ファーストレディ・継子


クェーカー教徒の伝統
生い立ち
 妻ドロシア (1768.5.20-1849.7.12)は、ノース・カロライナ植民地のクェーカー教徒の入植地ニュー・ガーデン(現ギルフォード郡)で農園主のジョン・ペインとメアリの娘として生まれた。11人の子供の中で3番目であった。一般的に愛称のドリーで呼ばれる。ヴァージニア植民地ゴッホランド郡にある父の農園で幼少期の大半を過ごした。
 母メアリはイギリスから渡ってきたクェーカーの移民の子孫である。そのため父ジョンはメアリと結婚する際にクェーカーに改宗した。その後、ジョンは敬虔なクェーカー教徒になり、奴隷をすべて解放し農園を売却した。クェーカーの教えは奴隷制に反対していたからである。1783年、ペイン一家はフィラデルフィアに移った。フィラデルフィアのクェーカー教徒の伝統に従って、父ジョンは糊の製造業を始めた。しかし、事業はうまくいかず借金の支払いも滞った。借金の支払いはクェーカー教徒として罪になることであったので、ジョンは信団を追い出される形になった。
 ドリーはクェーカー教徒として厳格な教えの下で育てられた。しかし、クェーカー教徒ではない祖母のもとを度々訪れたドリーは、祖母から様々なことを学んだ。祖母から譲り受けた金のブローチをドリーはクェーカー教徒の淡褐色のドレスの下に隠して身に付けていたという。さらに祖母は、ダンスの相手を求めに親類のパトリック・ヘンリーがやって来た時に、ドリーにダンスの手解きをしている。
 ドリーの教育は、クェーカー教徒の会合で行われた。クェーカー教徒の子弟は会合で読み書きや道徳を学ぶことができた。当時の普通の学校は一般的に男女別々であったが、クェーカー教徒の下では男女ともに教育が行われた。ダンスや娯楽はほとんどなかったが、性別を問わず様々な年齢層が集まる会合でドリーは多くの人々の中で振舞う術を身につけた。
 母メアリは家計の足しにするために下宿屋を始めている。その当時、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に出席するために全国から議員が集まったので下宿人募集には事欠かなかった。下宿人の1人として当時、連邦上院議員であったアーロン・バーがいる。そのためバーとドリーが恋仲にあるという噂もあった。しかし、この時の縁でドリーはバーと友人になっていることは確かである。後年、マディソンと面会する媒介人になったのがバーであった。しかも、バーが反逆罪に問われた時にドリーは仲裁をしようと試みただけではなく、バーがフランスから帰国できるように気を配っている。さらにバーの娘がワシントンの社交界で父の汚名を着ることなく成功するように庇護している。
初婚
 1790年1月7日、ドリーはクェーカー教徒の弁護士ジョン・トッドとフィラデルフィアで結婚した。ドリー自身は結婚にあまり乗り気ではなかったが、夫ジョン・トッドによる支援でペイン一家は何とか貧窮から免れた。トッド家はフィラデルフィアのクェーカー教徒の中でも一目置かれた家系であった。そのためドリーは父の凋落にも拘らず、信団の有力な一員として認められた。2人の間には長男ジョンと次男ウィリアムが生まれた。
 1793年、黄熱病がフィラデルフィアを襲った。ジョン・トッドは妻と2人の息子を退避させたが自身は両親の看病と仕事のためにその場に留まった。そのため黄熱病に罹患して命を落とした。ドリーと次男ウィリアムも病に倒れた。ドリーは回復したが、次男も父と同じく亡くなった。1793年の夏に黄熱病で亡くなった人は4000人以上にのぼった。

出会いと再婚
出会い
 黄熱病が下火になった後、ドリーと母メアリはフィラデルフィアに戻った。フィラデルフィアで議会が再開される気配がなかったのでメアリの下宿屋は開店休業状態であった。そのため母メアリは娘夫婦を頼ってヴァージニアに行った。ドリーは妹ルーシーとともに他の妹達の面倒を見た。亡夫の遺産のお蔭で面倒を見る経済的余裕は十分にあった。
 夫ジョンの死後、フィラデルフィアに留まっていたドリーをマディソンは見初めた。1794年5月、ドリーは友人のアーロン・バーからメモを受け取った。そのメモを見たドリーは友人に「アーロン・バーが言うには、偉大な小さなマディソンが今夜、私に遭いたいとお求めだそうです」と書き送っている。その頃、マディソンはドリーよりも17才年長で既に合衆国憲法の父として名を成していた。また女性に対して積極的ではないと周りからは思われていた。そのためドリーはマディソンが女性として自分に興味を抱いたとは最初は思わなかったようである。
 またクェーカーの教えの下で育ったドリーは政治に全く関心はなかった。しかも前夫とは違ってマディソンはクェーカー教徒ではなかった。こうした事情はあったが、8月までに2人は婚約を交わした。
 そうした話を聞いたワシントン夫人はドリーを大統領官邸に招いた。そして、「ドリー、ジェームズ・マディソンと婚約したというのは本当ですか」と聞いた。ドリーは「私はそうは思いません」と答えた。この否定的な答えにも拘らず、ワシントン夫人は、「あなた、ジェームズ・マディソンが良き夫になるとはっきりと躊躇わずに言えます。大統領と私はあなたの選択を大変喜ばしく思います」と言った。こうした後押しもあって2人の結婚話は順調に進んだ。
再婚
 1794年9月15日、ドリーとマディソンはヴァージニア州ジェファソン郡にある妹の農園で挙式した。新婦は26才、新郎は43才であった。式はクェーカー式ではなく監督派教会の聖職者によって執り行われた。その結果、挙式から3ヵ月後、ドリーは信団から追放された。これまでクェーカー教徒にふさわしいドレスを着用していたドリーであったが、流行の装いも取り入れるようになった。結婚後、1797年にモンペリエに移るまでフィラデルフィアに住んだ。

大統領の女性版
ジェファソン政権時代
 1801年にジェファソンが大統領に就任するとマディソンは国務長官に任命された。マディソン一家はワシントンに移ることになった。しかし、住居がまだ決まっていなかったので、大統領官邸に間借りした。その当時、ジェファソンは独身で子供も独立し、召使の他はともに住む家族はいなかった。そのためマディソン一家が間借りする余裕は十分にあった。暫く後に一家は別の家に移った。
 ホワイト・ハウスでは女主人を務めるのにふさわしい女性がいなかった。ジェファソンの娘達も一時期、ホワイト・ハウスに滞在しているが常在していたわけではない。足疾で4ヶ月間療養した時期もあったが、その代わりにドリーがホワイト・ハウスの女主人を務めた。またジェファソンや政府の要人の代わりに、その妻や娘達に贈る品々を選んだ。ドリー自身もパリから最新のファッション用品を次々に購入した。後にパリに赴いた友人に買い物を頼んだ際に、関税だけでも2000ドル以上に達したという。
 当時は現代のようにファッション雑誌もなかったので、ドリーの装いがフィラデルフィア社交界の流行を作った。多くの女性は朝食で「昨夜、ドリーは何を着ていたのか」を話題にしていたと言っても過言ではない。ドリーが一番好んだ色は黄色で、公式の接待の時は白色のドレスを着用していた。特に羽飾りや花飾りを付けたターバンと短い丈のガウンはドリーを特徴付けるものとしてよく知られていた。それによって多くの人の中でもドリーの姿を見分けることが容易だったからである。
 また読書をあまり好まなかったのに拘らず、時に本を携帯していた。話の種にするためである。ドリーの会話術は卓越したものであったが、政治的な問題については疎かったために、できるだけそうした話題を避けるようにしていた。そして、どうしても話題に詰まった時の助けとしてドリーは嗅ぎタバコ入れをいつも携帯していた。嗅ぎタバコを招待客に勧めたのである。またワシントンの社交界で重要だったのはダンスであった。クェーカー教徒として育ったドリーはダンスをほとんど身に付けていなかったので、人前でダンスすることはなかった。しかし、舞踏会の企画に手腕を発揮した。
公式招待会の再開
 就任式でのドリーの装いは注目の的であった。当時の新聞はその様子を「長いトレーンを付けた無地のキャンブリック生地のドレスを着て、首回りはスカーフがなく丸首で、大きな羽飾りが付いた紫のヴェルヴェットと白いサテンの美しいボンネットの彼女はとても美しく見えた」と伝えている。その夜に開催された舞踏会はドリーの発案でロングズ・ホテルで開催された。それは名実ともにドリーがファースト・レディになった瞬間であった。
 ワシントン夫人が金曜日の夜に開いていた「公式招待会drawing rooms」が再開されることになった。ドリーの場合は、毎週水曜日に開かれた。ワシントン政権時代の公式招待会は宮廷儀礼をモデルにした堅苦しいものであったが、ドリーはすべての招待客と言葉を交わそうと務めた。それだけではなく一度、紹介を受ければ招待客の顔と名前を忘れなかったという。ヘンリー・クレイが「皆がマディソン夫人を愛している」と言った時に、ドリーは「それはマディソン夫人が皆を愛しているからです」と答えたという。夫マディソンはドリーの傍らに座っていたが、古くからの友人に対面する時以外は口を挟むことが少なく、そうした社交の場で主役を務めたのはドリーであった。こうした活躍からドリーはしばしば「女性版大統領Presidentess」と呼ばれる。
 またドリーはホワイト・ハウスの装いを新たにした。議会は、不承不承ではあったが、その費用として6000ドルの支出を認めた。建築家ベンジャミン・ラトローブはドリーの意向を尊重しながら、ホワイト・ハウスに改築を施した。応接間は黄色の掛け布で装飾され、その他の公用の部屋も広く豪華に見えるように鏡が取り付けられた。
他にもドリーは楽器や銀食器、陶器などを発注した。
ホワイト・ハウス焼失
 「すべての街が敵からの訪問を受けることが予期されます」と友人に書き送っているように、ドリーはイギリス軍によってワシントンが攻撃されるかもしれないと早くから思っていた。ドリーの恐れは不幸にも的中した。1814年8月、メイン州のベネディクトBenedictに上陸したイギリス軍がワシントンに向けて進軍を開始したのである。22日、マディソンはアメリカ軍の配備状況を視察するためにドリーを残してホワイト・ハウスから離れた。
翌日24日、ドリーは夫の帰還を待ってホワイト・ハウスに留まっていた(巻末史料10-2)。ブレーデンズバーグから砲声が響いてくる中、ドリーは夫が夕食に帰るという約束に従って食事の準備していた。そこへ急使が到着し、すぐに街を離れるようにと告げた。ホワイト・ハウスにある什器類と持ち運べる品をとりあえず詰め込んだ。さらにドリーはギルバート・スチュアートGilbert Stuartの手によるワシントンの肖像画を守るために持ち出すことにした。額が壁に打ち付けられていたために、ドリーは咄嗟の機転で画布だけを切り取った。この肖像画は現在、ホワイト・ハウスのイースト・ルームに飾られている。ジョン・アダムズが初めてホワイト・ハウスに入居した頃から今に伝わる数少ない品の中でも代表的な一品である。
 マディソンはドリーが去った直後にホワイト・ハウスに到着し、ドリーの姿がないことを確認すると自身も兵火から逃れた。そして、25日の夕刻、ようやく夫婦は再会した。翌朝、夫妻は安全のために別々に分かれて行動した。さらにドリーは念のために普通の農婦に見えるように変装した。ドリーが用心に用心を重ねたのは、イギリス軍の指揮官が大統領夫人を捕らえてイギリスに連れ帰り、戦勝パレードで披露するつもりだと公言していたからである。
 ホワイト・ハウスは焼け落ちていたので、オクタゴン・ハウスが臨時の大統領官邸になった。ホワイト・ハウスの再建はそれから3年を要した。1812年戦争が終結した後、マディソン一家はオクタゴン・ハウスからさらに小さな家に移った。通行人が窓を覗き込めるようなごく普通の町家である。ドリーはペットのオウムに餌をやりながら、窓の外から見ている子供達に何か言葉を発するようによく促していたという。こうして通りすがりの子供達を喜ばせるだけではなく、戦争孤児の救済も行っている。
 小さな家に移ったとはいえ、ドリーは接待を止めたわけではなかった。ドリーがその家で開いたパーティーは「絞りsqueezes」と呼ばれた。招待客にはニュー・オーリンズで勝利を収め一躍英雄となったジャクソンも含まれている。ジャクソンを招待した際は、地階の窓に灯火を持った召使を配置したという。窓の外の側道に集まった人々にも中が見えるようにするためである。
 ファースト・レディとしてのドリーの役割は1817年3月4日で終わった。その日、モンローがマディソンの後を受け継いで大統領に就任したのである。

政権終了後
モンペリエの女主人
 マディソン夫妻はワシントンからモンペリエに移った。ヴァージニアの農園がどこもそうであるように、モンペリエにも訪問客が絶えなかった。それでもドリーはモンペリエでの生活を十分に楽しんだ。この頃の様子を古くからの友人は「彼女はこれまで人類で最も幸福な1人でしたが、今でもそうです。[中略]。時は彼女にとって幸運と同じく望ましい影響を与えています。彼女は若く見え、彼女もそう感じると言っています」と述べている。
 ドリーは、晩年、自ら文書の整理を始めたマディソンの手助けをしている。視力が衰え、リュウマチに苦しむ夫のために覚書を代筆することもあった。そうして整理した文書の多くはドリー自身が、ワシントン炎上から救い出したものであった。
太后
 マディソンは亡くなる数ヶ月前はほとんど寝たきりであった。ドリーは夫を献身的に看護した。その様子をある訪問者は次のように述べている。

 「彼女は20年前とほとんど変わらないように見えた。ターバンとクラヴァットを付けて同じように装い、朝は早く起きてとても活動的です。しかし、家から滅多に離れず、マディソン氏に対する献身は絶え間のないものであり、彼は彼女の世話を絶えず必要としていました」

 マディソンが亡くなって暫く後、ドリーはワシントンに戻り余生を過ごした。ワシントンの社交界でドリーは重きをなした。タイラー大統領の息子の妻プリシラ・クーパーがホワイト・ハウスの女主人を務めることになった際に、ドリーは助言役となり、厚遇された。新しく就任した大統領が「太后Queen Mother」ドリーのもとを訪れて祝福を受けることが恒例となった。
 ある時、下院の観覧席にドリーの姿を見たある1人の議員が、「好きな時にいつでも使えるように」椅子を確保する決議を提出した。決議は即座に全会一致で可決された。ドリーが多くの人々に慕われていたことが分かる。またモールス信号ができた時に、ドリーは発明者サミュエル・モールスの次にメッセージを送る栄誉を与えられている。
 しかし、経済的には困窮していたドリーは連邦議会にマディソン関連文書を売却している。またマディソンが残したモンペリエも売却している。こうした経済的困窮は主に息子のジョンによるものである。モンペリエの管理はジョンに任されていたが、ジョンがモンペリエの管理を怠っていたうえに、別の場所で新たに養蚕業に着手していたからである。
 1849年7月12日、ドリーはワシントンで亡くなり、同地に葬られた。葬儀にはテイラー大統領と閣僚をはじめ、両院の議員達、外交官、最高裁判事、陸海軍の代表、その他、数千人の市民が参集した。亡くなった当時、公式の肩書きを持っていなかったのにも拘らず、これだけ多くの人々が参集したことは異例のことである。1858年、ドリーの遺骸はモンペリエの墓所に改葬され、今でも夫の傍らで眠りについている。
記念銀貨
 1999年、没後150年を記念して財務省から記念銀貨が発行された。ファースト・レディのためにそうした記念銀貨が発行されたのは前例にないことであった。また、ドリーは初めて写真に納まったファースト・レディである。

継子
ジョン・ペイン・トッド
 マディソンには実子はなく、継子として夫人が前夫との間にもうけたジョン・トッド(1792.2.29-1852)がいるのみである。1793年に夫人はもう1人の子供を前夫との間にもうけているが夭折している。
 ジョンの学業成績は標準以下であったために、継父の母校であるプリンストン・カレッジ(カレッジ・オヴ・ニュー・ジャージー)進学は断念せざるを得なかった。ホワイト・ハウスでもこれといった仕事をするわけでもなく、養父の個人秘書が病になった際に一時的にその職務を代行した程度である。1813年、ロシア皇帝の仲介でイギリスとの講和交渉にあたる使節団派遣が決定された際に、マディソンはジョンに随行員として同行するように命じた。ジョンに立身する機会を与えようと考えたためである。出発に際してマディソンはジョンに800ドルの銀行為替を用立て、さらに使節のギャラティンに、もしジョンがさらにお金を必要とするのであればマディソンの個人口座から引き出すように委託している。
 異国の地で多くのことを学ばせるというマディソンの配慮は仇となった。ジョンは外交にはほとんど興味を示さず、サンクト・ペテルスブルグの舞踏場に夢中になり「アメリカの王子American Prince」という渾名まで付けられる始末であった。皇帝の娘と踊ったことさえある。
 さらに使節団とともにパリに移ってからも、ジョンはダンスや飲酒、賭け事に溺れ借金を重ねた。マディソンは1813年から1836年の間に、少なくとも4万ドルを継子の借金返済にあてている。それも息子の不行跡で妻を悲しませないように秘かに支払いを済ませることが多かった。それにも拘らずジョンは1829年と1830年の少なくとも2度にわたって債務者監房に収監されている。継父の死後、ジョンはモンペリエの経営に携わったが失敗した。また養蚕にも手を出したがうまくいかなかった。そして1852年に未婚で亡くなった。

ジェームズ・マディソン大統領歴代アメリカ合衆国大統領研究