リンカンは、大統領制度の理論と実践に重要な貢献をなした19世紀最後の大統領である。リンカンの業績は、アメリカの立憲民主制の基盤を根底から破壊するような国内の危機の中で生じた。南北戦争と奴隷解放を主導するうえで発揮したリーダーシップによって、リンカンはアメリカ人の間で最も偉大な大統領と目されている。歴史家もリンカンの政治的手腕を賞賛している。最近の調査ではアメリカの歴史家はリンカンを最も偉大な大統領と位置付けている。

リンカンの手腕と業績が立憲民主制を強めたか、それとも弱めたかは若干の議論がある問題である。リンカンは慈悲深い指導者であったと多くの研究者が指摘するが、研究者の中にはリンカンを強力な指導者だけではなく独裁者と見なす者もいる。確かにリンカンは南北戦争の期間中、フランクリン・ローズヴェルト以前のどの大統領よりも強大な権限を行使した。最高司令官としてリンカンは国家の非常時に大統領がとても強大な権限を持つ可能性を示した。南北戦争は18614月に始まった。議会は休会中でほぼ4ヶ月間にわたって南部の脱退に抵抗しようとする措置は大統領の独断的措置であり、議会の承認なしに行われた。リンカンは議会に承認されていない徴兵権を要求し、海上封鎖を宣言した。リンカンはそうした措置を一時的なものと考え、緊急事態に対する措置を完全に有効にするためには議会の承認が必要だと考えた。しかし、奴隷解放と南部再建の問題をめぐってリンカンは、戦争権限が大統領に与えられており、大統領は非常時大権を持つと信じた[i]。またリンカンは通常の司法府の機能を制限するような方法で行動し、人身保護令状を差し止め、様々な場所で軍法を布いた。

南北戦争の間、リンカンは大統領の権限の通常の範疇を超えていたが、個人の自由への尊重に相反しないように戦時の施策を行っていた。確かに軍の将校の中にはリンカンの権限を非難する者がいた。またボルティモアのある市長は南部に同調的という理由で逮捕され、1年以上も監禁された。またメリーランド州のある裁判官は大陪審に命じて官吏の不法行為を調査させたという理由で憲兵の監視に置かれ、6ヶ月も監禁された。その他にも人身保護令状を差し止める宣言の下、政府財産の窃盗から反逆罪に至る罪名で13,000人以上が軍に拘束された。そうした不幸な例外はあったものの、リンカンは民主主義全体を倒壊させることなく非常大権を行使することができた[ii]。両大戦期に比べると敗北主義者も良心的徴兵忌避者も反対の新聞も政府に批判的な人々もリンカン政権下でそれ程、過酷な扱いは受けなかった。新聞の全面的な検閲もなければ、容疑者の強制隔離も行われなかった。軍法会議が行われたのは事実だがその判決は概ね緩やかで、受刑者も平和の到来と共に解放された。もちろんリンカンは自らの統治を独裁だとは考えていなかった。大統領は通常の過程を尊重しながらもそれ以上に憲法の基本的原理を擁護する責任があるという概念でリンカンは自らの行いを弁明した。したがってリンカン政権は、政治史の中で重要な節目であっただけではなく、アメリカの共和政体の中で緊急時に行政府の権限はどのように適切な場を占めるのかという問題を提起した。

リンカンが大統領の権限を大幅に拡大した大統領になったのは皮肉なことである。カンザス=ネブラスカ法が制定され、共和党が成立される1854年までリンカンはホイッグ党員であった。リンカンは、1830年代から1840年代にかけてのジャクソン主義者による大統領の権限拡大に反対することで頭角を現した。1840年代半ば、リンカンは米墨戦争を遂行するポークの独断的なリーダーシップに反対を唱えた。ホイッグ党の下院議員としてリンカンは、ポークが戦争を正当化しようとした論理を粉砕しようとした。リンカンは、憲法は戦争を行う権限を議会に与えており、人民の意思は大統領の影響なしで形成されるべきであると論じた[iii]。リンカンが行った批判はポークに完全に無視され、下院で確固たる地位を築きたいというリンカンの願いも実現しなかった。議員はリンカンの批判演説を特に気に留めることもなく、幾つかの地方紙を除けば新聞に取り上げられることもなかった。 

リンカンは友人に向かって大統領の戦争権限の危険性を述べている。大統領が独断で侵入を撃退することが必要だと見なした時にいつでも隣国に侵入してもよいことになれば、大統領は好きな時にそういう目的で行動してもよいことになり、勝手に戦争を引き起こすようになる。そうれなれば、大統領がイギリスの侵入を防止するためにカナダに侵入しなければならないと主張した場合、大統領を抑えられる者は誰もいなくなる。イギリスが侵入する可能性はないと否定しても、大統領は自らの判断が正しいと主張するだけで行動を是正することはない。憲法が制定された時に、宣戦布告を行う権限が議会に与えられたのは、君主制のように国王が人民の利益のためという口実で人民を圧迫するような戦争を始めることを防止するためであった。大統領を国王と同じような立場に置くことになっては共和政体の意義が失われてしまう。戦争権限を限界まで引き延ばしたリンカンが米墨戦争に関してこのような見解を示していることは興味深い。

 リンカンは奴隷制度廃止論者ではなかった。奴隷制度問題に対する比較的穏健な姿勢のお蔭でリンカンは、全国的な知名度を持つ共和党の指導者で強固な奴隷制度廃止論者であるニュー・ヨーク州知事のウィリアム・スーアード(William H. Seward)を抑えて、1860年の共和党の大統領候補指名を獲得することができた[iv]。リンカンは絶えず自身を反奴隷制度論者だとしたが、連邦政府には既存の奴隷制度を廃止する権限はないと考えていた。同時にリンカンは西部の準州に奴隷制度が拡大されるのを認めようとはしなかった。リンカンの観点では、西部の準州への奴隷制度の拡大は、奴隷制度を恒久化させ、事実上、容認することであった。1854年のカンザス=ネブラスカ法の制定に対してリンカンはもはや沈黙を守ることを放棄した。奴隷制度に新しい領域を開くことは、奴隷制度は必要悪であり、封じ込められなければならず、やがては自然消滅を迎えるであろうという憲法制定者の意図を議会が損なっているとリンカンは考えた。そうした過ちは、1857年にドレッド・スコット事件で最高裁が、連邦議会や準州議会が奴隷制度を廃止する法を定めるのは違憲であると認めたために助長された。

 リンカンは、カンザス=ネブラスカ法とドレッド・スコット裁判の判決が、ルイジアナ準州の北部で奴隷制度を禁じる1820年のミズーリ妥協を覆すものであったので困惑した。リンカンは、ミズーリ妥協の精神は憲法だけではなく独立宣言の原理に即していると主張した。独立宣言の起草者であるジェファソンは、後のオハイオ州、ミシガン州、インディアナ州、ウィスコンシン州、そしてイリノイ州に相当する北西部領地で奴隷制度を禁止する1787年北西部領地条例が定められた時に、そうした精神を明確な形で表した。リンカンは、連邦のためだけではなく、自治政府の神聖な権利のため、そして、国家の信頼を回復させるためにミズーリ妥協を復活させることを望んだ。1854年のピオリアでの演説でリンカンは以下のように語っている。

 「我々の共和制の外套は土に塗れ、埃の中を引きずられた。それを元通りに綺麗にしよう。もし血に濡れていなければ、革命の精神でそれを洗って白くしよう。奴隷制度を道義的権利から切り離して既存の法的権利に戻し、必要な議論を行おう。奴隷制度を我々の父祖が置いた位置に戻し、そこで安寧を得られるようにしよう」[v]

 憲法によって連邦政府に課せられている制限を尊重してリンカンは南部の奴隷制度を攻撃しようとしなかったが、カンザス=ネブラスカ法の発案者であるダグラスと違って、リンカンは準州への奴隷制度の拡大を認めることで連邦を救おうとはしなかった。そうすることで憲法は独立宣言で唱えられた道義的基盤を失うとリンカンは信じていた。リンカンによれば、建国の父祖は奴隷制度に原理として反対していたが、必要不可欠なものとして容認せざるを得なかった。しかし、1850年代になって必要不可欠なものが神聖な権利に変えられようとしている。独立宣言ですべての人が平等に作られていることが宣言されたのにも拘わらず、今やある者が他の者を奴隷にすることが自治の神聖な権利と宣言されるようになっている。リンカンは、南部は北部とともに、北西部領地条例とミズーリ妥協で決定された長期にわたる妥協を復活させるべきだと論じた。1858年の上院議員候補指名受諾演説で以下のようにリンカンは述べている。

「分れたる家は立つこと能わず。私はこの政府が恒久的に半ば奴隷州、半ば自由州で存続することはできないと信じる。連邦が崩壊することを私は期待していない。この家が倒壊することも期待していない。しかし、この政府が分裂することを止めることを私は期待している。それは完全に1つのものとなるか、完全に別のものとなるかである」[vi]

「分れたる家は立つこと能わず」という言葉は新約聖書に由来する。キリストが病める者や悩める者を癒した時に、それを見ていたパリサイ人は、キリストが悪魔の頭を使って悪魔を追い出しているのだと非難した。キリストは、その非難に答えて、悪魔達が内部で諍いを起こしているのであれば、きっと悪魔たちは滅びるに違いないと言った。アメリカがこのまま奴隷制をめぐって分裂していれば滅びてしまうかもしれないという強い警戒を示した言葉であった。リンカンはこの演説で、ダグラスの住民主権の論理は、もし誰かが他人を奴隷にしようとした場合に第三者がそれに反対することができなくなる危険な理論だと指摘した。さらにドレッド・スコット事件に関してブキャナンと最高裁の間で予め何らかの打ち合わせがあったと示唆した。そして、比喩を使って、ダグラス、ピアース、ブキャナン、トーニーの4人が共謀して奴隷制度を擁護しようとしたと仄めかした。

リンカンは、この指名受諾演説をはじめとして少なくとも60回の演説をイリノイ州各地で行った。総移動距離は約7,000キロに及ぶ。中でも全米の注目を集めたのがダグラスと7回にわたって行った公開討論である。毎回3時間にも及んだ熱戦である。最初に話す者がまず1時間話した後、相手が1時間30分話し、それから先に話した者が再び30分話すという形式である。「大草原が炎上している」と当時の新聞は公開討論の過熱ぶりを伝えている。

 リンカンとダグラスの公開討論は、「公開討論」という言葉を聞いて我々が想像するものとはまったく異なるものであった。一言で言えば、それはお祭りであった。ご馳走が並べられ、旗が賑々しく翻る。礼砲が鳴り響き、行進曲が演奏される。道は馬車や人でごった返し、周辺のホテルは満員になった。ソファで眠れる者はまだましなほうで、ロビーにまで宿泊客が溢れたという。とにかく、普段の人口に倍する数の群衆が会場となった町に押し寄せ大変な人出となった。最も少ない時でも1,200人、最も多い時は2万人にのぼったという。それだけ人が集まったのは当時の地方社会では娯楽が少なく政治的な演説も娯楽の一種として考えられていたからである。

 支持者達は、リンカンが駅に到着すると、6頭の白馬が牽く馬車に乗せてリンカンを会場まで連れて行ったという。なにしろお祭りであるから、討論の最中も群衆は黙って静かにしてはいなかった。盛んに拍手をしたり、野次をとばしたり大変な騒ぎであった。まだ現代のように記録する手段が発達していなかったので、討論会の内容は速記記者の記録による。速記記者を雇っていたのは主に新聞である。この当時の新聞は、販売部数を確保するために政治色や党派色が露骨であった。そのため何人かの速記記者の記録が残っているが、それぞれ食い違っている。しかし、おおまかに討論の流れを追うことはできる。

 ダグラスはリンカンを、完全な奴隷制廃止を求める急進派だと批判した。ダグラスによれば、建国の父祖達はそれぞれの州がそれぞれのやり方で問題を処理する住民主権を認めているので、奴隷制度を認めるか否かはそれぞれの州に任せるのは当然であった。そして、独立13州のうち12州が奴隷制を容認していたという事実から、建国の父祖達の意思を正しく読み取っているのは自分であるとダグラスは主張した。

 対するリンカンは、南部諸州が奴隷を所有する権利は憲法によって認められているが、これ以上の奴隷制拡大を認めるべきではないと主張した。そして、独立宣言はすべての人の平等を唱え、ジェファソンも奴隷貿易の廃止を訴えているので、建国の父祖達の意思を継いでいるのはダグラスではなく自分である反論した。それに加えてリンカンは、奴隷制度は道徳的に悪であると断言し、ダグラスは道徳に無関心なのではないかと攻撃した。

 リンカンの攻撃に応えてダグラスは、奴隷制度を認めるか否かは住民主権の問題であって、道徳的な問題ではないと反論した。道徳的な問題は良心と神の問題であり、政治的討論とは関係ないと訴えた。

 リンカンは、準州の住民が奴隷制度反対を決定できるかどうかとダグラスに問い質した。これはダグラスにとっては手痛い質問であった。ダグラスの考え方である住民主権からすればもちろん準州の住民は奴隷制反対を決定できるはずである。しかし、一方で最高裁は、ドレッド・スコット事件の判決で、事実上、奴隷制度が全国で合法であると認めていた。民主党のブキャナンはこの決定を支持していた。最高裁の考えに従えば、準州の住民は奴隷制度に反対することはできなくなる。ダグラスは自らの考えである住民主権を放棄するか、それとも民主党が支持するドレッド・スコット事件の判決に反対するか、窮地に追い込まれた。

 しかし、ダグラスはリンカンの追及を見事に切り抜けた。ダグラスは、もし準州の住民が奴隷制度に反対しようとすれば、奴隷制度を維持するための法を制定しなければよいと答えた。そうすれば奴隷制度は実質的に存続できないとダグラスは考えた。これならドレッド・スコット事件の判決にそむくことなく、住民主権の原則を反映させることができる。しかし、これによりダグラスは奴隷制度を維持しようと考える南部の反感をかうことになった。

  連邦上院議員選挙はダグラスが制した。しかし、1860年の大統領選挙ではリンカンはダグラスを破ることができた。1860年、共和党はシカゴで全国党大会を開き、リンカンを大統領候補に指名し、奴隷州における奴隷制度に干渉しないが、準州への奴隷制度の拡大を阻止するという綱領を採択した。また共和党は長らく北部が望んできた国内開発事業と保護関税、さらに開拓民に半マイル四方の公有地を無償で与えることを約束した。それは寛大な土地政策を要望する西部地方の自由農民とアメリカ産業の保護を要請する北東部地方の製造業の利益の提携を実現したという点で画期的であった。

チャールストンで開催された民主党全国党大会は奴隷制度に関して意見が分裂した。南部人はカンザスが奴隷州として連邦に加入することを期待してダグラスがカンザス=ネブラスカ法で示した住民主権を支持したが、その結果、期待は裏切られた。南部人は民主党の綱領に奴隷制度擁護を認める条項を挿入するように求めたが、否決された。そのため南部の代表は民主党全国党大会から退場した。結局、大統領候補は指名されず、全国党大会は延期された。ボルティモアで再開された民主党全国党大会でダグラスが大統領候補に指名された。その一方で、南部の代表は独自に党大会を開催し、ジョン・ブレッキンリッジ(John C. Breckinridge)副大統領を大統領候補として指名した。大部分が元ホイッグ党員とアメリカ党員から構成される第三政党の憲法連合党は、ジョン・ベル(John Bell)上院議員を大統領候補に指名した。大統領選挙は実質的に北部と南部の2つの選挙であった。1860年の大統領選挙は主に4人の候補で争われた。北部の票は共和党候補のリンカンと民主党候補のダグラスの間で分かれ、南部の票は南部の民主党を代表するブレッキンリッジと立憲連合党のベルの間で分かれた。

リンカンはニュー・ジャージー州を除く北部の州のすべて、17の自由州の180人の選挙人を獲得した。北部の一般投票の獲得率は54パーセントに達した。しかし、南部でほとんど得票できなかったために全国的な一般投票の獲得率は40パーセントに過ぎなかった。たとえ民主党が団結していてもリンカンは大半の選挙人を獲得しただろうが、一般投票の獲得率はさらに下がっていただろう。ブレッキンリッジは11の奴隷州を制し、72人の選挙人を獲得した。リンカンの共和党は1860年以後、大統領職を南北戦争から南部再建期を通じて支配した。民主党は引き続く17回の大統領選挙の中で4回しか勝利できなかった。そして、1932年にフランクリン・ローズヴェルトが当選するまで完全に政治勢力を回復することはなかった。

1860年の大統領選挙におけるリンカンの一般投票の獲得率は史上最低である。1860年の大統領選挙でリンカンは南部でほとんど票を得られず、奴隷制度問題によって引き起こされた道義的危機を解決するのに必要な信任を十分に得ることができなかった。リンカンの勝利は南部諸州の脱退を促した。ワシントンに向けて旅立つ前に、リンカンは次のように別れをスプリングフィールドの市民に告げた。

「我が友人達よ、この別れに臨んで私が感じている悲しさを正しく理解できる者はいないし、私のような状況に立つ者もいない。この場に、そしてこれらの親切な人々に私はすべてを負っている。ここで私は4半世紀を暮らし、若者から壮年になるまで過ごした。ここで我が子供達は生まれ、その中の1人が葬られている。私は今、旅立つが、私がいつ戻ることができるのか、それとも戻ることができるかどうか分からないが、私の前にはワシントンが背負った以上に大きな仕事がある。ワシントンをかつて導いた神の助けなしで私は成功することはできない。その助けがあれば私は失敗することはない。私とともにあり、あなた方とともにあり、あらゆる善とともにある神を信じて、すべてがうまくいくことを確信して願おう。皆を神の御手に委ね、皆も祈りの中に私を神に委ねることを願って、心を込めた別れを告げる」[vii]

リンカンはワシントンに向かう途中、ボルティモアで電車を乗り換える隙を狙って暗殺しようとする企てがあるという警告を受けた。そのため夜陰に乗じてボルティモアを通過した。18613月、リンカンは南部の脱退によって国中が暗澹たる雰囲気に包まれる中、ワシントンに到着した。暴力を恐れて、リンカンは兵士によって守られた秘密の経路を使って就任式に向かった。リンカンはブキャナンとともに無事に連邦議会議事堂に到着し、東翼柱廊玄関で宣誓を行った。

ワシントン政界はリンカンを温かく迎えたわけではなかった。大統領候補指名でリンカンに敗れたスーアードは、リンカンが連邦下院議員を1期しか務めたことがなく、1858年の連邦上院議員選挙でダグラスに敗れていたことからリンカンを見下していた。東部の共和党の指導者達はリンカンを大草原の弁護士と見なし、大統領候補指名を適任者から奪った成り上がり者だと思っていた。選挙の後、リンカンはスーアードを懐柔し、国務長官の座に就けた。リンカンは閣僚を競合者から選んだ。スーアードに加えてサモン・チェイス(Salmon P. Chase)を財務長官に、エドワード・ベイツ(Edward Bates)を司法長官に任命した。彼らはそれぞれ政治地盤を持ち、リンカンよりも自分が大統領に相応しいと思っていた。競合者を閣僚に任命することで、リンカンは共和党の指導者に、辺境出身の大統領と蔑んだまさにその人物が南部の脱退という未曾有の危機に対処しなければならないということを目の当たりにさせた[viii]

南部の脱退に直面してリンカンは186134日の就任演説の中で南部に自らの政策が強制ではなく寛容に基づくものであることを保証した。当初、リンカンはスプリングフィールドを出発する前に書き上げた演説草稿の中で、平和か戦争かという重大な問題を決めるのは南部であって自分ではないと南部に強く決断を迫るつもりであった。しかし、リンカンが閣僚に助言を求めた際にスーアードは草稿が南部に対して挑発的過ぎるとして修正を提案した。スーアードの提案に沿って修正が行われ、宥和的な結びの言葉が付け加えられた。南部の人々の間には共和党の大統領の就任により、彼らの財産、平和、そして個人の安全が脅かされるという恐れが広がったが、リンカンはそうした恐れは根拠がないとして斥けた。以前からの姿勢を堅持してリンカンは既に奴隷制度が存在している州の奴隷制度に介入しないことを確約するとともに分離には絶対に同意しないとい姿勢を明示した。

「普遍的な法則及び憲法に基づいて考える時、アメリカ合衆国の連邦組織は恒久的なものであると私は信じる。いかなる州も単に自分の州だけの動機から連邦を脱退することは法的に許されない。そして、憲法そのものが明確に私に命じているところに従い、連邦の諸法規がすべての州において忠実に施行されるように、私の力の及ぶ限り注意したいと思っている。私は、私に委託された権限を行使して、政府に属する財産と土地を保持し領有し所有し、また課税と租税を徴収することに努める。不満を抱く同胞諸君、内乱の重大危局を避ける鍵は私の手にではなく諸君の掌中に握られている。政府は諸君を攻撃しない。諸君自身が攻撃者となることがなければ、闘争は起こり得ない。諸君は、我が国の憲政を破壊しようと天に誓ったはずもなく、また私は『憲法を維持し保護し擁護すべきこと』を極めて厳粛に宣誓しようとしている」

 リンカンが主張するには、国が実質的に直面している問題は奴隷制度の拡大をめぐる論争であった。南部が奴隷制度を正しいと考えてそれを拡大しようとしているのに対し、北部は奴隷制度を誤りだと考えてそれを拡大すべきではないと考えている。こうした道徳的な論争は、最高裁がドレッド・スコット事件で示した判決のように法律上の権利で解決できる問題ではない。その代わりに奴隷制度問題は既定の選挙という手段を通じて世論という名の法廷で決定すべき問題である。またリンカンは、連邦が各州に先立って存在すること主張し、州が連邦から脱退する権利を否定し、大統領として連邦政府の財産と土地の保有維持の受託、現政府を擁護して持続させる責務、憲法の擁護の宣誓を改めて確信し、国民の伝統と同胞愛に基づいて連邦を結ぶ紐帯の存続を祈念した。

 リンカンの言葉は南部の諸州に聞き入れられなかった。18601220日、サウス・カロライナ州が連邦から脱退した最初の州になった。1832年の連邦法無効宣言のようにサウス・カロライナ州は,脱退は州が持つ憲法上の権利であり、諸国の間で分離した独立した地位を回復することを宣言した。リンカンの就任演説が行われるまでに、さらにジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州、フロリダ州、ルイジアナ州、そしてテキサス州の南部の6つの州が連邦から脱退した。リンカンはジャクソンに倣って就任演説の中でそうした脱退を反逆として非難した。リンカンは、憲法が命じるままにすべての州で連邦法を執行し、連邦を擁護することを宣言した。

 奴隷制度問題を平和的に解決しようとするリンカンの提言は分離主義者の指導者により拒絶された。南部の白人達はリンカンの妥協の呼びかけを強硬な奴隷制度廃止論と区別しようとはしなかった。彼らは半分以上、正しかった。なぜならリンカンの妥協の呼びかけは辛うじてリンカン自身の奴隷制度に対する義憤を隠すものであったからである。リンカンは奴隷制度が2つの生活様式に根差した善悪の問題であり、政治的妥協では解決が難しい問題であることを理解していた。こうした信条は南部にとって受け入れ難いものであった。リンカンもまた共和党の基盤である準州での奴隷制度拡大阻止について妥協する気はなかった。リンカンの就任演説が行われる前に、南部の諸州の脱退に対してそうした申し出が交渉の一部として提案されることを知ったリンカンは即座に反応した。リンカンは共和党の議員に準州での奴隷制度拡大阻止については妥協するつもりはないことを伝えた。リンカンのこうした態度は、どのような犠牲を払っても連邦を擁護するという考えにそぐわない感じである。憲法の文脈でのリンカンの理想とする平等と自由は、北部と南部の歩み寄りが南部の生活様式を否定するような道徳的基盤でしか成しえないことを意味していた。共和党もリンカンの考えに同意していた。

18601218日、共和党の上院議員ジョン・クリッテンデン(John Crittenden)は、憲法修正によって州法による以外は奴隷制度を侵すべからざるものと定め、逃亡奴隷を取り返せなかった奴隷主に補償を与え、ミズーリ妥協に基づいて北緯3630分線を太平洋岸まで延長し、その以北では奴隷制度を禁じ、以南では奴隷制度を認めるという妥協を提案した。リンカンは、もし南部の上院議員が連邦脱退に反対することを表明するのであれば、憲法修正によって州法による以外は奴隷制度を侵すべからざるものと定める点と逃亡奴隷を取り返せなかった奴隷主に補償を与える点を支持しようと約束した。しかし、リンカンは、ミズーリ妥協に基づいて、北緯3630分線を太平洋岸まで延長し、その以北では奴隷制度を禁じ、以南では奴隷制度を認めるという点については容認するつもりはなかった。リンカンが共和党の基盤だと見なしている準州での奴隷制度拡大の禁止を断念することは、共和党にとって致命的であるだけではなく、アメリカの民主主義にとっても致命的であると考えたからである。南部の上院議員は連邦脱退に反対することを表明することはなかった。またクリッテンデン妥協案に対して共和党の議員は1人も賛成票を投じなかった[ix]

さらにワシントンで2週間にわたる平和会議が21州の代表を集めて行われた。これは南北戦争を回避するための最後の努力となった。平和会議はヴァージニア州議会の提案によって開催され、憲法修正を行うことで脱退した南部諸州の復帰を促すと共に、境界奴隷州を満足させて連邦に慰留することが目的であった。平和会議は、準州の奴隷制度に関して、クリッテンデン妥協案と同じく、ミズーリ妥協に基づいて北緯3630分線を太平洋岸まで延長する案を採択した。さらに将来の領土の獲得は、奴隷州と自由州両方の多数の賛成を要する。既存の奴隷制度に影響を及ぼすような法を連邦議会は制定しない。逃亡奴隷を返還するのを規制するような法を州議会は制定しない。外国奴隷貿易を恒久的に禁止する。不法行為で逃亡奴隷を解放された奴隷主に完全な補償を与える。会議はこうした提案を採択し、連邦議会に送付した。連邦議会は早速、憲法修正案を可決し、各州に送付したが、南部諸州を復帰させることもできず、境界奴隷州を満足させることもできなかった。共和党の政治綱領を実行しようとするリンカンと準州での奴隷制度拡大阻止について妥協を拒絶する共和党の姿勢は、奴隷制度の廃止を阻止しようとする南部の指導者達の不安を強めただけであった。

リンカンが就任する頃までに南部連合はペンサコーラのピケンズ要塞とチャールストンのサムター要塞を除いて暗部の要塞と海軍の造船所を占拠した。そうした施設は連邦からの脱退によって管轄権が南部連合に移ったと見なした。南部連合は、残るピケンズ要塞とサムター要塞の明け渡しを要求するためにワシントンに使節を派遣した。その一方でリンカンのもとにサムター要塞の指揮官から、食糧の補給がなければ降伏せざるを得ず、南軍の攻撃から要塞を守るためには2万人の兵士が必要であるという要請が届いていた。リンカンは要塞の明け渡しを拒否し、7人のうち5人の閣僚の反対を押し切って、サムター要塞に補給船を送る準備を行うように命じた。リンカンはサウス・カロライナ州知事にサムター要塞に食糧のみを補給すると通告した。さらにリンカンは、もし補給が阻害されなければサムター要塞に通告なしで兵員や武器弾薬を補給することはないと確約した。こうしたリンカンの措置は北部の世論からすれば危険を回避する措置と見なされる一方で、南部連合を窮地に追いやった。なぜならもし食糧の補給を阻めば北部が実力行使に訴えると考えられたからである。しかし、食糧の補給を認めれば、北部によるサムター要塞の占拠が続くことになる。それは南部連合の威信を損なうことになる。1861412日、南部連合はチャールストン港のサムター要塞を砲撃することで答えを出した。補給船が到着したが要塞に近付くことはできなかった。サムター要塞は集中砲火を浴びて終日応戦したが、弾薬が尽きたために翌日、降参した。サムター要塞の攻撃によってリンカンは南部連合に対して非常手段をとる大義名分を得た。リンカンは連邦が直面しているのは極めて普遍的な危機だと主張した。

「この問題は単にアメリカ合衆国の運命に関わるだけではない。これは立憲共和国もしくは人民政府、つまり同一の人民によって運営されている民主主義国家に対して、自国内の敵から領土の保全を維持できるか否かという問題を全人類に提示している。これはまた、国内の不満分子がその人民政府を瓦解させ、地上から自由な政府を根絶やしにしてよいものか否かという問題を提示している」[x]

さらにリンカンは「すべての共和国には、こうした内在的で致命的な弱点が存在しているのか、政府は必然的にその人民の自由を奪う程、強力であるべきなのか、さもなくば政府自体を維持していけない程、弱体でなければならないのか」という疑問を提示した。そして、リンカンは「連邦政府に残された唯一の道は政府の戦争権限を発動し、政府打倒を目指す暴力に対抗するために武力を行使するより他ない」と主張した。もし南部の連邦脱退が暴力的で取り返しがつかないものであれば、憲法を擁護するという誓約に従って、奴隷解放も含む非常手段をとるべきだとリンカンは信じていた。リンカンは南北戦争を異なる政府間の戦いではなく、南部の反乱と見なしていた。

リンカンは南部の州権の主張を認めなかった。南部連合の考えでは州は連邦に先立って存在し、別個の主権を持つ主体であった。しかし、リンカンはそれとは反対の考えを持っていた。リンカンによれば、大陸会議がまず存在し、その後、各植民地から各邦が形成された。これまで州が連邦を離れて別個に存在したことはなく、主権を政治上、より優位なるものがない政治共同体と定義した場合、州権は認められず、もし合衆国憲法が分離の原理を認めているのであれば、いかなる政府も存続できない。

リンカンは1864年の手紙の中で国内の反乱が憲法を基本法とする国家を守るために許される限りの手段を使う必要があると述べている。法の基盤自体、すなわち連邦の保全が脅かされている時に法の細かい点を守ることは無意味であるとリンカンは論じている。続けて次のように主張している。

「憲法を擁護することができて国を失うということがあり得るだろうか。一般法によって、生命と四肢は守られるに違いないが、度々、四肢は生命を守るために切り離される。四肢を救うために生命が失われることはない。他の状態では憲法に違反する手段も国家の保全に不可欠であれば合法的になると私は思う」[xi]

またリンカンは最高司令官として大統領は、反乱の際に人民の安全のために何が求められるか決定する権限を持っていると主張した。もし大統領がそうした権限を濫用すれば人民は大統領を弾劾するだろうとリンカンは述べた[xii]

 リンカンの選出に対する南部の諸州の反乱はジャクソニアン・デモクラシーの時代に起きた大統領制度の変容を劇的に確立させるものであった。少数の南部の指導者は、奴隷制度に関する大統領の権限が制限されると論じながら連邦から脱退しないように勧めたが、そうした助言は、1829年以来、大統領の権限の拡大を見てきた人々には無意味であった。大統領の権威は人々の心の中で過大評価されていたが、大統領制度が連邦政府の中で最も重要な機関であるという通念は大統領職を強力な役職に変えた。 

 1861412日に反徒がサムター要塞を攻撃した後。リンカンは憲法に違反するような手段に訴えることを躊躇わなかった。「戦時においては、軍の最高司令官として、私は敵を征服するために最良の方法をとる権限を持っている」とリンカンは述べている[xiii]74日に議会が招集されるまで、連邦を擁護し戦争を遂行するあらゆる施策が大統領の権限で行われた。南北戦争の初期の段階は、大統領が法を手中に握る劇的な例を示した。それはリンカンが「大統領の戦争」を遂行したと言えた[xiv]。リンカンの行動、例えば415日に通常の法の手続きでは抑えることができない程、強力な反乱を鎮圧し、法を支障なく施行するために75,000人の民兵を召集したことは大統領の権限の適切な範囲内であった。しかし、リンカンは大統領の権限の適切な範囲を踏み越えた。反乱を迅速に鎮圧するために、リンカンは南部海岸の封鎖を行い、海軍に18,000人、陸軍に22,000人の兵士を増員した。封鎖は議会の宣戦布告を必要とする戦争行為である。しかし、リンカンにとって南北戦争はあくまで反乱であり対外戦争ではなかった。また前もって議会に予算を求めることなく憲法上の手続きを無視して5隻の海軍船舶の購入を命じた。さらにフィラデルフィアとワシントンを結ぶ鉄道沿線で人身保護令状を差し止めた。人身保護令状については憲法第1条第92項で「人身保護令状の特権は、反乱あるいは侵略に際し公共の安全にもとづく必要のある場合のほか、停止されることはない」と定められている。人身保護令状は、恣意的な行政権に対して個人を守るためのものであり、停止することができるのは議会のみであった。リンカンは議会の承認を予め得ることなく人身保護令状を差し止めた最初の大統領になった。1862214日、リンカンは自らが発令した人身保護令状の差し止めを取りやめ、もはや危険ではないと見なされた人々に恩赦を与えた。リンカンは人身保護令状を差し止めた理由を、政府のすべての省庁は南部の反逆によって機能しなくなり、連邦議会は国家非常事態を想定することも、またこれに備えることもできなかったので、反乱に際して憲法が行政府に委託した臨時の権限を全力で用いるように強いられたと弁解した。

これまで反乱は何度か起きてきたが人身保護令状を差し止めた大統領はいなかった。アメリカ史上、初めて人身保護令状が差し止められた。人身保護令状の差し止めは、大統領の権限の下で働く軍人や政府の役人に広範な権限を与えた。軍人や政府の役人は法律で明確に定義されていない不法行為に対して令状なしで逮捕することができ、法廷の前でそうした行動について釈明する必要がなかった。

ワシントンと北部の州を結ぶ鉄道はボルティモアを通っていた。ボルティモアでは分離主義の傾向と反共和党の感情が強かった。反乱を鎮圧するためにリンカンが召集した軍隊はボルティモアで暴徒と衝突した。南部に同情的な暴徒は兵士の活動を妨げようとした。ボルティモアの市長は北部からの「侵略」に対抗するように市民に訴えかけ、メリーランド州知事に連邦軍をこれ以上、街に入れないために鉄道橋を破壊することを命じるように説得した。メリーランド州を通る電信線は遮断され、ワシントンに対する侵略が差し迫っているという噂が流れた。リンカンが人身保護令状の差し止めを命じたのは、ボルティモアが暴徒で溢れ、橋が燃やされた直後である[xv]

リンカンは軍隊に反乱を支援している疑いのある者は誰でも拘留するように命じた。人身保護令状の差し止めに関して、大統領は憲法を擁護する義務があるが国家を保全するために敢えてそれに反することも緊急時には必要であるとリンカンは考えた。大統領は法が忠実に執行されるように配慮する義務がある。したがって法の執行を妨げようとする者に対して人身保護令状を差し止めることは正当化される。さらに軍隊の最高司令官として大統領は敵を屈服させるために最善の施策をとることができる。しかし、リンカンを批判する者は、人身保護令状の差し止めは議会の権限に属すると主張する。これは非常に議論を呼ぶ問題であり、アメリカ人の自由の権利に打撃を与える問題であった。

18615月、連邦軍は分離主義者に同調し鉄道の橋を破壊する支援を行ったで理由でジョン・メリマン(John Merryman)を逮捕した。メリマンはマクヘンリー砦に軍事捕虜として収監された。ロジャー・トーニー最高裁長官はメリマンの拘留の正当性を判定させるように軍隊に要求した。連邦軍はリンカンの命令に基づいてトーニーの要望を拒絶した。メリマンの申し立てによる事件で、トーニーは、人身保護令状の差し止めを正当化するリンカンの主張に挑戦した。法が忠実に執行されるように配慮する大統領の義務は、外部の力が法の執行を妨げないようにすることである。したがって、司法府の権限を脅かす外部の力があった場合、大統領は司法府を助けなければならないし、軍隊を使って司法府の権限を剥奪する権利はない。またトーニーは大統領の非常時大権について、もし行政府が他の府を踏みにじるようなことがあれば、アメリカ国民はもはや法の下で安心して暮らすことはできないと述べた。もし非常時の故を以って、大統領が憲法を放棄すれば、憲法は空文化する。行政府ではなく議会のみが人身保護令状を差し止めることができるのでメリマンの拘留は違法である。

しかし、リンカンはこうしたトーニーの意見に対して、人身保護令状の差し止めをどの府が行うかは憲法で明確に規定されていないと述べた。また人身保護令状を差し止めることができる条件は憲法で明確に定められている。トーニーの憲法解釈は憲法を自滅に追い込んでしまう。大統領の最大の憲法上の義務は憲法を擁護することである。そのため大統領は憲法を擁護するのに必要な施策をとらなければならない。人身保護令状の差し止めなくしては、リンカンは破壊活動を行う者を南部に同情的な判事がすぐに解放してしまうのを阻止できなかった。それは連邦軍の補給線を危険にさらすことを意味していた。また現行法では未曾有の危機に対応するのに十分ではなかった。

リンカンはドレッド・スコット事件で示された最高裁の解釈を意に介することなくすべての準州とコロンビア特別行政区で奴隷制度を撤廃する法に署名した。その署名に際してリンカンは、当該の地域で連邦議会が奴隷制度を廃止する憲法上の権限に関して決して疑いを抱かないという声明を発表した。リンカンはさらに最高裁の黒人の公民権を否定する憲法の解釈に従うことを拒んだ[xvi]

北部は南部に比べ人口と工業力、そして海軍力で圧倒的に有利であった。そのため南部に対して封鎖を行うことができ、南部が外国から必要な物資を輸入することを妨害することができた。南部連合は造船の中心地を持たず、ほとんど軍艦を建造できなかったために北部の封鎖に対抗できなかった。その一方で南部は多くの優秀な軍事指導者を擁し、地理に明るい場所で戦闘し、自分達の故郷を守るという意思の下、兵士の頑強な抵抗を期待することができた。またヨーロッパの工業に不可欠な綿花を輸出していることで南部はヨーロッパ諸国の同情を期待することはできた。戦争目的の違いも重要であった。北部は連邦の再統合を戦争目的としていたために南部連合政府を完全に瓦解させなければならなかった。しかし、南部は独立を維持することが戦争目的であったので北部の政府を転覆させる必要はなく、ただ北部が再統合を諦めるまで攻撃を撃退しさえすればよかった。

リンカンは優勢な兵力と海軍の優越を理解し、戦略の全体構想を持っていた。リンカンは、軍事経験は豊富とは言えず、知識を補うために連邦議会図書館から戦略に関する書物を借りて深夜まで読み耽ったというが、最高司令官に必要な知力と強固な性格を兼ね備えていた。リンカンはワシントンを離れて前線を11回も訪れ、総計42日間を軍とともに過ごした。戦略の実施についても直接、前線司令官に命令を出すなど積極的に関与した。北軍の戦争開始初期の目的は、志願兵の大部分に訓練を施している間に南部を海上封鎖し、重要な戦略拠点を確保することであった。

まずケンタッキー州、ミズーリ州、ウェスト・ヴァージニア州といった境界諸州の支配権を獲得することから始められた。18617月、最初の主要な戦闘がブル・ランで行われたが、多くの市民が戦闘を見物するために集まった。彼らは連邦軍が烏合の衆である南部連合軍を容易く打ち破ると信じていた。しかし、ピエール・ボーレガード(Pierre G.T.Beauregard)、ジョゼフ・ジョンストン(Joseph E. Johnston)、ストーンウォール・ジャクソン(Stonewall Jackson)率いる南軍は、アーヴィン・マクドウェル(Irvin McDowell)率いる北軍を打ち破った。この敗北によって連邦は戦闘が容易に終わらず長期化することを悟った。連邦は長期戦の準備を始めた。それに対して南部連合は、北軍の海上封鎖によって手遅れになる前に綿花をヨーロッパに出荷して武器弾薬を購入せず、1861年度の課税を行うこともなかった。

イギリスは南北戦争に関して中立を表明していたが、トレント号事件によってイギリスと連邦は危うく戦争になるところであった。南部連合の2人の外交官とその2人の秘書がイギリスの郵便船に乗ってハヴァナからオランダ領西インド諸島のセント・トマスに向かっていた。4人はそこからイギリスを目指す予定であった。4人が乗船していることを知った連邦の軍艦はワシントンから命令を仰ぐことなく、その郵便船に発砲して停船を命じ、4人を連行し監禁した。イギリスはこの事件をイギリス国旗への侮辱と見なした。イギリス政府は、謝罪と4人の釈放を求めた。リンカンはイギリスの脅迫に屈することで生じる政治的影響を心配した。しかし、最終的にスーアード国務長官は4人の釈放をイギリスに通告し危機は回避された。

リンカンはマクドウェルを更迭し、代わりにジョージ・マクレラン(George McClellan)を指揮官に据えた。マクレランは高い才能を持った軍事組織者であったが、戦場では慎重過ぎた。マクレランは海上封鎖を長引かせることで南部の勢いを削ぎ、その間に大規模な攻撃の準備を整えるのが得策だと考えていた。マクレランが積極的な攻勢に出ないためにリンカンの政治的立場が損なわれ、リンカンのリーダーシップに挑戦する過激派が頭角を現した。議会は戦争指導合同委員会を設置した。議会は大統領に広範な戦争権限を与えたにも拘わらず、目立った戦果があげられないことに焦燥感を深め、トレント号事件に危機感を抱いたのである。また戦費の増大で国家財政が圧迫されるのは火を見るよりも明らかであった。こうした事態に直面して共和党過激派は、大統領に積極的な攻勢と奴隷解放政策の推進を求めた。戦争指導合同委員会は大統領の戦争指導と軍隊の戦争遂行状況を監視した。しかし、同委員会は様々な審問を行い、前線に委員を派遣し、リンカン政権の戦争遂行努力を損なう結果をもたらした。

マクレランは1862年度の作戦を立案し、リンカンはそれを承認した。東部戦線ではマクレランがリッチモンドに向けて進撃する。西部戦線では、テネシー州東部で包囲にさらされている北軍を救出し、リッチモンド=メンフィス間の鉄道を遮断する。ミシシッピ川に沿って陸軍を南下させ、海軍と協力してメキシコ湾を通ってニュー・オーリンズとヴィックスバーグへの突破口を開く。北軍に最初に重要な勝利をもたらしたのはグラントであった。テネシー川に築かれたヘンリー砦とカンバーランド川に築かれたドネルソン砦が、南軍が占領する西部への進路を扼していた。グラントは両砦を攻略することができれば、南部連合の領内に深く進攻できる水路を確保でき、側面を突くことができると考えた。ヘンリー砦はグラントが指揮する陸軍部隊が到着する前に艦隊の砲撃によって降伏した。グラントは軍を進め、ドネルソン砦を降伏させることに成功した。降伏の条件を聞かれた時、グラントは「無条件かつ即時の降伏以外は受け入れられない」と答え、一躍その名を知られるようになった。この勝利によって北軍はテネシー州を実質的に支配下に置くことができた。

攻勢に出たグラントであったが友軍の合流を待つ間にシャイロウで不意を襲われ南軍の攻撃を受けた。当初、北軍は南軍に圧倒され敗色が濃厚であったが反撃に転じて大きな犠牲を払いながらも勝利を収めた。北軍は実に55,000人の兵士のうち13,000人以上を失った。グラントを更迭するように求める声が高まったが、リンカンはそうした声に断固として応じようとはしなかった。シャイロウの戦いの後、北軍は西部の奥深くに2度にわたって侵攻した。その一方で北軍の海軍はニュー・オーリンズを攻略した。さらにバトン・ルージュとナッチェズが降伏した。しかし、当初の目標であったヴィックスバーグを攻略することはできなかった。西部戦線ではすべての目標を達成することはできなかったが、ミシシッピ川の大部分を北軍の支配下に置くことに成功した。

東部戦線では、マクレランが作戦に従ってリッチモンドに進撃することになった。マクレランはフレデリックスバーグを経由して正面からリッチモンドに進撃しようとしたが、ジョンストン率いる南軍がフレデリックスバーグを占領していたので計画の延期をリンカンに求めた。リンカンはマクレランにそのまま正面突破を目指すか、側面に迂回して回り込むかを選択するように求めた。マクレランは迂回してリッチモンドに進撃することに決め、11万人の兵士を引き連れて海路、ヴァージニアの沿岸に上陸し、ヨーク川とジェームズ川の中間地帯を慎重に前進した。そのため南軍は軍を結集させ、徴兵を行う時間的余裕を持つことができ、7日間戦役でマクレランの進撃を阻止することができた。さらに南軍のロバート・リー(Robert E. Lee)は、メリーランド州からペンシルヴェニア州ハリスバーグに向けて積極的な攻勢を行った。ハリスバーグを攻略することができれば、東部の各都市と西部を繋ぐ交通路を遮断することができ、連邦を分断することができた。そうすることでリーは南部連合をリンカンに承認させようと考えた。その途上、リーは18628月に、第2次ブル・ランの戦いでジョン・ポープ(John Pope)率いる北軍を破り、ポトマック川を渡ってメリーランド州に前進した。第2次ブル・ランの敗北によって北軍がヴァージニアで得た戦果は失われた。連戦で南軍の兵士は疲弊していたが、リーは奴隷州のメリーランドに入れば歓迎されるだろうと期待して作戦を強行した。

9月、マクレランは、アンティータム・クリークでリーを迎え撃ち、凄惨な激戦の末にリーの前進を阻み南方へ撤退させた。アンティータムの戦いは南北戦争の激戦の1つであり、7時間程の戦いで6,000人以上の兵士が戦死し、17,000人以上の兵士が負傷した。連邦軍は南部連合軍をヴァージニアに押し戻すことに成功したが、マクレランは積極的に南部連合軍を追跡しようとはしなかった。もしマクレランがリーを追撃していれば南北戦争はその時に終わっていただろうと考えられている。186211月、リーの部隊を殲滅することで南部連合を屈服させようと望んでいたリンカンはマクレランを更迭し、アンブローズ・バーンサイド(Ambrose E. Burnside)を指揮官に任命した。バーンサイドはラパハノック川を挟んでフレデリックスバーグの対岸に軍を集結させ、リッチモンドへの侵攻を試みた。リーはフレデリックスバーグを見下ろす台地に陣を構えた。バーンサイドはリーの陣地に対して正面攻撃を仕掛けた。その結果、北軍は南軍の倍以上の死傷者を出してラパハノック川の対岸に撤退した。

リンカンの施策の多くは、戦争遂行の合憲性について疑念をもたらした。議会によって認められていない軍隊の拡大は議会の憲法によって定められた「軍隊を募集し、これを財政的に維持する」権限を明らかに侵害していた。186153日、既存の法の範囲を超えて正規軍を募集する大統領令の中でリンカンは自らに与えられた権限を踏み越えていることを率直に認めた。大統領を批判する者は、憲法第1条で示されている緊急時の人身保護令状の差し止めを行う権限は議会に属すると指摘した。

 苛烈なリンカンの施策は、共和党員からも軍事的独裁だと非難された。74日まで議会の特別会期を招集しないという大統領の決定はこうした非難をますます助長した。1863年、大統領としてのリンカンの行動の合憲性が拿捕船をめぐる裁判で問題となった。1861419日と27日の大統領令によって南部海岸の封鎖が命じられたが、それに違反する船舶が合衆国海軍によって拿捕されていた。海軍がそうした拿捕を行うことが合法なのか決定する際に、最高裁は初期の段階において戦争が合法なのか否かを決定しなければならなかった。船舶の持ち主は、戦争は議会が1861713日に宣戦布告するまで始まっていなかったと主張した。したがって、議会が招集される前にリンカンが南部の反乱を鎮圧するためにとった施策は封鎖も含めて無効である。

 1863年の緊急事態を考慮して、最高裁は船舶の持ち主の主張を一蹴した。最高裁はリンカンが封鎖を開始した時から戦争の合法性を認め、議会が休会中の間にとった大統領の行動の正当性を支持した。この判決を下す際に最高裁は1861713日に議会がリンカンの命令を認めた法を制定したことに注目した。しかし、判事は、リンカンの一連の行動を正当化するのに法制化が必要であると宣告することを拒んだ。拿捕船をめぐる裁判で最高裁が下した判決は、リンカンの行動が、公共の安全に対する脅威によって、そして、議会が最終的に大統領の行動を容認するという見込みによって正当化されるという主張を支持した。

 リンカンに与えられた非常時の権限は、非常時であるという点でのみ理解される。北部からすれば南北戦争が戦争ではなく反乱として始まったということは法的に重要な側面を持つ。憲法において、大統領は宣戦布告を行うことはできないが、国内で反乱が起きていることは宣言できる。国内で反乱が起きた際に、外国との正式な戦争とは違って大統領に迅速で単独の行動をとることが許されるという点で議会と最高裁は合意しているとリンカンは信じていた。

 反乱を鎮圧する大統領の責任は人身保護令状の差し止めや多くの地域を軍法下に置くことを正当化した。したがって大統領は反乱行為に関与していると疑われる人物を逮捕し勾留する権限と平和な地域に住む市民を軍法裁判にかける権限を要求した。ワシントンも独立戦争の間、軍法裁判を使用した。軍法裁判は戦時の敵勢力の構成員に対して適用され、通常の裁判に適用される規則の範囲外で運用された。リンカンは軍法裁判の使用を認めた最初の大統領である。

リンカンは、南北戦争が進むにつれて、議会からの委任を求めることなく、より幅広い軍事的権限を要求するようになった[xvii]。例えば1862924日の大統領令では、すべての反徒と軍隊の募集を妨げる者、徴兵に抵抗する者、もしくは国家に対して背信行為を行った者は軍法会議か軍法裁判にかけられると宣告された。この命令は北部で激しい論争を引き起こした。南北戦争で初めて行われた徴兵は非常に不人気であった。18637月、徴兵に反対する暴動がニュー・ヨークで起きた。その暴動は南北戦争を除けばアメリカ史の中でも最大級の市民暴動であった。しかし、徴兵に対する抵抗は、軍法裁判と人身保護令状の差し止めが戦時下にある地域だけではなく平和な地域でも必要であるとリンカンに確信させた。

 最高裁はリンカンの軍法に基づいた施策の行き過ぎに挑戦した。しかし、それは南北戦争が終わった後であった。1866年のミリガンの申し立てによる事件で最高裁は、侵略にさらされておらず軍隊から離れている地域の市民を軍法裁判にかけることは違法であるという判決を下した[xviii]。南北戦争中、ラムディン・ミリガン(Lambdin P. Milligan)は反逆罪の容疑で逮捕され、186410月に軍法裁判で裁かれた。ミリガンは1865519日に絞首刑に処せられることが宣告された。そこでミリガンは合衆国巡回裁判所に人身保護令状を請求した。最高裁は、軍法の無軌道な行使は憲法によって保障された公平な裁判を受ける権利を侵害し、単に非常時であるという理由で自由が無効にされることはないと宣告した。さらに最高裁は、軍法は通常の裁判所が改定されている場には存在せず、実際に戦争が行われている場に限定されるとした。ミリガンの刑は大統領により終身刑に変えられ、1866410日、最高裁の判決に基づいて釈放された。1868313日、ミリガンは不法監禁の故を以って損害賠償請求訴訟を起こした。裁判の結果、一部の損害賠償が認められた。

 ミリガン事件は、リンカン政権で打ち立てられた戦時の前例の法的な重要性を幾分か弱めるものであった。しかし、南北戦争でリンカンが行使した権限は、大統領が非常時の施策をとるために無制限の権限が与えられ得るということを示した[xix]。リンカンは極端な施策をとったが、議会も最高裁もリンカンを効果的に抑制することはできなかった。議会は、通常の法廷で告発されていない囚人を解放する法令を出すことによって人身保護令状の差し止めに挑戦した。しかし、その法令は超法規的な投獄を終わらせることはできず、懲罰を課す権限を軍法裁判から通常の法廷に移すこともできなかった。戦争が続いている間、最高裁は軍法裁判の運営に干渉することを拒んだ。法的な側面では、南北戦争はアメリカ史の中で例外的な時代であり、憲法による抑制が完全に働かず法の支配が崩壊した時代であった[xx]

 リンカンは権力の掌握により独裁者と批判されたが、リンカンのリーダーシップは連邦と憲法によって定められた目的に忠実であった[xxi]。リンカンが要求した権限は過大なものであり、濫用される機会も多くあったと考えられる。しかし、リンカンの権限の行使は非常に抑制されていた。多くの場合、短期の軍事的な勾留は解放と仮釈放を伴うものであった。軍法に関して、軍法裁判は軍事的犯罪に対して戦闘地域で市民を裁くのに使わることが多かった。ミリガン事件のように非軍事的な犯罪を平和な地域で市民を裁くのに軍事裁判が使われるのは稀であった。また最も重大な点として、リンカンは南北戦争の間、自由で公平な選挙が行われるのをまったく妨害しなかった。したがって憲法は南北戦争の間、著しく拡大解釈されたが覆されたわけではない。リンカンは非常時において他のどの大統領よりも恣意的な権限を行使せざるを得なかったが、度々、その厳しさよりも寛大であるという点で批判された[xxii]

 ミリガンの申し立てによる事件と対照的なのがヴァランディガムの申し立てによる事件である。奴隷解放宣言を発表した2日後、リンカンは徴兵を阻害し、反乱を支援する不忠誠な行いをする者を軍事裁判で裁くために軍隊に捕らえさせる命令を出した。民主党のクレメント・ヴァランディガム(Clement Laird Vallandigham)下院議員はリンカンの強権的な手法を非難し、奴隷を解放するための大統領の戦争は、負債と課税、そして恣意的な権力によって白人を隷属させることになると主張した。オハイオ州マウント・ヴァーノンで2万人の群集を前にヴァランディガムは自由を破壊し、独裁制度を樹立するために戦争を始めたとリンカンを攻撃した。186356日、連邦軍はヴァランディガムを逮捕した。軍事裁判でヴァランディガムは反乱を鎮圧する政府の努力を阻害する目的で不忠誠な意見を述べたという罪で有罪になった。ヴァランディガムは戦争が終わるまで収監されることになった。

リンカンはヴァランディガムの逮捕を直接命じたわけでもなければ、軍事裁判の結果を認めたわけでもないが、連邦軍の権威を損なうつもりもなかった。論争を避けるためにリンカンはヴァランディガムを収監する代わりに追放した。リンカンはヴァランディガムの逮捕を、政府を批判したためではなく、軍の士気を挫いたために行ったと擁護した。

ヴァランディガムは収監も容認できなかったが追放も容認できなかった。市民を軍事裁判で裁くことを憲法は認めていないと確信してヴァランディガムは最高裁に訴えた。しかし、ヴァランディガムの申し立てによる事件で最高裁は戦争遂行を阻害するような訴えに耳を貸そうとしなかった。最高裁は、軍事裁判は最高裁の管轄外なのでヴァランディガムを何も助けることはできないと述べた[xxiii]。追放されたヴァランディンガムは南部に向かって北部の民主党員がリンカンを追放することを保証した後、カナダに向かった。ヴァランディンガムはカナダから平和運動を展開し、1864年の選挙の際に帰国して民主党の敗北主義的な綱領を起草した。

リンカンが憲法の枠内を慎重に守ろうとしたことは奴隷解放宣言の取り扱いで示されている。最高司令官として平和時には禁じられている戦争権限を握ることによってリンカンは186311日に奴隷解放宣言を発表した。

 「西暦1862922日、合衆国大統領によってその他のことの間に以下のことを含む宣言が出された。西暦186311日、人民が合衆国に対して反乱を行った州、もしくは州の一部が反乱状態にあると指定された地域で奴隷の状態であったすべての者は、それ以後、そして永久に自由である。そして、陸軍、海軍を統括する合衆国の行政府は、それらの人々の自由を承認し、かつ保護するだろう。またそれらの人々がその自由を現実のものとするために払う努力を抑制するいかなる行動にも出ないだろう。大統領は上述の11日に、依然としてまだ合衆国に対して反乱状態にある人民のいる州や州内部の特定の地域が反乱状態にある場合、布告によってその当該の地域を指定するだろう。州、もしくはその州民がその当日において、州の有権者の大多数が参加する選挙によって選出された議員を連邦議会に誠意を以って代表として送っている事実がある場合、それを覆す程、強い反証がない限り、そのことはその当該州が合衆国に対して反乱状態にないという決定的な証拠と見なされる。それ故、ここに私、合衆国大統領アブラハム・リンカンは、合衆国政府とその権威に対する武力反乱の勃発に際して、合衆国陸海軍総司令官として私に与えられている権限に基づいて、またその反乱を鎮圧するための適切勝つ必要な戦争手段として、本日、186311日現在、合衆国に対して反乱状態にある人民のいる州と州内部の特定の地域を以下のように指令し、かつ指定する。アーカンソー州、テキサス州、セント・バーナード、プラークミンズ、ジェファソン、セント・ジョン、セント・チャールズ、セント・ジェームズ・アセンション、アサンプション、テレボーン、ラフォーチェ、セント・マリー、セント・マーティン、ニュー・オーリンズを含むオーリンズの行政区を除くルイジアナ州、ミシシッピ州、アラバマ州、フロリダ州、ジョージア州、サウス・カロライナ州、ノース・カロライナ州、ウェスト・ヴァージニア州として指定された48の郡、バークレイ、アコマック、ノーザンプトン、エリザベス・シティ、ヨーク、プリンセス・アン、ノーフォークとポーツマスを含むノーフォーク諸郡を除くヴァージニア州、そしてその除外された地域はこの宣言が布告されないままで置かれる。前記の権限と目的のために、以上に特定した州及び州内部の地域において奴隷の状態に置かれているすべての者は自由であり、また今後、自由であるべきことを私は命令し、宣言する。また合衆国陸海軍を統括する合衆国政府が、上述の者の自由を承認し、かつそれを保護することを命令し宣言する。そして、私はこのようにして解放を宣言された者に、自己防衛のために避けられない場合を除いて、すべての暴力行為を回避することを命令する。また機会が与えられたあらゆる場合において、適切な賃金を得て、忠実に労働することを勧告する。さらに私は、それらの者の中で適切な条件を備えている者を合衆国の軍務に受け入れ、要塞守備隊、陣地、駐屯所やその他の場所、そして、我が軍のあらゆる艦船に就役させることを宣言し、かつ告知する。真に正義の行為であると信じられ、かつ憲法によって軍事上の必要措置であると正当化されるこの布告に対して、私は人類の思慮深い支持と全能の神の加護を心から祈念する」[xxiv]

奴隷解放宣言のように大幅な実効力を持つ宣言はこれまでほとんどなかった。大部分の大統領による宣言は、ワシントンによって初めて発表され、1863年以来、毎年発表されるようになった感謝祭の宣言のように儀礼的なものであった[xxv]。しかし、ワシントンの1793年の中立宣言のように、またリンカンが南北戦争勃発後に発令した大統領令のように実効的な意味を持つ宣言もあった。

 1862年、ヴァージニア州で北部は敗北を喫した。敗北を知った北部の中の和平を求める一派が、あくまで戦争で連邦の再統合を図ろうとするリンカンを強く非難した。彼らは、勝利が収められないのであれば、早期講和をしたほうがよいと考えた。そうした一派を説得するため、最後まで戦争を継続する大義名分が必要であった。それが奴隷解放宣言である。リンカンは、中途半端な形の講和ではなく、完全に連邦を再統合する手段を講ずるべきだと強く信じていた。リンカンは連邦を一時的ではなく恒久的に救うためには奴隷制度が最終的に廃止される道を辿ることが必要だと考えていたが、もともとリンカンは連邦の再統合を優先し、奴隷解放を戦争目的に入れるつもりはなかった。1862822日の公開書簡でリンカンは以下のように述べて、奴隷解放に関する公的な義務と個人的な願望を区別した。

「私は連邦を救済したいと思っている。私は憲法に適合する最も簡単な方法で連邦を救済したいと思っている。国家の権威の回復が早ければ早い程、連邦は『往年の連邦』に近くなるだろう。奴隷制度を同時に救済することができなければ、連邦を救済したくないと考える人々がいても、私はそれに賛成しない。もし、奴隷制度を同時に破壊することができなければ連邦を救済したくない人々がいても、私はそれに賛成しない。私にとって戦争の最高の目的は連邦の保持であって、奴隷制の存続か、破壊かではない。奴隷の一部を解放し、他をそのままの状態に置いたままで連邦が救済できるなら、そちらを選ぶだろう。またもしすべての奴隷を自由にすることで連邦が救済できるのであれば私はそうするだろう。私は奴隷制度と黒人のために何かをするとすれば、そうすることで連邦を救済する助けとなると信じているからである。また、私がもし何らかの行動を差し控えるとすれば、それはその行動が連邦の救済に有用だと私が信じないからである。私の行動が原理のためにならないと信じれば、私はそのような行動をとらないようにし、さらなる行動が原理のためになると信じれば、常に積極的に行動するだろう。誤りと分かれば、誤りを是正するように努力し、新しい考え方が真実と分かれば、すぐにその考え方を採択するだろう。以上のように、公的な義務に対する私の見解に従って、私が目的とする内容を述べた。すべての人間がいかなる場所でも自由になって欲しいと願うこれまで度々表明してきた私の個人的願望は変えるつもりはない」[xxvi]

リンカンは奴隷解放をあくまで個人的な願望とするだけで、戦争の目的はあくまで連邦の保持であり、奴隷制度の破壊ではないことを明言している。しかし、早期講和を求める一派の支持と過激派の支持を得るためにリンカンは戦争目的に奴隷解放を入れることにした。とはいえ奴隷解放宣言は南部連合の敵愾心を煽る一方で、北軍の士気を鼓舞するようなことはなかった。そもそもリンカンはもともと奴隷解放よりも黒人を海外に移すことで奴隷制度を消滅させて南北間の衝突の原因を解消することが望ましいと考えていた。そうした考えは、1852年に行われたヘンリー・クレイの追悼演説の中で既に示されている。

18628月、リンカンは5人の自由黒人の代表をホワイト・ハウスに招いて会談を行った。そして、黒人の海外植民に協力するように要請した。またリンカンは1862911日に、中央アメリカの鉱山開発事業を手がけるチリキ開発会社と契約を結び、500人の黒人を現在のコロンビアに入植させようとした。新たな植民地を自らの名を冠してリンコニア植民地と名付けた。しかし、周辺諸国の反対にあい、計画実行を断念した。さらに18621231日、リンカンはハイチ領カウ島に黒人を入植させる契約を結んだが、この計画もうまくいかなかった。リンカンは奴隷を解放した後、海外に入植させようと考えていたが、結局、それを実現することはできなかった。

 国内の支持を集める必要性に加えて南部連合が外国の協力を得ようとしているという情報もあった。奴隷解放宣言という大義名分が北部にあれば、外国は南部に協力がし難くなる。例えばイギリスは18世紀末から19世紀初めにかけて奴隷貿易の撲滅に積極的だったので、イギリスを牽制するには効果的であった。実際、奴隷解放宣言は、人間の自由を守るために北部が戦っているという評価をヨーロッパで高めた。そのためイギリスもフランスも南部の独立を承認しようと動くことが難しくなった。

 奴隷解放宣言はいつ頃から考えられていたのか。そもそも北部の戦略にとって重要な境界州を離反させないためにおいそれと奴隷解放宣言を行うことはできなかった。リンカン派は保守的な北部の世論が、連邦の再統合のためには喜んで戦うが奴隷制度を廃止するためには戦おうとしないのではないかと考えていた。そして、南部が奴隷制度を擁護するために戦うようになれば、戦争はますます苛烈になるのではないかとリンカンは恐れた。しかし、戦争が長引くにつれて、奴隷制度を破壊せずに戦争に勝利しても意味がないという共和党過激派の意見が強まった。まず議会は18624月と6月にコロンビア特別行政区と準州の奴隷制度を廃止する法を制定した。さらに第2次反乱者財産没収法案によって、逃亡奴隷、及び謀反人が所有する奴隷を永久に自由にし、黒人を軍務に徴用する権限が大統領に与えられた。リンカンは、大統領の自由裁量で法を適用できるように修正が加えられた後、法案に署名した。リンカンは最高司令官として敵の占領地域で奴隷解放を行う絶対的な権限が与えられるように主張した。もしそうした権限を議会が大統領から奪うことができれば、大統領の戦争遂行に対して容喙するようになり、南部連合に不寛容な講和を押し付ける可能性があるとリンカンは考えた。

奴隷解放宣言の公布をリンカンに決心させたのは、その他の政策の失敗である。クリッテンデン妥協案を再確認することを議会は拒み、補償付き奴隷解放を行うという提案は境界州の強い反対を受け、さらにリンカンは保守派の支持を失っていた。奴隷解放宣言は、諸外国による南部連合承認を阻止するだけではなく、政権の支持者を繋ぎ止めるために不可欠であった。リンカンは「私が問題を統御したとは主張しない。逆に問題が私を統御したと率直に告白する」と述べている。

1862722日の閣議で奴隷解放宣言の予備的草案が閣議に提出されているので、奴隷解放宣言が考えられたのは少なくともそれよりは前である。そして、スーアード国務長官の提言によって、目立った軍事的勝利の後に奴隷解放宣言を公表することになった。もし軍事的勝利がなければ、自暴自棄になって奴隷解放宣言を行ったと誤解される恐れがあると考えたからである。スーアードの提言にしたがってリンカンは公表を延期した。アンティータムの戦いで北軍が勝利した5日後の閣議でリンカンは、奴隷解放宣言を公表することを決意したと閣僚に述べた。その翌日に奴隷解放予備宣言は公布された。

 奴隷解放宣言の中で忘れてはならない重要な点がある。それは、反乱軍、つまり南部連合が支配している領域で奴隷を解放すると宣告した点である。奴隷解放宣言は軍事的、政治的便宜の産物であった。奴隷解放宣言は、閣僚や共和党過激派が望むよりは限定的であった。奴隷解放宣言は包括的な奴隷解放を宣告するものではなく、すべての奴隷を解放したわけではない。実際、リンカンは、占領地域で奴隷を解放した2人の将軍の宣言を無効にしている。なぜ領域を限定したのか。まず当時のアメリカ合衆国憲法では、大統領が奴隷制度を廃止する権限はない。なぜなら奴隷制度の廃止は奴隷所有者の財産権を侵害するからである。財産の自由は憲法で保障されているので、財産と見なされていた奴隷を勝手に解放することはできない。

 しかし、1つの抜け道があった。反乱軍、つまり南部が支配している領域では、特別に大統領が軍事権限で奴隷を解放することができる。それ故、リンカンは奴隷解放の範囲を限定した。さらにこのように奴隷解放宣言の適用範囲を限定すれば、奴隷廃止論者を少しは喜ばせることができる一方で、反乱軍に属していない地方の奴隷所有者を怒らせないですむ。事実、連邦に忠誠を示した境界州に関しては1865年に戦争が終焉する最後の月まで奴隷所有を合法としていた。ちなみに戦時に軍事権限で奴隷解放を実行するという発想はリンカンが独自に思いついたわけではない。もともとはジョン・クインジー・アダムズの発想である。それをリンカンは人づてに聞いて知った。

 奴隷解放宣言は、黒人が連邦軍に参加する道を開いた。軍事的に必要な措置として奴隷解放宣言は重要な効果をもたらした。奴隷解放宣言によって、南部は奴隷を失うことにより労働力を奪われ、さらに奴隷の一部は連邦軍に参加した。10万以上の元奴隷が連邦軍の兵士になった。リンカンは「我々に重要な成功をもたらした我が軍の野戦司令官は、奴隷解放政策と黒人を軍で使用することが、反乱軍に対する手痛い一撃になると信じている」と書いている[xxvii]。確かに北部の兵士の一部には、連邦のために戦っているのであり、奴隷解放のために戦っているのではないという不満があった。また境界州や民主党の司令官は奴隷解放宣言に反発した。しかし、大部分の兵士は奴隷解放政策を理解し受け入れた。

 奴隷解放は連邦の戦略の重要な部分となったが、奴隷解放宣言は奴隷を非道徳的だと非難したわけでもなければ、戦争が終わった後に奴隷制度が廃止されることを保障したものでもなかった。確かにリンカンは奴隷制度の廃止こそ戦争の大義であることを認めるようになった。しかし、後にリンカンは、全面的な奴隷解放と再建策を含むウェイド=デーヴィス法案に拒否権を行使している。リンカンは連邦政府が南部の州にそうした再建策を押し付ける憲法上の権限はないと信じていた。しかし、リンカンは解放された奴隷をまた元に戻すことも現実的ではないと認識していた。奴隷解放と南北の再統合を一緒に実現しようとすることは南部連合との講和交渉において障害になるので解放された奴隷を元に戻したほうがよいと北部の民主党議員は提案した。その提案に対してリンカンは、それは連邦の大義を損なうことになり、連邦のために戦ってきた黒人兵士を裏切ることになると反対した。

 リンカンは、奴隷制度は連邦と共存できず、連邦は法の前の平等という原理で1つにまとまるべきだと考えていた。それ故、リンカンが186312月に発表した南部再建策では、南部の白人に連邦に忠誠を誓うだけではなく、リンカン政権の奴隷開放政策を支持することも再建の要件として求めた。再建された州政府は、ルイジアナ州、アーカンソー州、そしてテネシー州といった連邦に占領された地域で戦争が終わる前に奴隷を解放した。

  リンカンは、法的な正当性を尊重したために大統領の布告のみで奴隷制度を完全に廃止しようとはしなかった。その代わりにリンカンは、憲法修正を通じて奴隷制度の廃止を達成しようとした。1864年、共和党全国党大会でリンカンは、合衆国のあらゆる場所で奴隷制度を禁止するように憲法を修正する綱領を採択するように求めた。綱領によれば、奴隷制度は共和政体、正義、そして国家の安全の原理に反しており、共和党はアメリカから奴隷制度を完全に根絶することに尽力する。完全な奴隷解放は連邦の勝利の手段であると同時に目的となった[xxviii]1864年から1865年にかけてリンカンは、議会に憲法修正を発議するように働きかけた。その結果、連邦議会は18651月にすべての奴隷を解放するという憲法修正13条を通過させた。リンカンは、戦争権限に対する憲法上の制約を無視すると同時に憲法の原理に忠実であったと言える。憲法の尊重と奴隷を解放したいという願望を両立させたリンカンの才能は、連邦の資源を南部連合を破ることに集中させることができた。

 バーンサイドに代わってジョゼフ・フッカー(Joseph Hooker)が司令官となった。18635月、ヴァージニア州チャンセラーズヴィルでフッカーはリーが率いる南軍を二重に包囲しようとしたが頑強な抵抗に阻まれた。北軍が守勢に回って陣形を建て直している間に、リー指揮下の南軍は防備が手薄な右翼を奇襲して数に優る北軍を敗走させたが、数々の戦いで栄誉を手にしたストーンウォール・ジャクソンを味方の誤射で失った。リーは再び北進し、ペンシルヴェニア州ゲティスバーグでフッカーに代わったジョージ・ミード(George Meade)率いる北軍と激突した。戦闘が終わった時、南軍は75,000人のうち4分の1の兵力を、北軍は9万人のうち5分の1の兵力を失った。北軍の防御を崩すことができなかったリーは再び南部への撤退を余儀なくされた。北軍は撤退する南軍に決定的な打撃を与えることができなかったが、南北戦争中の最大の激戦に勝利した。ゲティスバーグの勝利に喜んだリンカンであったが、リーがヴァージニアに逃げ帰ったと知らされた時に著しく落胆した。その一方で西部ではグラントが要衝の地であるヴィックスバーグを制し、ミシシッピ渓谷の下流全域を支配下に置いた。

 1864年、リンカンはグラントを連邦軍全軍の指揮官に任命した。グラントは牽制作戦が失敗した後、優勢な兵力を背景に正面突破を行う作戦を採用した。グラントが召集した兵力は17個師団で総勢533,000人にのぼる。これは第1次世界大戦までアメリカが結成した最大規模の侵攻軍であったが、リーを打つ破るにはさらに13ヶ月を要した。ウィルダーネスで南軍の攻撃を受けた北軍は多くの兵士を失ったが、グラントは進撃を止めなかった。グラントは敵の側面を突こうとしたが、リーはその意図を見破りスポットシルヴェニアで待ち構えた。スポットシルヴェニアでは本格的な塹壕戦が行われた。グラント率いる北軍はスポットシルヴェニアでさらに多くの兵士を失ったが、不退転の決意を示した。北軍はコールド・ハーバーで一時的な勝利を収めたが南軍の戦線にほとんど食い込むことができなかった。ピーターズバーグでリッチモンドからの補給線を断つというグラントの作戦から危うく逃れたリーはピーターズバーグに立て篭もった。敵陣を一斉攻撃して陥落させる火力も兵力もなかったために、北軍はピーターズバーグを9ヶ月も包囲した。リーが足止めされている間に、ウィリアム・シャーマン(William T. Sherman)率いる北軍は南部連合の支配地を蚕食することができた。シャーマンは南軍の戦闘能力を削ぐためにあらゆる軍需物資、生産施設、輸送施設を破壊する殲滅作戦をとるように命じられた。シャーマンはアトランタの攻略に成功し、さらにサヴァナに向けて焦土作戦を行いながら前進した。サヴァナを攻略した後、シャーマンは北に向けて進軍を開始した。その一方でテネシー州中部に侵攻した南軍はナッシュヴィルで大敗した。北軍海軍は陸軍と協力して各地の沿岸要塞を攻略し、南軍の封鎖破りを完全に封じ込めた。南部連合の運命は急速に悪化の一途を辿った。

ポークと違ってリンカンは戦争や奴隷制度など優先すべき事柄を除いて多くの事柄を下僚に任せた。閣僚達は省務を大統領からの監視がほとんどない状態で自由に行った。外交分野でさえリンカンは小さな役割を果たすだけに甘んじ、国務長官にほとんどの仕事を任せていた。各省庁に対して権限を行使しないリンカンは一見すると劣った行政府の長に見える。行政府の統制という点から大統領の強さを決定するのであれば、リンカンはポークよりも弱体な大統領のように思える。しかし、多くの事柄を各長官に任せることでリンカンは優先的な課題に管理能力を集中させることができたし、不人気な政策による批判から逃れることができた[xxix]。リンカンは閣議を重視していなかったし、閣僚に出席を強要することもなかった。リンカンが奴隷解放宣言を閣僚に示した時も、それは助言を求めるためではなく文言を見せるためであった。スーアード国務長官の目立った軍事的勝利の後に奴隷解放宣言を公表するべきという助言のみが受け入れられた。

リンカンは議会で証言した最初の大統領となった。1862213日、リンカンは下院司法委員会でニュー・ヨーク・ヘラルド紙に議会に送付したばかりの一般教書の一部が掲載されたことについて釈明した。記者はリンカン夫人の友人であった。そのためリンカン夫人が一般教書の内容を漏らしたのではないかという疑惑がかけられた。リンカンは、司法委員会に家族の誰もが漏洩に関与していないことを納得させた。

1864年の大統領選挙は自由で完全な政党間の競合であった。その事実はリンカンが独裁的なやり方で戦争を行っていないことを示していた[xxx]。民主党は戦争の前途に希望がないと非難した。合衆国は多くの死傷者を出し、最終的には撃退されたとはいえワシントンの手前まで南軍の奇襲部隊が迫り、南部連合は共和党が白人よりも黒人を持ち上げ、州と個人よりも連邦を持ち上げると思い込み反乱に固執していた。1864年の全国党大会の綱領で民主党は、4年間の戦争で連邦を元に戻せていない現状を非難し、すぐに戦闘を止めるべきだと提案した。民主党の大統領候補となったマクレランは再統合の前の平和は拒否したが、奴隷解放宣言に反対し、戦闘継続は南部諸州が脱退する前の状態に戻るまででよいと主張した。それ故、共和党員は、民主党の勝利が南部連合の独立と奴隷制度の永続、そしてさらなる合衆国の分裂をもたらすものだとして警戒した。

 リンカンと他の共和党の指導者達は1864年の大統領選挙で民主党が勝利する可能性があると思っていた。事実、1862年の中間選挙で民主党は躍進していた。リンカンの戦時の行動への反対が一般に広まり、大統領の任期を1期に限るという慣習がここ30年間で培われていた。1832年にジャクソンが勝利を収めて以来、ジャクソンに続く大統領は誰も再選されず、1840年のヴァン・ビューレンを除いて党の大統領候補指名を再度獲得する者もいなかった。

 また共和党内も分裂していた。戦争開始当初から奴隷制度をめぐって保守派と急進派は対立していた。リンカンはその任期中、絶えず共和党の領袖間、議会の指導者間、閣僚間の対立に悩まされた。占領した南部諸州の処遇について急進派は大統領の政策を批判した。急進派はリンカンの大統領候補指名を阻む動きを見せたが、戦況の好転に助けられてリンカンは大統領候補指名獲得に成功した。

民主党の党大会の6日前、リンカンは大統領選挙で敗北することを予想し、次期大統領と協力して連邦を再統合する道を模索するのが義務だと考えていた。共和党は、南部連合に対抗する民主党員の支持を集めようと全国統一党の名の下にボルティモアで全国党大会を開催した。テネシー州軍政長官であった民主党のアンドリュー・ジョンソンが副大統領候補に選ばれた。

 選挙戦の最中、リンカンが敗北すれば人民の判定の結果を受け入れず、政府を破滅に追いやろうとするだろうという噂が広まった。そうした噂に対してリンカンは、政府を倒壊させようとしているのではなく維持しようと努めていると主張した。そして、誰が大統領に選ばれても186534日に確実に大統領の座に据えられると確約した。それが人民のためであり、憲法に基づく方途であるとリンカンは述べた[xxxi]。リンカンが人民主権を尊重する姿勢は、出版と言論の自由に対して寛大に接したことで示されている。不運な例外はあるものの、反リンカンや反合衆国を標榜する報道機関は原則として何も妨害されなかった。1862年の中間選挙が自由で公正であったように1864年の選挙は自由で公正なものであった。

1864年の大統領選挙でアメリカ国民はリンカンに55パーセントの一般投票を投じた。選挙人獲得数に至っては民主党のマクレランに対して212票対21票で圧勝した。民主党員の中には不正手段が取られたと訴える者もいたが、マクレラン自身はリンカンの再選はまったく問題がないと認めていた。合衆国軍によるアトランタ攻略とモービル湾で行われた海戦の勝利、そして効果的な共和党の選挙戦術によってリンカンの勝利はもたらされた。1864年の大統領選挙は戦時に行われたが活気のある選挙であった。18641110日、勝利を祝ってホワイト・ハウスに集まった群衆に向かってリンカンは次のように訴えた。

「元来政府というものは、非常に強力であるために国民の自由を侵害するに至る程、力あるものでなければ、重大な非常時に直面した時、自ら存立を維持していくだけの力を持ち得ないだろうかという問題は長い間にわたっての深刻な問題であった。今次の反乱によって、我が共和国はこの点で厳しい試練を受けている。また反乱の間にも平常のように規定の時に行われる大統領選挙は少なからず試練の重圧を増し加えるものであった。もし忠誠を抱き団結した人民が謀反に対抗して力の限りを尽くして戦っているのであれば、彼らの間の政争により彼らが二分させられて、半ば麻痺状態に陥るに至ると当然、倒れてしまわないだろうか。しかし、選挙は是非とも行われなければならなかった。我々は選挙によらずして自由な政府を持つことはできない。そして、もしこの謀反のために我々の全国的選挙が止むを得ずして中止または延期となるようなことがあれば、反乱軍のために我々は既に征服され破滅させられてしまったと言ってもよいだろう。選挙戦は人間性をその選挙という具体的な場合のうちに現実に反映させているものである。この場合に生じたことは必ずまた同じような場合にいつも起こるに違いない。人間性は変わるものではない。我が国の将来の一大試練の時にも、現在の試練にあっている人々と比べてまったく同じように、弱い者、強い者があり、また愚かな者、賢い者があり、また悪い者、良い者がいるだろう。それ故、今度の選挙に伴った様々な出来事を、知恵を学び取るべき哲学を学ぶ態度で見るようにし、何事も復讐すべき過ちとして見ないようにしよう。しかし、今回の選挙は、選挙にありがちな偶発時や望ましくない争いを伴っていたが、良い結果をもたらしている。すなわち人民の政府は一大内乱の最中にも全国的選挙を行うことができるということを証明した。今日に至るまで、かかることが可能であるということを世界は知らなかった。そのことはまた同時に、我々が今も猶、いかに健全で強いかということを示すものである。それはまた同一政党の候補者の間においても、連邦に最も忠誠を抱き、謀反に最も反対している者が国民の投票の多数を受け取ることを示した。しかし、謀反は相変わらず続いている。選挙は今や終了したので、共通の関心を持つ者すべて、我々の共通の国を救うために、再び結束して共通の努力を行おう。私はこのためにいかなる障害も作らないように努めてきたが、これからも努める。私がこの地位を占めるようになって以来、故意に他人の胸に憎悪の念を植え付けたことはない。私は非常な好意によって再選されたことに対して厚く感銘し、また全能の神に対して我が国民をして、彼ら自らを益すると思われる正しい結論を下すように導き給うたと信じて、当然の感謝の念を抱くが、他の何人がこの結果に失望し苦しんでいるということは私の満足を曇らさずにおかない。私に賛成にした人々に願うことは私のこのような心構えと同じような精神を私に反対した人々に対して持つことである。最後に我が勇敢な兵士達、水兵達のために、また武勇に秀でた将校達のために個々から万歳の三唱を願い、私の話しを終わりたいと思う」[xxxii]

リンカン政権の基本的な責務は、共和政体が国家的な危機に直面しても存続できることを示すことにあった。「人民の自由を守ることができる程、強くない政府が、大きな危機の際にその存在を維持できるだけ十分に強いのかという深刻な疑問が長い間あった」とリンカンは述べている[xxxiii]。南北戦争におけるリンカンの行動はその疑問に対して肯定的な答えを与えたと言える。リンカンは南北戦争について次のように第2次就任演説で格調高く語っている。

「同胞諸君、大統領職の宣誓をするためのこの2度目の機会に際して、今回は第1期の場合と比べ、広範にわたる演説をする理由がない。当時は施行すべき政策について幾分詳細に述べることが適当で当然であると思えた。過去4年間には、今猶、国民がその注意を集め、その精力を傾けている大きな争いについてそのあらゆる方面や形成を絶えず公表する必要があったが、この4年の歳月が過ぎ去った今では、新たに言うべきことはほとんどない。戦局がいかに進捗するかということに一切のことがかかっていると言ってよいが、この進捗については私自身と変わらない程、国民一般もよく知っている。そして、すべての者にかなりの満足と鼓舞を与えていると思う。将来に関して大いなる希望がかけられているが、将来のことについての予言は敢えて試みない。4年前の就任演説の際に、人々は皆、差し迫る内戦を心配していた。すべての人々がそれを恐れ、それを避けようとしていた。就任演説が、ただひたすら戦争を起さずに連邦を救おうとして、この場所から行われている時に、反乱者の代表達はこの市中で、戦争以外の方法で連邦を破壊しようとしていた。すなわち、交渉によって連邦を解体し、国家の資産を分割しようとしていた。双方ともに戦争に反対していた。ただし、一方がこの国家を存続させるよりは戦争を始めたほうがよいと考えていたのに対して、もう一方は国家を滅ぼすくらいであれば戦争に応じたほうがよいと考えた。このような理由で戦争が起こった。総人口の8分の1は黒人奴隷だったが、連邦全体に分布しておらず、連邦の南部だけに存在していた。これらの奴隷をもとにして独特の強力な利害関係が作られた。この利害関係がともかく戦争の原因であることはすべての人々が知っていた。反乱者達が戦争に訴えてでも連邦を分裂させようとしたのは、この利害関係を強化し永続させ拡大させることが目的であった。しかし、その一方で、連邦政府はそれが準州内に拡大するのを阻止しようとした他は何の権限も主張しなかった。双方とも戦争がここまで大規模化し長期化するとは予測していなかった。双方とも戦争の終結とともに、もしくはそれ以前に戦争の原因がなくなるとは予想していなかった。どちらの側ももっと簡単な勝利を予想して、これ程、深刻で驚くような結果になるとは思ってもいなかった。双方とも同じ聖書を読み、同じ神に祈り、互いに敵に勝てるように神の加護を願った。他人が額に汗して得たパンを奪うのに正義の神の助力を願うことは奇妙に思えるかもしれない。しかし、我々自身が裁かれないように、他者を裁くことも止めるべきである。そのいずれの祈りも完全に聞き届けられることはなかった。全能の神は神自身の目的を持っている。『この世は罪の誘惑があるからわざわいである。罪の誘惑は必ずくる。しかし、それをきたらせる人はわざわいである』。もし我々が、アメリカの奴隷制度は神の摂理により必ず来る罪の誘惑の1つだが、神が定めた期間、存続した後、神はそれを除去することを望み、またその罪の誘惑をもたらした者が、当然受けなければならない苦難として、神が北部と南部の双方にこの恐ろしい戦争をもたらしたと考えたとしても、神の生ける信者が常に信者が常に考えている神の特質に何ら矛盾することはないだろう。我々がひたすら望み、切に祈るのは、この戦争の大いなる苦難が速やかに過ぎ去ることである。しかし、もし神の思召しが、奴隷の250年にわたる報われない苦役によって蓄積された富がすべて失われるまで、また鞭により流された血の一滴一滴に対して剣によって流される血の償いがなされるまで、この戦争が続くことになるならば、3,000年前に言われたように、今も猶、『主のさばきは真実であって、ことごとく正しい』と言わなければならない。誰にも悪意を抱かず、すべての人々に慈愛を以って、神が我々に示した正義を固く守り、今、我々が行おうとしている事業を成し遂げるために努力し、国民の傷を縫合し、戦いに倒れた者、その未亡人とその孤児の面倒をみるように努め、そして、我が国民の間で、またすべての諸国民との間に正しく恒久的な平和を実現し、それを育成するように努力しよう」[xxxiv]

2次就任演説の最大の特徴は、南北戦争に対してリンカン独自の神学的な解釈を下した点にある。奴隷制度が神の御心に反するものであると認めたうえで、南北戦争という悲劇は神の意向に沿わなかったために南部と北部の両方に下された罰であるという論をリンカンは展開している。この演説では、リンカンの個人的な信教、そして公的な宗教観の融合が顕著に示されている。リンカンは南北戦争の意義を連邦の維持という本来の目的から、神の下ですべての人民の自由を保障するという理念の実現に変容させようとしたのである。

大統領と人民との関係においてリンカンは重要な貢献をした。リンカンはホワイト・ハウスを訪れる者から話を聞くのに多くの時間を費やした。またリンカンは、大統領のリーダーシップに挑戦する手紙への返答という形式で公開書簡を通じて自らの見解を国中に伝えた。20世紀まで、大統領は儀礼的な場合を除いて演説を行わないのが慣習であり、政策への支持を訴えることも慎むべきだと考えられていた。リンカンの公開書簡はそうした慣習を遵守すると同時にうまく回避した。個人への返信という形式でリンカンは実質的にアメリカ国民に訴えていたのである。そのような試みは前例のないことであった。ジェファソンもリンカンに匹敵する文筆の才能を持っていたが、公開書簡で自らの名前を出すことはなかった[xxxv]

 リンカン政権期に大統領制度を大きく変え得る提案がなされた。ジョージ・ペンドルトン(George Hunt Pendleton)下院議員によって18642月に提案されたペンドルトン案である。閣僚に下院の議席を与えるというのが提案の内容である。その当時、下院議員だったガーフィールドはペンドルトン案を強く支持した。裁決を委ねられた委員会は、閣僚はその省に関する事項が論議される場合、論議に出席する権利が与えられ、質問の答弁を強制されるという議案を提出した。結局、この議案は表決されなかった。それから15年後、ペンドルトンは再び同じ案を提案したが、1846年と同じく表決されなかった。さらに1886年、ジョン・ロング(John Davis Long)下院議員が閣僚に自由に下院に出席し発言することを認める案を提出したが実現しなかった。もしペンドルトン案が実現していれば、大統領は議会で影響力を持つ人物を閣僚に選ばなければならなくなる。実質上、下院議員に閣僚になる優先権を与えることになる。閣僚が議会で成功を収めれば収める程、大統領から独立するようになる。こうした結果によって、大統領のリーダーシップは閣僚の手に移る。閣僚が議会の指導者の地位を兼ねることによって影響力を増大させる可能性があるからである。こうした理由からペンドルトン案はもし実現していれば、大統領の権限と影響力を著しく低下させる危険性があった[xxxvi]

 もし南北戦争がなければ、リンカンが国を主導したいと思ってもその能力は著しく制限されただろう。1860年の大統領選挙でリンカンが代表した共和党は、リンカン自身がそうであったようにその大部分が元ホイッグ党員によって構成されていた。リンカン自身が訴えていたように、彼らはジャクソン主義者による大統領権限の拡大を是正しようと考えていた。リンカンが南北戦中に確立した大統領の権限は共和党議員を驚かせた。共和党議員はリンカンが暗殺された後、大統領の権限を弱めようとした。

 リンカンは決して自らの政治的原理を放棄したわけではなかった。戦争中でもリンカンは、1830年代から1840年代にかけて自らが擁護したホイッグ党の原理を完全に見捨てたわけでなかった。リンカンは、単に不同意であるという理由で法案を拒否することを否定し、法案が違憲であると判断される場合のみ拒否権を行使するべきだと信じていた[xxxvii]。リンカンは戦争に無関係な問題については決定を議会に付託した。共和党議員が、農務省を創設し、公有地の供与によって大学を設立し、ホームステッド法を通過させた時、リンカンはただ法案に署名するだけであった[xxxviii]。ホームステッド法は、160エーカーの土地を僅かな手数料で権利を主張できるようにし、5年間、それを保持すれば所有者として認める法である。

リンカンは戦費を賄うために新たな税を導入することを避けようとした。その代わりに、公債、関税率の引き上げ、公有地の売却で戦費を賄おうとした。公債の販売はチェイス財務長官によって促進された。チェイスはさらに15,000万ドルを州法銀行から借り入れた。1857年に始まる景気後退と南部の脱退による歳入の減少によってリンカン政権は大規模な赤字に悩まされた。チェイスはさらに議会に法定貨幣法を可決するように働きかけた。法定貨幣法によって、グリーンバック紙幣が初めて合衆国の公式の紙幣となった。グリーンバック紙幣の導入によって連邦政府は債権者や兵士に支払うことができた。こうした財政事情のために議会が所得税や相続税、酒類、煙草、馬車に対する物品税を制定してもリンカンは反対しなかった。

  南北戦争の間、最高司令官として獲得した権限によって、リンカンは大統領職を効果的に利用することができた。しかし、戦争の終わりは反動をもたらした。リンカンは平和時に残存するような形式で大統領の権限を拡大することはなかった。それにも拘わらず、リンカンと南北戦争はアメリカの政治に継続する痕跡を残した。「807年前」という有名な最初の言葉から始まるゲティスバーグでの演説は、憲法ではなく独立宣言を、自由を持つ新しい国家がすべての人は平等に創られたという原理に貢献する基盤となった文書として賞賛している。リンカンは、独立宣言を起草したジェファソンをアメリカ史上最も卓越した政治家と見なしていた。リンカンにとってジェファソンの諸原理は自由社会の定理であり公理であった。

 「807年前、我々の父祖は、この大陸に新たな国を誕生させた。この国は自由をいだき、すべての人々は平等に創られたという信条のために作られた。今、我々は大きな内戦をしている最中である。この国が、まさに自由をいだき信条のために作られた国が、永らえることができるかどうか試されている。我々はこの戦争の激戦地に集っている。我々は、この国を生き残らせるためにここで命を捧げた者たちの最後の安住の地としてこの戦場の一部を供するためにやって来た。我々がそうすることはまったく適切で妥当なことである。しかし、より大きな意味では、我々がこの地を聖別することはできず、聖化することもできず、清めることもできない。生者であれ死者であれ、ここで戦った勇敢なる人々こそがこの土地を聖化してきたのである。我々の劣った力では余分なものを加えることも何かを減じることもまったくできない。ここで我々が言うことには世界はほとんど注目もしないし、記憶に長くとどめることもないだろう。しかし、勇敢なる人々がここでなしたことは決して忘れ去られることはない。ここで戦った者達がこれまで気高く進めてきた未完の仕事に、ここで献身するのはまさに今、生きている我々なのである。我々の前に残された大いなる責務にここで献身するのはまさに我々なのである。その責務とは、こうした誉れある死者のために、彼らが死力を尽くして献身した大義に我々がさらなる献身をすることであり、ここで我々が、こうした死者達が無駄に死んだわけではないと高らかに決議することであり、神の御許でこの国に新たな自由の誕生をもたらすことであり、そして人民の、人民による、人民のための政府を地上から消滅させないようにすることなのである」

ゲティスバーグの演説でリンカンは、国民社会に権力と自由の関係が変化したことを示した。リンカンは奴隷制度の告発が新たな積極的な自由を生み、政府が法の下の平等を保障する義務を持つことを確認した。リンカンは意見の形成が大統領の主要な仕事であり、言葉が持つ力をよく理解していた。しかし、19世紀当時は就任演説や一般教書を除いて大統領の言葉が民衆に伝わることはほとんどなかった。ゲティスバーグ演説はリンカンの最も有名な演説であるが、リンカンは墓地の奉献式で「二、三の適切な意見」を表明することを求められただけであった。事実、ゲティスバーグの演説は全部で272語という短いものである。奉献式の主要なイベントはエドワード・エヴェレット(Edward Everett)元上院議員の2時間にわたる演説であった。記者の関心の対象はリンカンではなくエヴェレットであった。19世紀のアメリカ人は、閣僚や議員よりも大統領の言葉を聞く機会が少ないことに慣れていた。それにも拘わらず、リンカンは公衆の反応を予測し、言葉がどのように響くかを確かめるために、文書の草案を友人や側近、閣僚に読んで聞かせたという[xxxix]。しかし、リンカンは現代の大統領にように公衆の面前で頻繁に演説したわけではない。なぜなら公衆の面前で演説することは大統領の威信を損なうと考えられていたからである。

 リンカンは複数の個人秘書を有効に活用した。これまで個人秘書は主に大統領の親族が勤めていたが、リンカンは能力に基づいて個人秘書を選んだ。その中には後にマッキンリー政権とセオドア・ローズヴェルト政権で国務長官を務めることになるジョン・ヘイ(John Hay)が含まれていた。個人秘書の仕事は、ホワイト・ハウスでの社交を取り仕切ることであり、不必要な訪問から大統領を守ることであった。また手紙の整理も重要な仕事であった。大統領宛の手紙は個人秘書によって確認され、内容に従って適切な部署へ送られた。大統領が読む手紙はせいぜい50通に1通程度であった。さらに個人秘書は新聞にリンカン政権を擁護する多くの記事を投稿した。

個人秘書が政治的に重要な役割を果たすこともあった。チャールズ・フリーモント(Charles Fremont)将軍が奴隷解放を宣言したために、ミズーリ州が連邦を脱退しそうになった。リンカンは事実関係を確認するために個人秘書の1人を現地に送った。調査を行った後、個人秘書はリンカンにフリーモントを免職するべきだと報告した。2日後、リンカンは閣僚の反対にも拘わらず、フリーモントを免職した[xl]

リンカンはゲティスバーグの演説で独立宣言を賞賛したが、それは南北戦争の影響を受けた憲法修正で具現化された。憲法修正第13条で奴隷制度が廃止されただけではなく、憲法修正第14条ですべてのアメリカ人が市民権の特権と免責、そして州による侵害に対して適切な法の手続きと法の平等な保護を受ける権利が保障され、さらに憲法修正第15条でアフリカ系アメリカ人の投票権が認められた。こうした3つの憲法修正は憲法の発展を変えた。憲法修正第12条までは主に連邦政府の権限を制限してきたが、それに続く7条のうち6条は連邦政府の権限を拡大した[xli]

憲法修正第13条から第15条の制定が南北戦争直後にもたらした結果は限定的であったが確実なものであった。独立宣言によって保障される平等に関する理解は、セオドア・ローズヴェルト、フランクリン・ローズヴェルト、そしてリンドン・ジョンソンといった20世紀の大統領の経済的抱負に比べれば穏健である。南北戦争による改革は、個人の財産の尊重、制限された政府、そして地方分権的な傾向という長期間にわたって培われた伝統によって制約された。リンカンの貢献は、連邦政府が平等な機会を確保する義務を持つことを明らかにしたことにある。

 ピーターズバーグでグラントと睨み合っていたリーであったが食糧が乏しくなったためにピーターズバーグを脱出して南方の部隊と合流しようと試みた。しかし、南軍はファイヴ・フォークスの戦いで敗北し、さらに西に逃れた。18654月、リッチモンドが陥落し、退路を断たれたリーはアポトマックスでグラントに降伏した。グラントは寛大な条件を示した。南軍は連邦に反乱を起さないことを誓い、銃や大砲などの武器を引き渡す。しかし、士官は着装武器と私物の馬や荷物を保持することが許された。そして、すべての将兵は敬意を以って扱われ、帰宅が認められた。リーの降伏で実質的に南北戦争は終結したが、南部連合政府は完全に消滅したわけではなかった。

リッチモンドが陥落する前にデーヴィス大統領は特別列車で数人の閣僚と共に脱出した。デーヴィスは南部連合の人民に戦闘の継続を訴えた。リーの降伏を聞いた後もデーヴィスは諦めず、敗北を認めるように勧める閣僚の言葉も聞き入れなかった。デーヴィスが北軍に逮捕され、南部連合政府の火は完全に消えたのはリンカンが暗殺された後であった。南北戦争の結果、連邦派365,000人の死者と282,000人の負傷者を出した。南北戦争は奴隷制度を終焉させた。敗北した南部は、10年以上にわたって北部の直接支配下に置かれ、その後も、北部の影響下に置かれた。

 1865414日、リンカンは夫人や友人達と共にフォード劇場で観劇中にジョン・ブース(John Wilkes Booth)によって背後から頭部左側を銃撃され意識が戻らぬまま、翌朝722分、亡くなった。ブースは「暴君の最後は常にかくのごとし」と叫んで逃亡した。この事件が起きたのは南北戦争が終結して6日後であった。ブースは南部連合の支持者であり、南北戦争が起きた原因はリンカンにあると考えていた。最初、ブースはリンカンを誘拐して捕虜収容所に収監されている南部連合の兵士と交換する予定であったが、南北戦争の終結を知って計画を暗殺に切り替えた。411日、ブースは、ホワイト・ハウスに集まった群衆に向けてリンカンが投票権をアメリカ系アメリカ人に与えなければならないと演説するのを聴いたいたという。ブースとその一味は、リンカンだけではなく副大統領のジョンソンと国務長官のスーアードも殺害する予定であった。行政府の混乱によって南部連合が復活する引き金となることをブース達は期待した。スーアードは襲撃を受け、首と顔に傷を負った。その一方でジョンソンを襲撃する予定だった暗殺者は襲撃を実行に移さずに逃亡した。426日、ワシントン近郊の納屋に潜んでいるところを発見されブースは銃殺された。ブースの共謀者は逮捕され軍法裁判にかけられた。18657月、有罪を宣告された中で4人が絞首刑に処せられた。

 南北戦争は、アメリカを緩やかな連邦主義から中央集権化された統治形態へ変化する契機をもたらした。建国以来、絶えず主張されてきた州権の理論に解決がもたらされた。連邦政府の政策に不満な州が憲法上の州の地位を振りかざし、連邦脱退や連邦法を否認するような態度に終止符が打たれた。連邦政府は劇的に権限を拡大させ、経済発展を促すために銀行業や鉄道輸送業などとますます結び付くようになった。また南北戦争は、南部から奴隷制度に基づく特殊な社会的、経済的組織を取り除き、南部をアメリカの不可分な全体の一部として統合し、アメリカが資本主義産業国家として発展を遂げる基礎が形成された。

リンカンは南北戦争を未曾有の手段を以って指導した。明らかに憲法によって規定された以上の権限を根拠なく大統領に付与する行政権の不穏な肥大化をもたらした。アメリカ人が命を賭けても守ろうとするアメリカ的価値観を損なわないようにするためには、とりわけ戦時において合衆国が標榜する基本的な民主主義の原理を保持することが連邦政府の義務であった。しかし、リンカンの行動は戦争の勝利という国家の最優先課題を遂行するために憲法上確立された個人の自由という概念と衝突した。リンカンは後世の大統領が依拠するようになる行政権の拡大という顕著な先例を作った。

 リンカンは建国の父ワシントンと並ぶ神格化の洗礼を受けた。まず凶弾に襲われたのが、奇しくも受難日にあたり、それはキリストが全人類の救済のために十字架の上で血を流したように、リンカンも「連邦の救世主」として自らの命を捧げたと解釈されるようになった。多くの作家や詩人がリンカンをキリストの次に最も偉大な人物に祭り上げた。彼らにとってリンカンは、贖罪者であり、救済者であり、殉教者であった。南北戦争による多大な犠牲、そしてリンカンの受難により、アメリカは奴隷制度の桎梏を逃れて血の洗礼を受けた神聖な国家として新たに生まれ変わった。リンカンの神格化はこうした国家概念を支持する強力な源泉となっている。



[i] James G. Randall, Constitutional Problems under Lincoln (University of Illinois Press, 1951), 514.

[ii] James G. Randall, Constitutional Problems under Lincoln (University of Illinois Press, 1951), 30-47.

[iii] Edward S. Corwin, The President: Office and Powers, 1787-1984 (New York University Press, 1984), 451.

[iv] Allan Nevins, The Emergence of Lincoln: Prologue to Civil War, 1859-1861 (Scribner’s, 1950), 233-239.

[v] Harold Holzer and Sara Vaughn Gabbard, eds., Lincoln and Freedom: Slavery, Emancipation, and the Thirteenth Amendment (The Board of Trustees, Southern Illinois University, 2007), 68.

[vi] Donald G. Lett, Jr., Phoenix Rising: The Rise and Fall of the American Republic (Phoenix Rising, 2008), 10.

[vii] Roy P. Basler, ed., The Collected Works of Abraham Lincoln (Rutgers University Press, 1953-1955), 4:191.

[viii] Stephen B. Oates, With Malice toward None: The Life of Abraham Lincoln (Harper and Row, 1977), 224.

[ix] Phillip Shaw Paludan, The Presidency of Abraham Lincoln (University Press of Kansas, 1994), 33.

[x] Message to Congress in Special Session, July 4, 1861.

[xi] Letter from Abraham Lincoln to Albert Hodges, April 4, 1864.

[xii] Richard J. Ellis, The Development of the American Presidency (Routledge, 2012), 216.

[xiii] 丹羽巌、『アメリカ大統領制の創造と展開』(成文堂、1993)119

[xiv] James G. Randall, Constitutional Problems under Lincoln (University of Illinois Press, 1951), 51.

[xv] William H. Rehnquist, All the Laws but One: Civil Liberties in Wartime (Random House, 1998), 18-25.

[xvi] Keith E. Whittington, Political Foundations of Judicial Supremacy: The Presidency, the Supreme Court, and Constitional Leadership in U. S. History (Priceton University Press, 2007), 35.

[xvii] Edward S. Corwin, The President, Office and Powers: 1787-1957 (New York University Press, 1984), 145-147.

[xviii] James G. Randall, Constitutional Problems under Lincoln (University of Illinois Press, 1951),180-186.

[xix] Edward S. Corwin, The President, Office and Powers: 1787-1957 (New York University Press, 1984), 234.

[xx] James G. Randall, Constitutional Problems under Lincoln (University of Illinois Press, 1951), 521.

[xxi] Herman Belz, Lincoln and the Constitution: The Dictatorship Question Reconsidered (Louis A. Warren Lincoln Library and Museum, 1984), 24.

[xxii] James G. Randall, Constitutional Problems under Lincoln (University of Illinois Press, 1951), 91.

[xxiii] Brian McGinty, Lincoln and the Court (Harvard University Press, 2008), 185-190.

[xxiv] Emancipation Proclamation, January 1, 1863.

[xxv] Kenneth R. Mayer, With the Stroke of a Pen: Executive Orders and Presidential Power (Princeton University Press, 2001), 34-35.

[xxvi] Letter from Abraham Lincoln to Horace Greeley, August 22, 1862.

[xxvii] Letter from Abraham Lincoln to James C. Conkling, August 26, 1863.

[xxviii] James M. McPherson, Abraham Lincoln and the Second American Revolution (Oxford University Press, 1992), 86.

[xxix] G. S. Boritt, Lincoln and the Economics of the American Dream (Memphis State University Press, 1978), 228.

[xxx] Herman Belz, Lincoln and the Constitution (Louis A. Warren Lincoln Library and Museum, 1984), 15.

[xxxi] John G. Nicolay and John Hay, eds., Complete Works of Abraham Lincoln (Lincoln Memorial University, 1894), 10:244.

[xxxii] John G. Nicolay and John Hay, eds., Complete Works of Abraham Lincoln (Lincoln Memorial University, 1894), 10:263-264.

[xxxiii] John G. Nicolay and John Hay, eds., Complete Works of Abraham Lincoln (Lincoln Memorial University, 1894), 10:263.

[xxxiv] Second Inaugural Address, March 4, 1865.

[xxxv] Douglas L. Wilson, Lincoln's Sword: The Presidency and the Power of Words (Vintage, 2007), 150.

[xxxvi] Harold J. Laski, The American Presidency: An Interpretation (Harper & Bros., 1940), 104-115.

[xxxvii] Herman Belz, Lincoln and the Constitution (Louis A. Warren Lincoln Library and Museum, 1984), 12.

[xxxviii] Matthew Crenson and Benjamin Ginsberg, Presidential Power: Unchecked and Unbalanced (W. W. Norton and Co. Inc., 2007), 102.

[xxxix] Douglas L. Wilson, Lincoln's Sword: The Presidency and the Power of Words (Vintage, 2006), 180-181, 231.

[xl] David Herbert Donald, We Are Lincoln Men: Abraham Lincoln and His Friends (Simon & Schuster, 2004), 200.

[xli] James M. McPherson, Abraham Lincoln and the Second American Revolution (Oxford University Press, 1992), 137-138.


ジョージ・ワシントン大統領
歴代アメリカ合衆国大統領研究