引退後の活動


ヴァージニア大学の運営を引き継ぐ
 1817年3月4日、マディソンは後任者のモンローの就任式に出席した。退任時の年齢は64才と310日であった。4月6日、マディソン夫妻はモンペリエに向かった。その旅路で蒸気船に乗ったマディソンは、「子供と同じようにはしゃいで、乗船したすべての人々と喋ったりふざけたりして」、その様子はまるで「長期休暇の時の学童」のようだったと同乗者が書きとめている。
 1817年、新たに特許状が付与されたセントラル・カレッジの理事の1人としてジェファソンとともに経営に携わる。さらにヴァージニア大学設立にもジェファソンとともに尽力した。マディソンは法律学の教科書に、独立宣言、『フェデラリスト』、ヴァージニア決議、ワシントンの就任演説と告別の辞を盛り込むようにジェファソンに勧めている。自由がアメリカの政治制度の中でどのように守られているか子弟に教える必要があると考えたからである。1826年にジェファソンが亡くなると、マディソンは同学の学長を引き継ぎ1834年まで務めた。
 1818年5月、アルブマール郡農業協会で科学農法に関する演説を行なっている。この演説は後に印刷された。

政治の趨勢を見守る
ミズーリ問題
 ミズーリ問題についてマディソンは、第1条第9節第1項の成立の経緯と解釈に基づいて次のように説明している。憲法制定会議において、奴隷貿易に否定的な邦は奴隷貿易の禁止する条項を憲法案に盛り込もうとした。奴隷貿易を続けていた邦は、そうした条項を含む憲法案を邦民に認めさせることは不可能だとして反対した。その結果、1808年まで連邦議会はこの問題に干渉しないという妥協が成立した。そのような経緯で憲法第1条第9節第1項が成立した。つまり、それは、1808年以降、奴隷輸入を禁止することを意味している。しかし、「入国を適当と認める人びとの来往および輸入」という条文は当然ながら、専ら他国から合衆国への来往復および輸入に言及しているのであって、奴隷の国内移動に言及しているわけではない。つまり、たとえ外国からの奴隷輸入を禁止することが認められていても、国内の移動に関して禁止を拡大することはできない。それ故、連邦議会は、ミズーリ州への奴隷制導入に反対することはできない。
寓話「ジョナサン・ブルとメアリ・ブル」
 さらにマディソンは1821年、「ジョナサン・ブルとメアリ・ブル」という寓話を書いている。この原稿はその当時は公表されていないが、ミズーリ問題に関するマディソンの見解を知るうえで重要な資料である。
 ジョナサン・ブル(北部)とメアリ・ブル(南部)は、祖先を同じくする親戚同士で隣接する地所をそれぞれ所有していた。仲良しだった2人に結婚話が持ち上がる。婚姻によって2つの地所を共同で管理できる利点があるので話はとんとん拍子で進んだ。しかし、彼らの後見人として、これまで地所の中で特権を享受してきた老ブル(イギリス)Old Bullは、彼らの結婚を破談にしようとした。もし彼らが結婚すれば、地所をすべて手中に収める計画が失敗に終わるからである。
老ブルは2人に対して訴訟を起こした。夫婦は賢明であったので騙されなかった。老ブルが法律の機微に通じ、頑固な性格であり富裕であることを彼らはよく知っていた。激しい戦いの後、彼らは老ブルに勝訴し、古い特権から解放された。
 結婚後、子供(準州)が次々に生まれた。そのため地所を、成人時(州昇格)に子供が受け取れるように分配した。小作人がその土地を耕した。メアリの地所から小作人を出す場合もあればジョナサンの地所から小作人を出す場合、両方から出す場合もあった。10番目か11番目の子供が成人する時に、財産を管理する条件や資格に関する問題が起きた。ジョナサンは、小作人の耕作権を独占しようと考えたのである。また執事頭(大統領)Head Stewardがメアリの地所に属する小作人から専ら選ばれている点も気に入らなかった。
 メアリは子供の頃、アフリカの染料(黒人奴隷)で左手が黒く染まってしまい、少し不自由になっていた。その不幸は、アフリカから染料を積んだ船がメアリの地所まで川伝いに入ることを許され、有害な染料を投棄したことによる。結婚の際にジョナサンはそれを十分に承知していた。しかし、メアリ本人の善性や経済的利点から、それは特に結婚の障害とはならなかった。しかし、ジョナサンが感情の激発にかられてメアリの黒い腕を見ると、その他の利点をすべて忘れてしまった。ジョナサンは妻の不運を嘲笑するようになった。執事頭を自分の地所から選ぶ権利があることをジョナサンはメアリに納得させようとした。さらに黒い腕に関して、もし色を除去できなければ、肉から皮を剥ぎ取るか、腕を切るべきで、もしそうしなければ離婚するつもりだとメアリに伝えた。
 メアリは愛する夫から言われたことに驚いたが、驚きがおさまるにつれて、胸中で怒りがふくらんだ。しかし、彼女は寛大な気持ちを持っていたのでそうした怒りを抑えてジョナサンを説得しようと努めた。腕の色については結婚の前に分かっていたはずだとメアリは夫に反論する。アフリカの染料は、私の地所だけではなくあなたの地所にも被害を及ぼした。結婚した時、私の腕と同じく、あなたの体中に小さな黒い染みがあった。私を非難するよりも、もっと困難な私の状況に同情すべきではないか。それにも拘らず、あなたは、まるで不運が私のせいであるかのように私を非難する。私はあなたと同じく、できれば染みを除去したいと思っている。しかし、染みを安全に除去できる実行可能な案が見つからない。優秀な外科医の意見では、もし除去するために腕を切ったり、肌を剥ぎ取ったりすれば、壊疽するか、出血多量で死に至るそうだ。あなたと私は一緒にいることで互いに利益がある。もし離婚してしまえば、その双方の利益はともに失われてしまうだろう。執事頭選出の問題に関しても、私はあなたの言い分に途方に暮れている。確かに私の地所の小作人から執事頭が選ばれることが多い。しかし、状況が違えばそれは逆転する可能性もあるし、もし選出方法を改悪すればどうなるだろうか。そのような方法で選出された執事頭は忠実に職務を果たすとは思えない。そうなってしまえば結局、あなたの不利益になる。
モンロー・ドクトリンに関する助言
 1823年、イギリスは、ヨーロッパ諸国による南北アメリカの侵略に対して警告する共同声明を出すようにアメリカに持ち掛けた。モンローはイギリスの誘いに乗るべきか否かを閣議に諮った。それに加えてジェファソンとマディソンに意見を求めた。マディソンはジェファソンと見解を共有しており、「イギリスと協調すれば、他のヨーロッパ諸国を恐れる必要はなく、成功を最も保障するものだろう」とモンローに回答している。
 さらにマディソンは、スペインの革命に対するフランスの動きに対してモンローが抗議し、ギリシア独立戦争に介入しないようにヨーロッパ諸国に警告すべきだと考えていた。
唾棄すべき関税について
 1828年、サウス・カロライナ州が1828年関税法、いわゆる「唾棄すべき関税」に、1798年のヴァージニア決議とケンタッキー決議に基づいてそれが無効であると訴えた。マディソンは1828年9月18日付の公開書簡で、「連邦議会は左の権限を有する。合衆国の債務の支払い、共同の防衛および一般の福祉のために、租税、関税、間接税、消費税を賦課徴収すること」を規定する憲法第1条第8節第1項と「諸外国との通商、および各州間ならびにインディアン諸部族とのあいだの通商を規制すること」を規定する同条同節第3項に基づいて関税の合憲性を支持し、州が連邦を無効にする権限を否定した。

ヴァージニア州憲法修正会議
 1829年、オレンジ郡はヴァージニア州憲法修正会議の代表にマディソンを選出した。マディソンは10月にリッチモンドに到着し、12月2日、会期中ただ1度だけの演説を行った。演説の中でマディソンは、人口に基づく議席配分に関して、合衆国憲法で採用されている方式、つまり、奴隷を白人に対して5分の3と数える方式を採用するように訴えた。それは多くの奴隷を擁する郡の影響力を弱めようとする方策であったが、結局、採用されなかった。ちなみに会議の議長はモンローが務めている。マディソンはモンローとともにヴァージニア州の東部と西部の利害調整を図ろうとしたが成功しなかった。

連邦法無効に反対
 1830年、再度、連邦法無効の是非が問題となった。それに対してマディソンは、8月28日付の公開書簡で、合衆国憲法は各州の総意ではなく、国民の総意に基づいているので、連邦法は州の権威に優越するという見解を明らかにしている。さらにこうした見解の根拠としてマディソンは、「この憲法、これに準拠して制定される合衆国の法律、および合衆国の権能をもってすでに締結されまた将来締結されるすべての条約は、国の最高の法である。これによって各州の裁判官は、各州憲法または州法律中に反対の規定ある場合にといえども、拘束される」と規定する憲法第6条第2項と「司法権は次の諸事件に及ぶ―すなわち、この憲法、合衆国の法律および合衆国の権能により締結されまた将来締結されるべき条約にもとづいて発生するすべての普通法ならびに衡平法上の事件」と規定する第3条第2節第1項を挙げている。
 1832年夏、ジャクソン大統領がモンペリエのマディソンを訪れた。ジョン・クインシー・アダムズをはじめ名だたる大物政治家を政敵としていたジャクソン大統領にとって、マディソンは影響力を持ちながらも党派色がない貴重な存在であった。
 この頃、ジャクソン大統領は1832年関税法をめぐってサウス・カロライナ州と対立していたのである。11月24日、サウス・カロライナ州は連邦法無効宣言を公表した。それを認めない立場をマディソンは堅持した。マディソンの見解は1832年12月23日、ジャクソン大統領の秘書ニコラス・トリストに書き送った手紙からよく分かる。その手紙の中で、マディソンはサウス・カロライナの分離主義にはっきり反対し、ジェファソンの名が連邦法無効を唱える人々に都合が良いように利用されていると厳しく糾弾している。
 またヴァージニア州選出連邦上院議員のウィリアム・リーヴスに宛てた1833年3月12日付の手紙の中では、「少なくとも、ある州が連邦の中に留まる限り、憲法と連邦法の適用から州民を脱退させることはできないという1つの事実は疑問の余地もなく明白である」とサウス・カロライナ州が主張する連邦法無効を否定している。さらにヴァージニア決議についてマディソンは、「遠い時期の表現を現代的な意味で読み取るのはよくあることだが、予期しない誤った解釈に対して無防備なのもよくあることである。先見の明がある片言が、そうした過程における表面上の多くの過ちを予防できるだろう」と述べ、ヴァージニア決議が連邦法無効の理論的根拠とされることをも否定している。こうしたマディソンの見解はトリストとリーヴスの手によってジャクソン政権を擁護する論拠としてしばしば使われた。

困窮した最晩年
 最晩年、マディソンは経済的に困窮し、1834年には16人の所有奴隷を売却している。翌1835年4月、遺書を作成しているが、奴隷解放については言及がなかった。その頃、マディソンは「我が国への助言」と題する以下の一文を書いている。

「もしこの助言が日の目を見ることがあれば、真実のみが尊重され、人の幸福のみが案じられる場である墓場から発せられるものとなるかもしない。したがって、この助言は、善意と40年間にわたって様々な立場で祖国に仕えてきた者、祖国の自由の大義と若き日に結び付いて、それを生涯にわたって信奉してきた者、そして、祖国の運命を定めた時代の中で最も様々なことが起きた時期に生まれあわせた者の経験に由来する重みが何であれ、それに耐え得るにふさわしいものだろう。我が心に最も近しく、私の信念に最も深く根ざした助言は、諸州の連帯は尊重すべきであり、永続させるべきだという助言である。その公然たる敵は、禁断の箱を開けてしまったパンドラと見なそう。変装した敵は、悪略とともに楽園に忍び込んだ蛇と見なそう」

 1836年6月28日朝、モンペリエで亡くなり、翌日、墓所に葬られる。マディソンは建国の父の最後の生き残りであった。最後の言葉は「ちょっと気分が変わっただけだよ、お前[姪のこと]。前からずっと、横になって話すほうが気分が良い」という言葉あった。
 約1万5000ドルをアメリカ植民協会、ヴァージニア大学、プリンストン大学に遺贈したが、家族にはほとんど現金を遺さなかったために、マディソンの死後、夫人は困窮した。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究