リンカーンとダグラスの論戦


リンカーン対ダグラス―1858年上院議員選挙の公開討論

‘A house divided against itself cannot stand.’ I believe this government cannot endure permanently half slave and half free.
「『分かれたる家、立つこと能わず』という聖書の言葉のように、私は、半分が奴隷を認める一方で半分が奴隷を認めないという状況のまま我が国は永続できないと思います」―エイブラハム・リンカーン 

Let each State mind its own business and let its neighbors alone! If we stand by the principle, then Mr. Lincoln will find that this republic can exist forever divided into free and slave States!
「各州が自分のことだけを気にかけて隣人を放っておくようにさせよう。もし私たちがその原則通りにするなら、リンカーン氏はこの共和国が自由州と奴隷州で分かれたままで永続できると悟るでしょう」―ステファン・A・ダグラス 

 時は十九世紀半ば、奴隷制をめぐる南北の対立は深刻になる一方でした。共和党は奴隷制拡大反対を綱領として掲げていましたが、北部の世論は一つの形としてまだ固まっていませんでした。人々は自分たちの思いを体現してくれる指導者を待望していました。そこへ現れたのがエイブラハム・リンカーンです。人々の思いを体現する言葉と信念を持ったリンカーンはたちまち時の人となりました。
 1858年、中央政界への復帰を目指すリンカーンは共和党候補として上院選挙に出馬しました。相手は現職のステファン・A・ダグラスです。ダグラスは「小さな巨人」という異名を持つ民主党の有力政治家です。背丈が小さく肥満している外見とその卓越した演説能力から付けられたあだ名です。ダグラスは公私にわたるリンカーンの良きライバルで、リンカーンが政界に復帰するきっかけとなったカンザス=ネブラスカ法の立役者でした。リンカーンは、カンザス=ネブラスカ法の制定により、奴隷制がさらに拡大すると危機感を強めたのです。
 冒頭の「分かれたる家、立つこと能わず」という言葉は、リンカーンの候補指名受諾演説の中の言葉です。キリストが病める者や悩める者を癒した時に、それを見ていたパリサイ人は、キリストが悪魔の頭を使って悪魔を追い出しているのだと非難しました。キリストは、その非難に応えて、悪魔たちが内部で諍いを起こしているのであればきっと悪魔たちは滅びるに違いないと言いました。
 聴衆にとって聖書は最も馴染み深い書物ですから、この譬は分かりやすい譬だったでしょう。アメリカがこのまま奴隷制をめぐって分裂していれば滅びてしまうかもしれないと人々は感じたのです。これは当時の人々の不安を見事に代弁した言葉です。優れた指導者は人々が漠然と抱いている不安をはっきりとした形で表現する能力が必要とされるのです。
 リンカーンは、この指名受諾演説をはじめとして少なくとも六十回の演説をイリノイ州各地で行いました。総移動距離は約七千キロに及びます。中でも全米の注目を集めたのがダグラスと七回にわたって行った公開討論です。毎回三時間にも及んだ熱戦です。「大草原が炎上している」と当時の新聞は公開討論の過熱ぶりを伝えています。
 リンカーンとダグラスの公開討論は、「公開討論」という言葉を聞いて私たちが想像するものとは全く異なるものでした。一言で言えば、それはお祭りでした。ご馳走が並べられ、旗が賑々しく翻る。礼砲が鳴り響き、行進曲が演奏される。道は馬車や人でごった返し、周辺のホテルは超満員になりました。ソファで眠れる者はまだましなほうで、ロビーにまで宿泊客が溢れました。とにかく、普段の人口に倍する数の群衆が会場となった町に押し寄せたそうですから大変な人出だったようです。
 支持者たちは、リンカーンが駅に到着すると、六頭の白馬が牽く馬車に乗せてリンカーンを会場まで連れて行ったそうです。なにしろお祭りですから、討論の最中も群衆は黙って静かにしてはいませんでした。盛んに拍手をしたり、野次をとばしたり大変な騒ぎだったそうです。
 まだ現代のように記録メディアが発達していませんでしたから、討論会の内容は速記記者の記録によります。速記記者を雇っていたのは主に新聞です。この当時の新聞は、販売部数を確保するために政治色や党派色が露骨でした。そのため何人かの速記記者の記録が残っていますが、それぞれ食い違っています。しかし、おおまかに討論の流れを追うことはできます。
 ダグラスはリンカーンを、完全な奴隷制廃止を求める急進派だと批判しました。ダグラスによれば、建国の父祖たちはそれぞれの州がそれぞれのやり方で問題を処理する主権在民を認めているので、奴隷制を認めるか否かはそれぞれの州に任せるのは当然でした。そして、独立十三州のうち十二州が奴隷制を容認していたという事実から、私こそが建国の父祖たちの意思を正しく読み取っているとダグラスは主張しました。
 対するリンカーンは、南部諸州が奴隷を所有する権利は憲法によって認められているが、これ以上の奴隷制拡大を認めるべきではないと主張しました。そして、独立宣言には「すべて人間は平等に創られている」という文言があり、ジェファソンも奴隷貿易の廃止を訴えているので、私こそが建国の父祖たちの意思を継いでいるのだと反論しました。それに加えてリンカーンは、奴隷制は道徳的に悪であると断言し、ダグラスは道徳に無関心なのではないかと攻撃しました。
 リンカーンの攻撃に応えてダグラスは、奴隷制を認めるか否かは主権在民の問題であって、道徳的な問題ではないと反論しました。道徳的な問題は良心と神の問題であり、政治的討論とは関係ないと訴えました。
 リンカーンは、準州の住民が奴隷制反対を決定できるかどうかとダグラスに問いました。
 これはダグラスにとっては手痛い質問でした。ダグラスの考え方である主権在民からすればもちろん準州の住民は奴隷制反対を決定できるはずです。しかし、一方で最高裁判所は、ドレッド・スコット判決で、事実上、奴隷制が全国で合法であると認めていました。民主党のブキャナン大統領はこの決定を支持していました。最高裁判所の考えに従えば、準州の住民は奴隷制に反対することはできなくなります。ダグラスは自らの考えである主権在民を放棄するか、それとも民主党が支持するドレッド・スコット判決に反対するか、窮地に追い込まれました。リンカーンの見事な作戦です。
 しかし、ダグラスはリンカーンの追及を見事に切り抜けました。ダグラスは、もし準州の住民が奴隷制に反対しようとすれば、奴隷制を維持するための法律を制定しなければよいと答えました。そうすれば奴隷制は実質的に存続できないとダグラスは考えたのです。これならドレッド・スコット判決にそむくことなく、主権在民の原則を反映させることができます。しかし、これによりダグラスは奴隷制を維持しようと考える南部の反感をかうことになりました。
 討論の結果、軍配はどちらにあがったのでしょうか。上院選挙はダグラスが制しました。そのことからするとダグラスが勝ったように思えます。ただ1913年に憲法が修正されるまで上院議員は、一般投票ではなく州によって選出されていました。現代の様に世論調査が発達しているわけでもありませんから、リンカーンとダグラス、どちらの言葉がより群衆の心をとらえたのかは定かではありません。
 しかもこの公開討論には後日談があります。公開討論から二年後、共和党から大統領選挙に出馬したリンカーンは、民主党から出馬したダグラスを得票率で10パーセント以上の大差をつけて破っています。リンカーンは雪辱を果たすことができたのです。
 上院選挙でダグラスに敗北したリンカーンがなぜ大統領選挙ではダグラスに勝利できたのでしょう。実は公開討論で、ダグラスは南部の支持を失っていましたが、リンカーンは北部の多数派であった穏健派の支持をとりつけることに成功していたのです。
 リンカーンが北部の穏健派の支持をとりつけることができたのは、奴隷制は道徳的に悪だと非難しながらも、急激な廃止を目指さず、とりあえずは奴隷制拡大を阻止すべきだと訴えたからです。リンカーンは敏感に人々が何を求めているのか感じ取っていたのです。結局、公開討論の真の勝者はリンカーンだったと言えるかもしれません。

リンカーン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究