アイゼンハワーの時代T―マッカーシイズムとリトルロック事件


トルーマン政権後期の状況―朝鮮戦争をめぐる観点
 ギャディス(John Lewis Gaddis)が、「共産主義封じ込めが現実的なものになったのは、トルーマン・ドクトリンではなく、朝鮮戦争がきっかけである」と述べている。アメリカ側から見ると「朝鮮戦争は、世界規模の共産主義侵略を実証付けるもの」ととらえる観点も多い。しかし、一方で大著『朝鮮戦争の起源(4)』で知られるカミングス(Bruce Cumings)は、朝鮮戦争を東西両陣営による代理戦争ではなく内戦と位置付けられている。
 トルーマン大統領の観点は、自らの観点から『回顧録』の中で「朝鮮における共産側
の行動を、ソ連が自由世界の団結を破壊するクレムリン計画の一つとしてやっているものと、初めから私はみていた」とふりかえっている。
 このような朝鮮戦争を、冷戦の枠組みの中でとらえるのか、それとも内戦としてとらえるのか、位置付けの違いはあるが、多くの研究で共通していることがある。つまり、誰が朝鮮戦争を始めたのかという議論である。その原因を巡っては、ソ連が指令を北朝鮮に下し、中国が具体的な手助けをしたという説、北朝鮮が単独で戦争を引き起こしたという説、韓国から戦争を仕掛けたという説、アメリカの後押しで韓国が戦争を引き起こしたという説などの間で議論が行われている。
朝鮮戦争勃発以前、朝鮮はアメリカにとって戦略的要地とみなされてはいなかった。しかし、朝鮮戦争勃発と同時に見方は一変する。朝鮮戦争勃発の翌日1950年6月25日、トルーマンのワシントン帰還を迎え、ブレアハウスに閣僚が集められた。いわゆるブレアハウス会議では、アチソンが朝鮮の事態を「韓国の守護者という国際的に認められたアメリカの立場に公然と隠すこともせずに挑戦する」ものだと断定し、さらに「この挑戦から引き下がることは、挑戦に応えうる我々の能力の点から考えても、合衆国の威信と力を損なうことになる」と主張した。

朝鮮戦争に関するレトリック
 朝鮮戦争勃発に関するレトリックの中で最も興味深いことは、「戦争」という語が全く使用されなかったことである。もちろん記者会見などで、記者が質問の際に「朝鮮戦争」という語を使用することはあったが、大統領の発言の中で「朝鮮戦争」という語が使用された事例は一つとして存在していない。「戦争」という語の代わりに使われたのは「警察行動」という語である。アメリカは国連の下で警察行動を実施しているにすぎないというのは、朝鮮戦争の間一貫してトルーマン大統領によって為された主張のポイントである。そもそもトルーマン大統領が警察行動に固執したのは何故なのだろうか。「警察行動」という語は、議会の承認なく戦闘行為に及んだという非難を避けるためである。

戦争目的の変化と中国義勇軍の参戦
 「人類の幸福を重視する国連の経験と技術が、朝鮮での戦闘がほとんど終わった今、試されるだろう。自由な統一された自活できる国家としての朝鮮の再建は、国際協調によって人類の幸福と自由がいかに増進されるか示す好機である」

 この演説は、マッカーサーとのウェイク島会談のすぐ後に行われた。ウェイク島でトルーマンはマッカーサーから共産中国軍の介入はありえないとの確証を得ていた。「朝鮮での戦闘がほとんど終わった」という表現は、その後の中国義勇軍の介入を微塵も感じさせない楽観的なものであり、こうした論調は中国義勇軍の介入が明白になるまで継続する。そして戦争目的が、国連の下で侵略軍を撃退するという警察行動から逸脱し、国連の下での朝鮮統一という目的に変化している。警察行動からの逸脱と思われるこの戦争目的の変化についての説明はほとんどされていない。
 アメリカの戦争目的の変化に敏感に反応したのが共産中国である。毛沢東が、1950年10月13日に周恩来へ宛てた電報によると、アメリカが鴨緑江をすぐに越えることだけでなく、その国内への長期にわたる経済的、政治的影響を危惧していたという。国連軍の38度線突破により、中国は自らの危惧が現実化したと考え、義勇軍派兵を断行したのである。
 中国義勇軍の反撃が激化する中で、トルーマンは朝鮮戦争に関連するレトリックの中で最大の失敗を招くことになる。それは朝鮮戦争での原子爆弾使用をめぐる発言問題である。1950年11月30日の記者会見で、大統領が中国義勇軍の攻勢による国連軍撤退に関する声明文を読み上げた後、一人の記者が一つの質問をしたことからそれは始まった。

記者 :「大統領、満州での攻撃は、国連の行動に拠るものになるでしょうか」
大統領:「全くそうだ」
記者 :「言葉を変えると、もし国連決議がマッカーサー将軍にさらに前進する権限を・・・」
大統領:「いつもしてきたように我々は軍事情勢に対応する必要があればいかなる処置もとる」
記者 :「原子爆弾もふくまれるのですか」 
大統領:「我々が持つあらゆる武器が含まれる」
記者 :「大統領、あなたがおっしゃる『我々が持つあらゆる武器』とは、原子爆弾使用を積極的に考えることがあるという意味なのでしょうか」
大統領:「その使用を積極的に考えることはいつもありうる。私は原子爆弾が使用されるのを見たくはない。それは恐ろしい武器であり、この軍事侵略に何の関係もない無辜の男女や子供に対して使われるべきではない。原爆が使用されたらそうしたことが起きる。」
記者 :「大統領、原子爆弾への言及を再度確認させて下さい。我々は、あなたの発言を、原爆使用を積極的に考慮に入れるものと理解したのですが」
大統領:「いつもそうである。原子爆弾は我々の武器の一つだ」
記者 :「大統領、それは軍事的目標、または民間の・・・」
大統領:「それは軍民が決めなければならない問題だ。私はそういった問題を判断する軍事的権威ではない」
記者 :「大統領、もしよろしければあなたの発言を直接引用したいのですが(14)」
大統領:「私はそうとは思わない。私は引用が必要だとは思わない」
記者 :「大統領、国連の行動によるとおっしゃっていますが、それは国連の認可に基づかなければ原子爆弾を使用しないという意味になるのでしょうか」
大統領:「全くそういう意味になるわけではない。共産中国に対する軍事行動は、国連の行動に拠っている。戦場の軍事指揮官は、常にそうであるように武器使用の責任を負う」
 
 11月30日当時、米軍の勢いは「12月の退却」という頽勢に傾きつつあった。その状況下でのトルーマンの原子爆弾発言は、共産中国への牽制であり悪く言えば恫喝だととられても仕方がないだろう。トルーマン大統領は、「いかに状況が差し迫ろうと、我々は、朝鮮での戦闘は我々の時代における最も激しい戦いの一つであることだけでなく、自由と共産主義的隷属の間の戦闘であることを覚えていなければならない。この戦闘は、我が国の国民生活、組織、資源すべてをかけて行われている。世界に手を伸ばし支配しようとしている共産主義者の邪悪な軍隊によって、我が国と我々の文明は歴史上最も大きな挑戦に直面している」と述べ、断固戦い抜く決意を表明している。もはや戦争は実体的な戦いにとどまらず、「自由」と「共産主義的隷属」との間の理念的な戦いの様相を帯びている。「共産主義の邪悪な軍隊」から「我々の文明」を守るというヒロイズムを誇張し、それに国家を総動員しようとしている。
 そうした傾向がさらに鮮明に示されたのが、1950年12月15日に行われたラジオ・テレビ演説である。その演説は、国家非常事態宣言を発令することを国民に伝えたものである。トルーマンは演説中、ソ連を名指しで非難し、自由諸国と共産主義の戦いという構図を明確に打ち出している。

 「我々の家庭、我が祖国、そしてあらゆるものが大いなる危機にさらされている。この危機はソ連の支配者により生み出されらものである。この五年もの間、諸国家の間で構成と平和が保たれるように我々は努力してきた。我々は、世界の自由諸国が一体となって永久平和を樹立する手助けをしていた。こうした平和に向けての動きに対して、ソ連の支配者達は無慈悲な攻撃を仕掛けてきた。彼らは、自由諸国を一つ一つ蝕み飲み込もうとしている。彼らは脅しと裏切り、そして暴力を駆使してきた」

 トルーマンはこの演説で、国民に危機意識を根付かせるだけでなく、こうした危機を乗り切るために必要な関連法案を議会に認めるように迫っている。

停戦交渉
 米軍は「12月の退却」後、1951年1月末には勢いを盛り返し、同年3月には再び38度線を越えている。しかし、それからというもののいわゆる「鉄の三角地帯」をめぐって共産軍と国連軍は膠着状態に陥った。そのような状況の中で1951年4月11日にマッカーサー解任が行われたのである。マッカーサーは、マッカーサーが憲法上の文官優先の原則に対して直接に挑戦したばかりか、野党の共和党と公然の同盟を結んだことが原因であったとされる。
 
記者 :「大統領、あなたが(マッカーサー将軍解任を)決心したのは、マーティン(訳注:Joseph W. Martin, Jr.下院議員)への手紙の時ですか。
大統領:「私が決心したのは、(マッカーサー将軍が)中国共産軍司令官に最後通牒を送った時だ。
記者 :「マーティンへの手紙のずっと前だと」
大統領:「そうです」

 この記者会見でのトルーマンの言明からすると「野党の共和党と公然の同盟を結んだ」のは解任の主要因ではなく、解任決定が留保されていたことがわかる。では何故マッカーサーはすぐに解任されなかったのか。トルーマン政権にとってマッカーサーを解任することは大きな痛手となるものであった。マッカーサーは前大統領の盟友として先の大戦を戦い抜いた歴戦の英雄であり、彼を解任することで国民の支持がぐらつく恐れがあった。国民の大部分も何故マッカーサーが解任されるのか納得することはできなかったようである。  
 国内的にはマッカーサー解任は痛手であったかもしれないが、朝鮮戦争に関しては大きなメリットがあった。なぜなら、「マッカーサーの解任で、毛沢東は、米国が中国本土に戦争を拡大する現実的可能性がひとまず遠のいたと、初めて信じる」にいたったからである。マッカーサー解任は、原子爆弾発言で過度に緊張した中国側をなだめる効果をもたらし、7月に開城で休戦会談を開く道を開いたといえる。
 結局、休戦協定はトルーマン大統領の任期内には実を結ぶことはなくアイゼンハワー政権に引き継がれることになった。軍事支出は額面で1950年から1953年の間に約四倍近くにはねあがり、全歳出に占める軍事支出の割合で約三割から約六割にまで増加していた。さらにこの軍事支出に自由諸国への援助(中心は相互防衛プログラム)を加えると、全歳出のうち七割が費消されていたことになる。このようなことから、公式には朝鮮戦争は「警察行動」とされ戦争状態ではないとされているのにかかわらず、軍事関連予算の面からすると明らかに「戦争状態」であったと解釈できる。しかし、公式には朝鮮戦争はあくまで「戦争」ではなかったのである。トルーマンは、大統領任期を終えた後も以下のように述懐している。「あなたも知ってのとおり、ハリー・トルーマン自身以外に何人たりとも朝鮮における国連の警察行動に対して責任を持つものなどいはしない」

アイゼンハワー大統領の横顔
 アイゼンハワーは、レトリック研究者からは「戦略的コミュニケーター(strategic communicator)」と呼ばれている。第二次世界大戦中、トーチ作戦、オーバーロード作戦といった重要な作戦を遂行する責任を負ったアイゼンハワーは、その軍事的能力の他、演説技量でも知られていた。例えば、アイゼンハワーが1945年6月12日にロンドンのギルド・ホールで行った演説を、タイムズ紙はリンカーンのゲティスバーグ演説に比肩するものと評した。たとえ、構文が複雑であり、言語が不明瞭で、冴えないスタイルであったとしても、最初の本当のテレビ時代の大統領としてアイゼンハワーの演説は記憶に留められるべきものである。だが留意しなければならないのは、アイゼンハワーが大衆に人気を博したのは、その演説技量が第一の要因ではなかったということである。第二次世界大戦での国家的英雄という点が大きくその人気に貢献していたことは間違いない。戦争に勝利した将軍は他にももちろんいたが、アイゼンハワーがその中でも特別だったのは、彼が「アメリカニズムの典型」とでも言うべき人間だったからである。アイゼンハワーは、一見、カンザスの大地のように平凡な感じの人物だったが、強くて決然とし、楽観的でまっすぐで、アメリカの最も良いところを具現化したような人物であった。
 アイゼンハワーの軍歴は次のとおりである。陸軍士官学校卒業後、アメリカ国内の他、パナマ運河やフィリピンでの軍務を経験した後、アイゼンハワーが頭角を現したのは、1942年11月のトーチ作戦である。トーチ作戦は、スペインとフランスを枢軸国に立ち向かわせる重要な作戦で、欧州戦線の行方を大きく左右する作戦であった。具体的には、モロッコのカサブランカ、アルジェリアのアルジェとオラン(アルジェリア北東部の港湾都市)を制圧することを目標とした作戦であった。作戦後、チャーチルと会談するためにカサブランカに訪れたフランクリン・ローズヴェルト大統領と会食した時、チュニジア制圧に失敗していたことで、トーチ作戦の成功を大統領から賞賛されることはなかったものの、1943年2月に陸軍大将に昇進している。1943年5月20日にチュニス制圧に成功、北アフリカ戦線における連合軍の優位を決定付けた。その後、フランクリン・ローズヴェルトは、アイゼンハワーの上官でもあったマーシャル将軍に代わり、アイゼンハワーを史上空前の作戦と言われたオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)の最高司令官に任命した。ドイツ降伏後占領地行政に携わり、1950年にNATO最高司令官に就任、1952年7月に大統領選挙に備えて退役している。

ヒス事件とローゼンバーグ事件
 マッカーシイズムとはトルーマン政権期からアイゼンハワー政権期(1950年から1954年)にかけて吹き荒れた赤狩りと呼ばれる過激な反共主義である。その中心となった人物である上院議員マッカーシーの名前をとってマッカーシイズムと呼ばれる。その前兆となる代表的な事件はアルジャー・ヒス事件とローゼンバーグ事件である。そしてハリウッド・テン事件。1947年10月には、ハリウッドのシナリオ・ライター、アルヴァ・ベッシーなど住人が共産党との関係を追及された。彼らは言論の自由を規定した憲法修正一条(権利の章典と呼ばれる)に基づいて証言を拒否したので議会侮辱罪で拒否された。
 ヒス事件は、1948年8月に元共産党のスパイと自称するチャインバーズが下院非米活動委員会で証言し、国務省顧問のアルジャー・ヒスが共産党のスパイであることを暴露したことによる。ヒスはそれを否定したが結局五年の禁固刑の判決を受けた。これはアメリカ国内で共産主義浸透を恐れる世論が高まっていたことを反映している。
 ローゼンバーグ事件。1950年にアメリカで起きたスパイ事件。近年のヴェノナ文書(ソ連の暗号電報を解読したもの)解禁で有罪であることがほぼ確実視されている。第二次世界大戦中、アメリカで原子爆弾開発に関係したイギリスの学者フックスがソ連のスパイとして逮捕され共犯者が洗い出された。その結果、ローゼンバーグ夫妻が原子力開発の機密をソ連に漏洩した罪状で逮捕され死刑判決を受けた。国際的な助命活動にも拘らず1953年6月に処刑が実行された。この事件もまたアメリカ国内で共産主義を恐れる世論が高まっていたことを反映している。

非米活動委員会
 またこの当時は下院に設けられた非米活動委員会の活動が活発になっていた。国内における反体制的破壊活動を取り締まるのが役割である。当初は国内のナチス支持集団による破壊活動を防止する目的で1938年に設立されたが、第二次世界大戦後、その矛先を国内の共産主義者へと転じた。共産主義者の摘発を名目にアメリカ国民の市民的自由を著しく侵害したと歴史家からは批評されている。1975年に廃止されている。

マッカーシーの弾劾
 マッカーシーはウィスコンシン州出身の共和党員で過激な反共主義を全面に押し出すことで国民の注目を集めた。マッカーシーの非難は次の通りである。ローズヴェルトとトルーマンが率いてきた民主党は共産主義者と共謀してアメリカを共産主義勢力に渡そうとした。ローズヴェルトはソ連を助けようとして第二次世界大戦に参戦し、ヤルタでソ連に大幅に譲歩した。さらにトルーマンは中国が共産主義国となるのを放置し、朝鮮戦争の時にマッカーサーが共産中国を壊滅させようとしたからマッカーサーを退任させた。ヒスのような人間は、アメリカ中いたるところに潜んでいてスターリンがひとたび合図すれば一斉に蜂起するのだ。
 マッカーシーが演説の時にとった手法は、何かの書類を手に持ってひらひらさせて「名前は明らかにできないが」政府内のある愛国者からひそかに提供された国務省内の共産党員のリスト(国務省内の205人の共産主義者のリスト)を持っていると言う手法だった。しかし、マッカーシーは手の内を明かすことがなかった。
 そういう手法に対してタイディングス上院議員を長とする委員会は、マッカーシーの告発の真偽を調査し、それが虚偽のものであると断定した。マッカーシーが「この自由な国において、アメリカ国民を信じがたい規模のヒステリーと恐怖の波をもって煽動しよう」としたと非難。しかし、マッカーシーはタイディングス委員会を共産主義に対して弱腰であると反対に非難し、PR会社や各種政治団体から莫大な資金を得てタイディングス委員会を攻撃したのでタイディングスは再選に敗れてしまった。マッカーシーは過激な反共レトリックを用いて大統領にもまさるとも劣らない権勢を手に入れたのである。

マッカーシーに対するアイゼンハワーの態度
 アイゼンハワーはこうしたマッカーシイズムに関して静観する姿勢を示した。実際はマッカーシイズムに対してその行き過ぎを懸念していたが、その反撃を恐れて沈黙していたというのが現状である。アイゼンハワーは政府からスパイを狩り出すことの必要性を感じていた。その点についてはマッカーシーと同じである。しかし、アイゼンハワーは、マッカーシーのことを「マッカーシー上院議員は新聞のヘッドラインを飾りたがっていて、さらに過激なことを新聞に名前を載せようとせんがために行おうとしている。彼のようなトラブルメーカーと向き合うには無視するのが一番よいだろう。そうすれば彼は持ちこたえられなくなる」と日記に書いている。マッカーシーの言いなりになっているように見えても、アイゼンハワーはマッカーシーと対決することは避けていた。同じ舞台に立たないという政治的判断をアイゼンハワーは行ったのである。
 アイゼンハワーは、1951年から1957年にかけて、ブリッカー修正をめぐって議会と対立するわけにはいかなかった。それは、「第二次世界大戦以来、外交をめぐり行政府と立法府間で行なわれた争いの中でも最も重大な争いの一つ」であり、「アメリカの外交政策形成をリードするのは、大統領か議会のどちらか」を問うものであった。しかし一方でアイゼンハワーは報道官のハガーティーを通してマッカーシーの信頼を貶めるように働きかけていた。アイゼンハワーは民主党議員と協力してマッカーシーに対して聴聞会を行った。
 アイゼンハワーは、国民にマッカーシーの行いに関して仔細に検討する機会を与えれば、彼らは目を覚ますと考えていた。アメリカ陸軍に関するマッカーシーの調査をめぐってマッカーシーの調査の欺瞞性を暴き、マッカーシーの幻惑から国民の目を覚まさせたのである。マッカーシーは弾劾され、上院でマッカーシーに対する弾劾決議が採択された。マッカーシイズムが国民の間で大きな影響を及ぼしえたのは、当時の国民に共産主義に対する恐怖が広まっていたからだと言える。つまり、国民に過度に反共産主義を植え付けることは、マッカーシーのような煽動家を登場させる余地を生み、また行き過ぎたスパイ調査は国民自身の市民的自由を侵す危険性がおおいにあった。マッカーシーの没落後もいったん広まった反共産主義は完全に消え去らずむしろ根強くアメリカ国民の間で残留していた。

リトルロック事件
 リトルロック事件の背景。1954年5月17日、最高裁は、ブラウン対トピーカ教育委員会事件で人種分離教育を違憲と認めた。原告オリヴァー・ブラウンはその娘リンダが近所の白人だけの小学校に入学を拒否されたことで教育委員会を告訴した。最高裁は「公共教育の場においては、『分離すれど平等』の主義は当てはまらないと我々は結論する。隔離されている教育施設は本来的に不平等である」とした。後にこれが公民権運動の法的根拠の一つとなる。白人と黒人を別学にすることじたいが差別だと認めた。南部の強い反発をまねく。最高裁は人種による隔離撤廃をwith all deliberate speed(可及的速やかに)で行うように命令を下した。
 南部各州はそれを「できるだけ慎重な速度で」と解釈し、実施を遅らせた。例えばバージニア州では、公立学校を全廃し、白人のための私立学校を建て学費は州が負担するという方法が採択されそうになったが、最終的には最高裁で違憲とされた。
 それまでアメリカでは「分離すれども平等(Separate, but Equal)」が基本原則となっていた。それは1896年のプレッシー対ファーガソン訴訟事件に関する最高裁の判決文の一部。プレッシー対ファーガソン訴訟事件とは、鉄道乗客を人種により分けたルイジアナ州の立法に対して示した司法判断で、最高裁が「人種を分離しただけで(もし条件が同じであれば)不平等とはいえない」という原理を示した。さらに1899年には学校にもこの原理が適用された。
 リトルロック事件は、1957年に起きた事件である。アーカンソー州リトルロックにある公立高校に通学しようとした黒人生徒に対して、フォーバス州知事が率先して入学に反対し、黒人生徒の通学を妨害しようと州兵まで動員した(建前としては過激な白人優越主義者から黒人生徒の安全を保障するため)。フォーバス州知事がそこまで態度を硬化させたのは一つには州知事再選を目指していたことが指摘されている。
 ソ連はそうしたアメリカの状況に対し、「黒人ではなく、紳士としての精神を持つはずの白人がアーカンソー、アラバマ、そして南部諸州で暗黒の行いをした。そしてそういう暴徒は白い手袋を見に着けて国連総会の演壇に上がり、自由と民主主義を前進させようとするのだ」と非難した。こうしたソ連のプロパガンダは、当時問題となっていたハンガリー問題に関してソ連を非難するのを難しくした。アイゼンハワーは連邦軍を派遣し暴動を鎮圧、連邦軍を常駐させることによって黒人生徒の安全を保障した。これは州権を侵害する行為ととられる危険性があったが、アメリカが自国の道義的正当性を主張するためにはそのような断固たる措置を取る必要があったと考えられる。



質疑応答・感想


Q、グローバル社会についてというのに興味がありますが、例えばどんな事象扱いますか?
A、様々な事象があります。簡単に言うとヒト、モノ、カネの動きがどのように世界規模で動いているか。例えば食糧問題についてなどの概論ができると思います。むろん私にとっては副専攻なので基礎的な範囲しかできません。また私は自ら多くの国々を訪問していますからそのお話も随時できればと思います。諸君の要望に応じて何を教えるか考え、それに基づいて講義案を作ることができればよいと思います。つまり、先ずは諸君が何を学びたいか知りたいかが大事です。

Q、二大政党制と多党制はどちらがよいのだろうか?
A、どちらも一長一短です。物事というのは良い面と悪い面があるのが当然ですからその両者のどちらが良いかはその国の状況や時代背景によると思います。例えば二大政党が政策面で全く変化がなければそれは単なる党争になってしまうのであまりメリットはありませんが、政策面で競合するのであれば国民全体にとってはメリットが大きいかもしれません。

Q、先生はアメリカについてなんでそんなに調べようと思ったんですか?好きだからですか?
A、私はアメリカが好きでも嫌いでもありません。私が好きなのは日本の風土です。ただアメリカの動向を知ることは日本の今後を考える上で不可欠だと私は思っています。私の研究を通じてそれを社会に羽ばたくみなさんに少しでもお伝えできればと思います。

Q、「悪貨は良貨を駆逐する」という諺についてどう思われますか?
A、私は経済専門では無いので詳しくは分かりませんが、この言葉はいろいろな状況に適用できそうですね。例えばDVDの海賊版などに適用できると思います。海賊版(悪貨)が売れることにより結果的に正規版(良貨)を駆逐してしまう。

Q、イラク戦争で「大量破壊兵器」が見つからなかったのに何故アメリカはその過失を追及されないのですか?
A、過失を追求し、懲罰を与える場合、懲罰を実行する背景となる力が必要ですが、今のアメリカに懲罰を実行できるものがあるでしょうか。ないと思います。しかし、アメリカにとっては親米感情というソフトパワーを世界各地で減退させることになりますから全く影響がないとは言えません。

Q、退役軍人が政治上の重要ポストに就くことはアメリカでは一般的なことなんですか?
A、特に忌避されることはないと思います。日本と違ってアメリカでは軍歴を持つことが珍しいことではありません。初代大統領のワシントンも軍の指揮官でしたし、南北戦争のグラント将軍も大統領になっています。他にも軍で活躍してその後に大統領になった人は何人かいます。

Q、「分離すれども平等」という考え方の根拠は何だったんですか?
A、分離しても白人、黒人にそれぞれ同等の環境を与えれば平等だという考え方です。講義で話したブラウン判決では、分離すること自体が平等に反するという判断が下されました。白人が黒人よりも高等な人間だと思う根拠は、擬似優生学的なものや文化的、または人種的な優越感によるものです。むろんそうした根拠は白人優越主義者にしか納得できないものです。

Q、トルーマンと記者の話で原爆を使うとはっきり言った時、国民はどう反応したのか?やはり反論したのか?
A、国民は賛否両論で、トルーマンの発言が熱い議論を巻き起こしたのは事実です。

Q、どうしてアイゼンハワーはマッカーシーが陸軍に関して発言するまで無視していたのですか?陸軍に関して発言した時にマッカーシーを追い出せたのなら、もっと早くできなかったのですか?
A、当時、アイゼンハワーは上院の多くの議員の協力を取り付ける必要がありました。マッカーシーは一時的ではありますが、多くの追随者を得ていたので上院との関係を良好に保つためには静観するしか方法がなかったのです。

Q、何か世界史の知識をつけるのに役立つ資料や本、勉強法がありましたら教えて下さい。
A、図書館の歴史関係の本棚に行くのが最もよいと思います。または歴史小説を読むと面白いと思います。私は塩野七生さんの本が大好きです。先ずは興味が持てることを大事にして下さい。

Q、歴史を追及していく意義ってどんなものでしょうか?
A、我々の社会は過去との繋がりからできています。いろいろな過去が積み重なって現在があるわけです。例えば他人を本当に理解しようとすればその人の過去を知らなければなりません。その人の過去を知れば知るほど、その人が今、何を思っているのか、どうしてそう思うのか分かり易くなります。それと同じで現在の社会を理解するために歴史を追及しなければなりません。

Q、個人的な質問なんですが、サルコジ大統領のフランスとアメリカのブッシュ政権はどのような関係を築くのでしょうか?
A、サルコジ大統領に関してあまり知らないので詳しくは分かりません。ただフランスは基本的にNATOの中でも突出する傾向にあり、必ずしもアメリカの従順なパートナーにはなりえません。

Q、アメリカニズムって具体的にはどういうものですか?辞書では「米国人特有の習慣や気質」ってあったんですけど?
A、アイゼンハワーに関して言えば、オープンな性格でちょっと土臭い感じはするけれども誠実でぱっと見平凡そうな感じだと思います。

Q、ケネディって性格悪いんですか?外見も中身もかっこいいんだと思ってました。
A、大統領の評価、特に性格に関しては伝記作品による影響が多大です。例えばハーディング大統領は死後に事実無根の暴露本(これに関しては議論が分かれる)を出されたために評価が低落しました。世上の評価はうつろいやすいものです。それにどのような性格が善いか悪いかは人により様々なので一概には分からないものです。ただし大統領としての資質であればアイゼンハワーのほうがケネディよりも優れていたと私は思います。

Q、ヒス事件では有罪の証拠等はあるのでしょうか?
A、証拠が有効かどうかは非常に難しい問題です。ただ証言が決定的な役割を果たしたことは事実だと思います。今後、この件に関してはもう少し研究を深めたいと思います。ローゼンバーグ事件の場合も、ヴェノナ文書自体は証拠となっていません。なぜならそれは極秘扱いだったので証拠として提出できるものではありませんし、裁判官自身も存在を知らなかったはずです。曖昧な点があるからこそ今でも冤罪だったのではないかという研究者がいるわけです。

Q、民主党の「共謀説」についての意図をもう一度説明していただけませんか?
A、民主党を共産党、もしくはソ連との共謀説で攻撃したのは、むろん国民の支持を共和党に集めるためです。またマッカーシー自身が大統領の椅子を狙っていたとする論者もいます。

Q、何故アメリカという資本主義の国の中にも共産主義の考え方を持つ人間が生まれてくるのか疑問に思いました。
A、世界恐慌により資本主義崩壊を多くの人が危惧していました。その最中、ソ連は比較的世界恐慌の影響を受けず、多くのアメリカ人から見るとソ連は理想の国に見えたという時期があります。さらに原則的に国家が国民を全員雇用するわけですから失業が無いわけです。そういう背景からすると共産主義のほうがよいという人が出てきても何も不思議ではありません。

アメリカ政治外交史歴代アメリカ合衆国大統領研究