職業経験(憲法制定会議以後)


憲法制定会議
憲法制定会議前夜
 1786年11月7日、ヴァージニア邦議会はマディソンを連合会議の代表に選出し、さらに12月4日、憲法制定会議の代表に任命した。12月7日、マディソンは同じく憲法制定会議の代表に選ばれたワシントンに「5月にフィラデルフィアで開催される会議への代表団にあなたのお名前を欠くことはできません」と手紙で会議への参加を懇請している。マディソンは来るべき会議が合衆国の将来について重大な影響を及ぼし得ることを十分に理解していたのである。それは、会議が始まって間もない頃の「[憲法制定会議の]結果は、何らかの形で我々の運命に力強い影響を与えるでしょう」というジェファソン宛の手紙の中の言葉からもうかがえる。
 翌1787年2月10日、マディソンはニュー・ヨークで開会された連合会議に初登院した。憲法制定会議が始まる前にマディソンは、ワシントンやエドモンド・ランドルフ、ジェファソンなどに手紙で憲法制定会議の議事案を示している
 マディソンは、ランドルフに宛てた2月24日付の手紙で「現行制度には全く賛同すべき点も、賛同に値する点もありません。もし何本かの強力な支柱をあてがわなければ、すぐに倒壊してしまうでしょう」と述べている。さらに「このような状況下で政府が存続できる見込みはないでしょう」と断言している。シェイズの反乱が「筆舌に尽くし難い傷」を共和主義に与えたので、君主制を志向する者が勢いを強めるのではないかとマディソンは危惧していた。その一方で、人民の多くは、三権分立に基づくより強力な連邦に加盟するという「小さな悪弊」を喜んで受け入れるだろうと楽観的な見方を示している。マディソンの憲法理論の根本には、中央政府の権限強化が専制政治に繋がるのではなく、むしろ自由を擁護する保障となるという強い信念があった。
秘密規定
 憲法制定会議では秘密規定がもうけられた。会議の内容をすべて内密にすることによって外部からの影響を排すためである。例えばマディソンは、会議中に送ったジェファソン宛の手紙の中で、パトリック・ヘンリーが「憲法制定会議に対して敵意を持ち、連邦の分裂、または解体を願っている」と暗号で述べているように、こうした会議に対して警戒感を持つ人々に配慮する必要があった。秘密規定は、代表達が自らの存念を思うままに述べる自由を保障したのである。こうした秘密規定が存在したのにも拘らず、討議の内容が今に伝わっているのは主にマディソンの議事録による。1日も休まず1つの弁論も聞き逃さないようにマディソンは努め、会議が終わった後も他の代表達との交流にはあまり加わらず、議事録の整理に専念した。
 また憲法制定会議が終わってから間もない10月24日にマディソンは、会議の内容に関する手紙をジェファソンに送っている。その手紙の中で話し合われた諸論点が整理されているので、会議の大まかな討論の流れを知ることができる。
 マディソンは、討論で主導的な役割を果たしただけではなく、討論の詳細な記録を残している。討論の記録をつけることで論点を整理し、話し合いがうまく進むように運んだのである。書記の手による「会議日誌」は1819年に公刊されているが、単なる賛否を記録したものであり、討論の詳細にまで記述が及んでいない。マディソンの他にも議事録をつけていた代表は何人か存在するが、マディソンの詳細な議事録には及ばない。マディソンの死後まもなく、関連文書が公刊されるまで、憲法制定会議で何が話し合われたのかは一般にほとんど知られていなかった。
ヴァージニア案の概要
 5月3日、マディソンはフィラデルフィアに到着した。その後、他のヴァージニア代表とともにヴァージニア案を練った。それ以前にマディソンが随所で示した見解からして、ヴァージニア案の主要な起草者はマディソンであったと考えられている。定足数を満たしてようやく会議が始まったのは5月25日のことである。それから9月17日まで代表達は、若干の休会を挟みながらも、ほぼ毎週6日間、毎日5時間の討議を重ねた。
 5月29日、ランドルフによってヴァージニア案が提議された。15条からなる同案は、合衆国憲法の基盤となった。ヴァージニア案の特徴は、人民の直接選挙による第一院と邦議会の選出による第二院に基づく二院制の導入に加えて、各邦による侵害を阻止できる強力な権限を連邦政府に与える点にある。
 特に「統一国家的National」という当時では新奇な概念が盛り込まれている点は特筆すべきである。それは、連盟規約の下での現行制度を意味する「連邦的Federal」という概念とは対照的な概念であった。統一国家的な概念は、連邦政府が、これまでのように各邦を通じて間接的に人民にはたらきかけるのではなく、直接的に人民にはたらきかけることを意味している。この概念は多くの反対をまねいた。反対派(「連邦的」な概念を支持したので主に「フェデラリスト」と呼ばれるが、後の憲法批准賛成派とは異なる)が邦の権限を完全に奪取するような中央政府の成立を恐れたためである。しかし、ヴァージニア案は、邦の権限を完全に奪取することを目指していたわけではなく、連邦と各邦の均衡がとれるように権限を配分することが大きな目標であった。また、各邦がその邦民に対する権限を保留する一方で、連邦は直接、国民に対する権限を行使するという二元制度への移行を目指していたのである。
ヴァージニア案に関する討論
 ヴァージニア案をめぐる討議の過程で、マディソンはペンシルヴェニア代表のジェームズ・ウィルソンとともに統一国家的な概念の主唱者になった。一方、連邦的な概念は、コネティカット代表のロジャー・シャーマンとオリヴァー・エルズワース、ニュー・ジャージー代表のウィリアム・パターソンの3人が中心となって主唱した。
 まず国民議会に二院制を採用する点は全会一致で認められた。しかし、両院をどのように構成するのかという点については意見が分かれた。邦議会が第一院の議員を選出するべきだという、サウス・カロライナ代表のチャールズ・ピンクニーによる提議について討論が行われていた際、マディソンはピンクニーに対して反対弁論を行った。マディソンの主張は以下の通りである。二院のうち少なくとも一院は「明白な自由政府の原則として」直接、人民によって選ぶべきである。そうすれば、議員が単なる邦政府の仲介者に陥るのを避けることができる。
 さらにウィルソンが、立法府に対する審査権限を司法府が行政府と共有しないとする票決を再考するように提議した際、マディソンはウィルソンの提議を支持する弁論を行った。6月6日の弁論の中でマディソンは次のように主張している。審査権限は、立法府が行政府や司法府の権限を侵害することを防止するのに有用であり、ひいては人民全体の権利を守ることにも役立つ。もし立法府が「原理において賢明ではないか、形式において正しくない法律」を制定しようとした場合、司法府と行政府が協力すればそれを有効に阻止できる。
 今度は、デラウェア代表のディキンソンが、第二院(上院)の議員を邦議会が選ぶべきだと提議した。それに対してマディソンは6月7日の弁論で次のように反論した。

「もしディキンソン氏の提議が認められるのであれば、我々は、議席の比例配分の原理を放棄するか、上院に非常に多くの議員を迎えなければなりません。前者は、明らかに不公平であるから認められません。後者は不都合です。上院を設立する利点は、立法過程において下院よりも冷静である点、整然としている点、見識がある点にあります。[中略]。上院議員の影響力は、その数に反比例すると私は思います。ローマの護民官の例がちょうどあてはまるでしょう。護民官は増員されるにしたがって、その影響力と権限を失っています。その理由は明らかなように思えます。ローマにおいて、庶民の利益と権利に配慮するために護民官は任命されましたが、その数の多さのために、一致した行動をとれず、彼ら自身の間に派閥を作りがちになり、貴族の対抗者の餌食となりました。したがって、人民の代表が増えれば増えるほど、有権者の欠点をますます帯びるようになり、彼ら自身の無思慮によってか、反対党派の策略によって分裂するようになり、信任に耐えられなくなるでしょう。ある集団の影響力が単に個々人の性質による場合、数が多くなるほど影響力は増します。それが、その集団に与えられている政治的権威の程度による場合、数が少なくなるほど影響力は増します」

 マディソンにとって、見識ある議員からなる上院は、人民の移り気に由来する過ちを是正するための議院であった。またマディソンは、選挙権を平等に与えれば、徐々に貧しい者の影響力が高まり、将来、土地均分を唱える動きが強くなるのではないかと危惧していた。アメリカにはヨーロッパほど明確な階層分化はないが、それでも単一の大衆といった存在を認めることはできないとマディソンは考えていた。
 さらに翌日、マディソンは、邦が制定した不適切な法律に対して拒否権を行使する権限を国民議会に与えるべきだとするピンクニーの提議を支持する弁論を行った。拒否権の必要性と有用性を、マディソンは以下のように強く主張している。

「完全な制度には、各邦の立法を拒否する無制限の権限が絶対必要であると見なさざるを得ません。各邦が、条約に違反し、お互いに権利と利益を犯し合い、それぞれの管轄内で弱いものを抑圧するなど、連邦の権限を侵害する一定の傾向があることは経験により証明されています。拒否権は、こうした危害を防止するために考案された穏健な手段なのです。こうした抑制手段があれば、悪弊を行おうとする試みを阻止することができるでしょう。こうした予防措置が付け足されなければ、唯一の救済手段は強制に訴える他ありません。そうした救済措置は可能でしょうか。それは実行可能でしょうか」

 こうしたマディソンの主張にも拘らず、最終的に邦の法律に対する拒否権は明記されなかった。僅かに第6条第2項において連邦法の最高法規性が示されたのみである。
ニュー・ジャージー案に関する討論
 こうした議論が進むうちに「ナショナル」の概念を推進する国民派と「フェデラル」の概念を推進する邦権派、2つの党派が浮かび上がってきた。当然ながらマディソンは前者に属し、積極的な唱道者となった。
特に小邦を中心とする後者は6月4日からヴァージニア案の対案を練り始めた。そして、6月15日、ニュー・ジャージー代表のパターソンは、コネティカット、ニュー・ヨーク、デラウェア、メリーランドの支持を受けて9条からなるニュー・ジャージー案を提出した。
 ニュー・ジャージー案の骨子は次の通りである。まず現行の連合会議に、関税と印紙税を課す権限、外国および州際通商を規定する権限、邦から分担金を徴収する権限を与え、さらに邦に連邦法に従うように強制できる行政府の長を指名できる権限を与える。そして、司法府には外国人、条約、連邦の通商規定や税の徴収に関連する事例を扱う権限を与える。
 6月19日、マディソンはニュー・ジャージー案に対する弁論を初めて行った。マディソンはまず現行制度を廃止するには諸邦の全会一致が必要であるというパターソンの意見を否定した。もしニュー・ジャージー案が通れば、マディソンが主導する現行制度から新制度に移行する根幹的な改革が不可能になる恐れがあった。さらにマディソンは、諸邦による連邦権限の侵害という悪弊は「最大の国家的な災厄」であり、「全体に混乱と破滅をもたらす」と主張している。
 さらにマディソンは、「最大の困難は、投票権の問題にあり、もしそれがうまく調停されれば、他のすべての問題は克服できる」と指摘し、「デラウェアより16倍も大きいヴァージニアに同じ投票権しか与えないことは公正ではないとニュー・ジャージー代表の2人も認めている。また彼らは、ヴァージニアに16倍の投票権を与えることはデラウェアにとって安全ではないと言う。したがって彼らが提案する手段は、すべての邦が一旦一つになってそれから新たに13邦を平等に区分するというものである。そのような案ははたして実行可能だろうか」と主張している。
 同日、全体委員会はヴァージニア案とニュー・ジャージー案の採決を行った。ニュー・ジャージー案を支持していたコネティカットがヴァージニア案支持に転向し、メリーランドは代表の間で意見が分かれたので7票対3票でヴァージニア案が採択された。
妥協案の成立
 6月20日から7月2日にかけてヴァージニア案の各条項が検討された。その最中、マディソンは連邦政府と各邦政府の関係について論じている。マディソンが強調した点は、連邦政府が必ずしも邦政府の権限を完全に奪取しようとしているわけではないという点である。そもそも連邦政府による邦権限に対する侵害よりも、邦政府による連邦権限に対する侵害の可能性のほうが大きい。古今の事例に基づけば、連邦制度は専制よりも無政府状態に陥る危険性のほうが高い。我々のこれまでの経験からもそうした傾向は確かである。それを改めるために「連邦政府に実権とより大きな権限を与え、連邦政府の中で少なくとも1府は、邦政府ではなく人民からそれらの権限を得る」ことが必要である。一方で、すべての事項を連邦政府が取り扱うことはできないので、邦政府の協力が不可欠である。さらにマディソンは、連邦政府によって個人の自由が侵害される可能性について次のように否定している。

「人民が、13の小さな共和国の構成員として自由ではないと言えないように、同じく1つの大きな共和国の構成員として自由ではないとは言えないでしょう。デラウェア邦民がヴァージニア邦民より自由ではないとすれば、アメリカ市民より自由ではないということになるでしょう。したがって、邦政府を連邦政府に取り込む体質は、致命的な結果をもたらすことはないでしょう」

 討論はさらに進み、今度はニュー・ヨーク代表のランシングとニュー・ジャージー代表のジョナサン・デイトンが、各邦は第一院(下院)において、平等に議席を与えられるべきだと提議した。小邦は同数配分を主張し、大邦は人口による比例配分を主張した。
 こうした主張に対して、6月26日、マディソンは、両者の提議は小邦の安全を保障するために必要な措置では全くないと反論を行った。つまり、社会の中では、影響力が強い個人どうしが同盟を組むよりも競い合うことが多いのと同じく、影響力が強い邦どうしも連携するよりは競い合うことが多いだろうとマディソンは論じている。
 6月29日、マディソンは、小邦の代表者達に「明らかに不公正で、決して認めることができず、もし認められれば、我々が永続させたいと願っている憲法に致命的な欠陥を持たせることになる方針」を捨てるように説得しようと努めた。大邦と小邦の間の意見の相違が目立っていたが、「我々の連邦政府の最大の危険は、大陸の南と北の相反する利害の相違である」と述べているように、マディソンは他の代表達とは違って南北の利害相違についても早くから認識していただけではなく、両者の政治的均衡を保つことを重視していた。
 結局、7月2日、議席配分について妥協案を考案するために、チャールズ・コッツワース・ピンクニーの提案で11人委員会が設立された。マディソン自身は委員に選ばれていないので同委員会で行われた議論の過程については記録していない。小邦の代表の中には分離独立を口にする者もいて、この問題に関して妥協が成立しなければ憲法案自体の成立も危ぶまれた。「国民政府に反対する代表達が示す熱意が今、憲法制定会議の行く末に対する深刻な不安を生じている」とマディソンは述べている。
 3日後、11人委員会は妥協案を報告した。同案は次のような内容である。第一院(下院)では、各邦は人口4万人につき1席の議席を持ち、奴隷は自由民に対して5分の3の割合で人口に含める。一方で、第二院では、各邦は同数の議席を持つ。これは前者が国民派の考え方、後者が邦権派の考え方を取り入れた案と言える。ただし奴隷の人口を5分の3の割合で人口に含める条項は本来、妥協の産物ではない。それは既に1783年に提案された連盟規約の修正案に盛り込まれている。妥協の焦点は、各州が第二院で同数の議席を持つ点である。この妥協はコネティカット妥協とも呼ばれている。
 マディソンはこの妥協案に対して、各邦間に確執を残すような妥協は避けるべきだと勧告している。特に第二院で同数の議席を各邦に割り当てる点について、「これが妥協のまさに根拠であるなら、いかなる根拠があるのか。何の根拠もない」と強く否定している。マディソンの論によれば、第一院が人口に比例して議員を選んでいるのにも拘らず、第二院が人口に比例することなく各邦が平等に票を持てば、少数者が多数者の意思を否定する弊害が生じる。さらに北部と南部の均衡も問題である。もし各邦が平等に票を持った場合、北部が8に対して南部は5である。しかし、人口に比例して議席を配分すれば両者の均衡が取れる。
 7月16日、妥協案は僅差で可決された。結局、マディソンの反対は受け入れられず、11人委員会が報告した妥協の基本方針はほとんど変更されなかった。
憲法案草稿
 妥協案が可決された後、7月26日から8月6日の間に詳細検討委員会で草案が編まれ、その間、本会議は休会となった。8月6日、本会議が再開され、草稿の検討が行われた。
 様々な検討が行われた中でマディソンは、下院議員の人口割合を「4万人以上」に改めるべきだと提案した。将来の人口増加により下院の議員定数が増え過ぎると予測したからである。マディソンの提案の結果、「人口4万人に対し1人」という条文の前に「超えることはできない」という言葉が挿入されることになった。最終的にこの部分は「人口三万人に対し一人を越えることができない」という文言に改められている。
大統領制
 行政府が肥大化している現代とは異なり、この当時は立法府が三権の中で他の二権と比較にならないほど重要な地位を占めていた。そのため、憲法案では紙幅の多くが立法府に割かれ、行政府、司法府に関する言及は少ない。とはいえ行政府に関する規定は立法府に関する規定の次に重要な問題であった。
 ヴァージニア案では、大統領に相当する職は「国民執政官National Executive」と呼ばれている。「大統領President」という呼称は、詳細検討委員会において採用が決定された。この時、他に「最高裁判所Supreme Court」、「連邦議会Congress」、「下院House of Representatives」などの呼称も採用されている。
 マディソンが大統領制度の創始にあたって最も危惧したことは、立法府が行政府の権限を侵害することであった。それを防止するためには、行政府の長を立法府から独立した立場に置くことが重要であった。そこで問題となる点は行政府の長を選出する方式である。 
 マディソンは立法府による大統領選出に強く反対している。もし立法府が大統領を選出することになった場合、候補者は議会の多数派と結託する恐れがある。それは行政府が立法府に従属する結果をまねく。それ故、大統領の選出方式として、「人民によって選ばれた選挙人による指名」が最善であるとマディソンは結論付けている。詳細検討委員会が提案した人民による直接選挙を採用しなかった理由は、まず国土が広大なアメリカでは、「[すべての]人民が候補者の各主張の是非を判断するために必要とされる能力を持つことが不可能」である点、各邦の人民は自分の邦の利益を優先するので小邦にとって不利になる点、有権者数の不均衡が北部と南部の間で生じる点である。奴隷の人口を5分の3の割合で人口に含める条項があるために、特に多数の奴隷を擁する南部に不利となることが明らかであった。最終的に、大統領の選挙方式は「州議会の定める方法」により選出された選挙人による指名で行われることに定められた。
 また一方で大統領による「横領や抑圧」を防止するために、大統領を弾劾できる制度を整えるべきだとマディソンは提言している。さらに大統領が法案に対して拒否権を行使した場合、議会が3分の2の票数で法案を再可決できる規定も提言している。このようにマディソンは、共和政体の下で行政府と立法府の機能を適切に咬合させることを重視していたのである。
人民による批准
 さらにマディソンが強調した点は、人民による合衆国憲法案の批准である。各邦議会による批准は単に「同盟や条約」に他ならない。もしある邦がそれに違反すれば、他の邦は「同盟や条約」を遵守する義務から解放される。それは連邦解体の危機をまねく。しかし、人民による批准を経れば、それは「同盟や条約」ではなく全く別の性質を持つ「1つの憲法の下の人民の連帯」と見なされる。こうしたマディソンの主張は受け入れられ、各邦の人民の選挙による会議で批准の是非が決定されることになった。
編集委員会
 9月8日、マディソンは憲法案の推敲を行う編集委員会の5人の中の1人に選ばれた。作業の中心的な役割を担ったのはモリスである。マディソンは後に「憲法案の文体[の調整]と[条文の]整理の仕上げは、ほとんどモリスのペンによる」と証言している。
 終盤にマディソンは、議会に大学を設立する権限や国内開発事業を行う権限を与えるように提案しているが、いずれも否決されている。また権利章典を盛り込むことも否決されているが、それについては、政府の権限が憲法によって限定されているので、権利章典をわざわざ明記する必要はないという根拠に賛同している。9月17日、マディソンはヴァージニア邦代表の1人として憲法案に署名した。
連合議会への憲法案提出
 フィラデルフィアを後にしてマディソンはニュー・ヨークに向けて出発し、他の2人の代表とともに憲法案を連合議会に提出した。多くの人々が新しい憲法案に概ね好意的であると感じ取りながらもマディソンは、それに強硬に反対する党派の動静に懸念を抱いていた。実際、ヴァージニア代表リチャード・リーは、各邦民に批准を求める前に憲法案の修正を行なうよう提議した。リーの考えでは、憲法案は単なる「報告」であり、連合会議は自由にその内容を修正できるはずであった。リーの支持者は、憲法制定会議の代表達が連盟規約の修正という指示を逸脱して憲法案を編んだと批判した。マディソンはそうした批判に対して、そもそも連合議会は、「政府の緊急事態と連邦の保持に対して連邦憲法を適切なものにする」ように要請したはずであり、憲法制定会議は単なる修正ではその目的に沿うことができないと判断しただけであると応じた。3日間に及んだ討議で、他の代表とともにマディソンがリーの提議を阻止した結果、連合議会は憲法案を認めるか否かを採決せず、単に諸邦に憲法案を送付するだけにとどめると決定した。

ザ・フェデラリスト
執筆の契機
 アレグザンダー・ハミルトンとジョン・ジェイとともにマディソンは、「プブリウスPublius」という共同名義で『フェデラリスト』を執筆することになった。この『ザ・フェデラリスト』をマックス・ファーランドMax Farrandは、「憲法に関する最も重要な注釈であり、アメリカの最も偉大な本の1冊とみなすことができる」と評している。それは『ザ・フェデラリスト』が当時の時代状況にのみ限定されるものではなく、権力と自由の均衡をどのように保つのかという時代を越えた政治的課題に取り組んでいる古典だからである。
 マディソンの手による最初の1篇が掲載されたのは11月22日のことである。ワシントンに宛てた手紙によれば、『ザ・フェデラリスト』執筆の意義は、「人民に憲法案の利点に関する詳細な議論を示すこと」にあった。そもそも憲法制定会議は、憲法案が公表されるまで一般には、全く新しい憲法案を考案するのではなく、単に現行の連盟規約に修正を加えるだけの集まりだと考えられていた。そのため、多くのアメリカ人は新しい憲法案についてほとんど何も知らないに等しかった。中でもニュー・ヨーク邦は根強い反対を唱える党派があり、その成功が全国的に大きな重要性を持っていた。
 最終的には『ザ・フェデラリスト』の85篇のうち少なくとも14篇、最大で26篇をマディソンが単独で執筆したと考えられている。18篇から20篇の3篇は、1786年に古代や現代の連邦制について自身でまとめた覚書やハミルトンの手による資料などを参考にしている。各篇の執筆者が誰かについて確実に判明しているのは、18篇から20篇の3篇を除き、ハミルトンによる49篇、マディソンによる14篇、ジェイによる4篇である。したがって、マディソンの手によるものと確実視されているのは、10篇、14篇、37篇から48篇である。その主な根拠は、ハミルトンが死の直前に書いた覚書と晩年にマディソンがワシントンの出版業者に送った一覧であるが、両者には食い違いが見られる。そのため残りの篇の著者については諸説ある。
 執筆当時、マディソンは引き続き連合会議のヴァージニア代表を務めており、ハミルトンも同じく連合会議のニュー・ヨーク代表であった。多忙の故に時間を割ける者が執筆するという形態をとった。さらにヴァージニアに戻るまでの約3ヶ月の間、この『ザ・フェデラリスト』を執筆していただけではなく、諸邦の人士と書簡をやり取りして、憲法批准をめぐる動静に影響力を及ぼしている。また『ザ・フェデラリスト』自体も発表の回を重ねるにつれて有名になり、1788年3月12日には早くも36篇までを収めた第1巻が書籍として発刊された。それは各邦の憲法案支持者の有力な理論的基盤となった。
内容
 『ザ・フェデラリスト』の中でマディソンが論じている内容は、憲法制定会議の席上で示した見解と共通する点が多くある。それは、強力な連邦政府の導入を含む憲法案に対して不信感を持つ人々に対して説得を試みるという点では同じであったからである。説得の方法は、反対派の論理に依拠して、それに対抗する論理を提示するという方法がとられている。
 まず10篇では、共和政とは何かという論議に共通する前提をマディソンは説明している。マディソンによれば共和政は、すべての権力が人民に由来する政治形態に他ならなかった。
 さらに共和政の原理として、人民に由来する権限を人民に代わって行使する代表制の原理が示されている。マディソンにとって、代表制は、人民すべてが直接政治に参加できないための止むを得ない措置ではなく、むしろ派閥の弊害を抑止し、優れた人物によって全体の利益が増進される制度であった。さらに14篇では、そうした共和政の理念が、小国だけではなく大国にも適用可能なものであると論じた。当時は、共和政は小国でのみ有効に機能し得るという認識が一般的であったから、アメリカのような広範囲に及ぶ国家にいかに適用できるかを説明する必要があった。
 18篇、19篇、20篇では、古今の連邦制についてその得失を論じている。そうした例を通じて、連邦の要となる中央政府に適切な権力がなければ、連邦は有効に機能し得ないことが指摘されている。
 37篇では、憲法会議が直面した様々な問題の中で大邦と小邦の対立の要因が説明され、憲法案が妥協によって生まれたことが示唆されている。これはマディソンならではの記述である。続いて、新たな憲法下での連邦政府が連合会議と比べて、それほど強大な権限を与えられているわけではないことが38篇で説明されている。次に39篇では、憲法案が共和主義的性格を持つことが強調され、連邦上院と連邦下院の選挙方法の違いから、連邦政府が連邦的性格と統一国家的性格を併せ持つことが示唆される。そして、40篇では、憲法会議の目的が明示され、アメリカ人民の幸福という信念の下、代表達の行為が弁護される。
 マディソンは、41篇から44篇にかけて、軍事権、課税権、通商規制権、外交権、州際問題統制権など連邦政府の権限を詳細に論じている。そして、45篇と46篇でマディソンは、連邦権限が州権に対して危険ではないことを強調する。連邦が州の権限を侵害するよりも、むしろ州が連邦の権限を侵害する可能性が高いとマディソンは示唆する。さらに人民の愛着という点でも州は連邦よりも有利であり、たとえ連邦が何かを州に強制せいようとしても、それには多くの困難が伴うと論じている。
 47篇、48篇では、立法、行政、司法の三権分立の原理が説明される。そして、これまで各邦の邦憲法は必ずしも三権分立の原理を実現してこなかった事実を論説する。さらに三権の中でも立法府による権力簒奪の危険性が最も高く、それを防止する適切な方策が必要であることが示される。引き続きマディソンは49篇で、ジェファソンの『ヴァージニア覚書』を参照して、権力簒奪のような重大な危機が起きた場合、人民による憲法会議を開催すべきだという論を紹介する。しかし、その論は、最も権力簒奪を起こす危険性がある立法府が、同時に最も人民に影響力を保持しているという性質から否定される。人民による憲法会議を定期的に開催する案が50篇で検討されるが、それも権力簒奪に対する適切な方策にはならないと否定される。51篇では、各部門に権力簒奪から身を守る憲法上の手段を与えることが、権力簒奪に対する適切な方策であることが示される。さらに連邦政府と州政府で権限が分かたれているから、人民はその権利において二重の保障を得ているとマディソンは均衡理論を展開する。
 52篇から58篇にかけては連邦下院に関する諸問題が論じられている。それに加えて、62篇と63篇では連邦上院の機能と有用性が論じられている。

ヴァージニア憲法批准会議
オレンジ郡代表
 当初、マディソンは代表選挙に出馬する気はなく、したがって地元に帰るつもりもなかった。しかし、ヴァージニア憲法批准会議の代表選挙に備えて早く地元に帰るように翻意を促す手紙がマディソンのもとに多く届いた。
 結局、ヴァージニアに戻ったマディソンは、地元のオレンジ郡が「合衆国憲法案に対して最も馬鹿げた根拠のない偏見に満ちている」のを知って遊説を行った。その甲斐あって「連邦政府に関する誤解」は正され、3月24日、マディソンはヴァージニア憲法批准会議の代表に首位で選ばれた。
 6月3日、マディソンはリッチモンドで開催された批准会議に出席し、憲法案擁護派の中で指導的な役割を果たした。健康がすぐれないながらもマディソンは、3週間にわたった討論で憲法案反対派の批判によく応えた。ヴァージニア憲法批准会議で行われた討論については、デイヴィッド・ロバートソンの速記録に基づく『ヴァージニア憲法批准会議の討論と過程』から詳細を知ることができる。
連邦政府による直接課税について
 憲法案反対派の中心人物はパトリック・ヘンリー、ジョージ・メイスン、そしてリチャード・リーであった。反対派は主に、新連邦政府がヴァージニア邦の西部における利益を損なうような条約をスペインと結ぶのではないかという疑念や邦政府の権限を侵害するのではないかという疑念を抱いていた。こうした反対派の様々な疑念にマディソンは逐一応答している。
 例えばマディソンは、人民の自由を脅かす可能性があるので連合会議は憲法案を棄却すべきだというヘンリーの論に反駁している。強力な連邦政府は、派閥の分裂や抗争により連邦を瓦解させる危険性を回避するために必要な存在であり、結果的に人民の自由や外国の侵略に対する保障となるという意見がマディソンの主な論拠である。
 また諸邦の憲法批准会議で論じた修正案を集めて再度検討するために憲法制定会議を開くべきだというメイスンとランドルフの提案に反対を唱えている。もし1つの邦が憲法案の修正を提案すれば、他の邦もそれにならって対案を出す可能性がある。諸邦の政治体制はそれぞれ異なるので、連邦政府の構想について様々な見解が示されるだろう。そうした見解の調整を図ることは実質的に不可能であるとマディソンは注意を促している。
 諸問題の中でも連邦政府による直接課税が大きな問題であった。マディソンは次のように直接課税の必要性を論じている。連邦を有効に機能させるためには確かな財源が必要である。確かな財源の保障なくして連邦が信頼を得ることはできない。さらに財源なくして正規軍を養うことはできない。アメリカはヨーロッパから離れているが、例えばアメリカの船がフランスの貨物を運送している場合、イギリスに拿捕される危険性はある。中立国の権利は尊重されるべきであるが、正規軍を持たない国の権利など尊重され得るだろうか。
 直接課税ではなく、これまでの通り、分担金を各邦から集める形式を取れば、分担金を払わない邦に懲罰で以て対応しなければならないだろう。それは大きな騒乱を引き起こす恐れがある。直接課税の代わりに輸入品に関税を課して歳費を賄うようにすればよいという意見もあるが、それは不公平である。南部は北部に比べて製造業が未発達である故、多くの消費財を輸入に頼っている。そのため多くの関税を支払うことになるので不公平である。また関税収入は将来、国内の製造業の発達によって減少する可能性がある。また戦時には減少すると思われるので、安定した財源としては不適当である。さらにマディソンは以下のように言葉を続けている。

「今は各邦に課税しているが、憲法案では各個人に課税するという点が唯一の相違点である。理論的には両者に違いはない。しかし、実質的には両者には明らかな違いがある。前者は非効率な権限であるが、後者は与えられた目的に沿っている。つまり、この変更は人民の安全にとって必要である」

 ヘンリーは、ジェファソンが権利章典を含む修正を確実にする手段として、9邦が批准を承認する一方で4邦が批准を拒否する方策に肯定的であると述べた。大きな影響力を持つジェファソンの名前を持ち出すことで批准反対の勢いを強めようとしたのである。ヘンリーがジェファソンの名前を持ち出したことに驚いたマディソンは、外部の者の意見を持ち出すべきではないと反駁している。ジェファソンが自分に伝えたことをここで明かすことは正しくないと述べながらも、ジェファソンが連邦政府による直接課税については賛成していると述べた。
権利章典について
 直接課税に加えて問題になった点は権利章典である。マディソンは権利章典に宗教の保護を盛り込むことに反対していた。もしそれが特定の宗教を保護することになれば、結果的に信教の自由が侵害されると考えたからである。政府がたとえ少しでも個人の信仰に干渉することは「最も言語道断な侵害行為」であった。
 権利章典についてマディソンはジェファソンと手紙で詳細な意見を交わしている。ジェファソンは、憲法案が権利章典を欠いている点が問題であると指摘している。それに対して、マディソンは次のように反論している。第1に、連邦政府の権限が、憲法で明確に規定されているのであれば、権利章典で国民の諸権利をわざわざ明示する必要はない。ただし憲法によって規定されている権限を行使するために連邦政府は必要となるあらゆる手段を用いることができるという「黙示的権限」が認められるのであれば、権利章典は必要である。第2に権利章典に諸権利を明記したとしても、それだけでは人間のすべての基本的権利を自由に認めたことにはならない。第3に、連邦政府の権限の制限と州政府の連邦政府に対する不断の警戒が権力濫用に対する防止策となる。そして第4に、これまでの経験によれば、権利章典はあまり効果を発揮していない。ジェファソンとのこのようなやり取りから分かるように、マディソンは権利章典を加えることに積極的ではなかった。
奴隷貿易について
 ヴァージニア邦の多くの奴隷主は、新しい連邦政府が奴隷解放を行おうとするのではないかという疑念を持っていた。マディソンは次のように論じて奴隷主の疑念を解こうとした。
 南部諸邦は、奴隷貿易が一時的に認められないのであれば連邦に加盟することはできないだろう。現状では、奴隷制を認めない邦に逃げた奴隷は解放されることになっている。「何人も一州においてその法律の下に服役あるいは労働に従う義務ある者は、他州に逃亡した場合でも、その州の法律あるいは規制によって、右の服役あるいは労働から解放されるものではなく、右の服役あるいは労働に対し権利を有する当事者の請求に従って引き渡されなくてはならない」と規定する第4条第2節第3項は、奴隷主が奴隷に対する権利を他邦でも保持するために規定されたことは明らかである。それは奴隷主にとって現状よりもより良い保障となる。一方で、連邦政府が奴隷を所有する権利に干渉する権限は全く与えられていない。また「現在の諸州中どの州にせよ、入国を適当と認める人びとの来往および輸入に対しては、連邦議会は1808年以前においてこれを禁止することはできない」と規定する第1条第9節第1項により、少なくとも今後20年間は奴隷貿易が禁止される恐れがない。
憲法案批准
 6月24日、ジョージ・ウィスは、後に修正の承認を求めることを条件に批准を承認する決議を提議した。ウィスの決議は翌日、89対79で可決され、ヴァージニアの憲法批准が決定した。こうしてヴァージニア邦は10番目に憲法を批准した州となった。
 マディソンは憲法批准会議が提案した修正の大部分、特に連邦に直接課税を認めない条項に不満を抱いていた。しかし、妥協として、前もって修正を加えずに、憲法成立後に修正の承認を求めるウィスの考えを支持した。

連邦下院議員
連邦上院議員選挙で敗北
 1788年11月8日、ヴァージニア州議会は連邦上院議員の選出を行った。マディソンは僅差で落選している。さらに連邦下院選挙を控えて、憲法案反対派であったモンローが支持を広げつつあった。憲法にはいかなる修正も必要としていないとマディソンが考えているという風聞が広まった。そうした風聞を打ち消そうとマディソンは、憲法修正を支持する旨を発表した。その結果、翌1789年2月2日に行われた連邦下院選挙でマディソンは、モンローを1308票対972票で破って当選した。
 この頃、マディソンはワシントンから第1次就任演説の草稿を受け取っている。その草稿があまりに冗長であったために、マディソンは新しい草稿を書き起こした。結局、それがワシントンの第1次就任演説となった。マディソンは他の人々と同じくワシントンが大統領になると早くから予測していた。また南北の政治的均衡からジョン・アダムズが副大統領に選出されると予測していたが、その資質については否定的であった。議会開催にあわせてニュー・ヨークに向けて出発したマディソンはその途中、マウント・ヴァーノンに1週間滞在し、様々な問題をワシントンと話し合っている。
権利章典の提案
 1789年5月9日、上院はジョン・アダムズの勧めに従って、「合衆国大統領にしてその権利の擁護者閣下」を大統領に対する呼称として提議した。下院でこの提議が審議された際にマディソンは、称号は無害なものだが、我々の政府の本質やアメリカ国民の特質に合わないので採用するべきではないと論じた。結局、アダムズが提案した称号は葬り去られた。
 また5月19日、マディソンは外務省(国務省)、財務省、陸軍省の設立を提案した。これは行政府の枠組みを決定する重要な提案であった。その提案の中には、大統領が各省の長官を議会の同意を得ずして罷免できるとする規定も含まれていた。これは大統領の罷免権を確立する先例となった。憲法第2条第2節第2項によると長官の任命には「上院の助言と同意」が必要である。しかし、罷免に関しては明白な規定はなく、憲法第2条第1節第1項の「行政権は、アメリカ合衆国大統領に属する」という規定に基づき、大統領に罷免権を与えるべきだという考えに基づいている。
 さらに6月8日、マディソンは憲法修正を提議し、議会に第1会期中に検討するように求めてマディソンは熱弁を振るっている。前もってマディソンは憲法修正を5月25日に提議することを下院に申し出ていたが、行政府の枠組みや歳入をめぐる議論などでその検討が遅れていた。
 マディソンの考えでは、修正の早期の実現は、人民に広まっている連邦政府に対する不安を解消するのに有用であった。その当時、ニュー・ヨーク州とヴァージニア州はさらなる修正を盛り込むために再度、憲法制定会議を開催するようにまだ呼びかけていた。続いてマディソンは、連邦政府に利点があることを人民に悟らせれば不満の声を少なくすることができると論じる。もし、この憲法の下で人間の基本的権利が認められなければ、大多数の人民は連邦政府を支持することに躊躇するだろう。それ故、憲法案の修正が必要である。不満が高まって憲法案全体に対する盤石の支持が得られない恐れがあるからであるとマディソンは主張した。その他にも権利章典を不要とする意見に対して逐一反論している。
 7月21日、下院は11人からなる修正検討委員会の発足を決定した。マディソンはその一員に選ばれている。委員会は7月28日、下院に最終報告を行った。次いで8月13日、下院は報告をもとに修正案の審議を開始した。まず現行憲法の文章を改訂するか否かが話し合われたが、最終的には原文には手を加えずに後部に修正条項を付け足す方式で落ち着いた。1789年9月25日、両院協議会は修正案を可決し、10月2日、ワシントン大統領がそれを各州に送達した。そして、権利章典は諸州の批准を経て1791年12月15日に成立した。
 権利章典は、いくつかの点を除けば、マディソンが提案した原案にほぼ沿った内容である。原案から除かれている主な点は、信教の自由、言論の自由、出版の自由、そして陪審による裁判を受ける権利などを州が侵害することを禁じる項目と立法府の越権行為を防止するために定めた、三権が互いに権限を侵害し合うことを禁じる項目である。特に前者についてマディソンは「最も重要な修正」として強く採択を求めた。人民の基本的権利を侵害しないように連邦政府を抑制する必要があるなら、同じく州政府も抑制する必要があると考えたからである。結局、下院はそれを採択したものの、上院が草案から削除したために最終案に盛り込まれなかった。
公債償還問題
 1790年1月14日、財務長官ハミルトンは公債償還計画を議会に提出した。それは、政府公債のみならず独立戦争時の州債約2500万ドルを引き受け、課税と新たな借り入れで返済する計画であった。
マディソンは連邦政府による州債引き受けは、負債額が多い州にとっては歓迎すべきことだが、それが少ない州にとっては特に利益がないと計画に反対を唱えた。さらに原保有者に対する償還額と公債を安く買い集めた投機家に対する償還額に区別をもうけるべきだとマディソンは主張している。2月22日、下院は償還額に区別を設ける案を36対13で否決した。しかし、公債償還計画自体を認めるべきか否かについて議会は膠着状態に陥った。
 そこで6月20日、ジェファソンはハミルトンとマディソンの他数名の議員を晩餐会に招いた。この晩餐会で結ばれた妥協の結果、公債償還計画が実現した。
第1合衆国銀行特許法案
 1790年12月14日、ハミルトンは合衆国銀行の設立を求める報告書を議会に提出した。翌1791年1月20日、上院は20年の期限付き特許の付与を認める法案を可決した。下院でも同法案の審議が行われた。その際、マディソンは合衆国銀行設立に強く反対した。同銀行設立によってもたらされる利点を認めながらもマディソンは、主に憲法上の解釈から反対意見を述べた。マディソンの反対論は以下のように厳密な憲法解釈に基づいている。
 まず合衆国銀行のような組織に特許を与えることは、憲法制定会議で提案されたが、否決されている。さらに連邦議会は銀行に特許を与える権限を有しているかを検証しなくてはならない。憲法によって連邦政府に与えられる権限は限られている。連邦政府の特質を破壊するような解釈は公正ではない。
賛成派は、「合衆国の債務の支払い、共同の防衛および一般の福祉の目的のために、租税、関税、間接税、消費税を賦課徴収すること、ただし、すべての関税、間接税、消費税は、合衆国を通じて画一なることを要する」と規定する第3条第8節第1項に基づいて特許の付与を認めている。しかし、本来、「一般の福祉の目的」とは、州の権限に干渉することなく行使される包括的権限を示している。それにも拘らず、同法案によって銀行に特許を与えることは明らかに州の権限に抵触している。つまり、州立銀行を設立し、または廃止する州の権限を直接的に侵害している。そうした侵害を正当化する憲法上の根拠は全くない。権限が明示的に与えられていなければ、連邦政府にはそうした権限を行使することはできない。
 次いで賛成派は、「合衆国の信用において金銭を借り入れること」を認める第3条第8節第2項に基づき特許の付与を認めている。この法案はそもそも金銭を借り入れるための法案なのだろうか。この条文は単に金銭を借り入れることを認めているだけで、それ以上に解釈すべきではない。
 さらに賛成派は、「上記の権限、およびこの憲法により、合衆国政府またはその官庁もしくは官吏に対して与えられた他のいっさいの権限を執行するために、必要にして適当なすべての法律を制定すること」と規定する第3条第8節第18項を同法案の根拠としている。
 しかし、もしそれが認められれば、連邦政府に無制限の権限を認める悪しき前例となる。「必要にして適切な」という条文は連邦議会に無制限の権限を与えるものと解釈すべきではない。合衆国銀行は、条文にあるような「必要にして適切な」存在ではなく、単に「便宜的な」存在に過ぎない。
 1790年2月11日、マディソンはハミルトンの政府公債案に反対する演説を行った。演説の中で、公債の元の所有者と後から安い値段で公債を購入した投機家を区別できない点が問題だと主張した。しかし、下院は36票対13票でそうした区別をもうけることに反対した。さらに州債の引き受けが議論された。マディソンは州債の引き受けに関しても反論を開始した。マディソンの考えでは、州債を一律に連邦政府が肩代わりして支払うことは、既に負債をほぼ完済している州にとって不公平な処遇であった。
 4月12日、州債引き受け案は31票対29票で否決された。一方、議会は恒久的な首都をどこに定めるかという議論を続けていた。マディソンはかねてよりポトマック川沿いに首都を建設すべきだと強く主張していた。1790年6月20日、ジェファソンの招きで、ハミルトンとマディソンの他数人の議員が晩餐をともにした。この晩餐会の結果、南部の議員が、フィラデルフィアを10年間暫定首都にした後、ポトマック川沿いに恒久的な首都を設けるという約束と引き換えに、ハミルトンの公債償還計画を支持するという妥協が成立した。
 さらに1790年12月14日、ハミルトンは第1合衆国設立を議会に提案した。マディソンは合衆国銀行設立にも反対を唱えた。つまり、議会が合衆国銀行のような組織に特許を与える権限は憲法に明記されておらず、また憲法に定められた目的を果たすためにそうした組織が必要であるとは考えられない。マディソンは法案に対して拒否権を行使するようにワシントンに助言した。ワシントンは合衆国特許法案を認めるか否か迷っていた。法案に署名せずに議会に差し戻す場合も考えて、マディソンに法案への反対意見を形にするように依頼していた。ワシントンは法案への署名を遅らせたが、結局、2月25日、ワシントンは法案に署名した。
大統領の相談役
 1792年5月5日、ワシントンは厚く信頼するマディソンに大統領退任の意向をいつどのように明らかにすべきかを相談している。ワシントン自身はもはや政権運営に自分は必要ないし、そもそも憲法上の問題や法律に基づく判断などは最初から適任ではないと考えていた。そして、そうした職務により精通した人物が自分に代わって大統領を務めたほうがよいと述べている。さらにハミルトンとジェファソンの対立に頭を悩ませていたワシントンは、現在の地位に留まるよりは、農園に帰って自らの手で鋤を取り、自らのパンのために働きたいとマディソンに訴えた。
ワシントンの訴えに対してマディソンは、いかなる困難があろうとも、世論の支えと的確な情報に基づいて、すべての事例においてワシントンが適切な判断を行っていることは疑いないと励ました。そして、派閥どうしの衝突があればこそ、かえって退任するよりは事態が改善されるまで続投すべきだと提言した。
 その際にマディソンは後任が誰になるかについて可能性を述べている。ワシントンの後任として名前を挙げられたのは、ジェファソン、ジェイ、アダムズの3人である。しかし、いずれの候補についてもマディソンは否定的な見解を示している。まずジェファソンは公的生活から退隠しようと考えているので出馬を要請することは難しい。またアダムズは君主主義的な傾向を隠そうともしていない。最近、アダムズは議席配分法案に賛成票を投じたが、それは南部の民主共和派の反感をかった。それ故、アダムズは問題外である。さらにジェイはアダムズと同じく君主主義的な傾向を持っていると思われているのに加えて、西部の支持は全く見込めない。
 特にアダムズに対してマディソンは不信感をあらわにしている。それは、1791年にジェファソンが起こした筆禍事件の際に、マディソンがジェファソンに向かって、アダムズは公使を務めている時に「全力で我が国の共和政体を攻撃した」前歴があるので文句を言えないと述べていることからも分かる。
6月20日、マディソンはワシントンに翻意を望みながらも告別の辞の草稿を送った。各州で選挙人を選ぶ時間が必要なことから考えて、少なくとも9月中頃までには発表しなければならないとマディソンは提言している。また新聞に公表する発表形式を採用するように勧めている。しかし、結局、ワシントンは続投を決意したので、この時は告別の辞の草稿は使われなかった。この草稿は、後にハミルトンの改訂を経て発表されたことはよく知られている。
 ハミルトンやジェファソンとともにワシントンの信頼を受けたマディソンであったが、常にワシントンの意向に沿っていたわけではない。1794年11月19日の第6次一般教書でワシントンは、「ある自生の協会」がウィスキー暴動の温床となったと指摘している。それは各地の民主共和協会を指している。議会の連邦派は同様の非難を、一般教書に対する返答に含めようと提議した。それに反対してマディソンは民主共和協会を擁護する論を展開している。
パンフレット戦争
 1791年10月、マディソンはジェファソンと協力し、大学時代からの友人フィリップ・フレノーが民主共和派を擁護するナショナル・ガゼット紙を創刊する後援を行っている。無記名であったが、マディソン自身の手による記事がナショナル・ガゼット紙に数多く掲載された。記事の内容は、政治だけではなく、世界平和やファッションについてなど一般的な問題にも及んでいる。
 1792年夏、ハミルトンは、フレノーがナショナル・ガゼット紙の編集に携わっているのにも拘わらず、ジェファソンによって国務省の翻訳官として採用されていると連邦派の新聞で攻撃した。マディソンはモンローと協力して、9月22日から12月31日にかけてアメリカン・デイリー・アドヴァタイザー紙に6篇のジェファソン擁護論を掲載した。
 さらに1793年6月29日から7月27日にかけて、ハミルトンは「パシフィカスPacificus」の筆名で、大統領が議会に諮ることなく中立を宣言することができると主張した。それは外交分野において大統領の大幅な特権を容認する論であった。
 マディソンは、ジェファソンの要請により、「ヘルヴィディウスHelvidius」の筆名で8月24日から9月18日にわたって反論を行った。その中でマディソンは、宣戦布告と条約を審議する権限は議会にあるので、大統領に中立宣言を行う権限は認められないと論じている。
ジュネ問題
 1793年4月8日、アメリカに到着した革命フランス政府の駐米公使エドモン=カール・ジュネが、アメリカ政府の許可なくイギリスに対する敵性行為を行った。ジュネの到着は多くの親仏派から歓迎されたが、アメリカ政府を軽視するやり方は親英派の強い反感をかった。
 8月17日、連邦派は一連のジュネの行為を非難する決議を採択した。それを知ったマディソンは、同志とともに、ワシントンとフランス革命を称揚する一方で、イギリスの君主制を支持する一派を非難する決議を起草した。親英派がジュネ問題を利用して世論を反仏に導こうとしているとマディソンは考えていたからである。
ジェイ条約に対する抗議
 閣内の党派対立が原因でジェファソンが公職を退いた後、民主共和派の行く末はマディソンの双肩に委ねられた。マディソンは「あなたは公的生活から引退すべきではありません」と再起を促したが、結局、ジェファソンを翻意させることはできなかった。ワシントンはジェファソンの後任としてマディソンを国務長官に就けようとしたが、マディソンはそれを断っている。
 ジェファソンが退任間際に提出した「合衆国の外国交易における特権と規制に関する報告」に基づいて、マディソンは、1794年1月3日、アメリカに対して貿易上の差別待遇をとるイギリスの政策に対する報復としてイギリスからの輸入品に高関税を課す決議を提案した。
 しかし、決議の審議はアメリカ船舶が250隻以上も拿捕されていることが判明して中断された。そうした問題解決を図るためにワシントンは最高裁長官ジョン・ジェイをイギリスに派遣した。1794年11月19日、ジェイはいわゆるジェイ条約を締結した。
 この間、ワシントンの政策に不満を抱いたマディソンは、1795年4月、匿名で現政権を批判する「政治的見解」と題するパンフレットを発行している。6月24日、上院は非公開審議の後、20票対10票でジェイ条約を承認した。そして、早くも7月1日には条約の内容が暴露された。多くの批判が寄せられたのにも拘らず、8月18日、ワシントンは条約に署名した。ジェイ条約に反対するマディソンは、ヴァージニア州議会がジェイ条約に対する抗議を行うように求める請願を起草した。11月、マディソンの請願が新聞各紙で報じられた。
 1796年2月29日、ワシントンはジェイ条約の発効を宣言した。それに対して、3月2日、下院は大統領にジェイ条約に関する文書を公開するように求める審議を開始した。その結果、3月24日、下院は62票対37票で大統領にジェイ条約締結交渉の関連文書の提出を求める決議を採択した。マディソンは民主共和派の議員達とともに、たとえ条約に関する権限が憲法により明らかに大統領と上院に付与されていても、下院は条約を執行する予算を審議しなければならないので、上院と同じく条約を審議する権利があると論じている。
 下院の決議に対してワシントンは、3月30日、憲法の規定によれば、下院には条約の内容を審議する権限はないとして関連文書の提出を拒否した。最終的に、4月30日になってようやく下院は、51票対48票の僅差で条約に関連する予算を認めた。12月9日、マディソンは退職する決意を固め、新聞にその旨を発表した。

退隠生活
モンペリエの経営に専念
 1797年3月3日に議会が閉会した後、マディソンは妻と継子を連れてモンペリエに戻った。5000エーカーの地所と100人以上の奴隷を擁する農園で小麦を主に栽培した。科学的農耕法を研究し、自宅の改築に取り掛かった。
ヴァージニア決議
 1798年、アダムズ政権は外国人・治安諸法を制定した。ジェファソンと連携してマディソンは、この外国人・治安諸法に対する抵抗を密かに開始した。民主共和派からすれば、これらの法律は、フランス革命思想の広がりを阻止し、親仏的な民主共和派の勢力を削ぐことを目的としたものに他ならなかったからである。
 ジェファソンがケンタッキー決議を起草する一方で、マディソンはヴァージニア決議を匿名で起草した。1798年12月24日、ヴァージニア州議会は同決議を若干の修正を加えたうえで採択した。ちなみにマディソンが同決議を起草したことが明らかにされたのは1809年以降である。最晩年にはマディソン自らヴァージニア決議を起草したことを認めている。
 ケンタッキー決議とヴァージニア決議に対する諸州の反応は必ずしも芳しくなかったので、翌年9月、マディソンはモンローとジェファソンとともにモンティチェロにて、外国人・治安諸法に対抗する計画を話し合っている。ジェファソンはさらに「連邦から脱退すること」も辞さないとする急進的な考えを提案した。それに対してマディソンは連邦を瓦解させる危険性を指摘し、ジェファソンを思い止まらせた。
イギリスに対する不信感
 ジェイ条約に対する抗議の根底にはイギリスに対する不信感があった。それは退隠後も全く変わっていない。1799年1月23日と2月23日に、マディソンは匿名でオーロラ・ジェネラル・アドヴァタイザー紙にイギリスの影響の危険性とフランス革命を擁護する小論を投稿している。
 小論の中でマディソンは次のように論じてイギリスに対する警戒感をあらわにしている。自国の製造業のためにイギリスはアメリカ市場を独占しようとしている。イギリスはアメリカの共和政体に対して不安と憎悪を抱いている。ジェイ条約に賛成する請願書を提出した商人達はイギリスから影響を受けている。アメリカの貿易資本の4分の3はイギリス資本である。こうして影響力を浸透させることによってイギリスがもくろんでいることは、アメリカを再植民地化することである。イギリスはアメリカの独立だけではなく中立の権利をも脅かしている。さらに友好国であるフランスとの戦争に引きずり込もうと企んでいる。

ヴァージニア州下院議員
 1799年4月24日、マディソンはヴァージニア州下院議員に選出された。1800年1月7日、ヴァージニア州議会に外国人・治安諸法に関する報告書を提出している。同報告書は前年に採択されたヴァージニア決議に対する様々な反対に対して、逐一、反論を述べたものである。
 マディソンによれば、ヴァージニア決議に異を唱える者は、言論および出版の自由を制限する法律を制定することを禁じる修正第1条について、それをイギリスの一般法に基づいて、扇動的な誹謗中傷を制限することまで禁じてはいないと解釈している。そうした解釈に対してマディソンは、そもそもイギリスの一般法の概念は共和政体であるアメリカに適さず、それ故、イギリスの一般法に基づく解釈を認めることはできないと反論している。またマディソンは連邦党の憲法の拡大解釈についても警鐘を鳴らしている。
 同報告書でマディソンは、外国人・治安諸法が共和政体の原理と矛盾していることを示し、合衆国憲法における言論および出版の自由の意義を明らかにした。同報告書をヴァージニア州議会は採択した。
1月11日、マディソンはヴァージニア州の民主共和派の会合に出席した。会合では1800年の大統領選挙について話し合われた。全国的に民主共和派が力を増していたが、一部の地方では情勢はまだ不透明であった。マディソンは全国の民主共和派に書簡を送り、大統領選挙を主導する役割を果たした。

国務長官
着任
 1801年3月5日、ジェファソンはマディソンを国務長官に指名した。しかし、リューマチの悪化と2月27日に亡くなった実父の地所の管理ですぐにワシントンに向かうことができなかった。結局、ワシントンに到着したのはようやく5月1日のことである。ワシントンに着いてから3週間、ジェファソンとともにまだ完成していない大統領官邸に滞在した。
ルイジアナ購入
 主な外交問題、スペインが秘密裡にルイジアナをフランスに割譲したこと、サント・ドミンゴとの関係。
フランスの遠征軍がサント・ドミンゴに上陸したという報告を受けて、ジェファソン政権はフランスがルイジアナを占領するための軍を派遣するのではないかという懸念を抱いた。まずマディソンは、駐仏アメリカ公使ロバート・リヴィングストンにニュー・オーリンズと両フロリダを獲得できる可能性を探らせた。スペインは両フロリダもフランスに割譲したとマディソンは信じていたからである。
 1802年10月16日、スペインの監督官がニュー・オーリンズ港からアメリカ船舶の締め出しを行った。そこでモンローが特使に任命され、フランスとの交渉にあたることになった。その結果、モンローとリヴィングストンはルイジアナ全域をフランスから購入することに成功した。その報せはマディソンのもとに1803年7月14日に届いた。両者の行為は本来の指示から逸脱することであったが、マディソンは7月29日付の書簡で追認している。
 こうしてフランスから割譲の約束を取り付けたものの、それに関して憲法上の問題があった。なぜなら外国の領土を割譲によって獲得する権限が憲法で明記されていないからである。それに対してマディソンは、憲法を修正しなくても、もともと認められている条約締結権を行使して、領土を得ることは全く問題がないとジェファソンに助言した。マディソン以外にも同様に勧める者が多かったので、結局、ジェファソンは憲法修正を提案しなかった。
対英関係
 マディソンはイギリスによるアメリカ船舶の臨検と船員の強制徴用の差し止めに抗議したが、全く効果はなかった。さらにイギリス海事裁判所は、エセックス事件に関して、1756年の原則を適用した。エセックス事件は、イギリスが、フランスの本国植民地間交易に従事していたアメリカ商船エセックス号を押収した事件である。 
 イギリスは、平和時に他国の植民地との交易に従事することを禁じられていれば、戦時も同様に中立国に他国の植民地との交易に従事することを禁じる1756年の原則の下、フランスに打撃を与えるために、アメリカ商船を使った本国植民地間交易を差し止めようと考えたのである。1756年の原則が認められた結果、西インド諸島で交易に従事していた多くのアメリカ商船がイギリス海軍に押収された。マディソンは、1756年の原則に抗議するために国際法の研究を開始した。翌1806年、研究の成果は、「イギリス海事政策の検証」という204ページからなるパンフレットにまとめられた。
 4月、議会はイギリス製品の輸入を規制する法案を可決した。一方、ジェファソン政権は、イギリスに強制徴用を停止させ、アメリカの中立を認めさせるためにウィリアム・ピンクニーを派遣した。ピンクニーはモンローとともに12月にイギリスと条約を締結したが、ジェファソンとマディソンはそれを上院に提出しないことを決定した。条約の内容に強制徴用の停止が含まれていなかったからである。
 またチェサピーク号事件が起きた際に、マディソンはモンローに、イギリスに違法行為の公式な否認と4人の水夫の返還、さらに強制徴用の停止を再度求めるように指示した。その一方で、イギリスから派遣された特使と事件解決の交渉にあたったがほとんど実を結ぶことはなかった。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究