大統領選挙戦


ジョン・アダムズ 1796年の大統領選挙
選挙動向

 1796年の大統領選挙は、実質的に初めての政党に基づく選挙だと言える。ワシントン政権下で広がりつつあった党派間の亀裂はもはや埋めることは不可能であった。ハミルトンを中心とする連邦派はアダムズを大統領に、トマス・ピンクニーを副大統領に推した。一方、ジェファソンを中心とする民主共和派はジェファソンを大統領に、アーロン・バーを副大統領に推した。この際の候補公認は書簡による意見交換や非公式の協議を経て行われた。
 連邦派はさらに中央政府を強化することを提唱し、それに対して民主協和派は権限を州に分散させることを主張していた。また外交に関して、アダムズはフランス革命を衆愚政治だと否定的にとらえていたが、ジェファソンはフランス革命を肯定的に評価していた。連邦派は親英の傾向が強く、民主共和派は親仏の傾向が強かった。このように内政においても外交においても両派は真っ向から対立していた。
 アダムズにとって最大の強みはワシントンによって後継者として認められていたことであった。しかし、連邦派の中心であったハミルトンはピンクニーを大統領にしようと秘かに画策していた。アダムズが自己中心的で勝手気ままな人物で大統領として資質に欠けるとハミルトンは判断したからである。事実、アダムズは誰かが自分の名声を貶めているのではないかと根拠無く思い込むようなこともあったし、しばしば癇癪を起こすこともあった。そこでハミルトンは連邦派に属する選挙人に、アダムズとピンクニー両方に票を投ずるように伝達した。南部で優勢であったピンクニーが北部でもアダムズと並べば、総計で最も多く票を獲得することも十分可能であるとハミルトンは予測した。
選挙結果
 大統領選挙は1796年12月7日に行われ、138人の選挙人(16州)がそれぞれ2票ずつ票を投じた。選挙の結果は接戦であった。アダムズはニュー・イングランドを中心に12州から71票を獲得し辛うじて首位になったものの、次点のジェファソンは南部を中心に68票を獲得した。ピンクニーはニュー・イングランドの票を完全に把握できず59票にとどまった。バーは南部の票を全く獲得できず、僅か30票にとどまった。また候補として名前があがっていないワシントンに2票が投じられている。
 当時、「政党」は明確に存在していなかったが、アダムズ自身は党派に拘ることはあまりなかったものの、連邦派と見なされ、ジェファソンは民主共和派と考えられていた。つまり、この大統領選挙では、異なる「政党」から大統領と副大統領が選出されるという結果となった。現在では、憲法修正第12条によって、異なる政党から大統領と副大統領が選出されることはない。 
 アダムズは屈辱には我慢できない性格であったので、もし結果が次点か、または同数で裁定が下院に持ち込まれた場合は辞職するつもりであった。ワシントンの後継者を自認するアダムズにとって僅差での勝利は自尊心を傷付ける結果であった。
就任式
 さらに就任式もアダムズの虚栄心を満足させることはなかった。就任式は1797年3月4日、フィラデルフィアにあるフェデラル・ホールの下院会議場で行われた。宣誓は最高裁長官オリヴァー・エルズワースが執り行った。これは最高裁長官が大統領宣誓を執り行った最初の例となった。
 前大統領としてワシントンは、黒いヴェルヴェット製の衣装に帯剣、髪粉を付けた鬘、駝鳥の羽飾りを付けたコックド・ハットという豪華な正装で式に臨んでいる。一方、アダムズは、就任式の主役であるにも拘らず、簡素な服装で鬘も付けず、剣も帯びていなかった。さらに護衛兵と儀仗兵は就任式の間、アダムズではなくワシントンに随従していた。就任式が終わるとほとんどの群衆はワシントンの後についていった。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究