職業経験(独立戦争以前)


ジョン・アダムズ 教師を務める傍ら法学を学ぶ
熱意と不安

 1755年8月、アダムズはブレインツリーから約60マイル(約97km)離れたウスターの町で教師として働き始めた。「大勢のおちびさん達はABCがやっとのことで言えるくらいで、教師に手を焼かせる」と困惑しながらも、熱心に生徒を指導した。そうした経験からアダムズは、「懲罰や脅かし、そして非難することよりも約束や励まし、賞賛することのほうが容易く人間の気持ちを動かしたり、左右したりする」という教訓を引き出した。アダムズは教室の様子を「この小さな国で、私はすべての偉大なる天才、すべての驚くべき行動、そして小規模だが偉大なる世界の革命を見出した。身長3フィートに過ぎないが誉れ高き将軍達とペティコートに身を包んだ深い洞察力を持った政治家達がいる」と語っている。アダムズにとって小さな教室はまさに世界の縮図であった。
 しかし、この時期から継続的に付け始めた日記には、アダムズの様々な迷いや不安が表れている。将来の希望と疑念、自らの野心と可能性、そして神と人間に関する思索などが書き連ねられている。アダムズは資産家に、できれば偉大な人物になりたいと考えるようになっていた。そして、広い世界に出て自らの才能を発揮して立身出世することを夢見ていた。「私自身の手で宝を掘ることが私の運命だ。誰も私に鶴嘴を貸したり売ったりしてはくれないのだから」とアダムズは記している。生徒の一人は、アダムズ先生がよく独りで物思いに耽ったり、何かを忙しく書いていたりする様子を記憶に留めている。
 1756年7月21日の日記にアダムズは「木曜日、金曜日、土曜日、そして日曜日の朝は日の出とともに起きて聖書を勉強し、他の曜日の朝はラテン語の著作を勉強することを決心する。午後と夜は英語の著作を読もう。精神を奮い立たせて注意力を引き付けなければならない。自分自身の中に冷静さを保ちつつ、私が読んだものと私が知るものについてよく考えよう。私よりも恵まれない人々を超えて重要な人物になれるように全身全霊で努力しよう」と記している。しかし、早くも翌日、アダムズは7時まで寝過ごし、何もせずにぼんやりと時間を過ごしてしまった。「私は本も時間も友も持っていない。それ故、私は無名で世に知られず生き、そして死んでいくことに満足しなければならない」とアダムズは嘆いている。他人からすると過度の自己卑下のように思える考え方は、自惚れが最も甚だしい悪徳だと考えていたアダムズにとって奇異な考え方ではなかった。
弁護士を目指す
 共に寄宿していた内科医から本を借りて読んでいたアダムズは、一時期、医者になることも考えた。しかし、地方法廷を見学したアダムズは法学を志す決意を固めた。ミルトンやヴァージルl、ヴォルテール、ボーリングブルックなどを熟読した。またこの頃は北米植民地の人々が自らをアメリカ人と呼び始めた時期にあたる。そうした時代の雰囲気も手伝って、アダムズの目は次第に政治と歴史に向けられるようになった。1755年10月12日の親類に宛てた手紙の中でアダムズは「私が政治家に転向したとしても驚かないでくれ。町中が政治[談義]に熱中している」と語っている。
 1756年8月21日、アダムズは弁護士になる道を進む決意を固め、ウスターの弁護士ジェームズ・パットナムの下で法学を2年間勉強する契約を交わした。日中は学校で教鞭をとり、夜に法学書を読んだ。そうした厳格な生活により体調を崩すこともあった。そのような時、アダムズは牛乳とパンと野菜を常食とした。体調が悪い時にそうした食事法を守ることは生涯にわたる習慣となった。
 パットナムとアダムズはしばしば政治や宗教について議論を交わしていた。パットナムがしばしば侮蔑的な態度をとったとアダムズは記している。その当時、弁護士は若者が自らの才能を発揮して立身出世を果たすことができる数少ない選択肢の一つであった。

ジョン・アダムズ 弁護士として成功
弁護士業と恋愛

 1758年10月、法学の勉強を終えたアダムズはブレインツリーに戻った。そしてボストンの法曹界に入る準備を始めた。11月6日、ボストンの法曹界はアダムズを迎え入れた。アダムズはブレインツリーで不動産証書や遺言状の作成などの業務に携わった。
 しかし、アダムズの目標は、「世界を驚かせるような何か新しいこと」を見つけて名声を得ることであった。法曹界に入っても不安が完全になくなったわけではなかった。名声と同じくアダムズが強く求めていたものは、不安に満ちた心を落ち着かせてくれる何かであった。それが何かはまだアダムズには分からなかった。
 弁護士として働く傍ら、「1日に少なくとも6時間」は法律や政治関連の書籍を読んで勉学に勤しむことを自らに課した。書籍による学問だけではなく、居酒屋、市場、町民会などにも足を運び、人間の様々な実情を理解しようとした。
 もちろんアダムズは弁護士業や読書に専念しているだけではなかった。この頃、友人に送った手紙の中で「法学の本を私が見ているのであれば、私の目が本に向けられていることは間違いない。しかし、想いは茶卓にさまよい、彼女の髪、瞳、姿、そして親しみやすい顔立ちに向かっている。私はベッドに横たわって夜の半ば眠れないでいる。ようやく眠りに落ちれば全く同じ魅力的な光景を何度も夢見ている」と恋愛について語っている。
 相手はハンナ・クインシーという女性であった。アダムズよりも一つ年下で、求婚者の列が耐えることが無い魅力的な女性であった。弁護士として成功し、経済的に安定するまで結婚できないと考えていたアダムズは結局、ハンナに求婚することなかった。1760年、ハンナは別の男性と結婚し、アダムズ自身もその4年後、アビゲイル・スミスと結婚した。アダムズは生涯、彼女を忘れなかったという。それから60年後の1820年、寡婦となっていたハンナは同じく伴侶を失っていた84歳のアダムズを訪ねた。表情を輝かせながら老アダムズが、「キューピッズ・グローヴ[恋人達がよく散歩していた地元の小道]を一緒に歩きませんか」と問うと、かつての恋人は「そこを歩いたのは初めてではありませんわ」と答えたという。
 1761年2月、アダムズはボストンでジェームズ・オーティスが演説するのを聴いた。オーティスは、関税を支払っていない外国製品の捜索のために個人の商店や住居に対して立ち入り調査を認める臨検令状はイギリス憲法に違反すると訴えた。アダムズはこうしたオーティスの訴えを「イギリスの恣意的な行動に対する最初の抵抗であった。そして、そこからアメリカの独立が生まれた」と評価している。
 同年5月25日、父ジョンが、マサチューセッツ東部で猛威を振るった流行性感冒に罹患して亡くなった。家屋と約40エーカーの土地を相続した。これを機にアダムズは家屋を改築してささやかながらも自分の法律事務所を開設した。同年11月にはマサチューセッツ植民地最高裁の法廷弁護士に選ばれた。これは弁護士の中でも非常に高い地位である。またアダムズはブレインツリーの公道の測量技師にも選ばれている。アダムズには測量の実務経験は無かったが、その当時、能力のある男性は何らかの公用を果たすように求められた。これがアダムズにとって最初の公職となった。さらに1764年には父と同じく徴税人に選ばれた。
飛躍の年
 「1765年は私の人生の中で最も際立った年であった」と日記に記しているように、1765年はアダムズにとって飛躍の年であった。3月、イギリス議会が印紙条例を可決した。その報せを聞いてアメリカ人の不満は頂点に達し、北米各地で反対運動が激化した。法的文書にも印紙の添付が義務付けられるために、弁護士であるアダムズ自身も大きな影響を受けることは必至であった。アダムズにとって印紙条例は「私の破滅への一歩であると同時にアメリカ人一般の破滅への一歩」であった。
 アダムズは、サミュエル・アダムズやジェームズ・オーティス達とともに同年1月に結成した「ソダリタス・クラブ」で印紙条例について議論を交わした。その成果は、8月から10月にかけて、匿名でボストン・ガゼット紙上に発表された。それはアダムズにとって最初の政治に関する著作であり、後に『教会法と封建法について』)として広く知られるようになった。
 その内容は、決して暴徒を扇動するような内容ではなかった。反対運動に伴う暴動を「平和を酷く乱す」行為として退ける一方で、「いかなる自由人も、彼自身の行動か過失によらずして財産から分かたれることはない」と述べている。アダムズが強調した点は、アメリカには、神から与えられ、先祖達の勇気と犠牲によって築き上げられた自由があるという点である。そう述べることでアダムズは、植民地であるアメリカが独自の自由を持つ根拠を明示した。そして、教会の監督制度と印紙条例の導入は、それぞれアメリカの自由を抑圧する専制的な体系に他ならないと訴えた。
 この著作によりアダムズは政治に深入りするようになる。しかし、一方で「生業の準備に三十年もの歳月が過ぎてしまった。私は貧困と闘ってこなければならなかった。嫉妬と妬みと敵の悪意に遭遇してきた。友人もなく、あったとしても私を助けてくれる者はほとんどいない。最近まで暗やみの中を手探りで進んできたのだ。今やっとのことで僅かながらの知名度を得た。だが、そんな時、この忌まわしい出来事がアメリカとイギリスと、そしてこの私の破滅を開始したのだ(曽根田憲三訳)」とアダムズは記している。
 さらにアダムズはマサチューセッツ植民地総会に出席するブレインツリー代表のために「ブレインツリー訓令書」を執筆した。10月にそれがマサチューセッツ・ガゼット・アンド・ボストン・ニューズ・レター紙上で発表されると、瞬く間に40以上の町に受け入れられた。さらにボストンの町民集会でアダムズは総督へ請願書を提出する委員の1人に選ばれた。
 「ブレインツリー訓令書」の中でアダムズは、印紙条例が、自由人は同意なく課税されないというマグナ・カルタの原則を侵害する法律であり、かつてアイルランドで使われた「代表なければ課税なし」という言葉でそれを説明している。そして、陪審員を伴わず海事裁判所tが法を執行することは誤りであり、陪審員、もしくは独自の司法制度による審理を行うべきだと説いた。
 「ブレインツリー訓令書」を執筆するだけではなく、アダムズはサミュエル・アダムズとともに「自由の息子」創立に加わっている。「自由の息子」は、印紙条例に反対する急進的な抵抗組織であった。また通信連絡委員会の創立にもサミュエル・アダムズとともに関与した。
2つの大きな勝訴
 またアダムズは印紙条例に関して1766年にキング対スチュアート事件で原告の弁護を務めた。印紙条例施行の際に、イギリス政府側に立った商人リチャード・キングが、1766年3月のある夜、自宅を襲撃された事件である。襲撃者の中にはキングから借金をしている者も含まれていた。アダムズは襲撃を個人的な復讐だと主張して勝訴した。
結局、イギリス議会は印紙条例を撤回したが、それと同時に1766年の宣言法を制定した。それは、イギリス議会の定めた法律が植民地を専権的に拘束することを意味し、アメリカの自由に対する最大の脅威だと見なされた。後にアダムズは「独立を求める戦争は、アメリカ革命の結果である。真の革命は1776年より10年から20年前に植民地の人々の心の中で起こっていた」と語っている。
 キング対スチュアート事件に続いてアダムズの知名度を高めた仕事はジョン・ハンコックの弁護である。ハンコックは密貿易王の異名をとった人物で後に大陸会議の議長を務めたことで知られている。ボストン港にワインを密輸した嫌疑でハンコックは告訴された。船の差し押さえに加えて莫大な罰金を科せられる恐れがあった。アダムズは、アメリカ人によって代表されていないイギリス議会が通商規定を定めている点と不当にも陪審員なしで裁判にかけられている点を主張して最終的に告訴を取り下げさせることに成功した。
プレストン裁判
 さらに1770年、アダムズの弁護士としての名声をより高める事件が起きた。ボストン虐殺事件である。3月5日、税関の警備をしていたイギリス兵達とボストン市民の一群が小競り合いになった。数で圧倒的に勝るボストン市民はイギリス兵達を取り囲んだ。トマス・プレストン大尉は彼らを救出しようとして発砲、5人の市民が犠牲となった。
 アダムズはイギリス兵達とプレストンの弁護するように依頼された。ボストン市民の怒りをかうことを恐れて他の誰もが弁護を引き受けることに尻込みしたが、アダムズは、誰もが公平な裁判を受ける権利があるという強い信念の下、依頼を受諾した。まずプレストンの弁護では、兵士達がプレストンの命令無く発砲したことを陪審員に納得させて見事に無罪を勝ち取った。さらに残る兵士達に関しても、兵士達が平和的な市民の一群に対して無差別に発砲したという証言に真っ向から対決した。アダムズの主張によると、市民の一群は「無法な少年、黒人、混血、アイルランド系のならず者、異国の水兵からなる雑多なやじ馬達」であって、「叫んで虐待を行い生命を脅かし、鐘を打ち鳴らし、野次を飛ばし、奇声をあげ、インディアンの叫び声を使い、あらゆる場所から来た人々が路上のあらゆるがらくたを拾って投げつけた」という。アダムズの訴えに動かされた陪審員は、2名を有罪としたものの、他6名の無罪を認めた。
 この事件で弁護を務めたことにより、アダムズは一時的に多くの顧客を失い、「我々[事件を弁護した者達]がボストンの通りに姿を現す時はいつでも、最も不名誉な形で我々の名前がけなされる」ようになった。しかし、時が経つにつれて、アダムズが示した冷静な判断は却ってアダムズに名声をもたらすようになった。後にアダムズは、この事件で弁護を務めたことを「私の人生の中で最も勇敢で、高潔で、雄々しく、公平無私な行いの一つであり、私が我が国へ尽くしてきた奉仕の中でも最善の奉仕の一つであった」と回想している。 

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究