政権の特色と課題


禁輸措置の改廃
 1809年4月19日、イギリスの特使デイヴィッド・アースキンとの交渉の結果、マディソン大統領は、6月にイギリスとの通商を再開することを布告した。しかし、8月9日になってマディソンは再び禁輸措置を復活させた。イギリスが協定を認めず、アースキンを越権行為で解職したからである。
 禁輸法の失効にあたって、5月1日、議会はメーコン第2法を可決した。同法は、イギリスとフランスとの通商を再開させる一方で、もしどちらか一方がアメリカの海運業に対する規制を撤廃するのであれば、もう一方との通商を禁止する権限を大統領に認めている。つまり、それは、フランスとイギリスのいずれかがアメリカの船舶を拿捕する命令を撤回しなければ、アメリカは通商断絶で以って報いることを可能にする法律であった。
 1810年、ナポレオンがアメリカに対してベルリン勅令を破棄したという報せを受けたマディソン大統領は、11月2日、メーコン第2法に基づいて1811年2月にイギリスとの通商を停止することを宣言した。しかし、ベルリン勅令破棄の報せは誤報だと後に判明した。
 こうした一連の禁輸措置の改廃が決着したのは1814年のことである。その年の3月31日、ナポレオンの敗北を知ったマディソン大統領は特別教書を議会に送付し、禁輸措置の撤廃を求めた。マディソンの要請に応じて、4月7日には下院が、同月12日には上院も撤廃を可決した。

フロリダ問題
ウェスト・フロリダ
 ウェスト・フロリダにおけるアメリカ人住民の反乱に引き続いて、マディソン大統領は、ウェスト・フロリダ併合を決定した。1813年までにウェスト・フロリダの占領は完了した。
イースト・フロリダ
 1811年、議会は、もしイースト・フロリダの総督が併合に合意するか、もしくはイースト・フロリダが他の外国勢力の手に落ちる可能性があれば、併合を試みる許可を与えた。そうした議会の承認の下、マディソン政権は元ジョージア州知事ジョージ・マシューズを西フロリダに派遣した。
 1812年3月18日、マシューズは国務長官モンローの黙認の下、スペイン領イースト・フロリダに対する侵攻を開始した。フェルナンディノとアメリア島を占領した。さらにイースト・フロリダの首都セント・オーガスティンを包囲した。後にマディソン大統領はマシューズの軍事行動を否認している。しかし、それをモンローだけではなくマディソンも黙認していたと考えられる。
 
1812年戦争
イギリスとの衝突
 フランス革命に引き続くナポレオン戦争でヨーロッパが戦火に覆われている最中、アメリカは中立貿易に従事し、莫大な利益を得ていた。敵対していたイギリスとフランスは互いに貿易封鎖に乗り出し、それによってアメリカは深刻な打撃を受けていた。さらにイギリスは自国の海軍力の補強のために、アメリカの中立権を無視してさかんに強制徴用を行った。
 1811年5月16日、アメリカのフリゲート艦プレジデント号が、ヴァージニアのヘンリー岬沖でイギリスのコルベット艦リトル・ベルト号と砲火を交えた。どちらの船が先に発砲したかは定かではない。かねてよりプレジデント号はイギリスの強制徴用からアメリカ船舶を守るために哨戒を行っていた。そのためリトル・ベルト号を発見して追尾した。そして交戦の結果、リトル・ベルト号はひどく損傷し、10名程度の死者を出した。イギリスは、3月に成立した新しい禁輸法の下、報復を仄めかした。さらに、もしフランスがベルリン勅令を解除しないのであれば、アメリカ船舶に対して、中立国の船舶を規制する1806年枢密院令を解除することを拒否した。
 北西部フロンティアではネイティヴ・アメリカンの戦争が再開されていた。その背後でカナダに駐留するイギリス軍が糸を引いていると多くのアメリカ人は脅威を抱くようになった。マディソン大統領は、イギリスとの戦争が不可避であると信じて、第12連邦議会を1ヶ月早く招集した。11月5日、マディソン大統領は議会に陸海軍の増強を求めた。議会は陸軍の増強を認める一方で、海軍の予算を増額することは拒んだ。
 1812年5月22日、イギリスの政策に変化が見られないという報告を受け取ったマディソン大統領は、議会に宣戦布告を要請する決心をした。そして、6月1日、議会に戦争教書を送付した。マディソン大統領が提示した宣戦布告理由は主に、イギリスによる強制徴用、中立貿易を行う権利の侵害、ネイティヴ・アメリカンの反乱を扇動していることの3つであった。
 6月4日、下院は79票対49票で宣戦布告を認めた。続いて6月17日、上院も19票対13票で宣戦布告を可決した。ニュー・イングランド地方が戦争に強く反対したので、民主共和党の指導者達はマディソンに新たな治安法を制定することを勧めた。しかし、マディソンはそうした助言に従わなかった。
 宣戦布告という強硬姿勢を示すことでイギリスから譲歩を引き出せるとマディソンは考えていた。そのため、宣戦布告直後にマディソン政権は駐米イギリス行使オーガスタス・フォスターと交渉を開始している。アメリカがイギリスに求めた条件は、1806年枢密院令の撤回と強制徴用の停止であった。6月23日、イギリスが枢密院令を一時差し止めたという報せが届いたが、強制徴用が廃止されるまでは休戦調停に応じないとマディソン大統領は決意した。6月25日、フォスターはワシントンを離れ、完全に交渉は決裂した。
 開戦当時、彼我の陸軍力はアメリカにとって有利であった。アメリカが6700人の正規兵を擁したのに対して、カナダに駐留するイギリス軍は4500人であった。正規兵に対してアメリカは各州の民兵を動員できた。それに対してイギリスは少数のカナダ民兵しかあてすることができなかった。一方で海軍力は、アメリカにとって圧倒的に不利であった。アメリカが所有する艦船は、小型砲艦を除くと僅かに17隻に過ぎなかったのに対して、イギリスは約120隻の戦列艦、116隻フリゲート艦を擁していた。
英領カナダ攻略の失敗
 アメリカ軍は英領カナダに侵攻したが敗退を余儀なくされた。アメリカは英領カナダの防備が脆弱で容易く制圧できると想定していた。さらにイギリス領カナダの返還を交渉のテーブルで有利なカードとして使えるとアメリカは考えていたのである。 
 1812年7月17日、イギリスはヒューロン湖の北端に浮かぶ島上のマキナク砦を占領した。続いて8月15日、ディアボーン砦(現シカゴ周辺)が陥落した。さらに翌16日、デトロイトに駐留していたウィリアムハル将軍は、2500人の兵士とともに降伏した。
 一方、海上ではイギリスの締め付けが徐々に強まっていた。1812年12月26日、イギリスはデラウェア湾とチェサピーク湾の封鎖を宣言している。そのためアメリカ政府の歳入は激減した。封鎖宣言を南部海域のみに限ったのは、ニュー・イングランド地方に宥和的な姿勢を示して世論を分断させようと図ったからである。実際にアメリカ国内では、戦争を支持する者と反対する者とで意見が分かれていた。
 イギリスの攻勢に対抗してアメリカは、1813年4月から5月にかけて、アッパー・カナダの首都ヨーク(現トロント)への攻撃を敢行した。その際に、ヨークの官庁舎が焼き払われた。それは後にイギリス軍が報復としてワシントンの官庁舎を焼き払うきっかけとなった。ヨークへの攻撃は、戦略上の必要性よりも、これまでの敗色を払拭するという政治的意図が多分に認められる。アメリカ軍の大半は訓練も経験も不足していたうえに、戦費を賄う財政制度も遅れていた。
戦線の膠着
 各地で両海軍の交戦が続いていたが、1812年戦争で最も重要な海戦がエリー湖の戦いである。1813年9月10日、オリヴァー・ペリー率いる9隻のアメリカ艦隊が6隻のイギリス艦隊に勝利した。この勝利によって、デトロイト再復の道が開かれた。
 さらに10月5日、テムズ川の戦いで、ウィリアム・ハリソン将軍率いる3500人のアメリカ軍が、イギリスとネイティヴ・アメリカンの連合軍1800人を撃破した。この戦いの結果、アメリカは北西地域の支配権を確保することができた。しかし、シャンプレーン湖方面からカナダ侵入を試みた部隊は、10月25日、シャトゲーの戦いでで撃退された。12月、イギリス軍はナイアガラ川の河口に位置するナイアガラ砦を陥落させ、ニュー・ヨークに向けて進軍を開始した。
 その頃、イギリスは、北アメリカでアメリカと戦う一方、ヨーロッパで対ナポレオン戦争を続行していた。しかし、1814年4月6日、ナポレオンの退位が決定し、イギリスは北アメリカに兵力を転進させ始めた。4月23日、イギリスは封鎖をアメリカ沿岸全域に拡大した。7月から9月にかけて米英両軍はナイアガラ川周辺で一進一退の攻防を続けた。しかし、大西洋沿岸部ではイギリス軍の攻勢が強まった。ニュー・イングランド諸州では連邦からの分離独立を求める声が高まり、マディソン政権は危機に瀕した。
ワシントン炎上
 1814年8月19日、メイン州のベネディクトに上陸したロバート・ロス将軍の部隊がワシントンに向けて進軍を開始した。22日朝、ワシントンが攻撃にさらされる危険性が高いと判断したマディソン大統領は公文書を退避させるように指示し、ヴァージニアとメリーランドの民兵を、ワシントンの中心部から北東に約8マイル離れたブレーデンズバーグに向けて移動させるように命令した。
 同日午後、マディソンは状況を視察するためにポトマック川を渡って10マイルほど進み、アメリカ軍の陣営に向かった。その日は、そこから西に1マイルほど離れた家屋で夜を過ごした。マディソン大統領とワシントン周辺管区の指揮官のウィリアム・ウィンダー将軍は当初、敵軍が船に戻ることを期待していたが、脱走兵を尋問したところ、思ったより敵軍は強力であることが分かった。そのためマディソン大統領は、翌23日朝、妻に宛てた鉛筆の走り書きで、「彼らは街を破壊するつもりで進入するかもしれない」ので、危急の際には馬車に乗ってワシントンを去るようにと急報した。
 慌ただしく夕食を済ませた後、マディソンと閣僚はワシントンに帰還した。その頃、敵軍はアメリカ軍の陣営から僅か3マイルまで迫っていた。同夜、大統領官邸に次々と指示を求める人々が訪れた。深更、偵察を行っていたモンローからの報告が届いた。その報告には「敵軍がワシントンに向けて全力で進軍中」とあった。モンローは、軍に警告を発するために、そのままブレーデンズバーズに駆け去った。
 24日早朝、ウィンダー将軍から「迅速な協議を要する」急報を受け取ったマディソン大統領は、すぐにネイヴィ・ヤード橋付近(ホワイト・ハウス南東約2マイル)のウィンダー将軍の宿営に向かった。午前10時、イギリス軍が夜明けとともに陣営を引き払い、ブレーデンズバーグに向け進軍中という報せが入った。陸軍長官ジョン・アームストロングは、「民兵は正規軍に負けるだろう」と言う他、特に助言をすることはなかった。マディソンはアームストロングにウィンダーをできる限り助けるように指示し、ウィンダー配下の兵士とともにブレーデンズバーグに向けて送り出した。後刻、マディソン自身も拳銃を携えて、他の閣僚とともに同地に向けて出発した。
 マディソン達一行はブレーデンズバーグの街の中心に向かったが、イギリス軍が先に街に到着していたため進路を変えて近くの丘に向かった。そこにウィンダー将軍率いるアメリカ軍が布陣していたからである。軍と合流したマディソン大統領は依然として不機嫌なアームストロングにウィンダーと協議したかどうかを尋ねた。アームストロングはまだ協議していないが、もし大統領が命じるのであればそうするつもりだと返答した。
 ブレーデンズバーグの戦いにおいて、アメリカ軍はイギリス軍のほぼ2倍の兵数であったが、装備が悪く未熟であり、しかも配置が良くなかったために4500人のイギリス軍に敗北を喫した。マディソン大統領は現役の大統領の中で唯一、間近で戦闘にさらされた大統領である(巻末史料7-2)。午後遅く、戦闘の帰趨が明らかになった後、マディソン大統領は司法長官リチャード・ラッシュとともにワシントンへ向かった。
 大統領官邸は、マディソン夫が既に立ち去った後で無人になっていたが、食事が準備されたまま残されていた。マディソンは海軍造船所Navy Yardにある資材と完成間近の戦艦に火を放つように命じた後、ワシントンを立ち去った。それからまもなく、ワシントンに入市したイギリス軍は、9時頃、国会議事堂に放火した。その後、大統領官邸を略奪のうえ、同様に火を放った。こうした行いはアメリカ軍のヨーク焼き討ちに対する報復であった。ワシントンを焼く炎は40マイル先からも見えたという。
 兵火から逃れたマディソンは家族を探し回ったがなかなか再会できなかった。翌25日の夕刻になって、ようやくグレート・フォールズ(ワシントン北西部約20マイル)付近のワイリー亭でマディソンは夫人と再会することができた。マディソン大統領がワシントンに帰還したのは27日のことである。特許局以外の公共建築物がすべて焼け落ちていたので、マディソン大統領と閣僚達は政府機能を再会するために個人宅を徴用しなければならなかった。特許局が仮の連邦議会議事堂に定められ、マディソン夫妻はオクタゴン・ハウスと呼ばれる邸宅に移った。
 戦線の膠着とワシントン炎上は戦争の見通しに暗い影を落とした。商人や銀行家が戦費の増大に悩まされている国家に対して、信用を供与することを拒むようになったため、軍需物資の補給が大幅に遅滞していた。連邦政府は経済破綻寸前であった。さらにニュー・イングランドでは公然と連邦の解体を唱える者の主張が強まった。しかし、一方で国民一般の危機感も高まり、議会は軍の再編と歳入を確保するための法律を制定した。
シャンプレーン湖の戦いからニュー・オーリンズの勝利まで
 同じ頃、カナダからジョージ・プレボー将軍率いる1万1000人のイギリス軍が南下しつつあった。それを迎え撃つべくシャンプレーン湖の西岸にアメリカ軍は布陣したが、その数は正規軍と民兵をあわせても5000人未満でありイギリス軍の半分にも満たなかった。しかし、9月11日、シャンプレーン湖の戦いで、アメリカ艦隊がイギリス艦隊を破った結果、プレボーは南下を断念してカナダに撤退した。
 一方、ロス将軍率いる部隊は9月12日から14日にかけてボルティモアを攻撃したが民兵の抵抗にあって攻略を断念した。この時、弁護士フランシス・キーはボルティモアの攻防を目撃して後に国歌となる「星条旗」を書いたという。
 12月13日、エドワード・パケナム将軍率いる7500人のイギリス軍がメキシコ湾北岸に上陸し、ニュー・オーリンズに向けて進軍を開始した。翌1815年1月1日、パケナムはニュー・オーリンズの攻撃を開始したが、激しい反撃を受けて後退した。さらに1月8日、パケナムはミシシッピ両岸のアメリカ軍に対して強襲を開始した。西岸の沿岸砲台は制圧されたものの、アンドリュー・ジャクソンは東岸の陣地を死守してイギリス軍に甚大な損害を与えた。イギリス軍の死傷者が2036名にものぼったのに対して、アメリカ軍の損害は僅かに71名であった。このニュー・オーリンズの戦いは1812年戦争の最後の主要な戦闘であり、アメリカ人に誇りをもたらす戦闘であった。
和平交渉の推移
 戦闘が続く一方で和平交渉の試みもなされていた。ロンドンで両国は交渉を行なったが、強制徴用の停止をめぐる見解の相違を埋めることはできなかった。9月、交渉は決裂し、早期休戦の可能性は失われた。
 1813年3月11日、マディソン大統領はロシアの和平仲介を受諾した。そして、4月17日、ジョン・クインシー・アダムズ、ジェームズ・ベイヤード、アルバート・ギャラティンの3人を使節として指名した。ギャラティンとベイヤードは既に駐露アメリカ公使としてペテルブルグに赴任していたアダムズのもとに向かった。7月21日、両者はペテルブルグに着いた。しかし、7月5日、イギリスはロシアの仲介を拒み、11月4日、直接交渉を要求した。
 それを受けてマディソン大統領は、翌1814年1月初旬、ジョン・クインシー・アダムズ、ベイヤード、ヘンリー・クレイ、ジョナサン・ラッセル、そしてギャラティンからなる講和使節団の派遣を再度決定した。
 6月27日、マディソン大統領は使節団に、強制徴用の停止が認められなくても講和条約を締結するように指示している。ナポレオン戦争が終結したために、強制徴用はもはやイギリスにとって必要な措置ではなくなり、実質的に重要な問題ではなくなっていた。そして、8月8日、現ベルギーのガンGand (ヘントGhent)で和平会談が始まった。会議開始後の10月4日にもマディソン大統領は、戦前の原状回復という条件で講和を取りまとめるように使節団に指示している。イギリスは領土割譲要求を取り下げ、12月24日、ようやく講和条約締結に合意した。同条約により、両国は戦時中に占領した領土を返還することが定められたが、強制徴用の問題は未解決に終わった。
 ニュー・オーリンズの戦いはアメリカの勝利に終わったが、実はガン条約締結後であった。なぜなら両軍はまだ講和条約が締結された報せを受け取っていなかったからである。1815年2月4日にニュー・オーリンズの勝報はワシントンに届いていたが、条約の内容がマディソン大統領の手元に届いたのは2月14日のことであった。2月16日、上院は全会一致で条約を承認した。
1815年の米英会議
 講和条約が締結されたものの、戦争の原因となった諸問題の多くは未だに解決していなかった。そのためマディソン大統領は、ジョン・クインシー・アダムズ、ギャラティン、クレイにイギリスと交渉を行なうように指示した。その結果、両国がお互いに最恵国待遇を得ることで同意が成立した。

ハートフォード会議
 1814年12月15日、連邦党が多数派を占めるマサチューセッツ、ロード・アイランド、コネティカットの3州の代表は、南部と西部諸州の支配からニュー・イングランド諸州を守るために憲法修正を考案する会議を開催した。世に言うハードフォード会議である。1月5日、マディソン政権の政策に反対するハートフォード会議は7条からなる憲法修正を提案した。しかし、ガン条約締結の報せとニュー・オーリンズの勝報が国民の間に広まり始めると、ハートフォード会議は全く支持を得ることができなかった。

バーバリ国家対策
 アルジェリアの太守がアメリカの外交官を追放のうえ、アメリカ船舶への攻撃を再開した。貢納金の支払いに不満があったからである。アルジェリアは、アメリカのブリッグ船エドウィン号を拿捕して乗組員を奴隷にした。
 その報せを受けたマディソン大統領はアルジェリアに対して議会にアルジェリアに対して宣戦布告するように要請した。1815年3月、議会はアルジェリアに対する戦闘行為を許可した。
 5月、マディソン大統領の命令により、スティーブン・ディケーター率いる艦隊がニュー・ヨークを出港して地中海に向かった。ディケーターは、途中で拿捕した2隻のアルジェリア艦船とともにアルジェリアの港に入った。6月30日、アルジェリアの太守は講和条約締結に合意した。同条約により、アルジェリアは、アメリカ人乗組員を解放して1万ドルの賠償金を支払い、貢納金要求の取り下げを約した。

第2合衆国銀行設立と国内開発事業
 ワシントン政権期に設立された第1合衆国銀行の特許は1811年3月4日が期限であった。マディソン大統領と財務長官アルバート・ギャラティンは特許更新を望んでいた。しかし、1月24日、下院は更新を否決し、さらに2月20日、上院でも否決された。その結果、第1合衆国銀行は廃止された。
 1812年戦争が終結した後、1815年12月5日の第7次一般教書でマディソン大統領は、第2合衆国銀行の設立を要請した。また同教書では、連邦が国内開発事業を行う権限を明記するように憲法修正を提案している。翌年、議会は第2合衆国銀行に特許を与えている。第2合衆国銀行はジャクソン政権期に特許更新を阻まれるまで存続した。
 国内開発事業について議会は1817年2月、政府助成法案を可決した。しかし、3月3日、マディソン大統領は憲法に基づいて同法案に拒否権を行使した。連邦が国内開発事業を行うためには憲法修正が必要だと考えていたからである。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究