ファーストレディ


教養豊かな少女
少女時代
 妻アビゲイル(1744.11.11-1818.10.28)は、マサチューセッツ植民地ウェイマスで牧師ウィリアム・スミスの次女として生まれた。母エリザベスはブレインツリーの初期入植者の血を引いている。父方の曾祖母サラ・ボイルストンはマサチューセッツ湾植民地の中心的な家系に属していた。またサラの父トマス・ボイルストンはジョン・アダムズの母方の高祖父にあたる。つまり、アビゲイルとアダムズはともにトマス・ボイルストンの玄孫である。アビゲイルの父ウィリアムはハーヴァード大学を卒業し会衆派の牧師となり、ウェイマスの名士の1人として認められていた。
 病弱のために学校に通うことができなかったアビゲイルは読書に熱中した。スミス家は多くの書籍を蔵していた。多くの人々がスミス家に立ち寄る様子はさながら文学サロンのようであった。そうした環境の中、アビゲイルはホメロスやキケロといった古典をはじめ、政治や神学の本まで読み漁っていたという。
 その当時、アビゲイルのような女性は稀な存在であった。なぜなら、「獲得できる限りのすべての支援と利点が息子達に与えられる一方で、娘達は教養という点では完全に放置されていた」とアビゲイル自身が書いているように、その当時の女性はほとんど教育を受ける機会がなかったからである。またアビゲイルは自分の考えをためらわずにはっきり示す性格であった。当時の出来事や人々、日常生活に至るまで様々な事柄について描写したアビゲイルの書簡は、『アダムズ夫人の書簡集』として 1840年に公刊され高い評価を受けている。
◇ディアナとリュサンドロス
 アダムズがアビゲイルに初めて会ったのは1759年夏頃である。その時、アダムズは9才年下の少女に全く興味は抱かなかったようだ。しかし、3年後、友人に誘われてアダムズはスミス家によく足を運ぶようになった。17才になっていた少女は、詩や哲学、政治に関する造詣の深さでアダムズを驚かせた。アビゲイルは2人の心がまるで「同じ性質」のようだと語っている。一方で、アビゲイルは、アダムズが他人に下す評価が厳し過ぎ、それは傍から見ると傲慢に映ると忠告している。
 アビゲイルとアダムズは、「ディアナDiana[ローマ神話に登場する月の女神]」と「リュサンドロス[スパルタの政治家]」という筆名でさかんに手紙を交わした。古典や神話から名前を借りることは当時の風習であり、教養を示すためだけではなく、ピューリタン的な価値観から束縛されずに手紙を書くためでもあった。アビゲイルは後には「ポーシャ[古代ローマの徳高き女性]」という筆名も用いている。

結婚生活と長い別離
結婚
 1764年10月25日、マサチューセッツ植民地ウェイマスのスミス家で2人は結婚した。式は新婦の父スミス牧師が執り行った。新郎は28才、新婦は19才であった。2人の結婚生活は以後54年間も続いた。孫チャールズの回想によると、「アビゲイルは農園の管理や家族の財産管理に手腕を発揮し、アダムズが公的な生活の[経済的]負担によって破産することから免れさせた」という。
 アダムズにとってアビゲイルは「私の心を和らげ温める。そして私に慈愛の心を取り戻してくれる」存在であった。アビゲイルとの結婚によって、アダムズの心の中では辛辣な自己批評から円熟が芽生え始めた。
早くから独立を唱える
独立戦争が勃発するとアビゲイルは戦火を身近に感じることになった。1775年6月17日、バンカー・ヒルの戦いを遠くから目撃している。さらに1776年3月5日に「窓のがたがた鳴る音、家のみしみし震える音、そして24ポンド砲の絶え間ない咆哮」とアメリカ軍のボストン砲撃について記している。ボストンからの避難民をアビゲイルは自宅に招き入れた。物資の窮乏に耐えながら、徴発により人手が少なくなった農園の管理を続けた。この頃の様子をアビゲイルは「ボストンの住民の苦難は筆舌に尽くし難いものです」と綴っている。
 アビゲイルはアダムズに宛てた1775年11月12日付けの手紙の中で「別離しましょう。彼ら[イギリス人]は私達と同胞でいるのに値しません。彼らとの関係を絶ちましょう。これまでのように繁栄と幸福を彼らに懇願せずに、神が彼らの目論見を挫かれ、彼らのあらゆる企みを無に帰されるように願いましょう」と語っているように早い段階から独立に賛成していた。さらに1775年11月27日付けのアダムズに宛てた手紙の中では、「[イギリス]政府の支配は遂に消えていくでしょう。社会の平和や安全にそれが必要であるとしても、人々が抑圧に黙って従っているとは思えない。もし私達がイギリスから分離すればどのような法体系が編まれるのでしょうか。自由を保持できるように、私達はどのように支配されるべきなのでしょう。憲法によって管理されない政府は自由でありうるのでしょうか。誰が憲法を制定するのでしょうか。誰が憲法に力と勢いを与えるのでしょうか」と独立後の国家構想についても語っている。アビゲイルは手紙の中で、家族の音信だけではなく、政治向きの事柄についても非常に関心を示している。
別離
 アダムズは公務のために家を留守にしがちであった。アビゲイルとジョンは離れている時は毎日のように手紙を交わした。しかし、アダムズは「さらに2、3ヶ月もすれば、私は最も癪に障る皮肉屋になってしまうだろう」と語っているように、絶え間の無い別離はアダムズにとって苦痛であった。そうした苦痛にも拘らず、大陸会議はアダムズをヨーロッパに派遣することを決定した。アビゲイルは議員の1人に「アダムズに対するあなたの策略はほとんど考えられないものです。感性と優しい心をお持ちのあなたが、私のすべての幸せを奪おうと企むことがどうしてできるでしょうか」という手紙を送っている。
 当初、アビゲイルは子供達とともに夫に同行するつもりであった。しかし、イギリス軍によって船が拿捕される危険性があっただけではなく、当時、冬の荒れた大西洋を渡ろうとする者はほとんどいなかったからである。しかし、同行を強く希望した息子ジョン・クインシーがともに旅立つことになった。アダムズ親子は1778年2月にフランスに向けて出発し、1779年8月に帰国した。しかし、同年11月、アダムズは大陸会議の命によって再びフランスに向けて旅立った。今回もアビゲイルは同行せず、代わりに長男ジョン・クインシーと次男のチャールズが同行した。
 夫の不在中、アビゲイルは単に留守を預かっているだけではなかった。不動産に投資したり証券に投資したりした。さらにアダムズから送られてくる品々を売り、遂にはヨーロッパの商人に直接注文するまでになった。
再会
 1782年11月30日、アダムズはパリ条約調印の大任を果たし後、帰国を考えていた。しかし、アダムズに連合会議は新たな任務を与えたので帰国を断念せざるを得なかった。アダムズはアビゲイルを呼び寄せる決心をした。
 1784年6月18日、アダムズの求めに従ってアビゲイルは娘ナビィとともにアメリカを旅立った。初めは船酔いに苦しめられていたアビゲイルであったが、船中でただ大人しくしていたわけではなかった。料理人をしつけたり、悪臭に閉口して船首から船尾まで磨き上げたりした。船長が自分の職を取られるのではないかと思ったほどであったという。こうしてアビゲイルとナビィは7月にイギリスに到着した。
 イギリスに滞在中、12人のブレインツリーの水夫が収監されているのを知ったアビゲイルは、水夫達を助けるようにとアダムズに手紙を送っている。アダムズは自分のお金で彼らの身柄を引き受けることを申し出た。その後、彼らは捕虜交換で解放された。1784年8月7日、アダムズ夫妻はロンドンでおよそ5年ぶりの再会を果たした。
 アダムズ一家はパリ近郊のオートゥイユにある邸宅に住んだ。アビゲイルは邸宅を切り盛りするのに雇わなければならない召使の数に辟易した。アビゲイルにとってそれは厄介なことであった。アビゲイルはパリの街を不潔だとは思ったが、演劇や音楽、そしてファッションには魅了された。パリに約9ヵ月間滞在した後、アダムズ夫妻はロンドンに移り、約3年近くそこで過ごした。アダムズ夫妻は1788年6月に帰国した。

子供達の巣立ち
 帰国したアダムズ夫妻は、工事はまだ完全に終わっていなかったものの、予め購入しておいた新居に入った。結婚した当初に住んでいた家よりも広いとはいえ、ヨーロッパで邸宅に住むことに慣れていたアビゲイルにとって、新居は満足できる広さではなく、「ミソサザイの家」と呼んだ。その後、アビゲイルは家を拡張し、高級家具を輸入して設えた。アダムズ夫妻は自宅をピースフィールドと名付けた。ピースフィールドはアダムズ国立史跡として現在でも見ることができる。  アダムズが副大統領に選ばれたことを知ってアビゲイルは喜び半ばといった気持ちであった。愛着ある我が家から動きたくなかったからである。しかし、ニュー・ヨークでアビゲイルは素晴らしい家を見つけることができた。それはハドソン川沿いに建つリッチモンド・ヒルと呼ばれる邸宅であった。
 副大統領の第2期目になるとアビゲイルは病気がちであったこともあり、新たに首都になったフィラデルフィアにはほとんど住まず、ピースフィールドに篭った。この頃、アビゲイルは非常に孤独であった。長男ジョン・クインシーは三男トマスTをともなって公務でオランダに旅立ち、長女ナビィとその子供達はニュー・ヨークに居た。さらに次男チャールズもニュー・ヨークで弁護士として働いていた。

大統領夫人
女大統領閣下
 1796年の大統領選挙でアダムズは第2代大統領に選出された。「私は感情を表に出すことに慣れているので、必要に応じて、自分の周りに防御壁を築く方法や口に出す前にすべての言葉を吟味する方法、話したいのに沈黙を守る方法など分からない」と述べているように、アビゲイルは大統領夫人の役割を自分がうまく果たせるかどうか不安に思っていた。その当時の女性は、夫の背後で沈黙を守ることが美徳とされ、アビゲイルのように積極的に発言をする女性は稀であったからである。
 農園の管理やアダムズの母親の看護で忙しかったためにアビゲイルは5月までフィラデルフィアに行くことができなかった。そのためアビゲイルは夫の大統領就任式に出席していない。
 連邦派と民主共和派の対立が激化する最中、アダムズは絶え間ない批判を受けた。アビゲイルは夫を擁護するために友好的な新聞の編集者に対して何十もの手紙を送った。アビゲイルが夫に及ぼす影響はよく知られていた。そのため多くの人々がアビゲイルを「女大統領閣下Mrs. President」と皮肉を込めて呼んだ。
 アビゲイルは大統領夫人として週に2度迎接会を主催し、多い時に1日で5,60人にも及ぶ訪問客を応接した。「私の時代では、私がファッションを決める特権を持っているように思います」とアビゲイルは述べ、新しい装いを社交界にもたらした。当時の女性は冬用に薄いモスリンのドレスを着用していたが、アビゲイルは代わりにシルクのドレスを着用した。さらにドレスのウエストを高くとり、襟ぐりを深くした。
ホワイト・ハウスの女主人
 1800年11月、アビゲイルはいまだ工事中のホワイト・ハウスに移った。その時の様子を、娘に宛てた1800年11月21日付けの手紙の中で次のように記している。
 「私はここに先週の日曜日に着きました。道に迷った以外はお知らせするような出来事には遭いませんでした。ボルティモアを出発し、フレデリック郡の道を8,9マイル進みました。そうしてさらに森の合間を8マイル進んだところで、案内してくれる人も道も見つからず2時間迷いました。[中略]。家は住めるようにはなっていましたが、工事が終わっている部屋は1部屋もありません[中略]。垣根も庭もありませんし、その他諸々も全くありません。大きな未完成の客間を、洗濯物を吊るして乾かす部屋にしています」
 1800年の大統領選挙でアダムズはジェファソンに敗れ、アビゲイルの大統領夫人の役割も4年で終わりを告げることになった。引退するべき年齢に達するか、または国民の信頼を失った場合を除いて、大統領は続けて職に留まるべきだとアビゲイルは思っていた。それ故、アビゲイルは、夫が選挙に敗北し、大統領職を失うことは国家にとって大きな損失であると考えた。そして、大統領選挙にともなう激しい中傷合戦に対してアビゲイルは強い嫌悪感を抱いていた。結局、アビゲイルがホワイト・ハウスに住んだ期間は僅かに約3ヵ月であった。

政権終了後 
 クインシーに戻ったアダムズ夫妻は孫達に囲まれながら暮らした。夫妻には10人の孫がいて、そのうち5人が断続的に一緒に住んでいた。家族との暮らしに落ち着いたものの、アビゲイルの政治への関心は衰えることはなかった。連邦上院議員になっていた長男ジョン・クインシーから手紙で様々な情報を得ていたうえに、毎日欠かさずいろいろな新聞を読んでいた。1818年10月28日、アビゲイルは熱病に罹って亡くなった。享年73。2人の結婚生活は54年と3日にも及んだ。
エピソード
女性の権利を主張
 アビゲイルは、早くから女性の権利を主張したことでよく知られている。1776年3月31日にアダムズに宛てた手紙の中で、「新しい法体系を作る必要があると思いますが、女性達のことを忘れないように強く望みます。そして、昔の女性達に対してよりも、もっと優しく好意的になるようにして下さい。夫達の手に無制限の権利を委ねてはなりません。もしなろうと思えば、すべての男性は暴君になれるのだということを忘れないで下さい。もし特別な配慮と関心が女性達に払われないのであれば、私達は反乱を企てることを決意するでしょう。そして、代表権を持たず、私達の声を反映させることができない法律に縛られるつもりはありません」と述べている。
 現代でもアビゲイルは女性解放運動の先駆けと見なされている。またアビゲイルは奴隷制について「奴隷制は他者に対する思いやりとキリスト教の教義に基づいていない」という見解を示している。アダムズも奴隷制について「人間の性質の中で醜い毒」であり、「黒人奴隷制はまさに巨悪」であると述べている。アダムズ夫妻は奴隷を所有したこともなければ、他人の奴隷を賃借したこともなかった。
愛犬
 孫娘に宛てた手紙の中で、アビゲイルは愛犬について語っている。大統領夫人の役目を終え、静かな生活に戻った頃の話である。

「私を愛するのと同じく私の犬もあなたは愛していたに違いないと思うので、ジュノーがまだ生きていると分かったらきっと嬉しいでしょう。ジュノーは寡婦になり年をとって灰色になってしまったけれども。ジュノーは楽しく暮らしているようですし、思いやりをかけてもらえることに感謝しているようです。ジュノーは誰かが来るといつでも尻尾を振って訪問者が来たことを告げてくれます」

 ジュノーは雌のスパニエルである。サタンという名の雄のスパニエルも飼っていたが、ホワイト・ハウスに住んでいた時に死んでしまっている。

ジョン・アダムズ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究