職業経験(憲法制定会議以前)


郡治安委員
 1774年12月22日、マディソンはオレンジ郡の治安委員会の1人に選ばれた。治安委員会は、同年10月、第1回大陸会議でイギリス製品不買を行うために設けられた組織である。1775年10月2日、マディソンはオレンジ郡の民兵隊の大佐の辞令を得ている。民兵隊の教練に参加したが、健康状態が芳しくなかったので実戦に赴くことはなかった。

ヴァージニア革命協議会
 1776年4月25日、オレンジ郡はマディソンをヴァージニア革命協議会の代表として選んだ。ヴァージニア革命評議会は5月6日、ウィリアムズバーグで開会した。次いで5月15日、大陸会議に独立宣言を提案する決議が票決にかけられ、マディソンは賛成票を投じている。
 他にもマディソンはヴァージニア権利章典の起草にも携わっている。ヴァージニア権利章典は主にジョージ・メイスンによって起草された文書である。マディソンの修正草案がパトリック・ヘンリーによって提議されたが、革命協議会はそれを採用しなかった。それはヴァージニアにおける国教会の解体を意味したからである。さらにマディソンは第2の修正草案を起草した。最終的に修正草案は、6月12日、若干の修正を経て採用されたが、マディソンが望んでいた政教分離の原則は含まれていなかった。
 7月5日、邦憲法を採択してヴァージニア革命評議会は閉会した。新たな邦憲法の下でマディソンはヴァージニア邦議会議員になった。10月から12月に開かれたヴァージニア邦議会第1会期でジェファソンに出会った。ジェファソンとの親交はこれ以後、生涯続いた。

行政評議会
 1777年4月24日、ヴァージニア邦議会選挙で落選する。11月15日、ヴァージニア邦議会はマディソンを行政評議会の1人に選んだ。行政評議会は8人からなり、邦知事の諮問機関であった。1778年1月、行政評議会に着任し、パトリック・ヘンリー知事の助言役を務める。4月に邦議会議員に当選したが、行政評議会に籍を置いていたために当選が無効になった。ヘンリーに代わってジェファソンが知事になってからも行政評議会にとどまった。

大陸会議
 1779年12月14日、大陸会議のヴァージニア代表に選ばれる。1780年3月20日、マディソンは大陸会議に着任した。代表の中では最年少であった。3月22日、海事委員会委員に任命され、6月6日まで在任した。ミシシッピの航行権をめぐってスペインと交渉中のジョン・ジェイに送達する指令を起草している。マディソンはミシシッピの航行権を確保することはアメリカの独立存続にとって重要だと認識していた。さらに大陸会議の権限強化とフランスとの同盟を支持した。

連合会議
様々な問題に関与
 1781年3月1日に連合規約が成立した。3月16日、マディソンは、分担金を支払わないか、または指示に従わない邦に対して連合会議が強制力を持つように連合規約を修正するように提案した。そうした権限がなければ連合会議は諸邦によって侮られ、どれだけ有益な施策も水泡に帰するからである。例えば、その他のすべての邦が禁輸に同意しても、僅か1つの邦が禁輸を破れば全体の目的が損なわれる可能性があった。こうした提案は受け入れられなかったが、マディソンが早くから連合規約の欠陥に気付いていたことを示している。
 1782年、フランス公使館の書記官フランソワ・バルベ・マルボアとともに匿名で米仏同盟を擁護する公開書簡を書く。11月頃から連合会議の詳細な議事録をつけ始めている。
 1783年4月18日、連合会議は、公的信用を回復させる計画を各邦に提示して承認を求めた。マディソンは計画の取りまとめに大きな役割を果たしている。その計画は、戦時公債の元本と利子を返済するために、特別輸入税と25年間にわたる5パーセントの一般関税を徴収する権利を連合会議に与えることを骨子とする。同時に連合会議は、各邦が拠出する分担金の割り当て方式の修正を提案している。つまり、従来の土地価格総額に基づく割り当て方式に代わって、人口に基づく割り当て方式を導入しようとした。こうした試みは、全邦からの承認を得ることができず失敗に終わった。
 マディソンは他に講和や西部の土地問題、財政問題などに関わった。特に西部の土地問題は各邦それぞれの主張に加えてヴァーモントの連邦加入の是非も絡み合って紛糾していた。
 1783年10月25日に任期がきれたので連合会議から離れる。連合規約は、6年のうち3年以上、代表を務めてはならないと規定されていたからである。1783年12月5日にモンペリエへマディソンは帰った。
産業育成の方針
 この頃から既にマディソンは農本主義と言える考え方を持っていた。1783年5月の手紙の中で「アメリカの一般的政策は現在のところ、農業の促進と消費物資の輸入に向けられている」と述べている。自由貿易を推進すれば貿易業者の競争が生じ、農産物を「利益があがる値段」で売ることができるだけではなく、輸入品を安価に購入できるとマディソンは論じている。しかし、総人口の増加にともない製造業や海運業に従事する人口が増えれば、「特権」を与えることにより産業を振興する政策が必要になるだろうとも指摘している。このように考えるに至ったのは、植民地時代におけるイギリスによる貿易独占が「癒え難い傷を[アメリカに]残した」とマディソンが感じていたからである。
 また1785年3月20日付のラファイエット宛の手紙の中では、ヨーロッパにとってアメリカとの貿易は大きな利益を生むと力説している。つまり、アメリカは非工業製品を輸出する一方で、ヨーロッパの工業製品を輸入する有望な市場となり得る。それに加えて、ミシシッピ川の航行権を得られない場合の不利益についてマディソンは論じている。もしヨーロッパ市場におけるタバコやインディゴの需要が高まってもそれに対応できず価格が上昇し、ヨーロッパの消費者が不利益をこうむる。さらに農業の促進のために必要な土地が確保できないので余剰労働力が製造業に転向し、工業製品の輸入を必要としなくなる。それは当然、ヨーロッパが工業製品を輸出する市場を失うことを意味する。このようにマディソンは多くの南部人と同じくミシシッピの自由航行権の獲得を強く望んでいた。

ヴァージニア邦議員
信教自由法の成立に貢献
 1784年4月22日、マディソンは再びヴァージニア邦議会議員に選出された。9月から10月にかけて、ラファイエットとともに、アメリカとイロクォイ族の交渉を見守るためにモホーク渓谷のスカイラー砦F(現ローム)に赴いた。
 同年、ヴァージニア邦議会はすべての宗派のキリスト教会の聖職者に対して財政支援する法律を制定することを検討し始めていた。マディソンは、そうした財政支援に反対し、1785年6月、「宗教のための課税に対する抗議と請願」を邦議会に送付した。この「抗議と請願」は、公定教会制度の下で特権的地位を享受してきた監督派教会に対する人々の不満を代弁するものであり、公定教会制度の廃止と政教分離の確立を促すものとなった(巻末史料5-2)。邦内に複写が出回り、1554名の署名を集めた。こうしたマディソンの努力の結果、法案成立は阻止された。
 監督派教会に対してマディソンの反感は根強く、独立戦争勃発以前に遡ることができる。1774年1月24日付の手紙では、「もし監督派教会が、ヴァージニア植民において存続しているように存続し、北米植民地すべての国教となり、妨害されることなく定着してしまえば、我々の間に隷属と支配が徐々に入り込むであろうことは明らかなことのように思えます」と述べている。さらに「悪魔の地獄という考え方が、ある人々に強迫的な熱狂と不品行に対する永遠の迫害を生み、聖職者は彼らの仕事をするために小鬼を割り当てることができる」と聖職者に対する不信感も示している。そして、「我々の間に良心の自由が復活するように祈っている」と述べている。また1774年4月1日付の手紙でも「聖職者達は数が多く強力な組織で、司教権と王権との繋がりのために植民地内で大きな影響力を持っていて、当然の如く、あらゆる手段と影響力を行使して、勃興して来る反対者を弱めようとします」と記している。
 さらにマディソンは、1785年10月31日、ジェファソンが委員長を務めていた法改訂委員会による報告に基づいて118法案を議会に提出した。滞欧中で不在のジェファソンに代わって改訂諸法案成立に尽力した。その中でも最も大きな業績は1786年1月のヴァージニア信教自由法成立である。「人間の精神に対する法律を作るという野心的な望みは永久に絶たれた」とマディソンは信教自由法成立の意義を評している。
アナポリス会議に参加
 1786年、マディソンは古今の連邦制に関する歴史を読み、その長所や短所をまとめた覚書を書いている。これは後に『フェデラリスト』執筆の参考資料として役立った。この頃、マディソンは、連合会議における地域的な分断に危機感を抱くようになっていた。外務相のジョン・ジェイと北部の諸邦が、スペインとの通商交渉で、ミシシッピ川の航行権要求取り下げを交換条件として利用していると考えていた。また連合会議の制度的欠陥についても危惧していた。それは1785年8月7日付のモンロー宛の手紙から分かる。その手紙の中でマディソンは以下のように述べている。

「私は、連邦制度の欠陥を修正することが非常に重要であると思っています。なぜなら、そうした修正は、連邦が樹立された目的に対するより良い回答になるでしょうし、そのまさに欠陥が存続することによってもたらされる危険を私は理解しているからです」

 さらに通商問題に関しては、各邦の利害衝突が深刻であったので連邦政府に通商を規定する権限を与えるべきだと述べている。1786年1月24日、ヴァージニア邦議会は、アナポリス会議開催を求める決議を採択した。そして、代表団の1人にマディソンは選ばれた。アナポリス会議に対してマディソンはあまり希望を抱いていなかった。8月12日付のジェファソン宛の手紙の中で、アナポリス会議の開催は歓迎すべきことだが、現在の状況を鑑みると、「通商改革」さえもほぼ達成が絶望的ではないだろうかと述べている。
 1786年9月11日から14日にかけてマディソンはアナポリス会議に参加した。残念なことにアナポリスに集まった代表は僅かに5邦から12名のみであった。最終的にアナポリス会議は、13邦の代表からなる会議、いわゆる憲法制定会議の開催を翌年5月14日に決定する報告書を採択した。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究