家庭環境


マディソンが生まれたポート・コンウェイの家は、母方の祖父母の家である。父と同名であったため、父が亡くなる1801年まで「ジェームズ・マディソン・ジュニアJames Madison, Jr.」と署名していた。生後まもなくして、マディソンは母とともに父の農園があるオレンジ郡に移った。マディソンは幼少時、非常に病弱であった。
マディソンが過ごした農園ではたくさんの黒人奴隷が働いていた。1782年までには少なくとも118人に達している。そのためマディソンにとって、黒人奴隷がいる風景は当たり前のものであった。
 毎週、マディソン一家は、農園から6,7マイルの場所にある教会に通っていた。その当時、教会は社交の要であった。さらに父ジェームズは教区委員を務めていた。教区委員は、教会の維持管理に携わり、その費用を徴収する役割を担う地域共同体にとって重要な役職であった。
 マディソン自らの手による最初の文書は、「1759年12月24日」の日付が入った1冊の「抜粋ノートCommonplace Book」である。このノートは24ページからなり、1758年7月号の『アメリカン・マガジンThe American Magazine』から詩が写し取られている。この他にマディソンが農園でどのような幼少時代を過ごしたかは特別なことは何も記録に残っていない。マディソンの回想によれば、古い家から新しい家に引っ越す際に軽い家具を運ぶ手伝いをしたことが記憶に残っているという。それは1760年頃のことである。
 1761年から1762年にかけてオレンジ郡で天然痘が流行したが、マディソンと兄弟達は誰も命を落とさずに済んだ。この当時、天然痘は非常に恐れられた疫病であった。兄弟達の年齢差は上と下で20才以上もあったので、後にマディソンが兄弟姉妹達に読み書きの初歩を手解きすることもあった。

兄弟姉妹
フランシス・マディソン
長弟フランシスFrancis Madison (1753.1.18-1800.4)はオレンジ郡の農園主で1800年に亡くなった。
アンブローズ・マディソン
次弟Ambrose Madison (1755.1.27-1793.10.3)は、ヴァージニア第3連隊の大尉であり農園主であった。1793年に亡くなった。
カトレット・マディソン
3弟Catlett Madison (1758.2.10-1758.3.18)は夭折した。
ネリー・マディソン
長妹Nelly Conway Madison (1760.2.14-1802)は1783年に結婚し、1802年に亡くなった。
ウィリアム・マディソン
4弟William Madison (1762.5.5-1843.7.20)は独立戦争で砲兵中尉として活躍した。弁護士になり、ヴァージニア州議会議員も務めた。
サラ・マディソン
次妹Sarah Catlett Madison (1764.8.17-1843)は1790年に結婚し、1843年に亡くなった。
―・マディソン
5弟unnamed Madison(1766-1766)は夭折した。
エリザベス・マディソン
3妹Elizabeth Madison (1768.2.19-1775.5.17)は赤痢で早世した。
―・マディソン
 1770年に死産が1人いた。
リューベン・マディソン
末弟Reuben Madison (1771.9.19-1775.6.5)も赤痢で早世した。
フランシス・ファニー・マディソン
末妹Francis “Fanny” Taylor Madison (1774.10.4-1823)は1800年に結婚し1823年に亡くなった。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究