引退後の活動


郷里に隠棲
 1801年3月4日早朝、1800年の大統領選挙で敗北したアダムズは後任者の就任式に出席することなく郷里のクインシーに向けて出発した。ジェファソンの大統領就任式に欠席した理由をアダムズは説明していない。しかし、ジェファソン政権が始まる前に、駐普アメリカ公使を務めていた息子ジョン・クインシーの任をアダムズ自ら解いていることから、就任式を欠席した理由は窺い知れる。再選を果たせなかったアダムズはおそらく自尊心をいたく傷付けられ、ジェファソンによって息子が解任されるくらいなら、自分の手で解任したほうがましだと考えたようである。就任式を欠席したのも同様の理由だと思われる。
 アダムズはいかなる時でも独立心を失わず、自ら党派人になることを拒否していた。ジェファソンはアダムズを「彼は自尊心が強く、かんしゃくもちで、人びとを支配している動機のもつ力とその効果を正しく計算できないのである。これが彼の欠点のすべてであるといっていいだろう(高橋健次訳)」と評している。
 アダムズは郷里でアビゲイルとともに農園の管理に勤しむ傍ら、読書や自伝の執筆に精を出した。白内障によって視力が衰えると、アダムズは孫や一族に本を音読させた。アダムズの知的探究心は最後まで衰えることはなかった。健康も晩年まで衰えず、毎日3マイルを歩くことを日課にしていたという。

数々の批判に応える
 1805年、女流作家マーシー・ウォレン は3巻からなる『アメリカ革命の勃興、進歩、そして終結の歴史』を上梓した。その中でウォレンは、アダムズを虚栄心が強く野心的な人物であり、ヨーロッパに滞在している間に共和主義から君主制支持に鞍替えした腐敗した人物であると酷評した。「揺りかごから今に至るまで、腐敗の例となるものがあったかどうかについて、人類全体、そして天使にも悪魔にも私は異議を申し立てたいと思います」とアダムズは自らウォレンに批判に応えている。
 さらに1814年、ジョン・テイラーの『合衆国政府の諸原理と諸政策に関する研究』に関しても32通もの手紙を送っている。テイラーが同書で「擁護論」を批判していたためである。

息子の大統領就任を見届ける
 1820年、アダムズはマサチューセッツの15人の大統領選挙人団の一員としてモンローに票を投じた。同年、マサチューセッツ州憲法制定会議にクインシーの代表として参加した。他にも郡の測量士に任命されている。
 1824年8月29日、アダムズはラファイエットの表敬訪問を受けた。独立戦争の英雄であるラファイエットは戦争後、母国フランスに帰国していたが1824年8月15日から25年9月3日にかけてアメリカ各地を再訪して国民の熱狂的な歓迎を受けた。2人はともに戦った独立戦争の日々について語り合い、旧交を温めた。しかし、アダムズは後に「私が知っていたラファイエットではない」と語っている。ラファイエットもアダムズに対して同様に感じたようである。ラファイエットはアダムズがほとんど椅子から立ち上がることも自ら食事もできない状態になっていることに気が付いた。
 ラファイエットの他にも若き日のラルフ・エマソンがジョン・アダムズを訪問している。その時の印象をエマソンは「彼[アダムズ]は、年の割にはとても明瞭に話した。長い意見をもろともせずに語り始め、息継ぎで中断しながらも、一度も言葉を間違えず揺ぎ無い調子で結論に至る」と綴っている。
 1825年3月4日、息子ジョン・クインシーが第6代大統領に就任した。当時89才になっていたアダムズは身体が衰えていたために就任式に出席はしなかったものの、息子が自分と同じく大統領になる幸運に恵まれた。同様の例はブッシュ親子のみである。しかし、アダムズは「大統領職を務めた者は、友人が大統領になったからといって祝うことはない」と息子に訓戒した。

永遠のライバルにして理解者
神の恩寵である偶然の一致
 1826年7月4日、アダムズは老衰による心疾患と肺炎により死の床に着いていた。数ヶ月前からアダムズの容態は悪化していたが、正午過ぎに「トマス・ジェファソンはまだ・・・」という言葉を最後に昏睡状態に陥った。そして、午後6時頃、死亡が確認された。
 アダムズが死の床に着いていたまさにその頃、マサチューセッツ州クインシーからはるか南に離れたヴァージニア州モンティチェロで、ジェファソンも死の床に着いていた。実は、ジェファソンはアダムズが亡くなる約5時間前に逝去していた。つまり、アダムズが「トマス・ジェファソンはまだ・・・(最後の言葉は不明瞭だが「生きている」という言葉であったと推定されている)」という最後の言葉を残したまさにその頃にジェファソンは亡くなっていたのである。
 これだけでも不思議な縁だが、さらにこの7月4日は、実は独立宣言調印50周年の記念日であった。独立宣言に署名した人々の中で、後に大統領になったのはアダムズとジェファソンの2人だけしかいない。その2人が記念すべき日に同時に亡くなったことは、アメリカの建国期が過ぎ去ったことを象徴する出来事であった。息子ジョン・クインシーは父とジェファソンが7月4日に亡くなったことを知って、そうした偶然の一致は、「神の恩寵の明確な印である」と記している。
両者の比較
 アダムズとジェファソンは外見、育ち、気性に至るまで対照的であった。まず外見に関して、アダムズが丸い体形であったのに対してジェファソンは細長い体形であった。アダムズがほとんど禿げ上がっていたのに対して、ジェファソンは豊かな髪を持っていた。博識という点では似ていたが、アダムズが政治学に強いのに対して、ジェファソンは科学に強かった。農夫の子として慎ましい家庭に生ま、奴隷を所有しなかったアダムズに対して、ジェファソンは富裕な大農園の子として生まれ、数多くの奴隷に囲まれて暮らしていた。いわゆる生まれながらの土地貴族であった。気性については2人の日記の書き方にその違いがよく表れている。アダムズは日記に自分の気持ちをありのままに綴ったが、ジェファソンは事実を単に記録するようなことが多かった。さらにジェファソンは他人と表立って争うことを避けていた。できるだけ苦しみが少なくなるように人間は人生を送るべきだとジェファソンは信じていたからである。一方でアダムズは、自分が正しいと思えば、どのような苦痛も衝突も意に介せず、自分の信念を主張することが大切だと考えていた。
すれ違い
 アダムズとジェファソンは現役当時、「その頃、ジェファソンはすべての政治的な問題に関して私と意見を同じくしたわけではないが、とても礼儀正しくそれを認めていた」とアダムズが述べているように、最初は仲が良かった。またジェファソンが一時的に議会を去った時も、「我々は君の精励と手腕を今、ここで必要としている」と帰還を促している。両者ともに独立宣言の起草に関わり、またヨーロッパで協力して外交活動にあたった。『擁護論』を受け取ったジェファソンは、フランスでそれを翻訳出版することをアダムズに勧めている。しかし、政治姿勢をめぐる対立が顕在化するにしたがって、その計画は立ち消えになったようである。
 アダムズとジェファソンの政治思想の違いが明確になった契機は合衆国憲法制定である。当時、両者ともにヨーロッパに在留していたので憲法制定会議には参加していない。しかし、アダムズの著作は憲法制定会議の多くの参加者に親しまれていたことは間違いない。
 アダムズとジェファソンは憲法について見解を述べた書簡を交換している。アダムズは外国の干渉を排除するためには強大な行政権力の樹立が不可欠であるとジェファソンに明かしている。ジェファソンは自らの考えをアダムズに対して明らかにしなかったが、政府の在り方に関してアダムズと異なった考えを持つことは明言している。
交流の再開
 1800年の大統領選挙でジェファソンがアダムズに勝利を収めて以来、両者の音信は途絶えていた。1811年12月25日、両者の仲を取り持とうとしたベンジャミン・ラッシュに対して、アダムズは「私としては、彼[ジェファソン]に言うことは何もないが、彼が死ぬ時に、快適な天国へ旅立つことを望んでいる。まあ、私はできるだけ彼より遅れて天国に行きたいものだが」と答え、翌年1月にジェファソンへ手紙を書き送った。
 これを契機に再び手紙の交換が始まった。ジェファソンに宛てた1813年7月15日の手紙の中でアダムズは「あなたと私は、互いを説明する前に死ぬべきではありません」と伝えている。またジェファソンもアダムズの石膏製の胸像を自分の机の傍に飾っていたという。
 アダムズとジェファソンの間で交わされた書簡は、当時の政治や社会、宗教に至るまで幅広い話題に及んでいる。アメリカの歴史の中で自分が果たした役割を互いに確認しあった作業だと言うことができる。アダムズからジェファソンへ109通、ジェファソンからアダムには49通の手紙が送られている。

175年間破られなかった最長寿記録
 アダムズの享年は90才と247日であり、この長寿記録は、2001年まで175年間破られなかった。記録を破ったのはロナルド・レーガンである。レーガンは2004年に93才と4ヶ月で亡くなった。現在では、2006年12月に93才と6ヶ月で亡くなったジェラルド・R・フォードが最長寿記録を保っている。
 アダムズはマサチューセッツ州クインシーのファースト・パリッシュ教会に葬られた。なお後に息子のジョン・クインシーも葬られたので、同教会は2組の大統領夫妻がともに眠る唯一の墓所となっている。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究