ケネディ大統領の暗殺

 196311221230分、ケネディはダラス市内で行われたパレードの最中に大勢の群集の前で狙撃された。ケネディは翌年に迫った大統領選挙でテキサスの支持を集めるためにダラスに行った。目撃者によって銃声の数に関する証言は異なっている。少なくとも2発、もしくは3発か4発がケネディと同乗者のテキサス州知事のジョン・コナリー(John Connally)に命中した。銃弾はケネディの首の後ろに命中し、気管を破った。さらにもう1発の銃弾が大統領の頭部を貫通し、頭蓋骨の一部を吹き飛ばした。ケネディは近くの病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。

ダラスの政治的状況はアメリカの中でも最も加熱していた。公民権運動が高まりつつある中、過激な保守派はケネディのリベラルな政策に強く反対していた。また多くの者はケネディの共産主義の脅威に対する姿勢にも反対していた。テキサス州知事やウィリアム・フルブライト(J. William Fulbright)上院議員は大統領にダラス訪問を考え直すように求めたが、ケネディはそれを拒んだ。

犯人としてリー・オズワルド(Lee Harvey Oswald)がすぐに逮捕された。テキサスの監獄から移送中にオズワルドはジャック・ルビー(Jack Ruby)に銃殺された。1964年、ルビーは殺人罪で有罪判決を受けた。オズワルドは犯行を自供しなかったために、オズワルドの死は多くの者にケネディの暗殺に何らかの組織的関与があるのではないかという疑念を抱かせた。

19631129日、ジョンソンはアール・ウォレン(Earl Warren)最高裁長官を長とするケネディの暗殺を調査する委員会を立ち上げた。委員会の正式名称はケネディ大統領の暗殺に関する大統領委員会であるが、ウォレンの名前を冠してウォレン委員会と呼ばれた。数ヶ月の調査の後、ウォレン委員会は、暗殺はオズワルドによる単独犯行だと結論付けた。しかし、銃声の数やその方向、その他の詳細について、コナリーと主要な目撃者の間に多くの食い違いが見られた。多くの者はウォレン委員会の結論を信じなかった。1977年、下院は調査を再開した。そして、1979年、暗殺者に関する下院特別調査委員会は、ケネディの暗殺はおそらく共同謀議によるものであるが、その他の暗殺者を特定することも、共同謀議の範囲を特定することもできないと結論付けた。1994年、議会は連邦暗殺再考委員会を設立して、ケネディの暗殺に関する記録を集めて公開したが、未だに暗殺に関する決定的な説はない。
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