前書きが付け加えられた。アダムズにとってはそれが独立そのものであった。
独立宣言の起草に協力
 1776年6月7日、ヴァージニア代表がヴァージニア革命協議会からの指示に従って独立決議を提出した際に、アダムズは賛同の意を示した。6月11日、独立宣言を準備する委員会と諸外国と締結する条約を準備する委員会が設立された。アダムズは両方の委員に選ばれ、独立宣言の起草に深く関与した。
 アダムズによると、ジェファソンはアダムズが独立宣言を起草するように提案し、委員会の議事録を手渡そうとしたという。それに対してアダムズはジェファソンが起草すべきだと言った。そして、ジェファソンがその理由を問い質すと、アダムズは4つの理由を挙げた。つまり、ジェファソンがヴァージニア人であること、南部人であること、アダムズよりも議会で受ける反感が少なくて済むこと、卓越した文才を持つことの4つである。
 アダムズは、植民地間の政治バランスを考慮してジェファソンに起草を行うように強く勧めたと考えられる。それから1日か2日経った後、ジェファソンはアダムズに草稿を渡した。そして、委員会による推敲を経て独立宣言は大陸会議に提出された。後年、アダムズは独立宣言について、「独立宣言はわざとらしい見世物のようなものだったと私はずっと思ってきた。ジェファソンはそのすべての舞台効果、つまり栄誉のすべてを持ち逃げしてしまった」と語っている。
 大陸会議で行なわれた独立宣言をめぐる激しい議論の中でアダムズは、独立宣言を擁護する主導的な役割を果たした。後にこの時の様子を回想してジェファソンはアダムズを「[独立宣言をめぐる]議論における巨人」と呼び、「独立宣言が直面した多種多様の攻撃に対抗した最も有能な提唱者にして擁護者」と称賛している。また他の代表もアダムズを「アメリカ独立における巨人」と称している。
模範条約の起草
 ジェファソンが独立宣言を起草していた一方、アダムズは模範条約を起草していた。模範条約を起草するにあたってアダムズは、イギリスの条約や通商法、1713年の英仏貿易協定などを参考にした。模範条約は9月に大陸会議によって採択され、フランスとの通商協定の基礎となった。またフランスへ旅立つ使節のための信任状もアダムズが起草した。
 独立宣言に名を連ねた者の中で、後に大統領となった者はアダムズとジェファソンの2人のみである。ジェファソンは大陸会議が独立宣言を採択するにあたってアダムズが及ぼした影響力を「アダムズ氏の演説は、思想と表現において、我々を席から動かしめるほどに力強かった」と評価している。1776年7月3日付の妻アビゲイルへの手紙の中でアダムズは、「1776年7月2日[大陸会議で独立の決議が行われた日]は、アメリカの歴史の中で最も記憶に留められるべき画期的な日になるだろう。将来の世代がその日を偉大な記念祭として祝うだろうと私は信じるばかりである」と語っている。
戦争・軍需品局長
 1776年6月12日、大陸会議はアダムズを戦争・軍需品局長に指名した。戦争・軍需品局は、軍内人事、徴募、編成、戦費出納、配給など非常に多岐にわたる雑務を果たさなければならなかった。アダムズはアビゲイルに「士官達はマスチフのように次から次へとうるさくせがみ、サルが木の実を奪い合うように階位や給与を奪い合う」と不満を述べている。
 雑務の傍ら、戦争・軍需品局はしばしば大陸軍に指令を下したが、それはほとんど現場を混乱させただけであり、大局的な戦略など望むべくもなかった。アダムズは軍隊を指揮した経験が全くなく、さらに軍に長い間、大きな権限を与えることを恐れていたので指揮系統の混乱がもたらす弊害を省みなかったのであろう。さらに、イギリス軍がボストンの次にニュー・ヨークを攻撃するというワシントンの警告を戦争・軍需品局は受け入れなかった。
 ワシントンの読み通り、イギリス軍はニュー・ヨークに上陸し、ロング・アイランドの戦いでアメリカ軍を破った。ハウ兄弟は、和平会談の開催を望んだ。そこで9月11日、大陸会議は、ベンジャミン・フランクリン、エドワード・ラトレッジ、そしてアダムズの3人をリチャード・ハウ提督が待つスタテン・アイランドに派遣した。
 代表団はハウ提督に独立の承認を求めたが、ハウ提督は、もし過ちがあるならば国王と内閣は過ちを正すように努めるだろうと示唆するだけであった。ハウには降伏と休戦を受諾する権限しかなかったからである。結局、会談は何も実を結ばなかった。
最後の事件
 1777年10月下旬に大陸会議を去ったアダムズは自身の経済状態を改善しようと弁護士業を一時期再開していた。しかし、渡欧を命じられたために弁護士業は断念せざるを得なくなり、ルーザンナLusanna号事件が最後に取り扱った事件となった。この事件は、マサチューセッツ邦のルーザンナ号が、敵と交易を行ったという理由でニュー・ハンプシャー邦の私掠船に拿捕された事件である。アダムズは、大陸会議の決議の下、ルーザンナ号の船主の弁護を務めたが敗訴した。アダムズは敗訴したものの、この事件は邦と大陸会議の関係を考え直す契機を与えた。

ジョン・アダムズ 長期にわたる滞欧生活
1度目の渡欧
 1777年11月28日、大陸会議はサイラス・ディーンの後任としてアダムズを駐仏アメリカ公使に任命した。それは、アダムズの活躍を目の当たりにしていた大陸会議が、既に始まっていた英仏同盟締結交渉を促進させるにあたってアダムズこそ最適の人物だと判断したからである。とはいえ、アダムズは、当時、外交官にとって必須であったフランス語を話すことはできなかったし、外交官の経験はなかった。フランス語を習得するためにアダムズは、大西洋を横断する船中でモリエールの英仏対訳『招待主』を読み、パリに着いてからは台本を片手に観劇したという。また外交官の経験に関しては、アダムズと同じく、議会の誰もが全く経験を持っていなかった。
 翌1778年2月、アダムズは長男ジョン・クインシーを伴い、フランスに向けて母国を発った。途中、落雷で乗船が損傷したり、イギリス商船と交戦したりしたものの、航海は概ね順調であった。アダムズがフランスに到着した時、英仏同盟は既に成立していたので、締結交渉を促進するというアダムズの使命は失われていた。6週間の船旅を経て4月8日、アダムズ親子はパリに到着した。
ルイ16世とマリー・アントワネットに謁見
1778年5月8日、アダムズは既にフランスに着任していたベンジャミン・フランクリンやアーサー・リーArthur Lee達とともにルイ16世と王妃マリー・アントワネットに謁見した。フランス国王の印象をアダムズは「善良で純心」な容貌をしていると述べている。
 ルイ16世やマリー・アントワネットの他にアダムズは劇場で偶然、ヴォルテールを目撃している。その時の印象をアダムズは「彼は非常に年をとっていて、死者のように青ざめ、深い皺が刻まれた顔をしていたけれども」、その瞳は「活き活きと輝いていた」と記している。
 ヨーロッパを初めて訪れたアダムズは他の多くのアメリカ人がそうであったように、西欧の文化と芸術の素晴らしさに感動した。例えば1778年4月12日に妻アビゲイルに送った手紙の中で「フランスの満足のいく点は無数にあります。礼儀、優美さ、柔軟性、繊細さは際立っている。つまり、私は厳格で横柄な共和主義者ですが、人を喜ばせようとして素直に励むフランスの人々を愛さざるを得ません。この国、特にパリとヴェルサイユの様子を書き記そうとするのは馬鹿馬鹿しいくらいです。パリとヴェルサイユは公共の建物や庭園、絵画、彫像、建築、音楽で満ち溢れています。贅美にして壮大、そして華麗なることは筆舌に尽くし難い」と賞賛している。しかし、手放しでヨーロッパを賛美したのではなく、贅沢品の生産や社会の腐敗はアメリカを自由で徳の高い共和国として長く存続させる妨げになると考えていた。
一時帰国
 1779年1月、ラファイエット侯爵がボストンからフランスに到着し、フランクリン1人を代表とするという大陸会議の意向を伝えた。アダムズが「私の2人の同僚は何においても同意することはない」と記しているように、フランスに派遣されていた3人はお互いに協同歩調をうまく取れなかったからである。「ここには私の信頼に足る人物がいない」とさえアダムズは述べている。これまで度々、一緒に仕事をする機会があったフランクリンをアダムズはかねてより尊敬していたが、この頃からフランクリンの実務能力に疑念を抱くようになった。このような経緯から、アダムズは自分がヨーロッパに滞在する必要がないと感じるようになった。会議からの正式な通知を受けてからアダムズは、長男とともにナントに向かって帰国の船出を待った。3月22日、親子は出航しようとしたが、駐米フランス公使に随伴するために6月中旬まで船出することができなかった。
マサチューセッツ邦憲法の起草
 1779年8月2日、ボストンに到着したアダムズは、その7日後、マサチューセッツ邦憲法制定会議のブレインツリー代表に選出された。この時、制定された1780年のマサチューセッツ邦憲法はアダムズの手による。アダムズは憲法草案を邦憲法制定会議に提出したものの、和平交渉について協議するために大陸議会に召還されたために、最終決議には参加することはできなかった。しかし、アダムズの憲法草案は若干の修正を除いて受け入れられた。最も大きな修正を受けた部分は信教の自由に関する条項である。アダムズは邦憲法の前文で次のように社会契約論を展開している。

「政府を組織し、運営し、維持する目的は、邦民一般の生存を保障し、邦民一般を保護し、そして、邦民一般を構成する個々人に自然権やこの世における祝福を享受できる力を、安全かつ平穏に与えることである。こうした偉大な目的が達成できない時はいつでも、人々は政府を革め、彼らの安全、幸福、そして財産のために必要な措置を取る権利を有する」

 そして、教育の普及が共和制を保持するために不可欠であると次のように述べている。

「美徳と同じく、人々の間に遍く行き渡った叡智と知識は、彼らの権利と自由を守るために必要であり、そして、それらは教育の効果と機会を邦の様々な場所に、異なる階層の人々の間に普及させるかどうかにかかっている。文芸と科学、そしてそれらを教えるすべての学校の利益を大事にすることは立法と行政の義務である」

 アダムズは邦憲法案で、二院制の立法府、強力な行政府、独立した司法府を提唱した。さらに、一定以上の財産を持つ21才以上の男性による投票で上院議員を選出する方法を提案している。財産規定はそれほど厳しい条件ではなかった。上院議員の任期は1年間であった。また下院議員は150人の選挙民を基準に各地区に議席が割り当てられた。下院議員の任期は上院議員と同じく1年間に定められた。知事も1年ごとに選出された。他の邦憲法と大きく異なる点は、知事の権限が大きい点である。三権の均衡をはかるためにアダムズは、立法に対する絶対的な拒否権を知事に認めている。それについてアダムズは、「行政府は、[中略]立法府が自由の擁護者であるのと同じく、叡智の擁護者となるべきです。[拒否権という]防衛するための武器がなければ、猟犬の前の野ウサギのように知事は倒されてしまうでしょう」と述べている。
 その他の点で特徴的な点は、「質素倹約」や「勤勉」だけではなく、「ユーモア」を市民の間に普及させることを勧めた点である。それは、日常生活を大らかに楽しんで送ることを意味している。
 マサチューセッツ邦憲法について、ロナルド・ピーターズは「公平な評価に基づけば、独立宣言、合衆国憲法、権利章典、そしてフェデラリストと並んで独立革命期の5つの重大な文書の1つとして座を占めるのに、ほぼ間違いなく値するだろう」と評価している。ちなみに「すべて人はうまれながらにして自由で平等である」という有名な言葉は、合衆国憲法にも独立宣言にも含まれておらず、アダムズが起草したマサチューセッツ邦憲法に含まれている言葉である。
再度の渡欧
 邦憲法を起草する傍ら、アダムズは大陸会議にアメリカの国益に影響を与えるヨーロッパ列強の動向を報告していた。大陸会議は、帰国して席を暖める暇も与えず、9月25日、アダムズにジョン・ジェイとともにフランスと講和条約を協議する任を与えた。翌日、大陸会議はさらに両者にスペインとの条約締結交渉の担当に指名した。最終的にはアダムズはフランスに、ジェイはスペインに派遣されることになった。さらにアダムズは、イギリスとの通商条約締結の任も委ねられた。
 1779年11月13日、アダムズは長男ジョン・クインシーと次男チャールズを伴いフランスに向けて出発した。海上の旅は嵐による船の浸水のために遅れ、船はスペイン北西部のフェロルに到着した。アダムズ親子はそこからピレネー山脈を越えて、1780年2月5日、ようやくパリに到着した。
 パリでのアダムズの境地は不遇であった。講和通商条約締結交渉が開始されるまでアダムズは待機しなければならなかったが、ともに交渉にあたるはずのフランス外相と折り合いが悪かった。フランス外相は、フランス人が所有するアメリカの負債を下落前の価値で返済するように求めたが、アダムズがそれを断ったことが契機である。アダムズはアメリカとフランスは対等の同盟国であり、相互に利益がなければならないと主張した。そうしたアダムズの姿勢はフランス外相の怒りをかうことになった。さらにフランクリンは大陸会議にアダムズを罷免するように要請した。大陸会議はフランクリンの要請を受け入れなかったものの、妥協案として新たに使節を任命した。
 こうした状況に失望したアダムズは、7月27日、イギリスとの関係が悪化していたオランダから借款を得るためにパリからオランダに向けて出発した。大陸会議からオランダ全権公使の辞令を受け取るまでアダムズは公的な立場ではなく私的な立場で交渉を行なったことになる。
 1781年、アダムズは「国王夫妻に捧げる覚書」を発表し、オランダ人の独立闘争とアメリカ人の独立革命をあわせて論じ、アメリカと早期に緊密な通商関係を結ぶことがオランダの利益となることを説いた。アダムズはペンの力でオランダの「長く眠っていた勇気と自由を愛する心を叩き起こす」ことで、外交を有利に運ぼうと考えたのである。
 アダムズの地道な努力は、1782年になってようやく報いられ始めた。2月、オランダ連邦の1州が初めてアメリカを承認した。またこの頃、アダムズはハーグにある一軒の家を購入したが、それはヨーロッパにおいてアメリカが所有する最初の在外公館となった。そして、10月7日、オランダはアメリカとの通商友好条約に調印した。また約140万ドルの借款も取り付けることができた。
イギリスとの和平交渉
 オランダで交渉を進める傍ら、1781年7月、アダムズはフランス外相の召還でパリに戻り、講和条約の提案を受けた。それはロシアとオーストリアの仲介によるもので、独立の承認を認めていないだけではなく、フランスとの同盟破棄を要求するものであった。アダムズは、まず独立の承認を取り付けるべきだと考えていたので、それは絶対に受け入れることができない条件であった。翌月、オランダに帰ったアダムズは、新たに和平交渉の辞令を受け取った。その一方で、イギリスとの通商条約交渉の任は解かれた。8月から10月にわたってアダムズは高熱に悩まされ、昏睡が5日間も続き重篤に陥った。
 病床から起き上がったアダムズはオランダを離れ1782年10月26日にパリに到着した。パリでは、フランクリンとジェイによりイギリスとの和平交渉が行われていた。和平交渉に参加したアダムズは、それを「朝も昼も夜も絶え間なく続くつかみ合い」のようだと評した。フランクリンが実務的ではなかったために和平交渉は主にアダムズとジェイの双肩に委ねられていた。2人は、フランスがアメリカの利益を犠牲にして和平交渉を進めようとしているのではないかと疑念を抱いていたので、フランスにほとんど諮ることなく和平交渉を進めた。
 1782年11月30日、イギリスとの和平交渉がまとまり、翌1783年1月20日、講和予備条約締結にこぎつけた。最終的には、9月3日のパリ条約の調印により正式にアメリカ独立戦争が終結した。その結果、イギリスは、アメリカの独立とミシシッピを西部境界線とすること、そしてニューファンドランドでの漁業権を認めた。特にアダムズが強く主張した点はニューファンドランドでの漁業権である。他にもアダムズは、北東部の国境問題、王党派への賠償問題に関する条項を準備した。さらに諸邦が正当な負債の返還のために法廷審理を行なうことを大陸会議に勧告している。
 もちろんこれで仕事が終わったわけではなかった。諸外国との外交関係樹立という急務が残されていたし、また連合会議(大陸会議の後継機関)が外交に不慣れなためにそれに多大な時間を要することが予測された。しかし、アダムズは、職を辞して帰国しようと考えていた。フランスにほとんど相談することなく締結交渉を進めたことが主な理由である。連合会議はフランスと相談して講和予備条約をまとめるように指示していたので、フランクリンとアダムズの行動は明確に会議の指示に反していた。さらにアメリカが王党派の財産を保護することを認め、対英債務の支払いを約したことは激しい非難をかうことが予想された。
 しかし、連合会議は引き続いてアダムズに、フランクリンとジェイとともに、通商条約の締結交渉をイギリスと行うように指示した。さらに、フランクリンとジェファソンと協力して、イギリスだけではなくヨーロッパ諸国とも同様に通商条約を結ぶように指示している。続く2年間にオランダからの新たな借款の取り付けやヨーロッパ諸国との通商条約締結に尽力したアダムズは、「交渉におけるワシントン」と呼ばれた。
家族を呼び寄せる
 この頃、アダムズは妻と娘ナビィをヨーロッパに呼び寄せることを決意した。最終的にアビゲイルがヨーロッパに着いたのは翌1784年7月である。アビゲイルの到着を知らされたアダムズは早速返事をしたためている。

「23日の君の手紙を読んで私は地上で最も幸せな男になりました。昨日より20歳も若返ったようだ。非常に残念だが私は君にロンドンに会いに行くことはできない。行くと決められない理由がいろいろある。この手紙で、さしあたり迎えに息子[ジョン・クインシー・アダムズ]を送り出すことを伝えよう。息子はその年の割には優れた旅人であるし、前途が約束された雄々しい若者だと思う」 

 幸いなことに事情が変わったのでアダムズは自ら迎えに行くことができた。1784年8月7日、アダムズは妻と娘におよそ5年ぶりの再会を果たした。
初代駐英アメリカ公使と『擁護論』の執筆
1785年2月24日、連合会議はアダムズを初代の駐英アメリカ公使に任命した。その辞令を4月下旬に受け取ったアダムズは5月25日にロンドンに着任した。6月1日、アダムズは信任状をジョージ3世に奉呈した。3年間に及ぶ駐英アメリカ公使の職務で、アダムズはイギリスから通商上の譲歩や北西部領地からの撤退の確約などを引き出そうとしたが、ほとんど実を結ぶことはなかった。イギリスに滞在している間にアダムズが成し遂げた業績の中で最たるものは、1786年にプロシアと通商条約を締結したことである。
 公務の傍ら、アダムズは、『擁護論』を書いている。この当時、アメリカではシェイズの反乱が起きている。連合会議は反乱に対して無力であることを露呈した。そのため強力な中央政府の必要性が広く認識されるようになった。
 こうした時代背景の下、アダムズは『擁護論』で、秩序が損なわれる原因を人間の本性の欠陥に求めている。アダムズは「抑制されずにいれば、人民は、無制限の権力を持つ王や上院と同じく不正で専制的かつ残忍で野蛮になる。1つの例外を除き、多数者は常に少数者の権利を侵害する」と述べている。アダムズによれば、独立革命以後、アメリカはヨーロッパ化したために、秩序を維持するのに有用な徳を失った。ではどうすれば秩序を保ちながら自由な政府を維持できるだろうか。失われてしまった徳の代わりに、「混合政体」をアメリカが採用すればそれが可能であるとアダムズは主張し、イギリスの政治制度は「人類が発明した中で最も素晴らしい制度である」と述べている。混合政体とは、社会の諸階層から議会の代表をそれぞれ選び出し、権力を均衡・分立させる政体である。こうした考えはアダムズ独自の発想ではなく、古代ギリシアの政体やイギリスの政体などを参考にしている。
 アダムズが『擁護論』を書いた主な目的は、混合政体を実現できる邦憲法を急進的なフランス知識人の批判から擁護することである。アダムズが擁護した邦憲法は、マサチューセッツ邦憲法、ニュー・ヨーク邦憲法、メリーランド邦憲法の3つの邦憲法である。
 混合政体による統治を安定させるためには、共同体における影響力の強さに基づく「天性の貴族」の協力が必要である。アダムズの考えでは、どのような政体であろうとも「貴族」は必ず存在すると考えていた。貴族の資格が血統、能力、財産のどれによるかはそれほど重要なことではなく、共同体において強い影響力を持つこと自体が重要なのである。こうした考えは、アダムズが貴族政治や君主政治を望んでいると反対派にしばしば誤解された。
 『擁護論』は1787年に第1巻が刊行され、合衆国憲法を正当化する理論的基盤として広く読まれた。その結果、『擁護論』はアダムズにさらなる名声をもたらした。
 アダムズ自身は当然のことながら憲法制定会議に参加していないが、憲法案が提議された後、その内容を吟味し、同じく滞欧していたために会議に参加できなかったジェファソンと意見を交わしている。アダムズは憲法案について「連邦を保持できるように十分に考えられている」と歓迎している。大統領の任期に制限が課されていない点についてジェファソンは危惧していたが、アダムズは大統領の権限を強化し、選挙の回数を減らして外国からの干渉をできるだけ排除すべきだと述べている。
借款の焦げ付きを防止
 帰国直前、アダムズはオランダに赴き、ジェファソンとともに借款の利子支払い問題を解決している。もしオランダからの借款を焦げ付かせれば新たな憲法の下に成立したアメリカの信用が著しく損なわれ、将来の資金調達が難しくなる恐れがあった。アダムズはジェファソンと協議して、後に議会が認めてから発行するという条件付で新たな公債を振り出し、銀行家の手に託した。その後、アダムズはロンドンに向かい、1788年4月28日、母国に向けて出発した。

ジョン・アダムズ 第1代副大統領
帰国
 1788年6月17日、アダムズ一行を乗せた船はボストン港に入った。アダムズは、1779年11月に旅立って以来、約9年半ぶりに故国の土を踏んだ。ジョン・ハンコック知事とボストン市民はアダムズ一行を熱烈に歓迎した。アダムズは新しく購入したクインシー(元ブレインツリー)の家に引きこもった。前々からアダムズはいろいろな場所に移動しなければならない弁護士の生活の代わりに、「牧草と草、そして玉蜀黍を見守る生活」を送ってみたいと妻に語っていた。
1789年の大統領選挙
 1789年2月4日に行われた初めての大統領選挙でアダムズは69人の選挙人のうち34人の票を得て次点になった。一方、ワシントンは69人すべての選挙人の票を獲得している。その当時の投票方式は選挙人一人につき2票を投じる方式であった。第3位のジェイの票数は9票であり、ワシントンには及ばないながらも広く支持を得たと言える。南部を代表するワシントンに対して、ニュー・イングランドを代表するアダムズが副大統領に就任することは新政府の安定には不可欠であった。
副大統領としての職務
 4月21日、ワシントンの就任に先立ってアダムズは副大統領に就任した。アダムズが副大統領として果たした役割の中で最も重要な役割は、上院で議決を行う際に票数が同数で均衡した場合に決定票を投ずる職務であった。連邦政府発足当初、上院議員は僅か22名しかいなかったので、票数が均衡することが多かった。そのためアダムズは29回も決定票を投じている。この記録は今でも破られていない。
 ワシントンはアダムズにほとんど相談を持ちかけることがなかったので、アダムズは政権運営の埒外に置かれた。政権内で冷遇されていると感じたアダムズは「我が国は賢明にも、かつて人間が考案するか、または思い付く限り、最も無用の職務を考案した」と皮肉を言っている。同時代の人々に不当に無視され、批判されていると信じ込むようなところがアダムズにはあった。アダムズは時にワシントンを辛辣に批評することもあったが、家にワシントンの肖像画を飾っていることからも分かるように、ワシントンに対して概ね敬意を抱いていた。
 ジョン・アダムズは「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を大統領に対する呼称として上院に提案した。アダムズは政府に威信を持たせるためにこうした修飾が必要だと考えていたのである。この提案は結局、下院で拒絶されただけではなく、嘲笑のもとになった。またアダムズが鬘に帯剣という正装に拘ったために、「恰幅閣下His Rotundity」という呼称を奉られた。そうした正装はヨーロッパの宮廷で外交官として活躍したアダムズにとって奇異な服装ではなかった。
 アダムズが嘲笑をかったのはそれだけではなかった。アダムズは、毎朝、賃借した邸宅から一頭立ての馬車で出勤していたが、この様子を、お仕着せを着た御者が駆る豪奢な馬車に乗って出勤していると報じる新聞もあった。後にはアダムズが世襲の王になろうとしているのではないかと疑う人々さえいた。このようにアダムズは君主制や貴族制を望んでいるのではないかとしばしば批判されている。例えばフランクリンは、「いつもは実直で、多くの場合は賢明な人物だが、時々、場合によっては何を考えているのかが全く分からないこともある」とアダムズを評している。
「ダヴィラ論」の執筆
 政治的には不遇であった一方、アダムズは、1791年、ユナイテッド・ステイツ・ガゼット紙に「ダヴィラ論」を発表している。イタリアの歴史家エンリコ・カテリーノ・ダヴィラの『フランス内戦史』の翻訳をもとに自説を展開している。
 16世紀のフランスの内戦とフランス革命を比較し、三権分立と二院制によって均衡が保たれた政府がなければフランス革命は失敗に終わるとアダムズは予測した。そもそも一院制の民主主義政体は人間の本性に反する政体であり、特殊な地理的条件に基づくか、もしくは独立戦争時のアメリカのように非常時でなければ長く存続することはできないとアダムズは主張し、フランスの革命指導者達が全権力を一院制議会に集中させることを批判した。そして、もし一院制議会がフランス国民に無制限に平等を与えれば無秩序をもたらすことになるだろうとアダムズは警告している。
 なぜならアダムズによれば、人間の本性は平等よりも「区別を求める情熱」に支配されるからである。「若者であれ老人であれ、富者であれ貧者であれ、高貴な者であれ賤しい者であれ、無知な者であれ教養ある者であれ、すべての個人は、理解され、認められ、話題の的にされ、肯定され、そして尊重されたいという欲求によって強く動かされる」とアダムズは述べている。
1792年の大統領選挙
 1792年12月5日に行なわれた大統領選挙でアダムズはワシントンの132票に続いて77票を獲得し、副大統領に再選された。しかし、50票がニュー・ヨーク州知事ジョージ・クリントンに流れたことは民主共和派の勢力が強まっていることを意味した。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究