停滞した経済、過熱する公民権問題、そしてソ連の脅威はアメリカの将来に対する疑念を生み出し、有権者は民主党の大統領候補であるケネディに将来の希望を託した。依然として人気の衰えていなかったアイゼンハワーは、皮肉にも共和党が主導して制定した憲法修正第22条によって出馬を禁じられた。もし憲法修正第22条が成立していなければアイゼンハワーは1960年の大統領選挙に出馬しただろう[i]

ニクソン副大統領を対立候補に迎えたケネディは変革を訴え、変革を大統領制度自体に結び付けた。ケネディは、アメリカは、何もしないこと、災害を防ぐこと、そして法案に対して拒否権を行使することで賞賛されるような大統領ではなく、全政府組織の活動の中心となるような大統領を必要としていると訴えた。そして、大統領は有権者を良い時代に向けて結集させ、有権者に危険と機会について注意を喚起し、必要となる犠牲を求める存在にならなければならない。

196010月、ギャラップ調査は大統領選挙が接戦になると予測し、正確な数を予測することを拒んだ。事実、ケネディとニクソンの全国の一般投票の差は僅かに約12万票であった。1888年の大統領選挙以来の接戦であった。ニクソンは獲得した州の数はケネディよりも多かったが、ケネディは多くの選挙人を抱える主要な州、イリノイ州、ニュー・ヨーク州、ペンシルヴェニア州、テキサス州などで勝利を収めた。特に要となったのがイリノイ州である。不正行為の申し立てが行われている中、ケネディは約8,000票差でイリノイ州を制した。報道は民主党による不正行為を調査する記事を発表したが、ニクソンは再集計を要求せず、敗北を認めた。

ケネディは国民を勇気付ける能力に恵まれていた。フランクリン・ローズヴェルトの道義的指導者としての大きな業績は、大恐慌の暗い日々と第二次世界大戦を切り抜ける勇気を国民に与えたことである。同様にケネディは第2次世界大戦後の世界の挑戦に立ち向かうように国民を勇気付けた。1960年の大統領選挙で、ケネディはニュー・フロンティアにアメリカ国民を結集させた。

 ケネディの就任演説は、ケネディの最も重要な演説であり、アメリカの挑戦を巧みな弁舌で国民の前に示した。就任演説は精神の高揚と楽観主義に彩られ、僅差で得られた勝利を補った。ケネディは就任演説で、困難な時局に直面して、国民及び友好国の士気を鼓舞し、敵対者に対して毅然たる態度で臨むことを示した。リベラル派も保守派もケネディのナショナリズムの称揚、犠牲の精神、そして使命感を拍手喝采で迎えた。以下は就任演説の中で最も記憶に残る部分である。

 「我々は今日、党派の勝利を祝っているのではなく、自由の祭典に参じているのである。それは端緒とともに終結を象徴し、改変とともに更新を意味する。我々の祖先が175年程前に定めた同じ厳粛な誓約を私が今、諸君と全能の神の前で行ったからである。世界は今や非常に違ったものとなった。神ならぬ人間が、その手にあらゆる形の人間の貧困とあらゆる形の人間の生活を廃絶させる力を握ったからである。我々の父祖が求めて戦ったのとまったく同じ革命思想、人間の諸権利は国家の寛容から得られるのではなく神の御手によるものだという思想がこの地球上の至る所で猶、問題になっている。我々があの最初の革命の後継者であることを今日、我々は敢えて忘れまい。松明は新しい世代のアメリカ人へと渡された。それはこの世紀に生を享け、戦いに鍛えられ、辛く苦しい平和に練られ、我々の古くからの遺産を誇りとする世代である。しかも、この国が常に守ることを約束してきたのであり、今日、我々がこの国においても世界中においても守ることを約束している人間の権利が徐々に崩壊していくのを目撃し許すのを潔しとしない世代へと移されたのだ。我々に好意を持つ者と反感を持つものとを問わず、すべての国民に次のことを知らしめよう。我々は自由の存続と成功のためには、いかなる代価も払い、いかなる負担にも耐え、いかなる苦難にも立ち向かい、いかなる友も支援し、いかなる敵にも対抗するであろうことを。これだけは誓う。そして、さらに多くのことを。我々と文化的、精神的な起源をともにする旧来の盟友には、忠実な友人としての忠誠を誓う。団結すれば多くの共同の企てにおいて、我々が行い得ないことは少ない。分裂すれば、我々の行い得ることは少ない。相争い、分裂しては強力な挑戦に敢えて応じ得ないからである。自由な人々の隊伍に我々が迎え入れている新興の諸国には、1つの植民地支配の形態が過ぎ去っても、それよりはるかに過酷な専制がこれに取って代わるに過ぎないということはさせないと誓う。我々は彼らが我々の見解を支持することを常に期待するものではない。しかし、我々は常に彼らが彼ら自身の自由を強く支持している姿を見ることができるように、また過去においてを愚かにも虎の背に乗って権力を求めた者が、遂には虎に食われたことを記憶するように希望する。地球の半ばにわたり、茅屋、村落に住み、集団的な貧窮の絆を断とうと苦闘している人々に対しては、彼らの自助の営為を支援するため、必要な期間、いつまでも最善の努力をすることを誓う。これを行うのは、共産主義者がそれをするかもしれないとか、我々が彼らの票を求めるとかいう理由によるのではなく、それが正しいことだからである。もし自由社会が貧しい多数を支援することができなければ、富める少数を救済することはできない。我々の国境の南にある姉妹共和国に対して、特に善言を善行に移し、新しい進歩の同盟を結んで、自由な人々と自由な政府が貧困の鎖を振り捨てるのを援助することを誓う。しかし、この平和的な希望の革命が敵対的な諸国の餌食となることはできない。我々の隣邦に、我々は彼らと結んで両アメリカのいずこにおいても、侵略と破壊工作に反対するものであることを知らしめよう。そして、この大陸は自家の主人であり続ける意図を持っていることを他のすべての国に知らしめよう。主権国家の世界的な会議体である国際連合は、戦争の用具が平和の用具を陵駕して進んでいる時代の最終、最善の希望であるが、この機関に対して我々の支持の誓いを新たにし、それが単に毒舌応酬の場になることを防ぎ、それが新興、弱小の諸国の盾となる機能を強め、その威令の及ぶ地域を拡大するようにしよう。最後に、我々の敵対者たろうとする国々に対して、我々は誓約ではなく、次の要求を提示する。科学によって解き放たれた暗黒の破壊力が、計画的にせよ、偶然にせよ、全人類を自己破滅の淵に沈める前に、双方が平和の探求を新たに始めようと。我々は弱みを見せて彼らを誘うようなことは敢えてしない。我々の武力が疑う余地なく十分である場合にのみ、それは決して使用されることがないと信じて疑わないからである。しかしまた、2つの強大な国家群が現在の進路から安堵を得ることもできない。双方とも現代兵器が高価なことから荷重の負担を担い、双方とも致死の原子が着々と拡散していくことにまさしく驚きながら、しかも双方とも人類の最終戦を押し止めるあの不安定な恐怖の均衡を変えようと競い合っているのである。この言葉をこの時、この所から味方へも敵方へもともどもに送りたい。だから我々は新たに始めようではないか、両側において礼儀は弱さの印ではなく、誠実は常に証を受けなければならないことを思いつつ、恐怖に駆られて譲ることは絶対にしないでおこう。しかし、譲ることを恐れることは絶対にしないようにしよう。双方を分裂させる問題に苦労するのではなく、双方を結合させる問題が何であるかを双方ともに探索しよう。兵力の査察と制限のための真剣で精確な提案を初めて双方で作成し、他の諸国を破壊する絶対兵器を双方ともすべての国の絶対的な規制の下に置くようにしよう。双方とも科学の脅威ではなく、その驚異を呼び出すことを求めよう。ともに天体を探検し、砂漠を征服し、疾病を根絶し、深海を開発し、学芸と通商を奨励しよう。双方とも『くびきの紐を解き、虐げられる者を放ち去らせ』というイザヤの言付けに地球の隅々にまで及んで留意するように協力しよう。そして、もし協力の橋頭堡が猜疑のジャングルを押し返し得たならば、双方が新しい努力、新しい力の均衡ではなく、新しい法の世界の創造に力を合わせようではないか。その世界では強者は公正、弱者は安全で、平和が維持されるであろう。このすべての事業は最初の100日間では完結しないであろう。いや最初の1,000日間でもこの政権の任期中にも、おそらくこの地球上における我々の生涯をかけても終わらないであろう。しかし、今から始めよう。我々の方途が究極的に成功するか失敗するかは、私の手にあるというよりも、市民諸君、諸君の手中にある。建国以来、アメリカの各世代はその国家に対する忠誠の証を見せるように要求されてきた。軍務への召集に応えたアメリカの青年の墓は地球上いたるところにある。今やラッパが我々を再び呼び集める。我々に武器が必要であるが、それは武器をとれというわけではない。また我々は戦陣を張っているが、戦えというわけでもない。そうではなく、年々の長い薄明にも似た戦いの重荷を『望みて喜び、艱難にたえ』ながら負うべしという求めなのだ。その戦いとは人間共通の敵、すなわち、暴政、貧困、疾病、そして戦争そのものに対する戦いなのである。これらの敵に対して、我々は全人類に一層実り多い生活を保障し得る、北と南、東と西とにわたる全世界の大同盟を結成し得るか。その歴史的な努力に諸君は参加してくれるか。世界の長い歴史の中で、僅かな世代のみが最大限の危険な時に自由を擁護する役割を与えられてきた。この責任に対して私は萎縮せず、むしろ歓迎する。私は、我々の誰もがその立場を他の人々や他の世代と交換できるとは思わない。我々がこうした努力にもたらす活力、信念、献身が我が国とそれに値する者を照らし出し、その炎の輝きが世界を本当に照らすことができる。そして、アメリカ人諸君、あなたの国があなたのために何ができるかを問わず、あなたがあなたの国のために何ができるかを問い給え。私の仲間である世界の市民諸君、アメリカが諸君のために何をするつもりかを問わず、我々が協同して人間の自由のために何をなし得るかを問い給え。最後にアメリカの市民であるか世界の市民であるかを問わず、我々が諸君に求めるのと同じ高い水準の能力と犠牲をここで我々に求め給え。良心に恥じないことを以って我々の唯一、確実な報いとし、歴史を以って我々の行為の究極の審判者として、我々の愛する国の指導に前進しよう。神の祝福と援助を乞い、しかし、ここ地上においては、神の御業こそ我々自身のものでなければならないと知りつつ」[ii]

ケネディの自己犠牲と国家の栄光を求める姿勢は戦後アメリカの歴史的経験と共鳴していた。カリスマを持ち、風采が良く、第2次世界大戦の英雄でもある若き大統領は、世界の問題を解決し、人類を拘束してきた古くからの障壁を打ち壊したいというアメリカ人の気持ちにぴったり合っていた。

 国民を揺り動かしたのはケネディの言葉だけではなくその活気あるイメージであった。ケネディ政権下で政治分野におけるテレビの利用は格段の進歩を示した。定期的に初めてテレビに登場した最初の大統領はアイゼンハワーであったが、テレビを大統領が国民を率いる決定要因にしたのはケネディである。ケネディはメッセージを伝達する象徴的な演出を展開し、若さ、活力、そして斬新性を印象付け、大統領制度のイメージを知性と卓越した意思の殿堂のように変えた。

 ケネディのテレビで放映される演説は広報戦略における主要な要素であった。しかし、就任演説の後、準備された演説を行うためにケネディがテレビ・カメラの前に立ったのは僅かに9回のみである。人民はすぐに形式的な演説に飽きてしまうだろうと考えたケネディは、人民に意見を伝える場として記者会見を利用した。ケネディは、規制なしで記者会見をテレビで放映することを認めた最初の大統領である。ケネディは未編集のライヴの記者とのやり取りが国民に訴えかける最高の方法であることを認識していた。アイゼンハワーの記者会見もテレビで放映されたが、それは録画されたものであり、ホワイト・ハウスの編集の手が入っていた。アイゼンハワーの報道担当官であるハガーティは、もし大統領が国家機密に関わる問題で失言すれば国家の安全保障を危機にさらすのでライヴでのテレビ放映は危険であると考えていた。しかし、1960年の大統領選挙の中でニクソンとのテレビ討論会で有利な立場を占めることができたケネディはテレビを危険な道具ではなく有効な道具だと見なしていた[iii]

 フランクリン・ローズヴェルトも記者会見を報道との友好関係を保つ場として有効に利用していた。そうすることにより彼らは自らの目的をアメリカ国民に効果的に伝えることができた。しかし、ライヴでテレビ放送される記者会見は、記者を単なる舞台の小道具という消極的な立場に据えた。ケネディの監督の下、記者会見はフランクリン・ローズヴェルトの炉辺談話のような機能を果たした。つまり、記者会見によって大統領は、議会や記者の頭越しに人民に訴えかけることができるようになった。ケネディは64回の記者会見を開き、その愛嬌のある性格と機敏なウィット、政治に関する豊富な知識により、後継者が見習うべき規範を作り上げた。ケネディが記者会見を開いた頻度はフランクリン・ローズヴェルト、トルーマン、そしてアイゼンハワーよりも少ないが、それはケネディが露出過度の危険性を認識していたからである。

  ケネディの時宜を得たテレビ出演はアメリカ人に好意的な印象を与えた。記者会見でのケネディの行動に関する支持率は91パーセントに達した。ケネディの成功の鍵は、入念な準備とカメラの前で自在に振舞う能力である。ケネディの準備には報道担当官、閣僚が関与し、記者の質問を予想し、情報を集め、大統領に要点の説明を行った。報道担当官は友好的な記者に、大統領が何か重要なことを答えると仄めかすことで特定の質問をするように促すこともあった[iv]

 ウィルソンは、もし大統領制度が著しく独立していれば、世論を喚起し、その利益を享受できると考えていた。ウィルソン自身、後にはフランクリン・ローズヴェルトも大統領と人民の関係を進歩させた。さらにケネディとテレビの登場によって、個人的大統領制度が本領を発揮した。ケネディの効果的なマス・メディアの利用は大統領職の個人化の一部である。ケネディの統治形態は、大統領の権力を増幅し、大統領の活動を政党政治、閣僚、省庁、そして議会から独立させる重要な先例を打ち立てた。

 ケネディの選挙運動は大統領選挙も含めて非常に個人的な活動であった。選挙運動は家族によって運営され、弟のロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)が重要な役割を果たした。「ケネディの選挙機関」と呼ばれるケネディ家の成功は、従来の党組織の重要性を減少させた。1960年に民主党の大統領候補指名を獲得する際に、ケネディは、ケネディの立候補に疑念を抱く政党の指導者の裏をかいた。政党の指導者を出し抜くために、ケネディは通常の党組織の枠内から逸脱して、政治的素人を使って州の予備選挙で票をとりまとめるように工作させ、党大会に自らの指名を認めさせた。ケネディの成功は大統領選挙に関する政治を変えた。それ以後、大統領選挙は大統領候補の助言者や戦略家の指示によって行われるのが主流となった。政党との連絡や調整はしばしば二の次にされた[v]

  ケネディの選挙機関は政府にも重要な足跡を残した。ケネディの選挙運動を担った多くの人々がホワイト・ハウス事務局の職員に任命され、大統領専属職員の個人化を促進した。こうした発展を強化するために、政策形成における責任がかつてない程にホワイト・ハウス事務局に集中した。かつて無名だった職員に省庁の行動を監督する責任が与えられた。例えば、マクジョージ・バンディ(McGeorge Bundy)国家安全保障担当補佐官は伝統的に国務長官が担ってきた多くの義務を遂行した。

 ケネディは大統領首席補佐官を廃して、アイゼンハワーが作り上げた指揮系統も撤廃した。ケネディはほとんどの問題に部下とともに直接関与し、しばしば各部局の人員と直接電話で話した。アイゼンハワー時代に比べて行政府は一見すると秩序がないように見えたが、ケネディは大幅な決断力を行使することができた。またそうした過程で得られた豊富な情報は記者会見を有利に展開するのに役立った[vi]

 就任してから2ヶ月後、ケネディは大統領令10925号を発し、平等雇用機会委員会を設立した。政府事業の契約者に採用に関して人種や信条の故を以って差別しないように求めた。大統領令10925号は「積極的差別是正措置」という言葉を明示した。

 ケネディは人気がある大統領であり、近代的大統領の中でも最高の大統領の1人であると神格化されているが、ケネディ政権は多くの点で失敗していた。例えばケネディ政権は、1961417日、フィデル・カストロ(Fidel Castro)が支配するキューバからの亡命者を支援して政府転覆を企んだが失敗している。1,000人近いキューバ人が中央情報局によって軍事訓練を受けた。反乱軍はピッグス湾から上陸して、内陸に向かい、反カストロの暴徒と合流しようとした。アメリカは反乱者に空軍の支援を与えようと計画していた。反カストロの暴徒は望み通りには出現しなかった。ケネディは空軍による支援を撤回した。3日後に反乱軍は壊滅し、キューバ軍に捕らえられた。カストロを放逐しようとして失敗したことは就任してから100日も経っていないケネディにとって初めての屈辱的な敗北であった。

 ピッグス湾事件はカストロを打倒する最後の計画とはならなかった。ケネディの好戦的な反共主義とカストロに対する強い敵意によってカストロの暗殺が何度も計画されたがすべて失敗に終わった。ケネディの擁護者は、暗殺計画がケネディの知らない間に行われたと主張するが、ケネディが計画に暗黙の了解を与えているという雰囲気がホワイト・ハウス内にあったことは確かである。そうした公然の計画は、大統領が外交政策上の目的を果たすために法から逸脱するという危険な信条を育む恐れがあった[vii]。ケネディ政権はピッグス湾で失敗したが、キューバを米州機構から除名することに成功し、キューバを外交的に孤立させることに成功した。

 ラテン・アメリカ諸国がキューバと同様の運命を辿らないようにするためにケネディは、19613月、ラテン・アメリカ諸国に対する経済援助計画である進歩のための同盟を発表した。第2次世界大戦後から1950年代にかけてのアメリカのラテン・アメリカ政策は、ラテン・アメリカにおける社会改革の動きに対する無理解、ラテン・アメリカ諸国からの資金援助、輸出産品の市場を安定化の要求に対する一貫して冷淡な態度、かつてのドル外交を髣髴させるような膨大な民間資本の進出、そして独裁政権に対する軍事援助などに特徴付けられていた。そうしたアメリカのラテン・アメリカ政策に対する不満がラテン・アメリカ諸国で高まっていた。そうした不満は、1958年にラテン・アメリカ諸国を訪問したニクソン副大統領がペルーとヴェネズエラで激しい反米デモに遭遇したことで表面化した。アイゼンハワー政権はそうした不満を改善しようと、米州開発銀行設立に同意し、ラテン・アメリカ諸国に対する5億ドルの援助を約束した。ケネディ政権はアイゼンハワー政権のそうした政策をさらに推進した。進歩のための同盟は19618月のプンタ・デル・エステ会議で正式に認められた。農地改革、税制改革、住宅供給、医療と教育の改善、民主主義的政府の実現などの社会改革の実行を条件に、アメリカは低金利借款を中心に10年間で総額200億ドルの支援を約束した。それは、中産階級を育成することによって、ラテン・アメリカ諸国でキューバのような革命が起こるのを阻止するという冷戦戦略の一環であった。ケネディは進歩のための同盟について以下のように演説した。

 「ラテン・アメリカ、豊かな資源に恵まれ、人々が精神的、文化的に多くのことを成し遂げてきた1つの大陸では、数百万の男女が日々の飢えと貧困で苦しんでいる。彼らは人並みの住む場所も持たず、病気からも守られていない。子供達からはより良き生活へと通じる教育や仕事が奪われている。そしてこの問題は日ごとに深刻化している。人口の増加は経済成長を上回り、低い生活水準はますます危険な状態となっている。そして、豊かさについて知り、進歩へと至る手段がやっと手の届くところに来たことを知った人々による不満が増大している。ホセ・フィゲーレスの言葉を借りれば、『これまで眠っていた人々が立ち上がり、太陽に向かって、より良き生活に向かって戦い始めているのである』。このような大問題に対処しようとする場合、我々の手段はそれ自体大胆なものでなければならず、それはあのオペレーション・パンアメリカの荘厳な一致した手段でなければならない。そこで私は、この西半球のすべての人々に対して、1つの新しい進歩のための同盟、つまりアリアンサ・パラ・プログレッソに参加すること呼びかける。それは、アメリカ大陸の人々の住宅、仕事と土地、健康と学校、つまり、テチョ、トラバホ・イ・ティエラ、サルー・イ・エスクエラについての基本的要求を満たすことを目的とする規模においても目的の崇高さにおいても比類のない巨大なる協同の努力である。[中略]。このようにして、あなた達は合衆国の人々に、より満足のいく精神的、知的生活をもたらすのに役立ち、西半球の諸国間での理解や相互の尊重に貢献することができるだろう。我々は、これらの措置を通じて、アメリカ大陸の革命を完成させ、すべての人間が彼らに相応しい水準の生活を望み、尊厳と自由の中で生涯を送ることができるような半球を建設することを提案する。この目標を達成するためには、物質的進歩に政治的自由が伴わなければならない。我々の進歩のための同盟は自由な諸政府の同盟であって、それはこの半球において存在してはならない専制政治を除去するように作用しなければならない。そこで我々としては、キューバ及びドミニカ共和国の国民に対しては格別の友情を表明し、やがて彼らが自由な人々からなる社会に復帰し、我々とともに共通の努力を行えるように希望をしたい。この政治的自由は社会的変化を伴わなければならない。なぜなら、もし土地や税制の改革を含む必要な社会的改革が自由に行われず、すべての人々にとっての機会が拡大されず、そしてアメリカ大陸の大衆が増大する繁栄の分かち合うことができなければ、我々の同盟も革命も夢も自由も失敗してしまうからである。しかし、我々は自由な人々による社会の変化を求める。それはワシントンとジェファソン、そしてボリヴァルとサン・マルティンとマルティの精神に沿ったものであって、我々が1世紀半前に追放した専制政治を人々に押し付けることを要求するような変化ではない。我々の主義は常に進歩は賛成、専制は反対、つまり、プログレッソ・シー、ティラニア・ノーであったのである。しかし、我々にとっての最大の挑戦は内部から発せられている。すなわち、精神的、文化的価値が絶え間なく拡大するという物資的前進の基盤によって強化され、それぞれの豊かで多様な伝統の中で、各国民が進歩に向かって自由に自己の道を追求することができるようなアメリカ文明の創造という課題である。我々の課題を完成するためには、この西半球のすべての国の政府が努力することはもちろんである。しかし政府の努力のみでは不十分である。究極のところ、人々が選び、人々が自分達でやらなければならないのである。そこで私はこのアメリカ大陸の男女たち、野外にいる貧しい農民、都会にいる労働者、学校にいる学生に言う。前途に横たわる課題のために心の準備をせよ、あなた達の強さを奮い起こせ、そしてそれぞれ皆、この西半球にはあなた達は我々の子供達が以前よりも豊かで自由な人生を送ることができるようにするためにすべての改善に向かってエネルギーを捧げよと。我々はもう1度このアメリカ大陸を革命的思想と努力の巨大な坩堝と化し、自由な男女の創造的なエネルギーの力を称える贈り物と化し、さらに自由と進歩が手を携えて歩んでいることを世界に示す模範へと変えようではないか。我々はもう1度、力もしくは恐怖の帝国主義によってではなく、勇気と自由によるやり方で、人間の将来のために希望を抱きつついたるところで戦っている人々導くまで、もう1度我々のアメリカ革命を目覚めさせようではないか」[viii]

 進歩のための同盟は、決して順調に進展したわけではない。援助を受ける条件として定められた税制や土地制度の改革は計画されたものの実施されず、アメリカからの援助の多くは社会開発よりも国際収支や財政赤字の補填に使用された。また民主主義的な政府の実現という点では、むしろ後退した。1962年から1963年にかけて、ラテン・アメリカ諸国において軍事クーデターによって民主主義的な政権が崩壊した。ケネディ政権はそうした軍事政権を承認せざるを得なかった。

 1961年、ケネディはウィーン首脳会談でフルシチョフとベルリン問題について話し合った。フルシチョフは、ソ連にベルリンへの立ち入りを完全に管理する権限を与える条約を東ドイツと締結するつもりだと仄めかした。アメリカはベルリン危機の再燃に備えて軍備を整えた。8月、東ベルリンの住民が西側に逃れるのを防ぐためにベルリンの壁が築かれた。ケネディは西ベルリンの自由を維持するためなら戦争をする準備があると明らかにした。ケネディは防衛費の増大を議会に認めさせ、州軍と予備役を軍務に就かせた。しかし、ベルリンの壁は完全に東ベルリンの土地の上に築かれ、西ベルリンを脅かすのではなく、東ベルリンの住民を逃さないようにしようとしていることは明らかであったので、ケネディはベルリンの壁の建設に抗議したものの阻止するための軍事行動はとらなかった。また結局、ソ連と東ドイツの間でフルシチョフが示唆したような条約は結ばれなかった。その一方で、ソ連は核実験を再開した。それに対応してケネディは核実験の再開を命じた。

 1961525日、ケネディは人類の月着陸を目指すアポロ計画を公表した。スプートニクの打ち上げでソ連の宇宙技術開発における優越、いわゆるスペース・ギャップが明らかになった。そのためケネディは大統領選挙で宇宙開発の推進を訴えていた。さらに19614月、ソ連が人類初の友人宇宙飛行に成功した。ケネディはソ連に先行できる宇宙開発の分野を模索した。その結果、月着陸が宇宙開発計画の中心に据えられた。525日、ケネディは特別教書で宇宙開発でアメリカが明確な指導的役割を果たすために宇宙開発予算として67,900万ドルの追加を求めた。ジョンソンの根回しによって議会はケネディの要請を受け入れた。ケネディ政権期にアメリカ航空宇宙局はマーキュリー計画を行い、発射による高重力の負荷、宇宙空間の無重力状態、そして大気圏再投入が宇宙飛行士に及ぼす影響を研究した。

 ソ連とのミサイル軍備の格差を埋めるという公約を果たすために核軍備を加速させたことはケネディの過ちであった。ケネディが大統領に就任した直後に行われた諜報分析によってミサイル軍備の格差は虚妄に過ぎないと判明しても、核軍備は促進された。実際はソ連のミサイル開発はアメリカに大きく遅れをとっていた。しかし、ソ連がケネディの核軍備に対して自らの核軍備を拡大し始めたため、アメリカは終わりのない軍備拡張競争を強いられることになった[ix]

 ケネディは後に不幸な結果に終わるヴェトナムへの介入を始めたことでも誤った。第2次世界大戦中、ヴェトナム(フランス領インドシナ)は日本の占領下にあった。戦後、ヴェトナム共産党は、直ちに独立を宣言したが、旧宗主国のフランスが独立を承認しなかった。それに対してヴェトナム共産党はヴェトナム全土で一斉に軍事行動を開始した。それに対抗してフランスは阮朝最後の王による政権を樹立させた。インドシナの共産化を恐れたアメリカもフランスを支援していた。しかし、1954年にディエン・ビエン・フーでフランス軍がヴェトナム共産軍に大敗し、ジュネーヴ休戦協定が結ばれた。同協定は、フランスのインドシナからの完全撤退、ヴェトナム、カンボジア、ラオスの独立、北緯17度線での南北ヴェトナムの暫定分割と2年後の南北統一選挙を規定していた。フランスが手を引いた後、南ヴェトナムにはゴ・ディン・ジエム(Ngo Dinh Diem)による政権がアメリカの支援で樹立された。そして、アメリカは北ヴェトナムのホー・チ・ミン政権が勝利することを恐れて統一選挙の実施を容認しなかった。

 アメリカは反植民地主義をその外交政策の根本としている。それはアメリカ自体が植民地から独立を果たした国だからである。ヴェトナム共産党とフランスとの戦いは、植民地と宗主国との戦いであったので、アメリカが大々的にフランスを支援するのは道義的に問題があった。反植民地主義というのはアメリカにとって重要な外交方針であった。なぜなら、反植民地主義を標榜することで、大戦後、宗主国から独立を勝ち取った諸国の支持を集めることができたからである。
 しかし、中国は大戦後の内戦の結果、完全に共産化し、アメリカは共産化が他の地域にも飛び火するのを恐れていた。いわゆるドミノ理論である。ドミノ理論とは、ある1つの国や地域が共産化すれば、その隣接地域も次々に共産勢力に飲み込まれていくという理論である。アメリカからすればフランスがそのままインドシナに留まって共産主義に対する防波堤になってくれることが望ましかった。しかし、ディエン・ビエン・フーの敗北によりフランスはその役割を果たしえないことが分かった。アメリカはフランスの肩代わりをしてドミノ理論を実行するか否かの判断を迫られた。

フランス植民政府が崩壊した時、アイゼンハワーは軍部から批判を受けた。しかし、戦場での勝利が不可能だと確信していたアイゼンハワーはヴェトナムへの介入を避ける決定を下した。ヴェトナムへの直接介入は行われなかったが、アイゼンハワー政権終わりまでに、アメリカは10億ドル以上の援助を与え、要員や軍事顧問を派遣し、ゴ・ディン・ジエム政権を全面的に後援した。ゴ・ディン・ジエム政権を強化することにより共産主義勢力拡大の防波堤にしようとアメリカは考えたのである。さらに東南アジア条約機構の設立によってアメリカは東南アジアに対する共産主義の拡大を阻止する構えを示した。一方、北ヴェトナムは統一選挙による平和的南北統一を断念し、南ヴェトナム解放戦線によるゲリラ戦を開始した。

ケネディもヴェトナムへの直接介入について疑問を感じていたがドミノ理論に基づいて、南ヴェトナムを国家として自立させアメリカの代わりに共産主義勢力に対抗させることを目的とした。ヴェトナムを共産主義から守ることはアメリカの威信を保つために必要不可欠であるという考え方をケネディはとっていた。ケネディ政権は、対ゲリラ戦を行う南ヴェトナム軍を支援するために16,000人以上の軍事助言者を送り込んだ一方で、ゴ・ディン・ジエム政権に対する軍事クーデターを扇動した。ゴ・ディン・ジエム政権は独裁的で腐敗しており、民衆の支持を失っていた。またゴ・ディン・ジエムは人口の大部分を占める仏教徒に対する弾圧を行った。治安状況の悪化や民主主義的改革の遅れなどに関して、アメリカが政権内の改革を指示したがゴ・ディン・ジエム政権はそれを受け入れず関係が悪化していた。ゴ・ディン・ジエムの死は南ヴェトナムを混乱に陥れた。ケネディの後継者であるリンドン・ジョンソンはいかなる政権であれ支援するのがアメリカの義務であるとした。ケネディは個人的には東南アジアに深入りし過ぎていると感じていたのにも拘わらず介入を拡大させた。それはケネディ政権の致命的な誤りであった[x]

 しかし、ケネディには大統領としての顕著な業績がなかったわけではなかった。ケネディは通商拡大法を通じてアメリカの経済的比較優位を維持しようと努めた。第2次世界大戦後、アメリカは戦火を免れたこともあり、世界でも有数の経済力を誇った。しかし、西欧諸国や日本が経済復興を果たすと、アメリカの国際収支は赤字に転落した。アイゼンハワー政権でも国際収支の赤字解消が図られたが、本格的に問題に取り組んだのはケネディ政権である。ヨーロッパでは欧州経済共同体の形成により、アメリカ製品がヨーロッパ市場から締め出される恐れがあった。ケネディ政権は欧州経済共同体との関税交渉を推進するために大統領権限の拡大を求めて通商拡大法の制定を議会に求めた。

 「11度目の延長措置による現在の互恵通商法の下で、大統領に付与されている交渉権も1962630日を以って失効する。激動する世界経済の中で我が国の貿易上の主導権がいまだかつてなかった挑戦を受けている半面、それが我が国にまたとない好機であるという認識から、私はこの際、従来の我が国の貿易政策を全面的に改変すべきであると信じるに至った。現在の互恵通商法が発効されて以来、僅か数年間で我が国の伝統的な貿易政策は時代に沿わないものに追い込まれた。かかる状況の全面的変化を基本的には5項目に分けることができる。第1に、ヨーロッパ共同市場の発展である。我が国の商品に対して単一の関税で保護されているその経済は近い将来我が国に匹敵する規模になると言われている。共同市場促進計画も当初の予定以上の成果をあげていることから反対論者の声も弱まり、現在では共同市場の解散はあり得ないばかりか、大西洋同盟の経済構造に根幹的変革をもたらす基盤が確立されたと言えよう。イギリス、その他が首尾よく加盟すると仮定すれば、アメリカ合衆国とヨーロッパ経済共同体という二大市場に、自由世界の全工業生産のほぼ9割が集中される日も遠くないのである。我が国と同規模の市場を有する経済との貿易という事実を認識すれば、我が国及び旧来の貿易相手国であるカナダ、日本、ラテン・アメリカ諸国などにとっても、市場規模の小さい国と個別に各品目別関税引き下げ交渉を進めても多くは望めないであろう。関税交渉にあたっては、共同市場諸国は同一歩調を取るとみられ、品目別の交渉も共同市場内調整が容易ではないことから不可能に近いと言える。第2に、我が国の国際収支赤字への内外圧がこの数年強まってきていることが挙げられる。ドルの国際的地位を高め、現状では、止まりそうにもない金流出を防ぐために、輸出増大努力が不可欠であるという新たな認識が高まっている。現在我が国が海外で果たしている防衛、援助及びその他の役割を今後も維持していくためにも、また財及び資本の自由な流出入を推し進めるうえでも、節度ある国際収支勘定の均衡を達成すべきであり、縮小することのできない海外支出のために輸出増大達成が要請される。第3に、7年間に3度という不況を経験し、その後遺症を克服できない現在、かつてない程、我が国自身の経済成長促進が緊急課題となっている。今後10年間に数百万人のアメリカ人に新たな雇用機会を創り出さなければならない点を私は特に強調する。現在失業中の同胞のみならず、大量に増加しつつある若年労働者、転職を余儀なくされている農業労働者、及び機会に肩代わりされる都市労働者の仕事を創出する重責を認識すべきである。第4に、共産主義国の海外援助及び貿易攻勢も、以前にもまして著しく増加する傾向が認められる。ソ連圏諸国は41にのぼる非共産開発途上国と貿易関係を持ち、その規模もこの数年間に3倍以上に拡大され、どの大陸にも絶えず貿易使節団を派遣して自由世界への侵入、包囲、分割を図っているのである。最後に日本及び開発途上諸国商品に対する新市場開拓の必要性がこれまで以上に高まってきている点を指摘したい。ヨーロッパ共同市場の対域外関税により、これらの諸国の輸出産業が打撃を受けることは必至である以上、原材料及び軽工業製品輸入の増大に必要な外貨を獲得するという内からの問題も介在しているのである。以上の新たなる挑戦と高金利をするため、ここで私は議会に対して、斬新かつ現代に対応できるかでき得る貿易交渉方式、1962年通商拡大法の審議を勧告する次第である。既に一般教書で述べたように本法案が制定されれば、『西側諸国の団結、冷戦の今後の方向、そして現在及び将来の我が国の発展に必ず好結果を生むものである』。[中略]。より幅広い経済的選択を人々に約束する自由市場の理念は、歴史的には自由の理念と同じく古くから知られ、それは1つの党派の特別な主張ではないのである。我が国においては、対外的には我が国の基本的な防衛上のため、また国内的には健全な経済の確立のために貿易の果たす役割の重要性を認識した二大政党員の助力があり、長年にわたり賢明なる貿易政策が超党派的に運営されてきた。現時点では、このことが以前にも増して重要な点である。1962年通商拡大法は国家的見地に立って立案されたものであり、それはいかなる党派のためでも、いかなる地域の保護のみを目指すものでもない。この精神に基づいて、私は議会に対して本法案の迅速かつ好意的な審議を要請するものである」[xi]

既に大統領は互恵通商法によって50パーセントまで関税を引き下げる権限を持っていたが、互恵通商法は時限立法であった。通商拡大法は関税引き下げを行う大統領の権限を再確認する法であった。さらに同法は、アメリカと西欧諸国が世界輸出の8割を占める品目に関して関税を撤廃する権限を大統領に与えた。そうした権限をもとにアメリカはケネディ・ラウンドに望んだ。ケネディ・ラウンドは多国間の一括関税引き下げ交渉であったが、ケネディ自身はその開始を見ることができなかった。19675月、53ヶ国がケネディ・ラウンドに調印し、工業製品に対する関税の削減に合意した。しかし、農産品の関税は未解決に終わった。またケネディ政権は、駐留米軍の経費一部負担や海外援助の増大など、アメリカの肩代わりを西欧諸国に要望した。さらにアメリカ企業による海外投資の増加も国際収支の赤字増加の一因と考えられたために、ケネディ政権は民間資本の海外流出に制限を課し、ドルと金の流出を抑制しようと試みた。

通商拡大法に加えてキューバ・ミサイル危機への対処はケネディの業績の1つである。特にキューバ・ミサイル危機の間、ケネディは困難を極めた状況をうまく切り抜けた。19621016日、中距離弾道ミサイル発射基地がキューバ中央西部に建設中との報告がケネディのもとに届いた。かねてよりそうした可能性を示唆する情報は届いていたが、確定情報は得られていなかった。

国家安全保障会議最高執行会議では、フルシチョフがどのような意図でキューバにミサイル配備を進めているのかが議論された。その場では、主に5つの推測がなされた。第1は、キューバでのミサイル配備は、フルシチョフが首脳会談や国連での話し合いの場で有利な立場を確保するための示威行為であり、その撤去を、アメリカがトルコに配備しているジュピター・ミサイル撤去の交換条件としようとしているのではないかという推測である。第2は、キューバをアメリカに攻撃させ、国際世論を反米一色にし、その間隙を縫ってベルリン問題をソ連に有利になるように仕向けようとしているのではないかという推測である。第3は、単に共産主義国であるキューバを防衛しようとしているのではないかという推測である。第4は、アメリカが無策であることを露呈させ、同盟国のアメリカに対する信頼を揺るがせようとしているのではないかという推測である。最後に第5は、ソ連がミサイル戦力格差を一気に挽回しようとしているのではないかという推測である[xii]

ケネディは、フルシチョフの意図を、主にベルリン問題との関連で考えていた。ケネディは、キューバにソ連のミサイルが配備されていたとしても、確かに危機は増大するものの、従来の潜水艦、爆撃機、大陸間弾道弾の進歩を考えると新たなる危機とは言えないと考えていた。それでも敢えてソ連がキューバにミサイルを配備しようとするのは、キューバのミサイルをベルリン問題での交渉のカードに使おうとしているのだとケネディは推測していた[xiii]。引き続いて国家安全保障会議最高執行会議はアメリカがどのように対応すべきか協議した。

こうした推測を下にアメリカが取るべき対応策が練られた。考えられる選択肢は6つあった。第1、ミサイル配備の事実を黙殺して何もしない。第2、国際連合、米州機構を通じて外交的圧力をかける。第3、カストロと秘密交渉を行い、ソ連との訣別を迫る。第4、キューバに侵攻する。第5、外科的な空爆を行う。つまり、ミサイル基地のみを除去するために通常爆撃を行う。第6、封鎖を行う。封鎖についてはそれをどう行うかで意見が3つに分かれた。まずロバート・ケネディ司法長官とダグラス・ディロン(Douglas Dillon)財務長官、そしてジョン・マコーン(John McCone)中央情報局長官は、封鎖を開始して、それをソ連に対する最後通牒として突きつけることを主張した。次にディーン・ラスク(Dean Rusk)国務長官は、封鎖をとりあえずミサイル配備を遅らせるために使うことを主張した。さらに、ロバート・マクナマラ(Robert McNamara)国防長官とアドライ・スティーヴンソン(Adlai Stevenson)国連代表、そして、セオドア・ソレンセン(Theodore Sorensen)大統領特別顧問は、封鎖を開始した後で、それを交渉の切り札に使うことを提案した[xiv]

どの選択肢を取るか決断する際に、ケネディが危惧していたのは、もしアメリカがキューバに侵攻すればソ連の報復を招き、その結果、ベルリンを失う事態に陥ることであった。西側同盟諸国にとって象徴的な重要性があるベルリンを失うことは、アメリカにとっても大きな痛手となることであった。しかし、ソ連の行動に対して手を拱いているのも国内外での政治的威信を保つためには不可能であった。

また封鎖が公表される前の1 つの論点は、アメリカの道義的なリーダーシップについてであった。アメリカが、世界で道義的なリーダーシップをとろうとするなら、キューバのような小国を奇襲攻撃することは道義に悖ることであった。アメリカは危機に対処するにおいて正当性を確保しなければならなかった。共産主義との戦いでは、軍事力のみならず道義的なリーダーシップが必要だったのである[xv]

1022日正午に、ホワイト・ハウス報道官のピエール・サリンジャー(Pierre Salinger)が、同日午後7時に大統領によって重要な演説が行われると発表し、ラジオ局やテレビ局にそのための時間を空けるように求めた。おそらく国民は、何が発表されるか分からなかったはずである。なぜならマス・メディアはこの危機について一部を除いてまったく把握しておらず、大統領の演説以前に国民が危機を知る機会はほとんどなかったからである。

  演説が行われる前に隔離封鎖の準備、自国籍船舶の保護、同盟国への通知、グアンタナモ基地強化を完了させること、議会指導者からの支持を求めること、国連に安全保障理事会開催を求めるなど一連の措置がとられた。また隔離封鎖は平時には国際法に違反することだったのでケネディ政権は米州機構の支持を獲得しようとした。さらにアメリカは非常事態に備えて12,000人の海兵隊を配備し、核武装のB-52爆撃機をスタンバイさせ、潜水艦からポラリス型ミサイルを発射する準備が整えられ、156基の大陸間弾道ミサイルがいつでも発射できるように整えられた。ケネディは次のように国民に演説した。

「過去1週間以内に、あの囚われの島で現在、一連の攻撃用ミサイル基地が準備されつつあるという事実が、紛う方ない証拠によって証明された。これらの基地の目的は、西半球に対する核攻撃能力を備えようとする以外のなにものでもない。[中略]。これらの大型で、長距離、そして不意の大量破壊が可能である、明らかに攻撃用な兵器が設置されたことによって、キューバが急激に重要な戦略基地へと変貌しつつあることは、平和と全米州の安全に対する明白な脅威となるものであり、それは1947年のリオ条約、我が国と西半球の伝統、第87議会における共同決議、国連憲章、そして私自身のソ連に対する94日、13日の公的な警告を、甚だしく、かつ故意に無視するものである。[中略]。私は西半球全体と我々自身の安全を守るために行動し、議会決議の支持として憲法により私に委託された権限の下、以下の最初の措置を即時にとることを命じている。第1に、攻撃的な増強を止めるために、攻撃的な兵器をキューバへ船荷輸送することに対する厳しい隔離封鎖を開始している。どこの国からか港からかを問わず、攻撃兵器を貨物に含むと発見された場合、キューバに向かうあらゆる種類の船は引き返すようにさせる。この隔離封鎖は。もし必要であれば、他の種類の貨物や輸送手段に拡大されるだろう。しかし、我々は今回、ソ連が1948年のベルリン封鎖で試みたように生活必需品の輸送を拒むことはしない。第2に、私は、継続してさらに綿密にキューバとその軍事的増強を偵察するように命じた。米州機構の外相会談で発表された106日の共同声明では、西半球での諸問題に関する秘密外交は拒否された。もしこうした攻撃的な軍事準備が続き、それ故、西半球に対する脅威が増すのであれば、さらなる行動が正当化されるだろう。私は軍隊に突発事に備えるように命じている。そして、軍事施設にいるキューバ国民とソ連の技術者のために、この脅威を続ける関係者全員に対する危険を認識させるだろう。第3に、西半球のどの国に対するキューバからのいかなる核ミサイル発射も、ソ連による合衆国に対する攻撃と見なし、十全の報復攻撃をソ連に加えるというのが我が国の考え方である。第4に、必要な軍事的警戒として、私はグアンタナモ基地を強化し、人員の扶養家族を非難させ、特別部隊に待機警戒するように命じた。第5に、我々は、西半球の安全保障に対する脅威を考慮し、すべての必要な行動を支持する際にリオ条約の第6条と第8条を適用するために米州機構の下で諮問組織の緊急会談を今夜、要請した。国連憲章は地域的安全保障協定を認めているので、西半球の諸国はかつて外部の軍事力に対抗することを決定した。我々の世界のその他の同盟国も警戒態勢をとっている。第6に、国連憲章の下、我々は今夜、ソ連の世界の平和に対する脅威に対して行動するために安全保障理事会の緊急会談の招集を遅滞することなく行うように要請した。我々の決議は、封鎖が解除される前に、国連の監視の下、キューバのすべての攻撃兵器の迅速な撤回と解体を求めるだろう。第7、そして最後に、私はフルシチョフ書記長に、世界平和と両国関係の安定に対する秘密で無謀な、そして挑発的な脅威を止めてなくすように呼びかける。さらに私はフルシチョフ書記長に世界支配の進行を放棄し、危険な軍拡競争を終わらせ人類の歴史を変える歴史的な努力に加わるように呼びかける。フルシチョフ書記長は、ソ連は自国の外にミサイルを駐留させる必要はないというソ連政府自身の言葉に立ち戻り、キューバからミサイルを撤退させ、現在の危機を広げ深めるいかなる行動も控え、さらに平和的かつ恒久的な解決策を追求することに参加することにより今、世界を破滅の亀裂から押し戻す機会を得ている」[xvi]

ケネディの演説は多くのアメリカ国民にとっては青天の霹靂であったに違いない。ここでは核について言及されているが、実は、この段階でミサイルに核弾頭が実装されているという直接的な証拠をアメリカ政府は掴んでいなかった[xvii]。ミサイル配備の全貌は、1988年になって初めて明らかになっている。後のソ連側の証言によると、核弾頭は既にキューバに持ち込まれており、現地の判断でミサイル発射台付近に移動させられていた[xviii]。つまり、ケネディの危機の定義は、推断に基づくものであったが、間違ってはいなかったのである。

1022日の演説全体を見通して1つ忘れてはならないのは、ミサイル撤去を求めている箇所はあるものの、キューバ危機を解決するための首脳会談開催の呼びかけはなされていないという点である。実は、演説草稿には首脳会談開催の呼びかけが含まれていた。しかし、1021日、演説草稿が検討された際に、首脳会談開催の呼びかけは削除されたのである。ケネディは、フルシチョフがキューバでの行動により、世界的に何を得ようと考えているか明らかにならない限り、首脳会談を開くべきではないと考えていたのである。それに加えて、1022日の演説の本質的な目的はあくまで、封鎖を公表することによって、「ソ連にちょっと立ち止まって考える時間を与える」ことであり、さらにソ連を理不尽な侵略者とすることでアメリカの行動の正当性を確立することにあったのである[xix]

この1022日の演説に対する反応は、共産主義諸国と自由主義諸国で大きく分かれた。フルシチョフは、「海上封鎖は海賊行為であり、堕落した帝国主義の愚行である」とアメリカの行動を糾弾した。中国は、アメリカの深刻な好戦的行為に対して大きな憤りを感じるという声明を発表し、ソ連に対する全面支持を公表した。続いて東欧の衛星国も、封鎖をアメリカのキューバへの直接介入であると不信感を表明し、中国と同じくソ連への支持を表明した。一方、自由諸国では、一部の例外を除き、概ねアメリカに支持が集まった。アメリカ国内でも、議会はケネディを全面的に支持し、反民主党的色が強い新聞でさえも支持を表明した[xx]

ケネディは封鎖がすなわち危機の解決策になるとは考えておらず、あくまで危機の始まりを告げるものだと考えていたのである。封鎖がどのような結果をもたらすのかは、ケネディ自身も全世界の人々と同じく完全に把握していたわけではなかった。しかし、最終的にアメリカの海上封鎖に対してソ連がミサイルを撤去することに同意したことで行き詰まりは解消した。その代わりにアメリカはキューバを攻撃しないことを確約した。危機が去った後、個人的にケネディはアメリカのミサイルをトルコから撤去することを約束した。危機を通じてケネディは確固たる姿勢を保ちながら自制に努め、フルシチョフが面目を失うことなくアメリカの要求を受け入られる余地を残した。

 ミサイル危機におけるケネディの勝利は、ケネディがピッグス湾以来、外交的な分野で非常に成熟したことを示している。ケネディはさらなる危機を避けるために対策を立てた。1963610日にアメリカン大学で行われた演説でケネディはソ連との緊張を緩和するために核実験禁止条約を締結する構想を発表した。「平和の戦略」という副題で知られるその演説は、国際関係における平和共存実現させるために幾つかの具体的提案を行っている。平和について、従来のパクス・アメリカーナ的なアメリカの力による制圧の論理を否定し、全世界的、長期的な展望に立つ平和観こそアメリカ国民の目指すべきものであると主張している。ソ連に対して、むやみに不信をあおるようなプロパガンダに触発され、相容れない点をあげてソ連との共存を拒むのではなく、むしろ共通した相互利益に目を開くべきだとする。また冷戦に対して、従来、イデオロギーを異にする国々の間では不可能であると思われていた共存が可能であり、そのために軍備拡張が相手を脅迫するような道具に使われてはならないと説く。さらに、国内での平等について、人種差別の解消を意図し、アメリカの対外政策が国内政策の目指すものと矛盾しないように行政と立法の責任と国民の自覚を再認識するように促した。

 「この地上で最も重要な課題でありながら、あまりにもしばしば無知が横行し、真実がほとんど認識されることのない世界平和について話すために私はこの時とこの場所を選んだ。その平和とはアメリカの武器によって世界に押し付けられるパクス・アメリカーナのことではない。それは墓場の平安でもなく、奴隷の安泰でもない。私が語りたいのは真の平和についてである。この地上での生活を生き甲斐のあるものとし、人類や国家が発展し、希望を抱き、その子孫がより良き生活を築き上げられるような平和についてである。それはアメリカ人のためだけのものではなく、あらゆる人類の平和であり、また我々の世代のためだけではなく、普遍的な平和である。ある人は、世界平和や世界法や世界的な軍事縮小などについて語ることは無意味だという。そしてそれはソ連の指導者達がもっと前進的な態度を取るようになるまで無意味だろうというのである。私は彼らがそうした態度を取るようになるものと思っている。我々が彼らを助けてそうするように仕向けることができるとも信じている。しかし同時に私は我々自身の態度について、個人としてまた国民として我々もまた考え直さなければならないと思うのである。第1に、平和そのものに関する我々の態度について再検討してみようではないか。あまりにも多くの人が平和は不可能だと考えている。あまりにも多くの人がそれを非現実的だと考えている。しかし、そのような考え方は危険で敗北主義的な信念である。そういう考え方が戦争は不可避であるとか、人類は宿命的なものであるとか、我々はどうしようもない力に拘束されているのだといった結論を生む。我々はそのような見解を取る必要はない。私がここで語ろうとするのは、普遍的平和についての絶対無限的な観念ではない。その代わりに、より実際的なより達成可能な平和に焦点を合わせよう。真の平和とは多くの国々の産物であり、多くの行動の総和である。それはそれぞれの新しい世代の課題に対処できるように変化する動的なものでなければならない。平和とは1つの過程、問題を解決していく筋道なのである。このような平和とともに、世界から争いや利害の対立がなくなるわけではない。世界の平和は地域社会の平和と同じく各人がその隣人を愛することを要求しない。それはただ彼らが互いに寛容を以って共存し彼らの紛争を公正で平和的な解決に委ねることを要求するだけである。それ故、努力を続けよう。平和が非実際的である必要はなく、戦争が不可避である必要もないのである。第2に、ソ連に対する我々の態度を再検討してみよう。ソ連の指導者達が、そのプロパガンディスト達が書き立てているような事柄を本当に信じているのかもしれないと思うと、何とも情けない気持ちになる。しかしそれはアメリカ人もまたソ連人と同じような罠に嵌ってはならないことへの警告である。つまり、相手方の歪められた救いようもない観点だけを見て、闘争を不可避なものとし、和解を不可能とし、意思伝達を脅迫のやりとり以外の何ものでもないというふうに見てはならないことへの警告である。いかなる政府も、いかなる社会機構もその国民が徳を欠いていると考えなければならない程、悪辣ではない。アメリカ人として我々は、共産主義が個人の自由や尊厳を否定する意味では、それを著しく有害なものだと思っている。しかしそれでも我々は、科学や宇宙開発、経済や企業の発展、文化や勇敢な行為において、ソ連人の数々の功績を褒め称えることができるのである。我々両国の国民が共通に持つ多くの特性の中で、相互に戦争に対して抱く嫌悪感程、強固なものはない。大国の間ではほとんど独特ともいえるのだが、今まで我々両国は戦いを交えたことはなかった。今日もしいかなる状況にせよ、再度全面戦争が起こるとすれば、我々両国は互いに直接の標的となるであろう。二大強国が最大の荒廃の危機に頻していることは、皮肉ではあるが、明確な事実でもある。我々が築いたものも、努力を尽くしたものも、すべて最初の24時間で破壊されてしまうであろう。我が同盟国を含む多くの国々に負担や危険を負わせている冷戦においてさえ、実は我々両国こそが最も重い荷を負っているのである。というのも、我々両国双方が無知や貧困や病と闘うには、それさえあればもっと有効に使われるであろうはずの多額な資金を武器に注ぎ込んでいるからである。どちらか一方の疑念が相手方の疑念を生み、新兵器がまた対抗的な兵器を作り出すといった悪循環に我々は嵌り込んでいるのである。それ故に、我々は相違点に盲目であってはならないが、同時に共通の関心や、あるいは相違点を解消できるような方法に注意を払おうではないか。そして今、相互間の相違点を解消できないとしても、少なくとも多様性を許容できる世界を築くために貢献することはできるであろう。というのも、結局、我々にとっての根本的な共通点とは、我々皆がこの小さな地球に住んでいるということだからである。我々は誰も不滅ではないからである。第3に、冷戦に対して我々がただ論争点を積み重ねるためにだけ論争をしているのではないことを念頭に置き、我々自身の態度を再検討してみようではないか。我々は今ここで非難を撒き散らし、あるいは指をさして相手の非を正そうとしているわけではない。我々は、もし過去18年の歴史が異なっていれば、こうなっていたであろうといった世界に対してではなく、現在のあるがままの世界に対処することが必要である。我々は、真の平和について合意することが、自らの利益であると共産主義国をも納得させられるような方法で、ことを運んで行かなければならない。そして何にもまして、我々核保有国は、我々にとって必要な利益を守る一方で、猶、屈辱的な撤退か核戦争かといった二者択一の選択を迫られるような衝突は避けなければならないのである。核時代にあってそのような道を取ることは、我々の政策の破滅の証拠となり、もしくは全世界の集団死への願望の証となるだけのことであろう。我々は同盟によって多くの国々と結ばれている。アメリカ合衆国は他国の国民の犠牲においてソ連と取引をすることはない。我々の希望、そして同盟諸国の政策の目標は、ソ連もまた各国が他国の利益を妨げない限り、それぞれの国に自国の将来を選択させるべきだとソ連に説得することである。もし世界の国々が他国の民族自決を妨げるようなことを差し控えることができるのであれば、平和がはるかに確実なものとなることは疑いない。このことは世界法、すなわち全世界的討論に向けて新たな環境を作り上げる新しい努力を必要とする。それにはソ連と我々の間でより深い理解が必要となろう。そして、より深い理解はより綿密な接触と相互連絡を必要とする。この方向に向かっての一歩は、危機に際して起こり得る両者間での危険な遅延や誤解、あるいは相手国の行動の読み違いを回避するために、既に提案されたモスクワとワシントン間のホットラインに関する取り決めである。同様に我々は、軍拡競争の激化を抑制し、偶発戦争の危険を軽減するために意図された、その他の軍備管理に関する第1段階的手段についてジュネーヴで交渉を続けてきた。これらの交渉の中で終着点は見えていないが、新たな出発が是非とも必要となっている1つの重要な分野は、核実験を非合法なものとする条約の交渉である。いかにも手の届きそうなところにあるようで、しかもまだ遠いところにあるこのような条約の締結は、最も危険な領域において急速に展開する軍拡競争を抑制することになるだろう。それは各装備のより一層の拡張という1963年に人々が直面している最大の危険の1つに対して核保有国をより効果的に対処できるような立場に置くことができるであろう。それは我々の安全をいや増し、戦争の可能性を減少させることになるであろう。確かにこの目標こそはあらゆる努力を断念したいという誘惑や致命的に重要で責任ある安全防護措置への主張を放念したいという誘惑に屈することなく、我々が弛みなく追求していくことを必要とする程重要なものである。したがって私はこれに関連して本日のこの機会に、2つの重大な決定を発表する。第1に、フルシチョフ議長及びマクミラン首相と私は包括的な核実験禁止条約についての早期締結を図るために間もなくモスクワで高度な次元での討議を始めることに合意した。第2に、この件に関する我々の誠意と重大な信念を明らかにするために、合衆国は今後、大気圏内における核実験の実施を他国が行わない限りは自ら開始しないことをここに宣言する。我々は決して再開する最初の国とはならないであろう。最後に、我が国民諸君、ここ我が国での平和と自由に対する我々の態度を考え直してみようではないか。今日、我が国のあまりにも多くの都市において自由が不完全であるが故に、その平和が脅かされている。結局、平和とは根本的に人権の問題、つまり蹂躙の不安もなく、人生を生き抜くことの権利であり、自然が与えた空気を呼吸することの権利であり、そして後の世代が健康に生きることの権利の問題ではあるまいか。我々は、もし他国が戦いを欲するのであれば、それに対する準備はしよう。またそれを止めさせる努力のためには細心の注意も払うであろう。しかし同時に我々は弱者が安全で強者が公正であるような平和の世界を建設するように全力を尽くすであろう。我々はその任務の前に非力ではなく、またその成功について絶望的でもない。我々は破滅への戦略のためではなく、平和の戦略に向けて確信を持ち恐れることなく努力していくのである」[xxi]

ケネディは「平和の戦略」でソ連に対する非難を極力避け、むしろソ連に協力を求めた。ケネディのそうした姿勢はソ連との関係を好転させた。アイゼンハワー政権から核実験禁止条約の締結交渉は試みられてきたが、条約の履行を確認する査察方法をめぐって米ソは対立して交渉は進展していなかった。査察の困難な小規模の地下核実験以外の核実験を禁止することで米英ソは妥協に至ったが、パリ首脳会談が流会し、米ソ関係が悪化すると交渉は頓挫していた。ケネディ政権でも引き続き核実験禁止条約の締結交渉は行われたが、再度、査察方法が問題となり、ピッグス湾事件や第2次ベルリン危機などによる米ソの緊張の高まりによって交渉の行方に暗雲が立ち込めた。19618月にソ連はこれまで自粛してきた核実験を再開し、アメリカも19624月に核実験を再開した。しかし、キューバ・ミサイル危機の解決により、米ソ関係は劇的に改善した。アメリカとソ連の両国は軍備拡張競争と冷戦を止めることでお互いに利益があるとケネディは論じた。

モスクワで行われた交渉では、依然として査察方法をめぐる対立を解消することはできなかったが、ソ連は問題を棚上げにするというアメリカの提案に応じた。その結果、196385日、アメリカとソ連は、大気圏、宇宙、水中の核実験を禁止した部分的核実験禁止条約を締結した。それは軍備を抑制する初めての二国間条約であった。同条約は地下核実験を禁止していなかったために小さな一歩であったが、将来に向けた確実な一歩であるという希望を与えた。また同条約は中国やフランスを除く100ヶ国以上によって調印された。

ケネディを高く評価する者は、ミサイル危機での成功と部分的核実験禁止条約の締結はケネディが偉大な大統領である片鱗を示した業績だと主張する。しかし、ケネディを批判する者は、ケネディが国内問題の改革において多くを約束し過ぎたと指摘する。特にケネディは議会を主導する指導者としてはうまくいかなかった。ケネディのニュー・フロンティアは就任演説でケネディが示した高い理想を具現化する計画でありフランクリン・ローズヴェルトとトルーマンの政策理念を継承していた。

ニュー・フロンティアは、人口、生存、教育、住宅及び都市郊外、科学、自動化、余暇の7つの分野に大別される。人口のニュー・フロンティアでは、急速な人口拡大に対して十分な雇用が確保できるように経済を拡大させる。生存のニュー・フロンティアでは、平均寿命の急激な伸びによって増加した高齢者に十分な医療制度を拡充する。教育のニュー・フロンティアでは、教育施設を改善するために連邦政府が積極的に支援を行う。住宅及び都市郊外のニュー・フロンティアでは、人口の急増に伴い生じた都市郊外の住宅不足を解消する。科学のニュー・フロンティアでは、宇宙開発競争でソ連に対抗できるように科学技術の研究開発を推進する。自動化のニュー・フロンティアでは、自動化に伴って増加しつつある失業者を救済し、自動化を人間の幸福に結び付ける。余暇のニュー・フロンティアでは、労働力の拡大、医学、交通機関など各種技術の発展によって増加した余暇の利用を検討する。

ケネディはフランクリン・ローズヴェルトが示したような積極的なリーダーシップを発揮することを目指し、ローズヴェルトの100日間に倣って大胆な立法計画を提案した。新議会の最初の会期でケネディは、景気回復、国防強化、対外援助増強、天然資源保護、住宅及び教育への政府援助など25を越える教書を送った。その他の点では、ケネディは民主党のリベラルな伝統を、世界の発展途上地域で人道的支援を行うボランティアを育成する平和部隊や公民権の法制化を提唱することよって再形成しようと努めた。平和部隊を含むケネディの立法提案のいくつかは法制化された。しかし、ニュー・フロンティアの精神を代表するような重要な法案の大半は議会に無視されたままであった。それは、アメリカ経済が安定し、議会も国民も1933年のような緊迫感を持たず、南部の民主党員と保守的な北部の共和党員の固い連携がアイゼンハワー政権以来、継続していたからである。そのためケネディは公民権や高齢者医療制度など論争の的となる政策の実施を延期せざるを得なくなった。

ケネディは供給側重視の政策を唱導した最初の大統領である。それは、生産者の税負担を最小限に抑えれば投資が増え、その結果、消費者にも恩恵をもたらし、1人当たりの所得も増えるという信念に基づいていた。196210月、ケネディは、投資を促すための実業に対する減税措置など様々な税制改革を含む1962年歳入法に署名した。1963年の間、ケネディはさらに個人の所得税の減税を求めた。しかし、議会はなかなか動こうとしなかった。議会が経済成長を促進するための115億ドルにのぼる減税計画を含む1964年歳入法を通過させたのは、ケネディの死後の1964226日である[xxii]

ケネディは公民権を推進しようと試みた。1962930日、黒人学生が、かつてはすべての学生が白人であったミシシッピ大学に入学しようと試みた。ミシシッピ州知事のロス・バーネット(Ross Barnett)は、黒人学生の入学を禁止しようとした。2,000人の白人が暴動を起し、2人が死亡し、160人の負傷者が出た。ケネディは連邦軍の出動を命じた。同様に1963611日、アラバマ州でジョージ・ウォレス(George Wallace)州知事が2人の黒人学生の入学を拒否しようとアラバマ州立大学の扉に立った。ケネディはアラバマ州兵を連邦軍に編入して対抗し、ウォレスの目論見を挫いた。その一方で自由乗車運動家は公共施設における人種的隔離に挑戦しようと南部中を旅して回っていた。それは座り込み運動以上に南部の白人の反発をかった。1963412日、マーティン・キング(Martin Luther King, Jr.)牧師率いる公民権活動家がバーミングハムの人種的隔離に抗議して無許可デモを理由に逮捕された。511日、バーミングハムで暴動が起き、ケネディはアラバマ州兵の連邦軍への編入と連邦軍の配置を命じた。18638月、キング牧師を中心とする公民権運動家は20万人以上を率いてワシントンまで行進した。

ケネディは黒人の公民権の請求に対して、大統領令、立法計画、そして道義的リーダーシップで応じた。大統領令を通じてケネディは196211月、公営住宅における人種隔離を禁止した。平等雇用機会に関する大統領委員会が設立された。多くの黒人が連邦の公職に任命された。ケネディは公共施設における人種的隔離の撤廃、司法長官が人種的隔離を行っている学校制度に対して告発する権限の強化の法制化を求めた。そうした立法計画の実現はジョンソン政権まで待たなければならなかった。19636月、ケネディはテレビ演説でアメリカ国民にアメリカの理想と黄金律を守らなければならないと訴えた。

「今日、我々は、自由であることを願うすべての者の権利を促進し擁護する世界規模の戦いに専念している。そして、アメリカ人がヴェトナムであれ、西ベルリンであれ送られる場合に、我々は白人だけ要求するわけではない。それ故、どんな人種のアメリカの学生も、軍隊による支援なしで彼らが選んだどの公的組織にも入れるようにしなければならない。どんな人種のアメリカの消費者も、路上デモをせずともホテルやレストラン、劇場、そして小売店などの公共施設で平等のサーヴィスを受けられるようにしなければならない。そして、どんな人種のアメリカ市民も、自由選挙において報復の恐れがなく干渉がない状態で、有権者登録し、投票できるようにしなければならない。つまり、すべてのアメリカ人が、人種や肌の色に関係なくアメリカ人である特権を享受できるようにしなければならない。すなわち、すべてのアメリカ人が、自分が望むように、自分の子供が望むように扱われる権利を持てるようにしなければならない。しかし、これは現実ではない。合衆国のどこで生まれようとも今日生まれた黒人の赤ん坊は、同じ日に同じ場所で生まれた白人の赤ん坊と比べて、高校を卒業する見込みは約半分である。大学を卒業する見込みは3分の1である。専門家になる見込みも3分の1である。逆に無職になる見込みは2倍である。年間1万ドルを稼ぐようになる見込みは約7分の1で、平均余命は7年短く、稼ぐ可能性は半分しかない。これは地域的な問題ではない。分離と差別の困難があらゆる町に、合衆国のすべての州に存在し、多くの町で、公共の安全を脅かす不満のうねりを呼び覚ましている。これはまた党派的な問題でもない。国内的な危機がある時に、善意と優しさを持つ者は、政党や政略に関係なく結束できるはずである。これは法的な、または立法的な問題のみではない。こうした問題は、路上やあらゆるレベルで必要とされる新しい法よりも法廷で決定するほうが良いだろう。しかし、法のみで人に正しいことを理解させることはできない。我々は第1に道徳的な問題に直面している。それは聖書と同じくらい古く、合衆国憲法と同じくらい明らかな問題である」[xxiii]

ケネディの議員との関係は非常に困難を抱えていた。民主党は共和党に対して65人対35人で多数派を占め、下院でも263人対174人で多数派を占めていた。しかし、民主党の21人の上院議員と99人の下院議員は南部人であり、共和党とともにケネディのリベラルな政策に反対票を投じていた。そのためケネディは南部の民主党議員の支持を得るために南部に譲歩する政策をとった。ケネディ政権の政策を指示する議員に対して積極的な選挙応援、公共事業の割り当て、官職任命を与えた。

さらにケネディは、サム・レイバーン(Sam Rayburn)下院議長と協力して、保守派によって支配されている議院運営委員会の定数を増員して、リベラルな法案が通過しやすくしようとした。議院運営委員会は法案の成立の鍵を握る重要な委員会であり、保守連合の牙城であった。前会期で議院運営委員会の構成員は、8人が民主党議員であり、4人が共和党議員であった。しかし、2人の南部の保守派の民主党議員が共和党議員と協力してケネディの立法提案を阻んだ。ケネディ政権の初めにレイバーンは構成員の数を3人増員することを提案した。3人の中で2人が政権に忠実であり、したがってケネディの立法提案を認める票数が確保できると考えられた。ケネディの積極的な支持とレイバーンの影響力のお蔭で、委員会の構成員の数を増員する提案は217票対212票で可決された。

ケネディの強引な行動は議会を憤らせた。こうしたケネディの努力にも拘わらず、与党の議員さえ大統領の政策をなかなか支持しようとはしなかった。ケネディが国内政策を法制化するように議会をなかなか説得できなかったのは、単に議会が変革を頑強に拒んだからではない。ケネディは大統領選挙で優れた手腕を発揮したが、議会政治に対して苛立ちを深めるようになった。1963年、ケネディの立法計画は深刻な危機に見舞われた。ケネディが凶弾に倒れた時、医療保険、教育への補助、公民権などケネディが追求した政策は議会によって保留されたままであった。年功序列制度によって多くの南部出身議員に占有される諸委員会の議長職、下院と上院の対立、そして、国民の注目がホワイト・ハウスに集中することに対する議員の嫉視などケネディの議会対策を困難にさせる要素が他にもあった[xxiv]

1962年、インフレを抑制するためにケネディ政権は賃金と物価に関する指針を定めた。1962年、鉄鋼産業が値上げを控えるという見通しの下、労働者は賃金の値上げなしで契約することに合意した。その直後、USスティール社は3.5パーセントの値上げを発表し、他社もそれに倣った。ケネディは激怒してテレビ演説で、一部の重役が公共の責任を放棄して、自らの権力と利益を追求していると批判した。ケネディ政権の圧力の下、鉄鋼産業は値上げの撤回を余儀なくされた。

19631122日にダラスに行く前に、ケネディは1964年の選挙によってリベラル派の民主党議員が多く当選し、ニュー・フロンティアを前進させることができるのではないかと期待していた。またケネディは選挙後にヴェトナムから軍を撤退させることも考えていた。ケネディがもし生きていたら国内政策の目標を実現し、ヴェトナム情勢の悪化を防げたかどうかは分からない。そして、高い目標を掲げながらも数々の制約により約束を実現することができないことは近代的大統領制度の繰り返し起こる特徴でもある。

196311221230分、ケネディはダラス市内で行われたパレードの最中に大勢の群集の前で狙撃された。ケネディは翌年に迫った大統領選挙でテキサスの支持を集めるためにダラスに行った。目撃者によって銃声の数に関する証言は異なっている。少なくとも2発、もしくは3発か4発がケネディと同乗者のテキサス州知事のジョン・コナリー(John Connally)に命中した。銃弾はケネディの首の後ろに命中し、気管を破った。さらにもう1発の銃弾が大統領の頭部を貫通し、頭蓋骨の一部を吹き飛ばした。ケネディは近くの病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。

ダラスの政治的状況はアメリカの中でも最も加熱していた。公民権運動が高まりつつある中、過激な保守派はケネディのリベラルな政策に強く反対していた。また多くの者はケネディの共産主義の脅威に対する姿勢にも反対していた。テキサス州知事やウィリアム・フルブライト(J. William Fulbright)上院議員は大統領にダラス訪問を考え直すように求めたが、ケネディはそれを拒んだ。

犯人としてリー・オズワルド(Lee Harvey Oswald)がすぐに逮捕された。テキサスの監獄から移送中にオズワルドはジャック・ルビー(Jack Ruby)に銃殺された。1964年、ルビーは殺人罪で有罪判決を受けた。オズワルドは犯行を自供しなかったために、オズワルドの死は多くの者にケネディの暗殺に何らかの組織的関与があるのではないかという疑念を抱かせた。

19631129日、ジョンソンはアール・ウォレン(Earl Warren)最高裁長官を長とするケネディの暗殺を調査する委員会を立ち上げた。委員会の正式名称はケネディ大統領の暗殺に関する大統領委員会であるが、ウォレンの名前を冠してウォレン委員会と呼ばれた。数ヶ月の調査の後、ウォレン委員会は、暗殺はオズワルドによる単独犯行だと結論付けた。しかし、銃声の数やその方向、その他の詳細について、コナリーと主要な目撃者の間に多くの食い違いが見られた。多くの者はウォレン委員会の結論を信じなかった。1977年、下院は調査を再開した。そして、1979年、暗殺者に関する下院特別調査委員会は、ケネディの暗殺はおそらく共同謀議によるものであるが、その他の暗殺者を特定することも、共同謀議の範囲を特定することもできないと結論付けた。1994年、議会は連邦暗殺再考委員会を設立して、ケネディの暗殺に関する記録を集めて公開したが、未だに暗殺に関する決定的な説はない。

 ケネディによる大統領制度の進化がより強力だが政局からは独立した大統領を生み出す契機となった。近代的大統領制度は、政府に対する人民の膨らみつつある期待を担っていた。近代的大統領制度は、大きな自律的権力とともに精緻で広範な制度に変化した。しかしながら同時に大統領はますます議会や政党から離れるようになり、改革の法制化を求める人民の要求に応えることが難しくなった。ケネディのみがこうした変化のすべてをもたらしたわけではない。しかし、ケネディの遺産である大統領職の個人化は、その他のアメリカの政治的中枢から大統領を分離させた。

 ケネディの約1,000日にわたる在任期間中、個人的大統領職の展望は大きく開けた。しかし、ケネディの死後、数年の間に起きたヴェトナム戦争の拡大、アメリカ社会の分裂、政府に対する不信感の強まり、そして大統領権限に対する国民の失望は、ケネディ政権がもたらした刷新の望ましくない結果を表した。

ケネディの死はアメリカに深い精神的衝撃を与えた。在職中に死去したすべての大統領はいずれも深い哀悼を捧げられたが、未完の約束を想起させるという点ではケネディの死はリンカンの死に匹敵した。ケネディは史上最年少の43歳で大統領に当選した。魅力溢れる指導者が人生の絶頂期に妻と2人の小さな子供を残して亡くなったことは、アメリカ人にとって個人的な損失のように思えた。暗殺によってケネディの任期が中断されたのにも拘わらず、むしろ中断されたが故に、ケネディはアメリカ文化で永久的な地位を手に入れた。ケネディは古代ギリシアのアキレスのように歴史ではなく神話の一部になったのである[xxv]

ケネディの暗殺後、長い時間が経った後に行われた世論調査でも国民がケネディを近代的大統領の中で最も素晴らしい大統領と見なしていることが示された。1983年の世論調査でケネディはフランクリン・ローズヴェルトを僅差で抑えて国内問題に関して最善の大統領であったと評価されている。そうした結果は、ケネディの業績によるものではなくケネディ神話によるものである。ケネディの高い人気はその悲劇的な死だけではなく、大統領として示した資質による。



[i] Michael R. Beschloss, Mayday: Eisenhower, Khrushchev, and the U-2 Affair (Harper and Row, 1986), 3.

[ii] Michael Nelson, ed., The Evolving Presidency: Addresses, Cases, Eassy, Letters, Reports, Resolutions, Transcripts, and Other Landmark Documents, 1787-1998 (CQ Press, 1999), 159-163.

[iii] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 117.

[iv] James N. Giglio, The Presidency of John F. Kennedy (University Press of Kansas, 2006), 255-275.

[v] Theodore J. Lowi, The Personal President: Power Invested, Promise Unfulfilled (Cornell University Press, 1986), 75-76.

[vi] サムエル・モリソン、『アメリカの歴史』(西川正身監訳、集英社、1997)5:346-347

[vii] Lewis L. Gould, The Modern American Presidency (University Press of Kansas, 2003), 133.

[viii] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)7:71-77

[ix] Desmond Ball, Politics and Force Levels: The strategic Missile Program of the Kennedy Administration (University of California Press, 1980), 232-264.

[x] Arthur M. Schlesinger, Jr., The Cycles of American History (Houghton Mifflin, 1986), 414.

[xi] アメリカ学会編訳、『原典アメリカ史』(岩波書店、1981)7:83-88

[xii] Graham Allison, Essence of Decision: Explaining the Cuban Missile Crisis

(Harper Collins Publishers, 1971), 43-56.

[xiii] President and Fellows of Harvard College, The Kennedy Tapes: Inside the White

House during the Cuban Missile Crisis (The Belknap Press of Harvard University

Press, 1997), 256.

[xiv] Theodore Sorensen, Kennedy: Decision-making in the White House (Harper and Row, 1965), 682.

[xv] Robert Kennedy, Thirteen Days: A Memoir of the Cuban Missile Crisis (W.W. Norton1969), 39.

[xvi] Cuban Missile Crisis Address to the Nation, October 22, 1962.

[xvii] Robert Kennedy, Thirteen Days: A Memoir of the Cuban Missile Crisis (W.W. Norton1969), 51, 267.

[xviii] James Nathan, Anatomy of the Cuban Missile Crisis (Greenwood Press, 2001), 81.

[xix] President and Fellows of Harvard College, The Kennedy Tapes: Inside the White

House during the Cuban Missile Crisis (The Belknap Press of Harvard University

Press, 1997), 258.

[xx] Robert Thompson, The Missiles of October (Simon and Schuster, 1992), 272-273.

[xxi] John F. Kennedy, Public Papers of the Presidents of the United States of America: John F. Kennedy, 1963 (Government Printing Office, 1964), 459-464.

[xxii] Lori Cox Han and Diane J. Heith, Presidents and the American Presidency (Oxford University Press, 2013), 348-349.

[xxiii] Civil Rights Address, June 11, 1963.

[xxiv] 久保憲一、『現代アメリカ大統領―その地位、任務および指導力の制度的考察』(嵯峨野書院、1993)150-152

[xxv] William E. Leuchtenburg, In the Shadow of FDR: From Harry Truman to Ronald Reagan (Cornell University Press, 1985), 119.

ジョン・ケネディ大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究