子供


3男2女
アビゲイル・アメリア・アダムズ
 長女ナビィ(1765.7.14-1813.8.15)はブレインツリーで生まれ、家庭で教育を受けた。17才になったナヴィはブレインツリーの弁護士ロイオール・タイラーと恋仲になるが、アダムズ家はその仲を認めなかった。それにも拘らず、ナビィとタイラーは婚約した。しかし、ナビィが父の求めに従って渡欧すると2人の仲は次第に疎遠になった。タイラーの返信が途絶えたためである。
 アダムズのロンドン赴任に同行したナビィはアメリカ公使館の書記官を務めていたウィリアム・スミス と出会った。結局、ナビィはタイラーとの婚約を破棄し、1786年6月12日、ロンドンでスミスと結婚した。スミスはヴェネズエラの反乱や土地投機などに関わり、家を留守にしがちであった。アダムズ政権期にはニュー・ヨーク港の輸入品検査官として働き、その後、1813年から1815年にかけて連邦下院議員を務めた。ナビィは1813年、乳癌に侵され両親に先立って亡くなった。
ジョン・クインシー・アダムズ
 長男ジョン・クインシー(1767.7.11-1848.2.23)は後に第6代大統領になったことでよく知られている。ジョン・クインシーに関する詳細はジョン・クインシー・アダムズの項を参照せよ。アダムズはジョン・クインシーを幼い頃から絶えず薫陶していた。
スザンナ・アダムズ
 ボストンで生まれた次女スザンナ(1768.12.28-1770.2.4)は夭折している。
チャールズ・アダムズ
 次男チャールズ(1770.5.29-1800.11.30)はボストンで生まれた。1779年9月、兄ジョン・クインシーとともにロンドンの父のもとに向かった。しかし、ホームシックになって健康を害したので1781年8月、アメリカに向けて旅立った。乗った船が途中、スペインで修理しなければならなくなったので帰国まで通常よりはるかに時間がかかった。さらに音信不通になっていたので、アダムズ一家はチャールズが海で遭難したのではないかと思っていた。
 アメリカに帰国したチャールズは、弟トマスとともにハーヴァード大学に入学した。法律学を修めたものの、ほとんど弁護士として働くことはなかった。1795年8月29日、一家の反対を押し切って従姉妹のサラ・スミスと結婚した。しかし、アルコール中毒になり、仕事と家族を顧みなくなった。1800年、30才で亡くなった。死因は水腫症であるが、肝硬変であったと言われている。アダムズは「かつて愛した息子の憂鬱な死」と述べている。
トマス・ボイルストン・アダムズ
 クインシー生まれの3男トマス(1772.9.15-1832.3.13)も長兄と次兄と同じくハーヴァード大学で学んだ。1790年に同校を卒業後、1795年に法曹界に入った。さらに長兄と同じくヨーロッパの外交畑で働いた。オランダでは公使代理として、ベルリンでは長兄の下で書記官として働いた。「私にはまだ、美徳と勤勉さを堅持することで慰めを与えてくれる2人の息子がいることを神に感謝している」とアダムズは述べている。アダムズ政権期に帰国しフィラデルフィアに住んだ。
 1805年5月16日、アナ・ハロッドと結婚し、クインシーに戻って弁護士業に勤しんだ。浪費癖があり、収入以上のお金を使ってしまうこともよくあった。それでも弁護士業は順調であり、後年、マサチューセッツ州最高裁長官も務めた。しかし、兄チャールズと同じく酒に溺れがちで、最後は借金を残して亡くなった。後に甥チャールズ・フランシスは叔父トマスを「世界で最も不愉快な人物の1人」と評している。 

脈々と続く血筋
 ジョン・アダムズが自らの子孫について、「私は政治と戦争を学ばねばならないが、息子たちは、数学と哲学を学びたければ学ぶがいい。息子たちは、数学と哲学、地理学、博物学、造船学、航海学、商業、農業を学ぶ必要がある。それはかれらの息子たちに、絵画、詩歌、音楽、建築、彫刻、タペストリー、陶芸を学ぶ権利を与えるためなのだ(高橋健次訳)」と言い残したように、アダムズの子孫は多様な分野で活躍した。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究